英雄たちの選択観てて知ったんだけど、
茶屋四郎次郎っておもしろいね。
まず名前がおもしろかったんだけど。一郎三郎どこいった?
ぐぐったら、豪商で家康伊賀越えの時に財力にものをいわせてお金を
ばらまきながら家康を守ったらしいし、
武人としても有能で53回も戦陣に参加して軍功をあげたとか、
「間諜」だの「隠密」だの言われてるから忍者みたいなこともしてたのかな。
さらには朱印船のオーナーにして自ら船に乗り込んで外国行って貿易してたとか。
(普通はオーナーは乗らない)
アクティブすぎるだろ。
ニュース
質問サイトにこんな回答があった
内容の真偽はわからないけど、参考まで。
※☆★☆★
生まれ順に「○郎」などとつけることを「輩行の仮名(はいこうのけみょう)」などと言ったりしますが、基本的には生まれ順であるものの、皆さんも仰っているように原則に当てはまらないような例は結構沢山あります。
ご質問の茶屋「四郎次郎」のように重ねる場合、「四郎の子の次郎」を意味していることもあるそうです。
この場合「太郎の子の太郎」のように同じ順が重なる時は「太郎太郎」とはならず、「小太郎」や「弥太郎」「又太郎」などとなります。
また「次郎三郎」のように数字が連続しているようなものの中には「次郎」として生まれた子供が早世してしまった為に、次に生まれた「三郎」に「次郎の分も生きてくれ」というような意味を込めて重ねて名付ける風習があり、それに従ったものであることもあるといいます。
他にも代々「○郎」を継いでいたり、先祖の誰かにあやかって順番を無視したものがつけられることもありました。
中々一筋縄ではいかない「輩行の仮名」ですが、割合から言ったら原則に忠実であるほうが多いということは言えるのだと思います。
そう言った名付け方なんだ。
ウケねらいとか適当につけたわけじゃないのね
信長のドラマに出てきたなら初代かな
本能寺の変後の家康の伊賀越えに協力してる
伊賀越えの面子見ると徳川勢オールスターな面子で、
この人の支援が無かったら歴史変わってたかもねとしみじみ思う
大河はな~思考がかなり現代よりになってるからなんかイヤ
側室が排除されてたりなぜか妻(あえて正室とは書かない)に情勢の相談したり女は戦嫌いだったり
男主人公も「戦で手柄!」じゃなく「平和な世にするためにどうすればいいか」なんて考えてるよね
上で出てる誾千代の夫の立花宗茂は武士の中の武士とか西国無双と評された人物で
戦国時代から島原の乱まで戦い続けた数少ない武将
大河向きな人生してるけど大河にはならないだろうな
立花宗茂の人生の簡単なあらすじ
稀代の名将・高橋紹運の子として生まれ幼少期から雷神・立花道雪に気に入られ養子入り(誾千代の婿)、
殿である大友氏が島津に押される中でも武功を上げ、秀吉に召し上げられ九州平定で武功を上げ、
朝鮮出兵でも武功を上げ、関ヶ原では西軍だけど武功を上げ、西軍に入ったことで改易されて浪人、
でもあっちこっちから家臣にしたいと申し出があって徳川に御書院番頭として召し上げられ陸奥棚倉の大名に、
大坂の陣では秀忠の御伽衆として武功を上げ、旧領だった柳川の大名に返り咲き(西軍で改易から旧領の大名に戻れたのは宗茂のみ)、
そして島原の乱でも武功を上げる
誾千代とは不仲説あるし島原の乱の時に「みんな平和ボケしてるからしばらく戦してよう」(意訳)と徳川家光に言ってるので
仲良し夫婦で平和を願わないと主人公になれない今の大河じゃムリムリ
そういえば大河になってもおかしくない人物で挙げられる細川家の面々(幽斎、忠興、ガラシャ)
話はあったけど子孫が大河にするの拒否したんですってね
>>510
> 大河はな~思考がかなり現代よりになってるからなんかイヤ
全く同意です!
