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それはむしろ源頼朝と北条政子のほうが・・・。
夫婦げんかなんかしたか?
政子が頼朝の愛人邸を焼き討ちしたのは有名。
近衛文麿みたいなこと言うなよ。
それ・・・京都人の常識に見せかけたヨソ者の皮肉だって。
言葉の知識じたいが間違ってるから京都人は言わないらしい。
畠山義就の本陣にされた。
後土御門天皇と後花園上皇は室町御所に移され、東軍の旗とされた。
室町御所が仮の皇居として定められた。
あいつぐ徳政令の乱発による経済の大混乱は、そうした脆弱な基盤をもろに直撃した
幕府破綻の一歩だった。
将軍家は直接関係ない。
将軍家ということに関して言えば、明応の政変のほうが影響が大きい。
応仁が将軍家に無関係というのは…
無関係は表現が悪かった。
東西両軍が勝手に将軍家の一族を担いだだけで、応仁の乱によって足利将軍の存在自体が脅かされたわけではない、と言いたかった。
>>598
>東西両軍が勝手に将軍家の一族を担いだだけで、応仁の乱によって足利将軍の存在自体が脅かされたわけではない、と言いたかった。
将軍自体は標的になってないものの、時期将軍の座を巡って将軍の意などそっちのけで好き勝手やってますが。
応仁の乱の時点で、室町将軍の制度そのものを廃止しようとした大名って、いたのか?
細川・斯波・畠山および足利一門大名は将軍家あっての存在だし。
外様の大大名、大内もそこまで考えてはいまい。
可能性としては、せいぜい宗全入道くらいだが、将軍家をなくそうとは
考えていないはず
応仁の乱時点では少年? 甲斐、織田、朝倉あたりにかつがれていただけ?
そして早世? 後嗣はなし?
越前では、守護(斯波)と守護代(甲斐)が合戦に及ぶなんていう前代未聞のことまで起こっているし。藁
>>607
その戦争で負けた斯波義敏に将軍の怒りが爆発したから
義廉が来たんだっけ。
で、山名宗全に担がれるに至った。
とはいえ、応仁の頃の斯波氏では、
西軍側の義廉がわが圧倒的で、
東軍に付いた義敏は圧倒的に劣勢。
細川勝元が、西軍側の家臣の引き抜き工作をやって、
ようやく勢力拮抗となった。
このとき西軍から東軍に移ったのが、
朝倉孝景(敏景)と織田敏広だっけ。
畠山のほうも、東軍側は勝元の支援なしには
充分な戦いが難しそうだし、
やっぱり、勝元による、三管家(のライバル)弱体化だったんでは?
細川総勢 8万 山名総勢 4万
京極持清 1万 大内政弘 2万
畠山政長 5千 斯波義廉 1万
武田信賢 3千 畠山総勢 1万
斯波義敏 5百 土岐成頼 8千
赤松政則 5百 六角高頼・一色義直 各5千
これ関東とか陸奥・九州はなにしてたん?
足利成氏が八屋形(結城・千葉・佐竹・那須・宇都宮+2)と10万騎率いて上洛しますた
みたいな燃え萌えな転換にならなかったのが残念でならない。
東北と関東・九州は既に中央の統制下から離れて既に戦国乱世状態。
足利成氏が十万騎率いて上洛して古河から去ったら、上杉大喜び。堀越政知も大喜び。
もし細川と山名が講和せずに、政元が廃嫡されたままだったら、のちの明応の政変も起こらなかったわけだ。
>>693の勝之が嫡子だったとか、廃嫡されたとかの記事は見つかりませんでしたが
文明五年の勝元死亡時の関連記事に、この年もしくは次の都市に勝之が出家して
後に紫衣を受けたの云々はありました。
ちょっと臭いのは文明六年の細川・山名和睦時の宴会(四月三日)の前に勝元が
その母とともに山名邸へ返礼に赴いた云々の記事が東寺執行日記にあること。
母が山名の出身だから随行したとも考えられますが、勝元自体がまだ幼少(数え9歳)
なので単につきそっただけなのかも……文面上はそのお母上が山名出身とは思えない
ほどよそよそしい書き方に見えるので、後者のような気もするなぁ。
政元の母ではないんじゃないの?
細川と山名の講和条件が政元を細川京兆家の家督にすることだから、山名の娘でOKじゃないのかな。
そして、この直後に勝之(政元の代わりに勝元の養子になっていた)が出家してるし。
義澄の父政知は妾腹で、義材の父義視は嫡腹だから。
義勝・義政・義視の母日野重子は義教の正室ではないよ。
でも政知って義視より年上だよね?
足利 義勝 長男 永享六年(1434年)生
足利 義政 次男 永享八年(1436年)生
足利 義視 三男 永享十一年(1439年)生
足利 政知 四男 永享七年(1435年)生
これいかに。
足利義稙の母は日野富子の妹だし。
日野家ってホントしぶといな。
嫡腹なら義視のほうがよくない?
