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ワラタ
してしまったのも、秀長の死が大きかったと
思うよ。
千利休の一件もそうだし
おおおもしろいねー。
その原因になったのは理由を聞きたいねえ
>>15
適当に言ってたんだが、考えてみた。まあ、素人の戯言だと思って、
怒らないで聞いて。
秀頼後見人の癖に、藤堂なみに「次は家康」と感じ取って、関ヶ原前後から、
大阪城にいる立場を利用して、ちょこちょこ諜報とかして点数稼ぎそう。
で、三成刑死後は完全に家康の下に走り、のこのこと大坂の陣にも参加。
大野主馬首とか木村重成あたりに「豊臣家連枝の身分で」とか言われて
肩身の狭い思いもするが、「豊臣家連枝の身分で」大坂を攻める、ということが
豊臣系大名(細川とか黒田とか)の罪悪感の肩代わり的な役割を果たして、
家康・会心の笑み。
・・・・・・みたいな感じ?ホントに適当だな。
利家並みの責任感はあるんじゃない?
知行も100万石でしかも大和でしょ。
利家なんかよりよっぽど、頼りになると思うが。
三成刑死までは俺も同意見。
ただ律義者の秀長が兄の息子を見捨てるとは思えない。
淀の暴走を抑えつつ秀頼を60万石程度の中堅大名に
育て上げるってとこかな。自身は30万石くらいで。
>>28
・・・思うに、秀長が秀吉より長生きしてたら、
秀長=有能・律儀・忠実・堺屋太一(引用しました>>3)
というイメージ自体が無かったかも知れん。
歴史って、現在進行形のものじゃないから、どうしても結果しか
知りえることが出来ないもんね・・・。
で、25・28両氏の意見を踏まえて推敲するに、「秀長は、次の支配者は家康だと
感じつつも、豊臣家一門筆頭としての自分の面子を立てる為に、豊臣家存命に
奔走した」っつーのがイイかな。
でも、こうすると他の大名の帰趨も変わってくるだろうし、家康がそのまま
旧主家を残しておくとは思えないし・・・。もう、訳分からん。
どうだろう?
利家以上のことはできそうな気もするが。
>>39
うん、期待出来そうだね。二人揃えば、家康にも十分対抗し得るし、
忠興とか清正も、こっちサイドに付いてたかも知れない。
ところで、利家と秀長の関係とかで、伝わってる事を知ってる人っていない?
利家は街中から恐れられた悪ガキだったんだよね
それはないでしょう、いくらなんでも。
実の兄弟なんだから。
いや晩年の猿ならあり得る
豊臣政権の先行きもいくらかましになるかも。
が秀吉の後継者になっていたと思われ。
秀長は1591年没、秀吉は1598年没。
秀長と秀吉の没年が逆だったら・・・秀頼(1593年生)は不肖の子(w
まあ逆にしたところでどっちも死んでしまえば家康の台頭。変化あまりなし。
強いて言うなら朝鮮攻めやらないぐらいか。
朝鮮攻めやらないなら
家康潰しにでるか豊臣政権の組織固めにはいるんじゃない?
