豊臣家

【戦の神】生涯負け戦無しの豊臣秀長!その武功はもっと評価されていい

2022年6月5日

1: 名無し 2006/09/04(月) 12:50:46

全て引き分け以上の結果だからよ。

仮に朝鮮で指揮を執ったら、歴史も変わったかもしれんし、秀吉
の後釜になってれば、容易に家康の外交戦術で沈むはずもなかった
だろうに。

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3: 名無し 2006/09/04(月) 13:09:13
秀長は男色家だから能将だったのぢや!

 

4: 名無し 2006/09/04(月) 13:26:23
↑それは無い
兄と共に男色は無い

 

8: 名無し 2006/09/04(月) 14:09:43
兵力だけではねえ。
秀次は大軍でも惨敗したし

 

10: 名無し 2006/09/04(月) 14:39:53
>>8
秀次がミスっただけでは。

 

9: 名無し 2006/09/04(月) 14:20:59
播磨淡河城攻めで淡河定範相手に敗走させられたことがあるだろ>秀長
なかなかの戦上手だったけど生涯不敗は嘘

 

11: 名無し 2006/09/04(月) 14:49:24
>>9
それ聞いたことあるけど
信憑性あるの??
何か他で聞いたこと無いし
一旦退くことはあるけど

 

16: 名無し 2006/09/04(月) 16:25:20
>>11
火牛の計はかなり胡散臭いけど淡河城を攻めあぐねてたのは事実だろう
自分も一次資料が何かは知らないけど、
とりあえず「神戸市淡河町の歴史」「三木史談」なんかを読んでみたら?

 

12: 名無し 2006/09/04(月) 15:01:35
>>9 いや、結局城を自分で焼いて逃げたじゃん?痛み分けだろ。

 

23: 名無し 2006/09/04(月) 18:47:14
淡河城で淡河定範に逆撃くらったのは事実ではあるが
ああいう小規模戦の敗北なんて信長家康とかだってざらにあるわけだから
評価は下がらんよ。

 

15: 名無し 2006/09/04(月) 15:59:25
小人数の局地戦から十万規模の戦略までそつなくこなせるのが秀長クオリティだな
秀長ほどの戦歴を持つ人はまずいない

 

17: 名無し 2006/09/04(月) 16:57:45
3~4千の兵で但馬攻略は評価するべき。

 

19: 名無し 2006/09/04(月) 17:22:34
まあたしかにこの人の軍才はもっと評価されても良いと思う

 

20: 名無し 2006/09/04(月) 17:44:36

秀長は勝利の神様でもあったのかも?

秀長の死後、秀吉は諫める者が居なくなったせいか、狂人ぶりを発揮していきますよね?
その面でも、秀長の存在は大きかったのかも?

秀吉・秀長の姉とものたてた瑞竜寺の「木下家過去帳」によると、弥右衛門は、秀長や旭が生まれた後に逝去したそうな

 

25: 名無し 2006/09/04(月) 21:27:07
大軍優勢以外で勝利経験はあるかな

 

26: 名無し 2006/09/04(月) 21:40:37
少数逆転の勝利がないのがマイナスには成らんと思うけど
戦争なんて優勢な状況を作って行うのが常道なんだし。

 

30: 名無し 2006/09/04(月) 23:09:01
>>26
そいつぁ、秀吉さんの兵力じゃ。
まあ総大将に任命されて着実にこなすなら中の上や。

 

28: 名無し 2006/09/04(月) 22:51:58
内政も外交も戦争も調整役もできるし、まあ便利な男だよな。
生きていたら家康と対立してたのかねえ。

 

29: 名無し 2006/09/04(月) 23:06:15
>>28
(寿命が秀長の方が長いと仮定して)生きてたら家康は猫かぶったまま死ぬんじゃないかなぁ。

 

31: 名無し 2006/09/04(月) 23:13:41
秀長が死んで豊臣が内部分裂してくれない状況では、できるだけ
良い状況で次代に繋げるために領国経営にせいを出しそうだな。

 

32: 名無し 2006/09/04(月) 23:13:46
秀長が長生きしてれば、朝鮮出兵を諫めることができただろうし、秀頼の後見人になって家康を抑えることができたかもな。
なぜだか知らんが秀長は結構過小評価だよな。

 