現代のモラルを意識して、綺麗にまとめようとし過ぎだと思います。
最近の大河ドラマは見てない。なんか偏向思想を押し付けているみたいだから。
ほんとこれ。
子どものころに観た「草燃える」で、静御前の赤子を砂浜に埋めるシーンがショッキングだったけど、
昔の大河ドラマは、人間の醜い部分や陰謀、ドロドロした感情なども描いていたけど、
最近のはきれいごとばっかりな感じがする。
ターニングポイントは「利家とまつ」かな…
昔みたいな骨太なドラマが観たいよ。
>人間の醜い部分や陰謀、ドロドロした感情なども描いていたけど
清盛はその辺しっかり描いていたけど評判が悪かった
一介の商人にすぎない助左衛門がどこにでも現れて政治外交に容喙し
「日本を私が守る」なんて言い出す始末。
>>516
> 一介の商人にすぎない助左衛門がどこにでも現れて政治外交に容喙し
> 「日本を私が守る」なんて言い出す始末。
ワロタw
ルソン助左衛門は実在はしたのだろうけど、ほとんど伝説上の人物だから、創作し放題って感じなのかな。
子供の時に読んだ
「曽呂利新左衛門」も秀吉のお伽衆なんだけど、実在したのかどうかさえ、はっきりしない
例えば溝口健二の『西鶴一代女』だと、父親が言うことを聞かない娘(おとな)を殴ったり追い回すシーンがあるんだけど 、
やっぱり昔の男は、かなり家族や部下を殴っていたんじゃないかな
地域性もあるけど、明治以降、徴兵されて帰還したお父さんが軍隊式を家庭に持ち込んで
DVの連鎖も起きたのかなと
村山由佳「星々の船」を読んでそう思った
私は横浜市立小で、高学年の時の担任が、その日に何かしら忘れ物した者を10人前に並べて一発ずつ脳天げんこつだったよ。
当時は先生に逆らうととんでもない、給食も全部食べないと昼休みなしだった。
今はモンペが校長室怒鳴り込んで、担任がモンペにびくびくする時代になった。
現代ではそれでいいと思うけど
理不尽な教師も沢山いたよ
給食食べれない子は無理して食べなくていいのでは
歴史ものを扱うならその当時に忠実であって欲しいけど
戦国時代の日本は躾で殴ったり叩いたりするのは少なかったようだ(もちろん0ではない)
ルイス・フロイスが「私達の国では鞭で子供を叩くのに日本では叱るだけだ」と記してる
江戸時代には大人でも刑罰として"叱り"という役所の門前で説教されるなんて刑罰があった
これは江戸時代の刑罰の中では最も軽い刑
>>524
ルイス・フロイスではないけど、ツュンベリーの『江戸参府随行記』に似たような記述がありました:
『注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。
子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。
学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。そのような騒々しい場所では、ほとんど聴力を失ったようになる。』
後半は寺子屋のことか
日本の歴史はなんかこう暗いんだよな。
日本の歴史ものを夢と希望とロマンで描こうとしても限界があるかんじがする。
長いものに巻かれる社会だからだろうか。伸び伸びとしていない。
西洋が夢と希望とロマンなのは勉強不足と言わざるをえない
おそらく>>526が思ってるであろう中心的な西洋の国
イギリス史、フランス史、ドイツ史、イタリア史、スペイン史
どれを見ても陰惨でドロドロした部分がある
さらに西洋も長いものに巻かれる社会なので学んでみると良い
希望の都ロンドン!華やかなるパリ!
こんな考えは学術的な文化史の本や政治史の本を読み始めれば1ヶ月もすればなくなる
利家ならともかく、なんで光秀
>>526
大雑把に西洋史と書かれていますが
どの国も血で血を洗うドロドロの殺戮劇を繰り返していますよ
結構残酷な側面もあるんじゃないの?
