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ヨルダンの国王ハシミテ家は
マホメットの曾祖父ハシムの子孫と言われている。
アラブ世界では最も高貴な血筋の家系と言えるのではないだろうか。
メネリク1世は伝承では、シバの女王とソロモン王との間に
できた子だと語られている。
シバの女王以来、6000年続いた王家だったそうで。
なんか「凄い」を通り越して変態的な長さですな。
血統は継いでないんじゃ?
それってエチオピアですか?
エチオピアって一回イタリアに併合されましたよね。
その時、王制は崩れなかったんですか?
皇帝はイギリスに亡命してましたね。
ハイレ・セレシュのことですか?
>>4
本当かよ?
シバの女王は、古代イスラエルのソロモン王と同時代だから
紀元前1000年頃の人物の筈やが?
その6000年の根拠は何だろう?
最近では、シバの女王は現在のイエメンの王だった説も有るみたい。
>>11
そうです。
1974年の革命によりエチオピア皇帝を退位しました。
ソロモン云々ってのはあくまでエチオピア皇帝の始祖伝承であって、
日本の天皇が天照大神や神武天皇の子孫だって言ってる(言ってた?)のと一緒でしょう。
ハイレ・セラシェ近代のエチオピア帝国は
たしか18世紀くらいにせいぜい地方領主という感じだった小王家が
全エチオピアに支配を拡大して成立したもの。
これが全盛期のソロモン朝エチオピア帝国の末裔と称して
シバの女王以来数千年の連続性を主張したわけだから、
きっと「戦国時代に天皇が絶えてしまって
しかも自称源氏(=天皇家の裔)である徳川家が天皇になった」
というような状況だったんじゃないかなぁ。
たとえが悪いですけど。
まったく同感。
>15
それって今も続いてますよね?(間違ってたら恥ずかしいな~)
いつぐらいにできたのでしょうか?
日本は4世紀ぐらいには大和政権が確立してたと思うけど。
>16
もちろん今も続いてます。日本の皇室とも親しいです。
デンマーク王室は、10世紀末にスキョル家のゴルム老王が、
ユトランド半島やジーランド島の部族王などを傘下に納めてほぼ統一を完成させ、
その後は、ウルフ家、オルデンブルグ家、そして現在のグリュックスブルグ家と
王位は継承され、その間に53人の王と2人の女王により血統は継承されている。
英国王室の祖は、1066年に即位したノルマンディ公ウィリアムですから、
現存する欧州の王室の中では、デンマーク王室が最古の王室といえると思います。
もちろん、日本にはとうていかないませんが。
独自性を保ちたいという国民の声がありましたが、
小さいとはいえ、デンマークが欧州でも伝統ある誇り高き国であることを
よくあらわしています。
そういう問題なの?最近の経済的な問題だとおもうんだけど。。
そういう問題も大きいよ。
参加を渋っているイギリス、スウェーデンも君主制だし、
独自性を主張している。
独、仏、伊、西、墺みたいな国だったら、
なにしようが、誰の目にも個性がはっきりしてるけど、
デンマークの場合ねぇ。
独自性が濃いから意固地になるというのが普通だろう。
デンマーク国民の王室(国家)に対する誇りと崇敬の念は強いからね。
週刊新潮に載っていた話だけど、外国のマスコミが女王(王室)を批判する記事を
書くと、国内のマスコミが女王(王室)を擁護し、そのマスコミを攻撃するんだと。
英国とは大違いらしい。まあ欧州王室の場合、英国の方が特殊ともいえるけど。
EUの首長とは言え、一般人の政治家の下に、
自国の国王が位置付けられるのは辛いかもね。
(血統カリスマをまるっきり否定することになるものな)
ハプスブルグの末裔をEUの象徴皇帝にして、
イギリス、デンマーク、スウェーデン、オランダ王は地方領主ってことでどうよ?