豊臣って名前から羽柴に戻したりなんかして家康に恭順の意を表して
三成もあれ程出過ぎる事は無く、家康も孤立に近い状況だったと、、、
しなかったんではないかと・・・・・
つーか、そもそも関ヶ原は起きなかったと思われ
自分は女太閤記の中村雅俊のイメージが強いんですが
「秀吉」の高嶋政伸役のイメージが強いです。
「どこにそんなゼニがあるんだよ~、兄者よ~。」
秀長が生きている場合、武断派と文治派の両方をしっかり統率できるだろう。
秀長の養子秀保も器ではなく、秀長死後、再び戦乱に・・・政宗が俺の時代とばかりに
しゃしゃりでる。
関白秀次を秀長が後見。この場合、豊臣政権はけっこう長持ちしたりして。
多分、秀頼の改易も受け入れただろう
で、豊臣家は徳川幕府下で百万石程度の大大名として幕末まで生き延びたであろう
最悪な秀長だな。
1)四国攻めで、秀吉の代理で総大将を務めた。
→それなりの統率力はありそう
2)治めづらい大和の国を治めた。秀吉に「どうやって?」
と、聞かれたとき「金で」と、答えたそうだ。
→人間の本質は欲張りと心得て、それなりの合理的な治世をやる。
3)死んだときに、大和郡山城には大金が保管されていた
→これをもって、単なる守銭奴だなんて、ことを書いている歴史かもいたなぁ。
4)秀長存命ならなぁ・・・論結構あり
豊臣政権崩壊を、尾張閥と近江閥との闘いと見て、両者を融合できる位置に
あったはずなのになぁ。そういえば、秀長死亡後の豊臣政権は迷走した。
ってやつですね。
福島も加藤も浅野も石田も彼の前ではいがみ合いはひとまずおいて従うだろう。
>>84
秀長には実子がいる。
妻-お藤(智雲院 関ヶ原後までは生きたらしい)
長女-おきく(秀保室 没年不詳)
次女-毛利秀元室 1609年没
養子-秀保
高吉(丹羽長秀3男 秀保没後後継者になれず 1670年没)
前科もあるしね(笑
長生きしても秀吉なみにボケて家康の天下は変わらん
無理に家康に逆らわないだろ
利家もあんな弱腰は考えられない。
秀吉の朝鮮出兵は留められても、秀吉死後に豊臣家の舵を取ることは出来無そう。
家康になんとか頼み込んで小大名として豊臣家を存続させるのが精一杯なのでは。
秀次も切腹しなかっただろうし、秀秋も豊臣姓に復帰。
宗家、秀長系、秀次系、秀秋系の豊臣一門勢力盤石。
子飼いの武断派は外様の押さえとして石高高いが、政権不参加。
文治派は石高少なく政権運営。
家康・景勝・輝元・政宗あぼーんと同時に改易。
豊臣幕府完成。
家康より先に秀長死んだら関ヶ原勃発。
成功→豊臣どれかの系統が徳川幕府の一大名として存続。
失敗→豊臣幕府完成早まる。
思うに、秀長は織田で言う信忠みたいなものかと。
秀次・秀秋は信雄・信孝のような雑魚だが、
秀長クラスの器量ものが一門にいれば
十分システムとしての豊臣政権は固いと思う。
従二位 権大納言 だよ。
秀吉が淀君に執心だったって本当かなぁ?
信長の姪ということでみんなひいちゃって嫁の貰い手もなく、
野に放つのも危険。
信長への義理で泣く泣く引き取りというのが真相じゃないの?
秀吉は天下人になったあとも自分の出自にコンプレックスを抱いていた。
秀吉にとって信長は元主家で大恩のある信長公の姪御は
気性容姿関係なく垂涎ものだったろう。
秀吉の若かりしころのお市の方なんて秀吉にとって高嶺の花どころじゃなかったろうしね。
だから、従姉妹だってば。
美人だったから妹ということにして浅井に嫁がせたって資料もあるよ。
当時はよくあること。学会でも最近はそういう見方が強いらしい。
いつも不思議に思うのですけれど、確固たる証拠もないのに
ある一つの見方に流れていくのはおかしいのではありませんか?
学会といえども、わたくしたち厨房と変わらぬように思います。
市が信長の妹でないという説は聞いたことがある
>>117
確固たる証拠なんて歴史にはないだろうよ
最も確からしい説が事実になるのは仕方ない
こっちが不思議に思うのは、その確からしさのかけらもない
話に固執するのはなぜ?
お市さんてあんなに有名なのに母親もわかっていないしね。
本当に妹なら記録くらいあってもおかしくない。
家康 秀長
戦闘 A B
統率 S B
政治 A A
知謀 A B
魅力 A A
秀長も優れたNO2ではあったが歴戦の強者、家康にはかなわないだろう
個人的にはかなわないだろうが、豊臣恩顧の大名家連中は
秀長がいれば裏切りなど起こさなかったに違いない。
ほんとなの?