義満、義持、義教、義政、義尚、義澄みーんな日野家が入ってます
義教はあんだけ日野家を嫌ってながら結局正室は日野家から迎えたんだね。
両軍共に京都へ結集していた応仁の乱は、
天下統一のシステムではゲーム化できんだろ。
京都だけ城の数を激増させたら対処できるかな?
天下統一だけでなく「現存する全ての趣味レーションゲームで実現不可能」でしょ。
でも、応仁の世界観・システムの完全再現なんてもともと望んでないし、
それこそ実現不可能な難問なんだから別に天下統一で十分。
というか、今ある選択肢の中ではベストでしょ。
ゲーとしての価値はある。正直信玄とか信長とかは食傷気味。
山名一族の山名持豊とかいう香具師が義視側に寝返ったらしい。
それは義視が西軍に鞍替えしたんだよ。
持豊は最初から最後まで西軍。
そもそも応仁の乱における「西軍」とは、「持豊方」を指すというのが根本的な
定義であるので、持豊が属しているほうが常に西軍。
ただ西軍が擁している将軍親族が途中で義尚から義視に替わっただけ。
北条早雲の姉が東軍今川義忠の正室じゃなかったか?
もっとも応仁の乱勃発時早雲は幼かったとみられているが
妹で側室だったはず。
早雲享年88歳説に引きずられて、「姉」だと年齢的に合わないことから、
「妹」されるようになった。
近年では早雲の享年は64歳説が主流になってきたので、それにともなって
「姉」説も見直されてきた。
なお側室説も今ではほぼ否定されており、北川殿は義忠の正室と見られている。
早雲=素浪人、妹で側室、88歳没と思われてるんじゃね?
早雲が88歳没だったとすれば、応仁の乱の頃は成人していい年。
妹が今川義忠に嫁いでいるのならば、応仁の乱で何らかの協力をしただろうね。
そんな史料が出てこないのは、早雲が義忠室の弟で幼なかったからだろう。
義政は当初は勝元・義視支持のはず。
でも足利義政と足利義視は担がれていただけの御輿。
義尚、日野富子はそれに引きずられているだけ。
それを一方がどちらか担げば、もう一方は別の方を担ぐ。
山名一派と細川一派が戦っているという構図は同じ。
将軍後継者争いは名目だけだというのが分かる。
応仁の乱は長引かなかっただろう
やる気も無いのにだらだらと将軍を続け
やっと隠居したかと思えば
妻の日野富子と対立して逃げ回っているし
京都の戦火は京都全域が焦土となったということではなく
上京の要衝がピンポイントで焼けたに過ぎないと言っている。
上京と比較すると下京の被害は比較的少なかった。
公家の相次ぐ地方脱出や諸国の政情が激変するのを横目で見ながらも
課された戦役を全うせずに武将たちが陣を畳んで帰郷できなかったのは
やはり自分たちが戦い続けなければ領国経営の上での歳入の確保が難しいという
悪循環が彼らを束縛したのではないだろうか?とにかく論功行賞にあずかりたかったのだろう。
細川と山名の派閥抗争に翻弄されてキレた義政が、
おまえらの争いにオレを巻き込むな、勝手に戦って勝負つけろ、みたいなこと言って投げ出しただけだよな?
ま、かつては手足と頼んでた側近連中全員、細川と山名らに追放されて、
派閥抗争に発展する前からぶち切れてたんだろうけど。
ところで、乱の頃の東軍・西軍の色分けで、
南北朝末期の枠組みに似た組み合わせが見える気がするんだけど。
西軍の代表格である、山名も大内も斯波も、けっこう末期まで南軍だったし。
畠山は忘れた。
当時からそういう呼称はあった
京都の西陣織などで有名な地名「西陣」は
山名氏率いる西軍が陣を置いていたことの名残
両畠山は武将としてはそれなりに有能だよな
管領になったり落ち武者になったりジェットコースター人生
山名宗全の娘が細川勝元の嫡子を生んでいれば乱はおこらなかったのかな?
無理じゃね。
肉親でも激しく争ってただろうという感じがする。
どの大名とどの大名が同盟して、どの大名と戦う---
という枠組みは、ある程度の紆余曲折があるにもかかわらず、
南北朝期・観応擾乱期に類似の枠組みへと移っていった。
細川・京極・赤松らのグループと山名・大内らのグループに分裂する傾向は、
むしろ「基礎構造]とさえ言えるんじゃあるまいか?
山名VS赤松・・・播磨周辺の守護争い
斯波って、足利幕府筆頭格名柄なのに
細川頼之を追い出した義将と親父・高経の頃が絶頂期か。
応仁の頃には正統断絶したんだよな。。。
細川京兆はなんだかんだで勝ち残ってるよな~
義教の時代が最大の危機だった?義教が死ななければ・・・
嫡流が絶えたあとに、一門衆(分家たち)筆頭から養子入りした子供が、
応仁の頃にはオヤジになってるんだから。
義敏の父親は、親類衆/一門衆の筆頭として、家老格(ってか、二番家老ぐらい?)に位置していた。
斯波持種だね。
義教の時代に大覚寺義昭の大和騒乱鎮定に一軍として出兵してますね。
甲斐常治が筆頭家老格じゃなかった?
