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さすがに九州ではなぁ…。
3千で6万に勝っちまうんだからスゲーよな。
大河ドラマとかになってもおかしくないくらい立派な生涯だけどなあ
まあ朝鮮がらみで無理だろうな
明治2年に出された「名将言行録」ではまさに最強にして最高の武将って感じに
紹介されてますね。
学生のときにこれを読んでおもいっきり心酔してしまいましたよ
これ以上ないというくらいの当時最高レベルの名将の2人の父を
持ちながら、それを超えるような人物に育った。
そのプレッシャーを跳ね返した才能と胆力たるや、
それだけで尋常なないと思う。
浪人になって台所は苦しいのに、いかにも金に苦労した事のない
お大名なんだなって話があったり。
>>22
基本的に宗茂は日々の暮らしぶりでは贅沢をしない質素な生活を
送ってたようなのですが、金銭感覚はかなり欠如してたようですね。
宗茂は合戦時に要求以上の兵力を無理して出す人だったので朝鮮への
再出兵(慶長の役)の際には出兵費用が不足していた。
この時はそれを見越していた家老の小野和泉が賄賂(結構ダーティ)で溜め込んでた
金を全て献上して出兵費用に当ててますね。
柳川藩主に返り咲いたとき、当時の柳川には金がなかった。(前任の田中家は大阪の役の際
出兵費用がなかったことが原因で改易)しかし宗茂は蓑踊り等の悪政は一切行わず
近隣の大名達からかなりの借金をすることで政治基盤を整え、また田中吉政が行ってた政治事業
(有明海の干拓や近隣の川の治水利水等)を引き継ぐ形で徐々に財政基盤を作っていくのですが、
島原の乱のとき、出兵費用の不足から幕府に5万貫もの借金(諸大名への借金も5千貫ほど残ってた)
をしちゃいます。
しかし島原の乱に参加した諸大名たちはその多大な負担から幕府にたいして色々抗議したのですが
宗茂は「安楽な日々が続くと武士の行状も次第に悪くなるので、それを正すためにも賊たちには
せめて1,2年は持ちこたえてくれよとさえ思っております」と家光に対して言ってみせたそうな。
正に根っから武人という感じなのですが、跡継ぎに借金を残して亡くなることになっちゃったようですね
宗茂が晩年立斎と号してたころに「立斎公御話之覚」という29ヶ条の遺訓(実は8つしか知らないが)
というのを残してるんですが、これを読むと宗茂の人柄がうかがえますね。
簡単に訳したのを挙げると
1、我らが再び柳川の地を拝領出来たのはまことに奇跡的なことであり、徳川家へその恩に報いる
ためにも参勤交代は1日も送れず、軍役を与えられたときは精勤しなければならない。
1、戦いは兵の心が一つにまとまらなければ、大人数でも勝利できない道雪以来我らは少人数でも
勝利を得ることが出来た。これは心が一つにまとまっていたからであり、そのためには日ごろから
部下をいたわることが大事であり、それだけでも身を捨てて働いてくれる。これは大将のみならず
上に立つものの心得である。
1、大将はいつ死んでも良いように平時から心がけておかねばならない。
1、農民は国の資本である。仁政を施せばよく働き、悪政で難儀させれば働かず余計に貧窮させよう。
民衆が富めばさらに収穫を得ようと田畑の手入れをし更に富むことが出来るだろう。
しかしながら富める者はえてして贅沢になるので、万事質素を宗とすべきである。
続く
確かに武人だね。
逆に「もったいない、もったいない。」と戦場で矢玉をケチる
指揮官という方が気持ち悪いw。
優秀な指揮官には優秀な事務方も必要だってことだろう。
修正
1、我らが再び柳川の地を拝領出来たのはまことに奇跡的なことであり、徳川家へその恩に報いる
ためにも参勤交代は1日も遅れず、軍役を与えられたときは精勤しなければならない。
続き
1、徳川の世が栄えれば世の中は次第に華美になり、おのずから出費もかさんでいくだろう。