35: 名無し 2006/09/05(火) 07:51:51
秀長晩年は秀吉との関係も微妙だったみたいじゃん
大和の領国経営で秀吉と揉めて謹慎処分喰らってる
秀長に朝鮮出兵は止めれないだろうし、別に止める理由も無い
秀吉死後の家康を牽制するには十分だろうが

 

41: 名無し 2006/09/05(火) 19:24:07
朝鮮征討は規定路線だったらしいから秀長生存でも文禄の役は実施されただろうな。
でも慶長の役のような再度出兵はどうなったかな。
それと>>35に書いてある謹慎というのはおおげさで正月の拝礼を停止された程度みたいよ。
そのへんは日本史板の秀長スレでも話題になってた。

 

36: 名無し 2006/09/05(火) 10:04:29
秀長在世時から、朝鮮出兵は持ちだされていたんですか?
秀長が生きている頃から、すでに秀吉の暴走は始まってたんですかな。

 

38: 名無し 2006/09/05(火) 11:13:34
別に始まって無いだろう。
謹慎は規律を守るためだろ

 

40: 名無し 2006/09/05(火) 17:02:03
朝鮮の役が無くならなくても
朝鮮の役の時に秀長が存命なら、十中八九総大将は秀長になると思われ
そうなれば日本軍は一元化した動きを取れるので、その後の展開が変わってくる

 

44: 名無し 2006/09/05(火) 23:31:15
内政では、どうだろうな
悲しみや苦しみはあったとおもうけど

 

45: 名無し 2006/09/05(火) 23:43:05
金策は上手かったんだろ。
てか、外様まで秀長を信頼してきたんだから、家康にとっては怖い存在
だよね。

 

47: 名無し 2006/09/06(水) 19:34:29

秀長は豊臣家での地位の割りに、当時の資料が少なくて実態がわからないんだよね。その存在を評価されるようになったのは
戦後になって研究が進んでからで、逆に言えば生存している間は、さほどの存在感を発揮していなかったと思われる。
良くも悪くも補佐役だったんだろうね。

あと、その領地の奈良では、興福寺の僧が死んだのを聞いて大喜びしている日記を残していて、司馬遼太郎はそれを
あたかも利権を奪われた旧守派の醜さのように書いていたが、実際当時の豊臣圏は相当の重税を課せられてて、領民は
大変だったから、住民の立場としては、死んだと聞いたらみんなが喜ぶくらいのかなりの悪領主と言う感覚だったと思う。

まあ、そういう秀吉政権の「負の側面」を背負っていた、と言う評価も出来るんだけどね。ただ、あくまで秀吉あっての人物で、
ひとり立ちして表舞台で活躍する、と言うタイプでもないように感じるよ。

 

48: 名無し 2006/09/06(水) 20:08:56
存在感がなかったから当時の資料がすくないというのはどんなもんかね。
それと僧、しかも高位の僧と住民というのを一緒の立場と考えるのもどうだろうね。
なんか見方が全般的にいびつにみえるなあ。

 

51: 名無し 2006/09/06(水) 20:25:22

>>48
まあ、あくまでオレの見解だってことで。無論、水準以上の能力の持ち主だった事は認めているよ。
ただ、秀吉死後の豊臣家の救世主的な人間だったかどうかについては疑問がある、ってだけで。

そういう見方もあるくらいに考えてください。

 

49: 名無し 2006/09/06(水) 20:12:47
存在感が無かったら、毛利や他の大名に簡単にやられてる。
正月なんか秀吉が主力連れて信長参りだから
相当大変だったはず
敵が侮ってないのが実力

 

50: 名無し 2006/09/06(水) 20:17:07
それと忘れていけないのが、
半兵衛も小六も羽柴の内政には関与できない現実
たった一人で零細から大企業まで支えた実力者と言うこと。

 

52: 名無し 2006/09/06(水) 20:35:59
別に秀長を過小にみているということにたいしていってるんじゃなくて
歴史的な事象への見方がおかしいということをいってるんだけど。

 

56: 名無し 2006/09/06(水) 20:52:05

>>52
事象?秀長を過小評価していると思われるかもしれないが、羽柴~豊臣初期にかけて
秀吉軍の実質的な中心は蜂須賀小六でしょ。秀吉騎下の最大兵力が、彼が統率していた
蜂須賀衆だったわけで。秀吉がある程度自由に動けたのは、秀長と言うより歴戦の勇者である
小六の押さえの力のほうが大きかったと思うよ。