>>130
軍を率いての戦ならないかもしれないが、
一兵卒としてなら結構ある。
それを「秀長の敗戦記録」といっていいのかどうか疑問だがな(w
これに宇喜多・小早川ら一門や小西・佐竹ら石田シンパが一致結束すれば、
加藤・福島ら豊臣恩顧がどうでるかは火を見るより明らか。
第一、政権運営自体が秀長主導になるとすれば、これに豊臣200万石が加わる。
いくら家康でも歯が立たないだろ、どうやったって。
器量に支えられてる脆弱なものだか>豊臣政権
秀長の死後は結局分裂するかもしれんのじゃないか?
秀長ある限り豊臣政権の崩壊はなかったかもしれんが、
秀長が生きている間に徳川家を崩壊させられるとも思えないからなあ……
家康は手出しよう無いだろう。
秀忠になったら、そりゃ何もできんだろうし。
多分、秀長が死ななければ、秀吉もあそこまで狂わなかったと。
だから、朝鮮出兵等の馬鹿な事も起きなかったのでは?で、そうすれば
家康の方に武断派もなびかなかったのだろうというのが大まかな流れですよね。
で、この見方には賛成なんだけど、逆に朝鮮出兵で豊臣家の財政基盤は歪んだの
だろうか?出兵した大名の財政基盤が崩壊し、結果的に文治派と仲違いした事が
原因で、感情的なしこりが問題である以上、朝鮮出兵が無くても武断派と文治派は
何らかの切っ掛けがあれば秀長の押さえも利かずに、やはり衝突し、歴史は
繰り返されたのではないだろうか?若しくは、秀長のみ押さえになるのならば
家康が彼を暗殺する等の手段も採る可能性もあるのでは?結局、変わらなかったの
ではと考える自分もいる。
表舞台で注目を集めるほどの活躍がないので、家康ほどカリスマ性がない。
秀頼がもう少し年いってれば、立派に補佐できたと思うがな。
秀長は但馬攻略、四国、九州攻めを立派に一人立ちしてやってるぞ。
大納言、100万石の領地、主君の弟というのはそれだけでカリスマ。
だって
大納言、84万石の領地、主君の親友であった前田利家もカリスマだもん。
秀長のこと書いた小説って堺屋と司馬遼以前にあったかなー?
秀長の現在の評価は堺屋が作ったようなものだからなー。
実際のトコどうなんだろね?
>>145
堺屋の主張、「彼個人の資料がないことこそ秀長の優秀さを示すものである」を前提にしちゃうと
それを否定する論拠はどうにも立てられなくなっちゃうんだよねえ……
まあ、堺屋の小説ではあまりに秀長が優秀すぎ&かっこよすぎなので、真に受けるわけにもいかんが
逆に無能を証明するほどの資料もまた無いわけで……
断片的に伝わってる事跡からは、軍事でも内政でも手堅さが特徴だってことくらいしか分からんな。
ああ、じれったい。
とりあえず信長の野望シリーズでは初登場時から軍師扱いだったということは述べておこう(w
そうだったんだ!!!!!
知らなかった・・・
さっそく確認しますわ
しかし配下の藤堂高虎よりも能力は低い秀長>群雄伝
それを言えば群雄伝のサルと秀長は誰がどう見ても同じ血を引く兄弟
見事にふたりともサル顔
資料が少ない→優秀にされやすい
例:竹中重治、山本晴幸など
朝鮮出兵に抗議して切腹
おっとこれじゃ秀吉の方が長生きになってしまう
それはないだろう。むしろ総大将になっていた、と考えるのが普通じゃないか。
反対できずに苦悩する秀長。
こんなん、どう?