て、日本人が心配してやるこたあないか。
そもそもEUはこうしたロイヤルネットワークがあったからなんだけどね。
ヨーロッパにある王室はみんな親戚どうしだし、王室のない国も親戚の貴族がいる。
根強いらしいです。
オーストリアには、ハプスブルグは元首になれないという法律が合ったはず。
ハプスブルグ入国禁止例は解除されたけど。
日本よりも古いのは確実だしね。
おうちょう わうてう 【王朝】
(1)同じ家系に属する国王の系列。また、その家系が国を支配している時期。「ブルボン―」
(2)「王朝時代」の略。「―文学」
というわけでローマは王朝ではない。
仮に王朝だったとしても、「日本より古いのは確実」といえるのか?
新鮮な見方で面白いと思いました。
>>36
イエスを初代とすれば2000年ということで、約1500年の日本皇室より古いと思う。
>>35
王朝は基本的に血統が続いていないといけないので、ローマ教会を王朝と見るのは無理があるのではないですか。
>>36
ローマ帝国に対して、王朝云々を言うと、ユリウス朝とか短期な王朝のつなぎ合わせになります。
> イエスを初代とすれば2000年ということで、約1500年の日本皇室より古いと思う。
一概にそう言い切っていいのかな?
でも、何をもってローマ教会の成立とするのかっていう定義はあまり聞いたことがないなぁ...
とりあえず、こんなリストを発見。
http://www.newadvent.org/cathen/12272b.htm
推古以降か。
血統的にある程度確実なのは第26の継体天皇からでしょう。
それだって、少なくとも女系を含めればもっと前から繋がってますけどね。
もちろん、オウムが好きそうなトンデモ本にはいろいろあることは知ってます。
血筋の繋がりは保証できないけど、系統でいけば代10代の崇神天皇まで遡ってもいいんじゃないでしょうか?
ちなみに四世紀と書いたのは、大和政権が日本国内である程度確立しているように見えたからです。それまでは豪族集団の長みたいな存在なので(毛利元就みたい^^;)
「断絶してると言えなくもない」ですよね?
>41(1)さん
でも系統的に言っても継体天皇はかなり遠いと思います。近畿になかなか入れなかったし。
江戸時代にも女帝が立ちましたが、あのあたりは大丈夫なのかな?
あと「朝廷の歴史」というスレの題名ですが、わかりにくい書き方ですね。
なにか意味があるのでしょうか。
トンデモ本の世界ですね。
>43
遠いといっても5世孫ですし、婿に入っているからね。
江戸時代の女帝は何の問題もないでしょう。皇子が生まれるまでの中継ぎですし、
その後、女帝にはたくさんの弟が生まれている。
継体以降はほぼ確実だろうけど、
他の王朝と並立してた説があるから(記紀にはもちろん書いてない)、
まあもろもろ含めて、推古以降なら、
同一血統として「議論の余地がない」と思って書きました。
「崇神以降」云々は、事実というより、それ以前は完全な伝説の世界(笑)。
崇神相当の人物はいたんだろうし、なんらかの王朝はあったんだろうけど、
現在と同一王朝という括りでは語れないのでは。
ちがうがね、俺が言いたいのは
神武~南朝、北朝~現在でそれぞれ別の王朝と見る説よ。
北朝が南朝から帝位を簒奪したって説。
例のとんでも本とは別よ。
>48
「簒奪」したのは寧ろ後醍醐天皇の方じゃないの?