個人的には、小六こそ過小評価されすぎているようにも思う。

 

53: 名無し 2006/09/06(水) 20:42:19
秀長に関する一次資料が少ないのは当時あまり評価されてなかったからだろ
それ以外に理由が見当たらない

 

59: 名無し 2006/09/06(水) 21:13:13

>>53
>>秀長に関する一次資料が少ないのは当時あまり評価されてなかったからだろ
>>それ以外に理由が見当たらない

秀長自身が残さなかったからだろう。
補佐役の資料が無いのは保科正之がいるな
柳生宗矩の資料も無いらしい

 

54: 名無し 2006/09/06(水) 20:47:25
まぁ当時の一般的な価値観で評価されてなかった事が
現代人から見ると評価できる事は往々にしてあるしな。

 

57: 名無し 2006/09/06(水) 20:56:23
小六は太閤記で変な補正受けちゃったせいでまともに評価されなくなった感はあるね
スレ違いだけど

 

58: 名無し 2006/09/06(水) 21:11:48
蜂須賀小六が秀吉が長浜城主になったときに領したのが2000石いかないぐらいで
中国攻略にいってからは1万石強ぐらいだったかな。
これは秀長はもちろん浅野よりも少なかったんじゃないかな。
それと小六の秀吉配下での功績は軍事よりも政の分野のほうが大きいといわれてるよね。

 

61: 名無し 2006/09/06(水) 21:25:57
残念ながら信長が小六や半兵衛を内政に使うことを許さないよ。
与力にそこまではさせない。
やれるのは秀長のみ

 

60: 名無し 2006/09/06(水) 21:17:49
織田政権の当時の配置からしても、
秀長の地位は前田利家や佐々成政と同等なのである

 

62: 名無し 2006/09/06(水) 22:18:08
近くで見ていた利家が、秀長の事を信長に報告してたかもしれないね。
てか、秀吉と違うのは、秀吉は若い頃から転々と職を変え、時には松下の
部下として働いていて、全くの戦国素人ではなかった。
しかし秀長は農作業一筋。突然武将として力を発揮できたのは他にはいないだろ。

 

70: 名無し 2006/09/08(金) 00:45:56
別所攻めの時淡河定範に大敗してるはず

 

72: 名無し 2006/09/08(金) 06:26:28
大敗というのは戦場を放棄するぐらいの敗北じゃないと。
この淡河の場合は突出したところを逆撃をくらって後退するも攻城軍全体は崩れたわけではなく
それで淡河定範は自ら城を焼いて三木城に移動しているという流れだから。

 

73: 名無し 2006/09/08(金) 07:48:29

>>72
負けは負け

何で言い訳してるんだ?そんなに秀長の経歴に傷がつくのが嫌なのか?

 

74: 名無し 2006/09/08(金) 08:07:33
>>73
俺も負けだと思ってるよ。
ただ大敗というほどじゃないといってるだけで・・・。
なんか君のほうが必死にみえるんだけど・・・。

 

75: 名無し 2006/09/08(金) 09:19:18
対局に影響無いから負けにはあたらず

 

76: 名無し 2006/09/08(金) 09:23:16
戦闘で負けたが戦争には勝った

 

78: 名無し 2006/09/08(金) 16:44:35
負けの定義にもよるよな。
攻城戦で奇襲くらって、一時的に引いたのが負けになるわけ?
それなら城落とせずに引いた武将も負け扱いになり、生涯不敗の武将なんかいなくなる。

 

79: 名無し 2006/09/08(金) 19:59:10
別に生涯不敗の武将がいなくても何も困らないじゃん

 

80: 名無し 2006/09/08(金) 23:22:35
まあ、コーエーで戦闘力100を与えられた上杉謙信ですら下野のへっぽこ城
落とし損なっているし

 

88: 名無し 2006/09/11(月) 08:46:00
秀長の部下には、良いのが多い。
藤堂高虎、小堀遠州など

 

89: 名無し 2006/09/11(月) 15:10:21
藤堂高虎か城造り有名みたいだがどうせ朝鮮人の技術者頼み!性格は奇人変人

 