1592 朝鮮出兵の総大将となり渡海
1597 朝鮮の征圧に成功する
1597 朝鮮国指令となり、明との外交を担当する
1598 秀吉死亡、秀頼が当主となり大阪へ入城
1599 国内統治を石田三成ら奉行が担当、定期的に朝鮮の秀長に通信
1600 国内で家康が動き始める、伊達政宗、上杉景勝と密通
1600 奉行秀長に家康謀反の兆しを伝える
1600 家康本格的に始動、秀長帰国、豊臣秀家を朝鮮指令とする
朝鮮軍構成:加藤清正、毛利秀就、小西行長、安国寺恵瓊、島津豊久他
1601 徳川家康謀反、伊達、上杉、蒲生、堀、村上他東国大名の多くが家康に通じる
徳川軍甲斐侵攻、前田利長出陣し東軍を迎え撃つ
1601 豊臣秀長率いる豊臣軍大阪を出立、信濃へ進軍
○○の合戦
朝鮮制圧に成功したとしたら、徳川家朝鮮転封。
もし、ことわったら徳川征伐。
秀吉・秀長存命ならこれくらいできるだろ。
朝鮮は子飼いの小大名ではとても治められないと思う。
徳川家を朝鮮にやれば、疲弊して弱体化するはず。
統治に失敗すれば、佐々のように改易すればよい。
成功した場合は明攻めの先鋒にすればよい。
朝鮮攻めが成功したらという妄想の中の話だが・・・・・
大量の賄賂(金)を送って明の強力の元に攻めてれば勝てたって本当なんすかね?
まーそんで成功後に朝鮮に傀儡政権でも作って175さんの言うように
潰したい大名を転封させればいいっすよね。
秀吉の目的が朝鮮征服なら、良い手かもしれん。
だがサルの目的は明征服だった。
秀長が死んでしまってブレーキが無くなった秀吉は暴走したのだと
思う」みたいなこと言ってたな。
逆かもしれないよ
政治家としてみるならばやはり兄者にはとてもかなわないとおれはみる。
その辺のシュミレートきぼん。
>>202
いいんだよ、趣味レートなんだからさ(w
仮に秀長が兄と同年まで生きたとしたら、何が起こったか。
秀長自身に子がいれば、晩年の猜疑心の強くなった秀吉に粛清された可能性はあるが
ありがたいことに秀長には男子なく、そこの問題は無いだろう。
朝鮮出兵は成功しないにしても、その後の政権内対立は最小限に抑えられた可能性が強い。
そうなると関が原が史実のタイミングで起きる理由がまったく無くなってしまう。
家康にとって、取れる天下なら取らない理屈は無いだろうが
自分に匹敵するキャリアの持ち主がいる間は彼は動かないだろう、博打にしてはリスクが高すぎる。
秀吉、利家、そして秀長の死まではとりあえず豊臣政権は安泰だと思われ。
秀長の死後はやはり豊臣政権は分裂への道をたどるだろう。
秀長がそれを自分の死後に至っても食い止めるだけの根本的な改革をやるには、
時間も無いし周囲の状況もそれを許さないだろう。
徳川政権ですらそうした武将の官僚化には長い年月を必要としたのだから。
そうなると「関が原」、つまり豊臣政権の全国政権からの転落を決定付ける戦いは
どこか別のタイミングで起こす必要が出てくる。
もしこのタイミングが遅れ、家康が生きている間に徳川政権を磐石なものに出来なかった場合
ちょっと面白いことになるかもしれない。
史実の「大坂の陣」はすでに徳川政権が全国政権としての実効支配を固めたあとだったが、
これがあやふやなままで家康の寿命が尽きてしまうと……どうなることやら。
やはり、秀長と利家の死を待ったように
関ケ原が会戦されてるんじゃないのかな。
>>209
利家が死んだから関が原が始まった、わけじゃないぞ。
利家が死んだのと同時並行で、豊臣政権内部の分裂が起こっていることを見逃してはならない。
たまたまこの両者が同時に起きたからこそあの時点で「関が原」なわけで、
秀長の寿命が延びると
「豊臣政権の分裂」「家康に匹敵する名声の持ち主が消える」のニ条件がそろうタイミングがずれてしまう。
1600年ごろの家康なら、危うい賭けに出ずまだ好機を待つと思うのだが。