鎌倉時代

99.9%ありえない話だけど、あえて義経がチンギス・ハン説を証明するスレ

2022年6月28日

1: 名無し 2008/01/03(木) 22:22:31
もし、本当だったらどうやって海を
渡ってチンギス・ハンになったのか語りましょう。

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2: 名無し 2008/01/03(木) 22:24:23
そもそも、義経がもし海をイカダかなんかで海を渡っても
無事に朝鮮半島や中国についたのだろうか。あのころは、
朝鮮半島に渡るだけでも命がけだったはず。

 

5: 名無し 2008/01/04(金) 00:15:29
>>2
奥州藤原は北宋と交易をしてたから船で中国へは普通に行けたはず。

 

6: 名無し 2008/01/06(日) 18:54:41
>>5
いくら、中国にいったからといって普通モンゴル軍に入ろうと思うか??
普通だったら中国でひっそりと暮らすと思うぞ。

 

57: 名無し 2009/12/07(月) 12:43:38
当時、奥州日本海側~蝦夷~樺太~沿海州~アムール川流域にかけて
海洋民族が交易を活発に行っていた。

 

3: 名無し 2008/01/03(木) 23:04:42

義経かどうかは別として源氏の血統の人ではあると思う

新羅ってのは外国や朝鮮人のように言われてるけど、れっきとした日本から半島に渡った倭人が収めてた土地だよ
(ただし新羅の氏族は日本の朝廷に対して反逆したりもしてる)
義経とかの国内の源氏ってのも新羅三郎とかと同じ氏族でしょ?
モンゴルを指す「元」ってのは源氏の「源」から来てるって話もある

ちなみにモンゴル語と日本語は文法が同じ言葉

 

4: 名無し 2008/01/03(木) 23:14:38

チンギス・ハンらのモンゴル帝国が強かった理由はわかる

馬に乗るための鞍と鐙の発明があったから
鞍と鐙の開発により馬を戦争で武力として使えるようになったから圧倒的に強かった
(ちなみにヨーロッパに鞍と鐙が伝わったのが1000年以降)

ちなみに鞍と鐙は日本では平安時代の鞍作氏達が作ってた
鞍作氏ってのは司馬氏の事

新羅を収めてた倭人の氏族が百済からの鉄で始めて鐙を作った人すよ
この氏族が源氏と同じ氏族の人なんだと思う

 

7: 名無し 2008/01/06(日) 19:30:11
もし、義経が戦から逃げ出したとして山奥でひっそりと暮らすのと
中国に渡るのとではどっちが安全なんだろう。

 

8: 名無し 2008/01/08(火) 00:13:31
渡るのが安全

 

9: 名無し 2008/01/08(火) 21:00:15
中国で暮らすより北海道の方が…

 

15: 名無し 2008/01/10(木) 08:51:49

>>9
義経は京で育ったシチーボーイだから田舎暮らしに我慢できなかった。
かろうじて平泉が許容範囲だった。
そんな義経が蝦夷で暮らすなんてありえないことだった。
ということで北宋の都を目指しました。

その後何故モンゴルに行ったのかは説明できないがw

 

10: 名無し 2008/01/08(火) 21:08:48
源氏も沖縄やらモンゴルやら大変だな。

 

12: 名無し 2008/01/08(火) 21:36:28
義経は別として為朝の方は琉球側の迎合らしいけどね。

 

16: 名無し 2008/01/10(木) 19:03:21
日本史史上最も騎兵戦術に長けた将として見られてきたから
騎兵が強い日本の周りの国=蒙古となる。だけの話じゃまいか
文法が似ていても言語がちゃんと通じるわけでなし
まとまった形での蒙古なんて当時存在してはいなのだし
なんとか平原の何とか族に拾われて族人として行動するならわかるが
それなら、渡海する必要がない。
渤海や韃靼との交易によって都市伝説化したに過ぎないのじゃまいか

 

17: 名無し 2008/01/10(木) 20:18:45
日本では追手が来る
隠れ住むには相応しくない猛将
藤原氏は御家取り潰し
大陸に渡る術がある
渡海先の情報がある
未開の地
とくればどうします?
普通渡らない?

 

26: 名無し 2008/06/10(火) 21:21:44

大陸道←サハリン道

北海道

奥の細道

こうかなぁ?w

 

34: 名無し 2008/06/15(日) 07:59:23
義経→UFO→モンゴル

 

53: 名無し 2009/12/06(日) 00:06:35
私は>>34を支持する。

 

29: 名無し 2008/06/11(水) 17:58:50
笹リンドウのマークを掲げる勢力が大陸側にもいるとなると無関係ではなさそうなんだよね。

 

28: 名無し 2008/06/11(水) 14:24:28
北海道に「義経」や「弁慶」等の地名が残っているらしいですが
義経の時代からアイヌの人達もそう呼んでいたのでしょうか?