94: 名無し 2006/09/11(月) 21:05:09
>>89
藤堂高虎の城作りは技術的な面もさることながら
その立地選択に対する戦略眼の確かさが高い評価の源泉。
ただなんとなく要害つくってみました、レベルで築城名人とは呼ばれないよ。

 

95: 名無し 2006/09/11(月) 21:30:31
まあ、城はいくら造りが堅固でも戦略的価値がなければ何の意味もないからな

 

100: 名無し 2006/09/12(火) 00:50:58
高虎が本気で仕えたのは、秀長だけだったとどっかの資料に書いてあった

 

101: 名無し 2006/09/12(火) 00:53:39
高虎自身がそんなことを言うわけ無いからそれは後世の創作じゃないか

 

102: 名無し 2006/09/12(火) 05:02:41
まあ藤堂本人なら家康だというしかないだろうから、創作だろうな。

 

103: 名無し 2006/09/12(火) 08:55:39
まあ、何度も主君替えてるからな
別に家康も気にしないだろう

 

104: 名無し 2006/09/12(火) 10:37:27
四国攻めの時は、秀長のためと働いたみたいね

 

105: 名無し 2006/09/12(火) 10:52:55
高虎が積極的に自分で主人を選んでるのは秀長までという感じはする。
その後は結構流されてる、というか勝ちに乗るならルートが一本しかないし
年齢重ねてるから若い頃みたいな野心が感じられないし。

 

106: 名無し 2006/09/12(火) 11:23:07
秀長の墓ははじめ大和郡山にあったが、荒れ放題だったので、
高虎が京に移してその横に自分の墓を立てたという話がある。
主君替えが多くても、どこかで命張らなきゃいけないわけだし、
高虎にとってはそれが秀長だったのではないかと。
ちなみに大和大納言家が取り潰された後、遺臣団の多くは
秀次に付けられ、秀次事件で連座して処刑されたり没落している。

 

107: 名無し 2006/09/12(火) 21:56:59
>>106
それで豊臣本家に忠誠を求められても無理ってもんだわな。

 

110: 名無し 2006/09/13(水) 10:18:02
そういえば、高虎の父                                                                          秀長は本能寺ごろ迄は長秀なんだな丹羽さんよりもらったらしいが、
逆さにして秀長。
確か高虎も父の逆さにだな

 

111: 名無し 2006/09/13(水) 11:12:12
何故秀長は貰った名前をひっくり返したの?

 

113: 名無し 2006/09/13(水) 11:27:07
他の重臣による配慮らしい。
同じ名は間違いやすい。

 

114: 名無し 2006/09/13(水) 11:41:21
諱で相手を呼ぶことなんて殆ど無いんだからそんなにややこしくないだろ
天下人である兄秀吉の「秀」を下にしてるのを憚ったんじゃないか
蒲生氏郷も似たような理由で改名してる(元の名前は賦秀)

 

119: 名無し 2006/09/13(水) 17:40:05
皆さん~今日!NHK22時~から「その時歴史が動いた秀吉の家族」観てね

 

120: 名無し 2006/09/13(水) 21:03:16
第263回
シリーズ 秀吉の家族①
もう一人の秀吉
~豊臣秀長 太閤記 (たいこうき) を演出した弟~
放送日 平成18年9月13日 (水) 22:00~22:43 総合
戦国を統一した豊臣秀吉の成功のかげには、家族たちの献身的な働きがあった。その家族の群像を描くシリーズ『秀吉の家族』。
1回目は秀吉の弟・豊臣秀長。身命を賭して兄の天下取りを支えた秀長の生き方に注目する。
4年前、大分県日田市で秀長が着用したといわれる甲冑が発見された。この鎧からは秀長が秀吉と背格好まで同じだったことがわかるという。まさに秀長は秀吉の影武者のごとき存在であった。
さらに信長の一家臣から天下人へと出世していく秀吉の動きを綿密に追うと、その活躍に秀長の存在が不可欠であったことが浮かび上がる。
秀吉の最も忠実な分身に徹した秀長は、秀吉のために命を賭けて敵と交渉し、合戦では危険な最前線に身をさらした。さらに秀長は情けにあふれた行動で、味方だけでなく敵の信頼をもかちとり、秀吉の功績へとつなげていく。その葬儀には20万人の民衆が参列したという。
秀吉の栄光に隠された弟・秀長の献身の生涯を通して“もう一つの”太閤記の真実に迫る。

 

121: 名無し 2006/09/13(水) 22:08:09
始まりましたよ

 

122: 名無し 2006/09/13(水) 22:14:14
秀長で番組が出来るとはすごい時代になったな

 

123: 名無し 2006/09/13(水) 22:16:30
すこしは知名度上がるかな?

