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某所より抜粋
「チムールは…武器、兵糧をはこぶために騎兵一人について、
それぞれ10人ずつの輸卒をつけさせた。
穀物数千荷は軍用車ではこばれたが、これは道すがら種子をまいて
帰路の兵糧に供するためであった。
なお、さらに7年間をささえるに足る乾草飼料を用意し、
そのほか各人が乳牛二頭、乳羊10頭ずつをたずさえて、
途中の食糧の欠乏にそなえることにした。」
(中央公論社、『世界の歴史9』)
ティムールは明のどこまで攻めるつもりだったんだろう?
西域征服?それとも中国全土の制覇?
でもこのときティムールは70歳くらいだったんだよね。
年代記には「カタイに遠征」と書いてあるんだって。
それを根拠にカタイは中国ではなくてモンゴル高原のこと、
と解して北元崩壊で混乱するモンゴル勢力を統合しに向ったのだ、
というモンゴル史の本を読んだことある。
まあ、モンゴル高原の先は中国なのだが・・・
そう、モンゴルと北京って近いからね。
つうか永楽帝もよくこんな北によった首都にしたよね。
もうちょっと南で北京は前線基地にした方がよかったんでは?
>>7
でも永楽帝は自分自身でモンゴルに親征したよね。
あと靖難の変のあとで建文帝派の人間を処刑しまくったので、
南京の人間の反感をかったらしいから、
それが理由じゃないかな。
それはいいんだけど結局どっちが勝つかって本題に結論がつかないですね。(笑)
軍隊はチムールの方が強そうだな。
でも経済力が続かないだろう、チムール側は・・・
>そう、モンゴルと北京って近いからね。
>つうか永楽帝もよくこんな北によった首都にしたよね。
>でも永楽帝は自分自身でモンゴルに親征したよね。
かつてはシナを支配しただけで全人類の君主「天子」を自称できたが、モンゴル帝国による世界制覇の後は、中華思想における観念上の枠組みの上でもシナを制圧するだけでは、「天下」の主とは名乗り得なくなったため。
永楽帝にとって、潜称という引け目なく「天子」を称しうるためには、モンゴル高原の制圧は不可欠だった。
足利義満が朝貢して日本国王の冊封を受けたことは、モンゴル帝国の最盛期のセチェン・ハーン(フビライ)を越えたという自己満足を永楽帝にもたらした。
北京は、シナでは北端にあたるが、シナ+モンゴルと考えれば、中央に位置する。かつて存在し(元朝)、永楽が目指すありうべき世界帝国の都としてはこの位置が適当。
ところで、鄭和艦隊の遠征は西方世界の威力偵察の意味も
あったという話があるが…
う~ん、モンゴル研究者よりの見方をすれば、と一応全面的賛成には留保するけど
ティムールと永楽帝はともにモンゴル帝国の後継者を目指して
モンゴル高原と華北の覇権を争うところ、未遂に終わった・・・ということかな。
結局「北元」を継いだのはオイラートのエセンだったわけだけど。
永楽帝?建文帝?
ちょうど靖難の変の最中なんだよね・・・
たしか永楽帝は君側の奸を除く(靖難)という名目で挙兵している手前、
建文帝が死亡する(行方不明になる)まで帝位に就けなかったんだし。
戦術的には場所や時期などの要素も有るけど
チムールのほうが騎兵戦力で勝ってるのかな。
補給も充実してたそうだし。
しかし、支那を征服するのは
支那の国力が低下してないと
人口、経済力の差と補給線の長さがでて無理でショ。
で、1回勝負ならどうかな?五分五分ってところかな。
オスマントルコを潰していた.....このほうが世界史的には面白そう。
バヤジットだっけ?憤死したの。
“電光”バヤズィット 1354~1403
1389 在陣中父の死を知るや否や、共に戦っていた弟達を皆殺しにしてベイとなる。
1396 ニコポリス十字軍を破りバルカン半島支配を確立、スルタンとなる。
1402 アンカラでティムールを迎え撃ち敗北、捕虜となる。
1403 屈辱に耐え切れず、憤死。
同時代にティムールがいなけりゃ偉大なスルタンとして名を残せただろうにね。
オスマン朝はバヤジット一代で一挙に拡大しているし、
崩壊した帝国ものち二代で建て直り、曾孫メフメト2世を迎えている。
急速に拡大しすぎたオスマン朝はここで一息付いて後退することで
かえって安定した支配を確立できたのだ、という見方もできるんじゃないかな。
質問ですが
スルタンを最初に名乗ったのはバヤジット1世ってことですか?
初めて聞いた話なので、出典教えて下さい~。
やっぱりエジプトのカリフに認めてもらったのかな。
ありがとうございます。
詳しい本…あるのかなぁ…
簡単に手に入る日本語の概説書で、
スルタンの称号がいつからかなんて話は見た事ないもので。
ただムラト1世はイズニク所在のニリュフェル-イマレット碑文中でスルタンの称号で呼ばれているそうです。実質的にはバヤズィト1世がニコポリスでハンガリア王ジギスムント率いる十字軍を破った1396A.D.以後、「スルタン-イ-イクリミ-ルーム」と号してからのようです。ただしその後もベイ号も併用していたそうです。なおムラトもバヤズィトもモンゴル風のハーン号をも称しています。また史書などではイラン風にパディシャーの呼称も用いられています。以上の情報は三橋富治男著「オスマン-トルコ史論」(吉川弘文館刊)から得ました。
そっか、鈴木董さんが紹介してたか…<カリフ云々
オスマン史書って15世紀前半のメフメト2世時代以降に書かれたのしか残ってないんで、
メフメト以前のものは多少は眉唾なんですけどね。
>また史書などではイラン風にパディシャーの呼称も用いられています。
現代トルコではオスマン帝国スルタンのことは一括して「パディシャー」と呼ぶようです。
>ハーン号を名乗る根拠
まあ、オスマン家はもともとトルコ系遊牧民族の氏族長だったらしいから。
シャーとハーンを併用して名乗る例もあったはず(スレイマン・シャー・ハーンとか)。
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