 

30: 名無し 2008/06/11(水) 23:38:07
義経本人が北海道に行かなくても、
元家来が住み着いて、義経を祠る神社を建てることは十分考えられる

 

32: 名無し 2008/06/12(木) 00:02:55

義経神社
寛政十年(1798)に蝦夷地の探検に来た近藤重蔵が
アイヌ民族に義経伝説が残っている事を知り
橋善啓に義経像を彫らせ、沙流のアイヌ民族に祀らせた
これが義経神社の始まりという

って事で納得しました

 

33: 名無し 2008/06/12(木) 07:59:52
奄美諸島に平家落武者伝説が残ってるのと同じ

 

43: 名無し 2009/07/07(火) 02:12:26

>>33
トカラのどっかだろう。

まあ、平家も海系ポッイ人種で大和言葉しゃべる人間なんだろがなw

 

35: 名無し 2008/06/16(月) 13:54:47
当時の日本列島は氷河期で日本海も大きな湖だったから
義経一行は北海道から大陸へは簡単に渡れた。
大陸はまだ旧石器時代だったから鉄を手にした義経一行は無敵だったろうね。

 

36: 名無し 2008/06/17(火) 11:28:20
「あえて」
となると、奥州藤原15万騎の存在を無視できない。
頼朝の奥州仕置時に抵抗したのがおよそ2万。
するとここに興味深い事実が浮かび上がる。消えた10万騎はどこに行ったのか?
恐らく藤原一族は替え玉をしたて泰衡・国衡・忠衡をはじめとする主だった者+
義経主従で渡海したのではないだろうか。
それまでの奥州金と対宋貿易で溜め込んだ金を持ち、まずは蝦夷地に。
そして太平洋沿いに北上し、石狩湾あたりから船で今のウラジオストックあたりに
上陸・・・するつもりが流されてアムール川河口付近に上陸。
なおこの時の海難事故によりおよそ半数の5万と泰衡・忠衡が死亡。
諸子であった国衡は前当主秀衡弟の娘を妻にもつ義経に当主の座を譲る。
ここに義経当主体制が発足。
以降およそ2年アムール川に沿って西へ西へと進む。
白い旗を掲げ、現地風の衣装を身にまとった藤原軍5万がモンゴル平原を
統一して以降の活躍は史書のとおりである。

 

65: 名無し 2010/02/14(日) 22:10:12

ちょいと質問なんだが。

義経の首、40日もかかって届いて、首実検した一人は違うと言い、もう一人はそうだと言った。
普通に考えて、もし頼朝に従って本当に義経を討ったならすぐに首を届けただろうに日数がかかり
過ぎるのはおかし過ぎる。

頼朝は首を自分で見もせず、義経の首だと決めつけた。
しかし、後で義経が攻めて来るという噂が出たところからも、義経が確かに死んだという確信は
誰も持ってなかった筈。

もし、義経が生きていたなら奥州藤原氏があれほど簡単に潰れはしなかっただろうとか、その時
黙っていても後で何かしら反撃に出ただろうとも思えなくもないが、ただ、その後名が出てくるような
活躍がなかっただけで、生きのびていた、あるいは頼朝の奥州攻めで戦死していたとかいう線で
考えることはできないのだろうか。

 

66: 名無し 2010/02/17(水) 16:14:31
チンギスはともかく衣川では死んでいない、説を支持する人は多いよ

 

75: 名無し 2010/05/21(金) 17:20:57

兄の頼朝や鎌倉幕府を恨んでいるので、元寇(文永の役、弘安の役)をやった理由はあるけどな
実行者は子孫のフビライだが、遺言などで日本の鎌倉幕府は敵であることは伝わっている
あるいはマルコポーロの黄金の国ジパングの話も義経自身が平泉の中尊寺にも行っただろうから金色堂の実物を知っているんだろうし。

敵の敵は味方とすれば
兄の頼朝の敵は奥州藤原氏(これは最後に裏切るが)、アイヌ民族(頼朝は征夷大将軍に命じられたんだし)
敵の敵を味方にした可能性もある。
モンゴルに渡ったとすれば北海道のアイヌ民族だな。

モンゴル経由で中国を支配だ。
だけど元(チンギスハン国)以外のモンゴル帝国の立場がどうなるんだ?
弁慶は討ち死にしているし、家臣とかで有力な付き人もいない。
ハン一族がいろいろな系列国を作っていたんだし。

 

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