 

132: 名無し 2006/09/13(水) 23:22:01
秀長にスポット当ててくれたのは嬉しいのだが・・・・
余りにも秀長を持ち上げ過ぎて妙なこそばゆさも感じたな
今まで秀吉個人or半兵衛、官兵衛両軍師が担ってきた部分を
秀長に被せ代わりのスーパーマンに仕立てたようで何でも都合よく解釈しすぎだと

 

133: 名無し 2006/09/13(水) 23:23:47
その時歴史が動いたは結局そういう番組だから仕方ない

 

138: 名無し 2006/09/14(木) 01:23:53
「その時歴史が動いた」は講談、最新の研究結果がちゃんと説明されるのは「NHK高校講座」。
大人向けの番組の方が青少年向けの番組より幼稚という不思議。

 

142: 名無し 2006/09/14(木) 10:18:49
次の次の大河ドラマ、秀吉系列かな。

 

143: 名無し 2006/09/14(木) 10:21:45
幕末、朝で主役やってる女が主役らしい

 

144: 名無し 2006/09/14(木) 13:41:27
うわー まじか・・・

 

147: 名無し 2006/09/14(木) 18:15:34
篤姫だっけか。
現代的な解釈や感情を持ち込むのは勘弁してもらいたいなあ。

 

148: 名無し 2006/09/14(木) 18:40:50

大河は「とにかく女活躍させて昼メロやらせときゃババアが見る」
って事に気付いてから糞。視聴率を気にしないで冒険できるとこが
国営放送の強みなのにワンパターン化してどうすんだ。

逆に幕末でよかったよ、これ以上あんな糞どもに戦国時代を弄られ
たくない。

 

209: 名無し 2007/02/06(火) 02:20:05
>>148
国営放送てw

 

210: 名無し 2007/02/06(火) 12:03:16
>>209
政府・与党の圧力で偏向するから皮肉ってるんだろ?

 

149: 名無し 2006/09/15(金) 00:02:09
NHKはじつは金曜時代劇とかのが面白い。
大河は史実重視、木曜・金曜時代劇は娯楽重視と謳ってるのに大河が史実がさっぱりなせいで。

 

171: 名無し 2006/09/17(日) 10:18:51
九州征伐は、あまり話題にならないな。

 

172: 名無し 2006/09/17(日) 11:46:10
九州は島津軍やぶったしな

 

173: 名無し 2006/09/17(日) 13:39:06
九州征伐は島津が豊後攻めに失敗してボロボロになったとこを叩いただけだしな
むしろ志賀親次と佐伯惟定を評価すべき

 

175: 名無し 2006/09/17(日) 16:17:32

1586年7月島津は約5万の軍勢で筑前を攻めるが高橋紹運、立花宗茂親子の
頑張りにより失敗

同年10月義弘率いる3万5千が肥後から、家久率いる1万~2万の軍が日向から
豊後を攻めるが、義弘軍は岡城の志賀親次等に阻まれる。
一方の家久は佐伯、臼杵の攻略に失敗するものの12月に戸次川で四国勢と大友
義統を破る。義統は豊前まで逃げ島津は府内を占拠する。しかし87年3月に豊臣
軍が豊前に到着するまで木付城、栂牟礼城、岡城、臼杵城等は抵抗を止めず、
結局島津軍は3月15日に府内から撤退、それに乗じた大友の反撃を各地で受ける。
特に志賀親次と佐伯惟定は瞬く間に多くの城を奪還し、さらに撤退時に合流した義弘
、家久を19日に三国峠で親次が、20日に梓山で惟定がそれぞれ襲撃している。

4月17日の根白坂の戦いで島津があっさり負けたのは、筑前攻めから約10ケ月に
およぶ連戦の疲れと、5万以上いた島津軍が筑前・豊後攻めの失敗の影響で外様
連中が離反して2万程度になってたのが大きかろうと思う。