>>961
そうそう、
筆頭の甲斐と、激しい派閥争いを繰り広げてたみたいだね。
だからこそ、義敏が甲斐常治と戦うことになったわけで。
持種にしてみれば、自分の子供を次期当主の座に据えれば
仇敵である甲斐をどうにかできるんじゃないかと、起死回生を狙ったんだろうけど。
>>950
各地でくすぶり続けていた、諸々の派閥争いや相続争いの火種に、
義政が油を注いで回った結果として、全国レベルで燃え盛ったって感じじゃね。
義政の心づもりとしては、気に入らない側を叩きつぶして、気に入った側を残したかったんだろうけど、
それぞれ、いずれもが、他の争いと相互乗り入れして連結したから、
火事が巨大化したんだ。
ま。クーデタで手足(主要な側近連中)を失った義政には、
油を注ぐより他に手段がなかったのかもしれんけどな。
いちばん邪魔だったであろう、宗前と勝元を排除できないのが悔しかっただろうとは思うよ。
二人とも、病死だったもんな。
隠密はともかくとして、
各地の西軍大名に対しては、
一族の有力者(支流)のうちで、不満を持ってそうなヤツをけしかけて
東軍に味方したら守護に任命したると甘言を弄したり、
ツテがある場合は、領内の有力そうな在地領主を誘ったりして、
頻繁に叛乱誘致を推し進めたのは確実だな。
基本的には手紙を送る形だったと思うんだが。
ありがとう。へぇー。参考になった。
勝元って策士だと言われるが、あまり具体例が知られてないし、私も知らなかったんだけど、そういうところが策士たるゆえんなのかな。
一方の宗全もかなりやり手だよね。養女をあちこちの家(細川・六角・斯波とか)に送り込んだり。
日野富子、勝元の娘、後の今川義元の母とかの例を考えれば、女性も発言力が強かった時代だろうし、さらに後の、夫に殉じたお市の方などとは全く違う感じがする。
この時代の政略結婚は人質とか、娘を利用して摂政になる、みたいな摂関政治というより、婚家操縦(あ、お市は人質というよりこの感じか?)、に近いものがあったのかな?なんて考えてみたりもする。
かなり的外れかな?
勝元による叛乱誘致政策が早期に結果を出したのは越前。
朝倉が、西軍方だった守護の斯波義廉を圧倒して、最終的には自分自身が守護となり、
「下克上第一号」とされるまでに至った。
応仁の乱が終わらない段階で下克上を成立させたのは、朝倉だけだったはずだ。
が、西軍方の守護は最終的に、下克上で消え去っていき、
戦国時代の中盤までには歴史の舞台から消え去っていった。
守護大名から戦国大名に転じた大名のうちで、戦国時代後半まで残ったのは東軍関係者だけだったはず。
あ、違った、六角氏とか、いたか。
総じて、下克上で消えた守護大名には西軍が多く、他の大名に負けて消えたのは東軍が多い気がするが、
東軍の細川や赤松が下克上で消えてるのとか、
西軍の武田や六角などが近隣大名に敗れて消えてるのとか、
例外ってレベルじゃなく多いから、単なる「傾向」って程度だな。
そうすると戦国乱世の元凶も義政ということになりかねないが・・・
そんな偶然だろうか?中世の終盤に起きるべくして起きたことのように思えるが。
6代義教が将軍権力を高めた結果、
軍事力・経済力の裏付けを持たない将軍側近が権力を持ちうるようになった。
ところが、それを確実に支えられるだけの人事システムがなかったから、
阻害されていた大名連中が総掛かりで不満を爆発させたことで、
側近連中が追放され、極めて不安定な力関係になった。
大名間の紛争を解決しうる、現実的な力の保障が欠落してしまったわけ。
義政が、義満や義教なみに優秀な政治家として鍛え上げられていたら話は違ったんだろうが、
凡庸だったから、どうしようもなかった。
そのうちついに、横からの口入に耐えきれなくなって暴発し、
口入を無視しうる唯一の解決策=「勝手に戦争しろ」を発令してしまって終了
とは言えるかもな。
元々室町幕府なんて将軍と有力守護大名の連合政権だったのを
義満なり義教なりの権威で押さえつけてただけだからなぁ…将軍個人の資質で
有力大名との関係も変わってくるわけで
ただ義政のせいばかりじゃないと思うのは、結局トラブルのほとんどの理由が
家督相続争いにあるということで、中世のイエ制度の持つ根本的な欠陥でもあるし
守護の京都滞在という建前も原因の一つだとは思う。
当主が定めた後継者を認めない有力守護代とか被官が別の後継者を立てて争う
パターン自体はどこも同じようなもんだし…