西洋と言っても各国それぞれだろうし、
西洋と日本一国を比較されてもねえ。
ロンドン塔だけで充分しんどい…
日本の城跡は山になったりゆるキャラがいたり大らかでいいなあと思う
>>536
公開処刑でエキサイトする民衆とかね…
ふと思い出した。
平安時代って死刑の執行がほとんどなかったんですね。
「穢れ」を極端に嫌う文化があったせいだとか。
ただ、罪人を獄に放り込んで放置…なんてのもあったようで
死刑より残酷だなあ…とgkbr
>>537
例えば
貴族の館で使用人が重篤な病気にかかったとか死期が近いとかの場合
例え主の目にはいらない下級の使用人だまりに住んでるような者でも
館内から死人が出たらとんでも無いので
葬送の地である洛外の鳥辺野や化野へ生きてるうちに運んで放置
そういうのがごくごく普通
時期豊臣家当主だった秀次に、娘を差し出した大名は多くて
娘や孫(当時は男児は処刑されても、妻妾や女児は助けた)を殺された大名達の恨みが、関ヶ原や大坂の陣に影響を与えた
てな説を読んだ事がある
鳥辺野、化野ぐぐってきたけど勉強になった。
京都へ行きたくなった。
例えば三条河原で関白秀次一族処刑を民衆が見ていたとか…
>>538
公開処刑というか時の施政者秀吉による後継者選定上の策謀の一族潰滅策
(ってか、自分の子(と、言うコトにしときます。ここでは)が出来たので
養子にしてた姉の子・秀次が邪魔になったということで)
主導権争いの犠牲、見せしめという虐殺行為だからなー
殺生関白なんて秀次暴君伝承も豊臣政権による濡れ衣のようなものだし
「太閤さま軍記のうち」での処刑場面なんて読んでると気分が悪くなるほど・・・
今もやってる国があるしISISなんかのテロ組織が死刑動画公開してるのもこれが狙い
テロ組織はともかく国家であれば秩序維持の行為なのでかなり厳格にやり方も決められていた
罪状によってとられる処刑法が違ったりね
たまに死刑は野蛮と言ってる人がいるけどう~んと思っちゃう
西洋のはほとんどショーだからなあ
ウィリアムウォリスの処刑方法なんて
あまりに残酷すぎてゾッとする
ウィリアム・ウォレスってブレイブハートの人だっけ
関白秀次の件は、駒姫が気の毒すぎて…いや他の妻妾とそのこども達も気の毒なんだけど
あれは秀次の外戚への見せしめだね
処刑を免れた、真田幸村の側室になったらしい秀次娘は『真田丸』に出てくるかなー
改めて秀次のwikiを読んで感じたこと
・連座、というか家来は勿論関係者多数が切腹や流罪
・秀次と懇意にしていた伊達正宗はいち早く弁明して、処罰を免れている
・他にも徳川家康の口利きで難を逃れた大名たちがいて、関ヶ原のとき家康の味方をした(恩返し的に)
(上の方が書いてることとちょっと重なるけど)
「真田太平記」は幸村(真田太平記は幸村)もそうだけど兄の信之も主役
徳川方についた信之側の家臣団や事情も描かねばならないし
また真田家に尽くす草の者たちの物語でもあり
くノ一のお江を幸村の「運命の女」として存在させてたので
幸村の他の側女たちを描く必要も作品的に無かったとおもうけどね
主役の側室をわりと出していたはずの以前の大河ドラマであっても
伝えられる側室を全員出していたという作品って無い・・・と思う
三条河原のさらし首
石川五右衛門、豊臣秀次、石田三成、近藤勇は三条河原でさらし首にされた
石川五右衛門も晒し首? 釜茹でじゃなかった?
石川五右衛門は油で揚げた、という説も見た。
もしホントなら、半端なく金がかかりそうだ。
油で揚げた説や、お湯で茹でた説
釜炒りした説もある
しかも子供と一緒に、という説がある
(言い伝えから判断すると幼児)
説というか、複数の証言が残っているから事実でしょう
外国の文書にも残っている事だし
『日本王国記』にも子供のことが書いてあるの?