 

176: 名無し 2006/09/17(日) 16:41:33
その後に仙石(センゴク)が秀吉の命で行って大敗喫してる
別に関係ないだろ

 

178: 名無し 2006/09/17(日) 18:04:59
仙石のあれは本人(とあえて言っておく)があまりにどうしようもない事やっちゃったからだし……

 

189: 名無し 2006/11/18(土) 15:36:26

山内一豊の土佐での一領具足の鎮圧の危うさに比べれば、
秀長の紀伊や大和の統治能力の高さが際立ってしまう。

同じ統治難国でも、

土佐・・・DQN系、謀略に弱い。

紀伊・・・国人の力が強力、一向宗もまだ力がある。軍事力も高い。
大和・・・北部は歴史があり、DQN系より遥かに海千山千の宗教勢力がある。

誰でも知っていることだろうが、もう統治能力が違いすぎる。

 

191: 名無し 2006/12/27(水) 16:46:09
秀長のような彼氏が欲しい

 

192: 名無し 2006/12/27(水) 17:06:50
秀長は本当に必要なとき以外は金を使ってはくれんぞ
正直、ケチだぞ

 

193: 名無し 2006/12/27(水) 20:06:48
ケチと言うより倹約家
そうせねばやってられなかったらしい

 

194: 名無し 2006/12/27(水) 21:07:02
いまどきの女はそれなりに自分も稼いでるから
へんにプレゼントだのオゴリだのをされるよりワリカンとかのが
自分を尊重されている気になるんだ。
だから必要なときだけ使ってくれれば十分!
ほんと秀長は良いルイージ

 

195: 名無し 2006/12/27(水) 22:32:18

大和とか伊勢とかの難しい土地を金のやりくりで見事にまとめたらしいしね。
そうなると逆に台所事情はきつかったろう。
藤堂高虎とかも、無駄が嫌いそうなエピソードあるし。

兄の贅沢話との対比が涙ぐましいな。

 

197: 名無し 2007/02/03(土) 22:59:30
秀吉との年齢差を考えると実弟かな?

 

198: 名無し 2007/02/04(日) 00:06:24
母親は一緒なんだよな、父親が違うんだっけ?

 

199: 名無し 2007/02/04(日) 14:20:34
資料でも別れるらしい。
おそらく実弟

 

201: 名無し 2007/02/04(日) 16:46:01
たしか秀吉の父が死んだ時すでに秀長は生まれてたはず

 

202: 名無し 2007/02/05(月) 17:26:23
小和田に拠るとどっかの寺の記帳からの計算らしいが
(秀長誕生時には弥右衛門生存、故に秀長は弥右衛門の胤)、
果たしてその史料って信用できるのかね
太閤記や他の史料でもずっと異父弟と伝わってたのにいきなり
「実は同父弟だったんじゃないの?」といわれても納得できない
もし同父弟なら何故異父弟だという風に誤って伝わってしまったのか

 

203: 名無し 2007/02/05(月) 19:33:17
>>202
秀長がそう思わせるぐらい丁重だったらしい。
もともと自分を語らない人だから。

 

205: 名無し 2007/02/05(月) 19:37:37
>>203
それ堺屋の小説の記述でしょ?
眉唾だと思うぞ

 

206: 名無し 2007/02/05(月) 20:19:09
>>202
秀吉自身が自分の人生を脚色しまくって宣伝したせいで
「信用のおける資料」なんてのが極端に少ないのですよ、実際。

 

308: 名無し 2007/11/17(土) 18:32:00
太閤立志伝4
秀長でプレー。
姫路城城主の兄秀吉に、謀反を提案。
すると秀吉は了承し、信長に対して謀反を起こす、
速攻で秀吉の下を離れる。
秀吉は織田信長・毛利輝元に攻め込まれ、死亡。
秀長は武田家に仕え、城主まで上り詰める。
運がいいと勝頼の居城の隣の城を与えられる。勝頼が他城を攻撃している隙に
謀反を起こし、全力で勝頼の居城を攻め込む。
こうして武田を滅ぼし、天下を取った。

 

311: 名無し 2007/11/17(土) 22:38:29
>>308
兄者にに忠実でない秀長なんて…

 

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