簒奪は逆でしょ。それと北朝のほうが長男の家系ですよ。
後深草天皇(北朝)と亀山天皇(南朝)は、父親も母親も同じで、
17歳になった後深草天皇が病を発したために、父の後嵯峨上皇が皇位を弟に譲らせた。
しかし、後深草上皇は父の後嵯峨上皇から天皇家の領である
長講堂領・播磨国衙領・熱田神宮領など、所領を180ヶ所譲与されている。
父親の後嵯峨上皇の死後、後深草上皇に「治天の君」として執政を取らせなかったのは、
母親大宮院の意向でしょう。(「葵三代」のお江や伊達正宗の母親と似ている)
そして出家を決意した兄に対して、亀山天皇の方から幕府に調停を依頼し、
後深草上皇を「治天の君」とする代わりに、自分の子供(後宇多天皇)を皇太子にして、
両統迭立にしちゃったわけでしょ。それなのにこの南朝の親子は幕府に裏工作して所領を入手したり、
後深草上皇の子である伏見天皇の暗殺を図ったりしている。(正応三年の浅原一族の禁中乱入事件)
そして南朝で後宇多天皇の子である後醍醐天皇は両統迭立の約束も破っている。
まあ、少なくとも南北朝は統一したわけだし、同じ一族どうしなわけだから、
王朝がかわったとはいえないでしょ。
それは違うだろ。
後漢の光武帝は、前漢の皇室とは血統的に滅茶苦茶離れてるしな。
日本の場合はたいして離れてない。
>>53
前漢と後漢が別王朝と見なされるのは、血統が遠いからではなく
支配機構の断絶があると見なされるからじゃ?
政府幹部や高級官僚の総入れ替え也
いや、北宋と南宋だろ?
どっちみち、一度断絶してその後復活って事かね。
なんか本題からずれてきているような気が(^^;)
エチオピアの6000年説って神話とかも含まれてるんでしょ?
それと、中央政権をまとめる役割として、実質的に王政が確固たる地位を築いたのは、
今からどれくらい前なんでしょうか?
ということは、18世紀以前は統一王朝と呼べないのでは?よく知らないけど・・
西洋の定義では計りきれんでしょ。
「統一王朝」ではなかったのが、むしろ皇室の安定性に寄与したといえる。
明治維新のとき、将軍制(天皇制という言葉から連想した造語)を廃止してしま
ったのは非常にまずい選択だったと思う。将軍制が機能していないせいで、
皇室は、反政府も反日本人勢力の格好の攻撃対象になってしまっている。
将軍制が機能していたなら、その攻撃は将軍家の方にあつまるか、少なくとも
2つの王室に分散していた。
反政府も反日本人勢力
>
反政府勢力や反日本人勢力
少なくとも 2つの王室に分散していた。
>
少なくとも、2つの王室に攻撃が分散したので、皇室の攻撃に対する負担は軽くなった。
62の意見に賛成の立場をとる
王朝と言うからには政治的な実効支配を伴うべき
ただ単に家系が長いだけなら孔子の家系の方が長い
征夷大将軍って何か知ってる?
ペリー来航の際、幕府がなんでさっさと対応がとれなかったか知ってる?(もちろん内部にも賛否両論あったろうが)
例えば鎌倉時代なんかは朝廷と幕府による二元支配でしょ?
それと戦国時代は各地方に武将が割拠していた状態だし。
中国にたとえると後漢の献帝みたいな状態だよね?
64のようなデンパはオイトイテ
鎌倉時代は二元支配というのはその通りだろうね
ではどちらが権威があったか?どちらが上位か?
これは明らかに幕府にあったんですね~
承久の乱では天皇・上皇を島流しに処してるし
南北朝の遠因にもなった文保の和談は完全な幕府主導で行われた
>>71
>承久の乱では天皇・上皇を島流しに処してるし
>南北朝の遠因にもなった文保の和談は完全な幕府主導で行われた
確かに鎌倉初期から幕府の優位性があったと思うけど、
承久の乱は幕府側が勝ったから島流しが出来たんじゃないですか?