石川五右衛門らしき人物が釜を使って処刑された(熱湯か油か)、という記述はあるようだけど。
母と書いてる記録もある…いずれにしても昔は近親者も当然のように処罰される時代なんだよねえ
>>568
『妻子や父母、兄弟から5親等まで磔にかけられ』の注釈のところに
油で煮られたのは石川五右衛門とその家族9人か10人とある
確かにこの家族の中に子が含まれているかどうかは不明ですね
>>569
> 『妻子や父母、兄弟から5親等まで磔にかけられ』の注釈のところに
> 油で煮られたのは石川五右衛門とその家族9人か10人とある
あ、そうなんですか!?
その註釈部分は知りませんでした。
ありがとうございます。
それにしても釜茹でって残酷…
そういう時は塩漬けにして運んだ、などとよく本に書いてあるけどね…随分日にちがかかるから、どうだったのかしら…
焼酎、酢、塩の混合液だと思う
三谷幸喜が大河ドラマ脚本書いた時に番宣で「どこそこの焼酎を使用した」「お寿司の原理は
首の保存の技術が元」みたいなことを言っていた
自分もヨーロッパの血塗られた歴史は酷過ぎと思っていたけど
(歴女になるきっかけがフランス革命だったので)
最近ソ連史に手を出し始めたら「上には上がいる…」と思い始めた。
酷過ぎてヨーロッパが霞んで見えるわ。
自分はダークツーリストでもあるんだが
この秋はワルシャワのツィタデラを訪れる予定。
ラヴレンチー・ベリヤとかも怖いね
あと、敦化事件とか日本では語られることがないね
ホント、戦争は勝者だけが声高にかたるんだなと思う
まさに今、タデウシュ・ウィトリンの「ベリヤ 革命の粛清者」を読んでいる最中ですw
ベリヤの本って日本では数少ないけれど(既に絶版多し。この本もヤフオクで探して落とした…)
初夏にロシア旅行がてらモスクワの書店に行ってみたら
もの凄い種類の本が発刊されてて羨ましかった。
ソビエトの歴史は共産主義下の歴史なのでまた特殊
中国の毛沢東時代とかカンボジアのクメール・ルージュと同じ
そういえばロシア貴族は地理と歴史の関係からモンゴル貴族の血が流れてる人が多かったという豆知識
旅行記が講談社学術文庫に入ってるらしい
おもしろいよーあの本
大好き
>>581
そうなんだ!?
まだ本は買ってないけど、ネットのサイトでちょっと見てみた。
将軍家茂一行の行列を目撃しているんだね。
その時非礼があった農民が、侍に切り捨てられた話も淡々と書いてる模様。
また混浴の習慣についても理解を示しているようだ。八王子にも足をのばしている(商売の関係?)。
その他いろいろ興味深い。
関ケ原合戦をテーマにした歴史講演会が5日、岐阜県垂井町宮代の町文化会館であり、城郭に詳しい滋賀県立大教授の中井均さんが関ケ原合戦で毛利秀元ら戦国武将が南宮山に布陣した背景など同町に残る山城跡について解説した。
関ケ原古戦場再整備計画の一環で、県と大垣市、不破郡の垂井、関ケ原両町が主催するリレー講演会の第2回講演。町民ら約450人が集まった。
中井さんは、戦国武将の竹中半兵衛が居城した同町の菩提(ぼだい)山城跡について、「西濃地域最大の山城の一つ」と評価。「関ケ原合戦に備えて築かれた可能性が高い」と推測した。
また、関ケ原合戦で西軍の毛利秀元や長宗我部盛親らが関ケ原が見えない南宮山の東側などに陣を張った背景について、「陣跡から大垣の街並みが展望できる。
石田三成は大垣城での籠城戦を想定し徳川軍が大垣城を取り囲んだ時に、後ろから攻める作戦だったのだろう」と持論
意味が分からない。
秀吉が天下取るより前に死んだ竹中半兵衛が
なんで関ヶ原合戦に備えて菩提山城を作るんだろ?
安土に信長がいたころ?
菩提山城自体は半兵衛の父が築城、息子の代(関ヶ原前)で廃城になっている
あーそうか。秀吉どころか信長もまだ上洛しない頃だから歴史上の関ケ原合戦の話じゃなんだね。