あそこが大きなターニングポイントの様な気がします。
そのせいで両統の和談も幕府主導になったのではないですか。
その状況を巻き返そうとしてかえって墓穴をほったのさ。
幕府だけでは政権が維持できないから、朝廷を残してきたんだろう。
>71
島流しが精一杯というところだろ。
外国なら処刑してるね。
日本に来た外国人が天皇をどう見ていたか、例をあげてみる。
永禄7年(戦国時代)、宣教師ガスパル・ビレラの報告書に
「彼(正親町天皇)は少しも兵力を有せず、これがため常に
困窮せりといえども諸人に尊崇せらる」とあり、
翌年のルイス・フロイスの報告書にも
「(日本人は天皇を)日本の頭として、殆ど神の如く尊崇せり」
と述べている。
下克上の戦国時代ですらこうだからね。
日本の歴史が日本人の手によって語られ始めた頃、
もうすでに天皇家は日本の支配者だった。
実権が武士に移った頃には、もはや天皇とは、
普通の人間には想像もつかないくらい昔から
この国に君臨していた「存在」となっていた。
その存在が醸し出す「権威」というものを、
歴代の権力者たちが無視することは不可能だったのだろう。
源氏も、北条も、足利も、家康も、GHQも。
マジなん?
明治時代に日清条約を結ぶにあたって、
清朝は日本が「皇帝」より上の「天皇」と名乗るのはケシカランと文句をつけてきた。
そこで、日本は対外的な外交文章には「大日本帝国皇帝」と署名した。
清も国力の差を感じていたので、同じ「皇帝」ならばと、しかたなしに認めた。
天皇が外国でエンペラーと訳されるようになったのはここからだね。
日本天皇家とエチオピア皇帝家、どっちも血統的にはつながっているとする。その上で、
1. 実行支配力を持たない期間があったのに「王朝の連続」として捉えて良いか?
2. 実行支配力を喪失していた期間が本当にあったのか?
ずっと頂点にいたわけでしょ。権力者は官位を天皇からもらってたわけだし。
エチオピアの場合、そんなに詳しくないけど、
皇帝であった時期そのものが、少ないでしょ。
>103
>1. 実行支配力を持たない期間があったのに「王朝の連続」として捉えて良いか?
実効支配力を待たない期間なんて、世界中のどこの王朝でも多かれ少なかれあるでしょ。
例えば三国志の漢王室だって、曹操のもとでは実効支配力を失っていた。
しかしだからといって、王朝の連続が途絶えたとはいえない。
王朝が終わったのは、曹否に位を譲った時でしょう。
皇帝や国王が傀儡にされることはよくあることで、
それによって、いちいち「王朝が連続していなかった」などといえるのだろうか?
形式的に頂点にいるかどうかだと思うね。
史家からは別王朝と認識される。つか、前漢も後漢も蜀漢も
”形式的に”漢王朝を名乗っているが、史家によって別の名前を
付けられている。つまり >>106 はマチガイ
>109
誰も後漢、蜀漢の話はしてないだろ。
後漢も蜀漢も皇帝の系譜が事実としても、血統的にはかなり離れている。
それにかつての王朝の後継者を名乗ることなんて珍しいことじゃない。
俺は、魏王と漢王室の話をしている。ちゃんと読めよ。
自分に都合の悪い話は無視するなよ。
史家は後漢王朝の滅亡はいつといってるんだ?
質問は、皇帝や国王が実効支配力を待たない期間を王朝が途絶えたといえるのかだよ。
>>111
後漢末はよく知らない。ところで別の例を出そうか?
武則天は名実共に皇帝の位に就いたが、武氏の王朝と見なされることはない
理由は次の通りだと思う
1、唐の大臣、高級官僚をほとんどそのまま引き継ぎ、社会的変革が無かった
2、短期間に武氏の政権が倒れて、李氏に戻った
実効的支配+長期間の支配が必要かも知れないな
一時的に実権を奪われても短期間で取り戻せば
王朝が途絶えたとは言わないかも
天皇が実権を頼朝に奪われて、明治維新で取り返すまで
700年掛かっている
室町幕府を滅亡させた信長は朝廷に接近し、
仙洞御所(上皇の居所、応仁の乱後は絶えて久しかった)造営の申し出と、
皇太子誠仁親王への譲位をすすめている。
正親町天皇も喜び、「奇特さ朝家再興の時いたり候とたのもしく祝い御おぼしめし候」
と信長に述べている。だたこれには、信長が見返りとして将軍宣下と幕府開設を望んだため、
白紙となった。そこで朝廷はかわりに官位を与えるようにした。(辞退もあった)
その後、信長は神仏の上に立つ絶対者であるがごとく振る舞いはじめ、
旧体制側の代表である光秀に討たれた。
結局、織田信長は朝廷を軽んじて政権維持ができず、天下人にもなれず、
死んだわけでしょ。
>119
その例は俺も言おうかと思っていた。
何で反対の立場のアンタがその例を持ち出すのかようわからん。
つまり、唐王朝が武氏に一定期間実効支配されていても、
唐王朝が滅んだといえないということでしょう。
ただ、武則天の即位の期間は易姓革命がおこり、「周王朝」にかわったといえるでしょうね。
>>119
その例は逆効果だね。
武后は皇帝を傀儡にしてたわけだし、
実効支配してたのは武后とそのイエスマンの官僚たち。
皇帝(天皇)親政じゃなきゃ、
王朝とはいえないってのはおかしいよ。
天皇家が現存する世界最古の王朝であることは、
世界的にも認められている。
>>122
傀儡?いや傀儡を皇太子に格下げして、皇帝の座に就きましたが?
>>123
道長や清盛がどんなに権勢を振る舞おうとも、平安朝での出来事とされる
それと頼朝が築いた鎌倉政権とは、かなり異質なものだと思いますが?
頼朝~斉昭の間の天皇は宗教的権威のみである。という色彩が強かった
むしろ、ローマ教皇に擬せられるべきじゃないのか?
そうだよ。それが何か?
傀儡にしてた時期も自分が皇帝に即位した時期も武后が実効支配してたわけでしょ。
傀儡にしてた時期に唐王朝が滅んでいたとはいえないだろ。
そのとおりだが、
だからといって、王朝の連続性がないとはとてもいえないだろ。
勅使や武家てんそう等が、間を行き来してたわけだし、
天皇がヒエラルキーの頂点にいたことはかわらない。
将軍は天皇に任命されているわけだからね。
今だって、天皇が京都に皇居を移しても、その地位はかわらないじゃん。
>>121
> 武則天の即位の期間は易姓革命がおこり、「周王朝」にかわったといえるでしょうね
この問いかけにNOと答えるのがおいらの立場
それから、逆に何をもって王朝の滅亡とみるか?
1、実効的な支配力を失っている。特に租税公課が出来ない場合
2、長期に渡りその状態が続いている
鎌倉時代の朝廷は荘園を通じて全国から税を集めることが出来ていた
幕府も同時期に税を徴収していた。これが鎌倉時代の二元支配の実態
室町期に荘園は次々と姿を消し、天皇家は税収=実効支配を失う
>123
同感です。
実権うんぬんよりも
1、帝位相続の正当な(妥当な)血統か
2、帝位継承時に正式な手順を踏んだか
3、民衆の支持を得ているか(不満は別としても)
最低これが王朝の存続条件ではと思うのですが?
このうち1,2が欠ければ王朝断絶だと思います。
これは俺個人の持論ですので怪しいかもしれませんが・・・。
形式的には日本を統治してきたわだから、
直接に税を徴収するかしないかで、王朝の連続制が否定されるとは思えない。
結婚相手に乗っ取られたように見えるから。
たしか明治憲法で天皇相続を男子に限ったんじゃなかったかな?
日本本来の風習としては男女は役割分担はあっても上下の別はなかった(平安頃まで)のが、やがて儒教の影響で中国風に男尊女卑を通常として男子相続が続き(明治以前)、明治憲法はドイツ型男尊女卑を規範としているので男子相続が明文化された、んじゃなかったかな? 現行憲法もその流れですね。
相続規定なんかないよ。
薩長の明治政府が天皇に軍服着せて大元帥にしちゃったから、
女帝が禁止になったんだろうな。
もっとも「皇室典範」の前身で、宮内省が製作した「皇室法規」では、
女帝も女系もOKだったらしい。