藩士の数に増減がないように心がけよ、新たに俸禄を与えたり加増する場合は誰にも
与えていない土地を与え、褒美としては裃を授け特別の場合は刀や盃を与えよ、ただし
華美な褒美は授け続けると継続して恩賞を与えられなくなる。また国が困窮すれば治乱
いずれにおいても対処できなくなる。
1、賞罰は正しくしなければならない。もっとも賞は重く、罰は軽くせねばならない。
そのように心がけいても罰は重くなりがちである。
1、世の中は安泰になり、とかく贅沢になっている。藩士たちも衣食住が華美になっているので、
我が藩では出来るだけ質素にして軍役の心がけを怠らないようにしなければならない。
1、譜代の家臣はことさら大事にしなければならない。数多くの激戦の中でとかく大事にしてた
家臣達が命を賭して働いてくれた。これは普段から大事にするように心がけていたからである。
そのように心がければ、一生を全うできる。
穿った見かたをすると結構打算的に見えるとこもあるのですが、やはり良い君主であったようですね
残りの21か条を知ってる人がいたら教えて頂きたいです。
徳川幕府ただ一人の例外中の例外。
・秀吉からの「東の忠勝、西の宗茂」と称されて両者面会
・朝鮮出兵での圧倒的活躍
・島津が大友攻め間近で最後の父紹運との連携で秀吉九州入りまで粘り続ける。
・関ヶ原で父戦死の仇ともいえる旧敵島津義弘の敗走をみかけるも
恨むどころかともに助け合って帰ることとし義弘大感激
・敗れて浪人になっても是非うちに来てくれと大人気
・奥さんが立花道雪の娘でゲームに出たり
>>27
西軍で浪人からの復活ってことなら丹羽なんかもそうじゃなかった?
旧領に戻れたのは宗茂のみだけど
・立花城で50日にも及ぶ篭城で精神的に疲弊しきって当然のところを、
撤退する未だ数万の島津勢をわずか1500で追撃。
わずか3日で父紹運の所領を全て取り返し、秀吉に「第一の功」と賞賛される。
今日立ち読みした学研M文庫の小説だと、かなりそっちも持ち上げられてたけど
何人も小説を書いているが、宗茂については童門<<<八尋だと思う。
俺だけ
ヒゲはいやだー!!同年代の幸村・政宗とえらく年齢差が生じそうで怖い・・・。
やっぱり颯爽とした好青年って感じがいいな。
髭の無い関羽や張飛を想像してみよう!
もうプゲラッチョって感じだろ?
同年代の奴らに差をつける絶好のアイテムだよ!
宗茂の幼少期(7~12歳頃)のエピソード
道雪からの試練(よその家の子供にやることじゃないと思うが)
1、鮎をむしって食べてたら、男なら頭から丸かじりにして食えと言われる。
2、山道を道雪の一行と同行中、栗のイガが刺さったので抜いてくれる
ように頼むと由布雪下(道雪の腹心)に逆に押し込まれた。
3、立花山城に来たとき丁度罪人の処刑をやっておりその一部始終を
見せられる、このとき宗茂は全く平静なままであったという。
4、道雪に弓を引いて見せるように言われるが、「これは弱い弓なので一番
強い弓を貸してください」と自ら頼み、その弓で4回射て3度的に当てて見せた。
高橋家内
1、芝居見物に行ってた折、その場で喧嘩がおこり、家臣たちから危険なので
離れるように言われるが、「彼らとはなんらの関わりもないので我らが慌てる
必要はない」と言い、芝居が終わるまでその場を動かなかった。
2、高橋家臣の萩尾大学が罪人を誅殺してきた折、宗茂はどのようにやったのか
大学に尋ねたところ、大学は「通り抜けざま後ろから斬りました」と答えた。それ
を聞いて宗茂は「それはうまいやり方だ」と褒めたが、近くで聞いてた者たちは
「後ろから斬るなど、卑怯ではありませんか」言ってきた。しかし宗茂は「役目
に対してわざわざやりにくい方法を取って仕損じる方が不忠となろう」と返した。
3、同年の子供達と遊んでいたところ、野犬に襲われるが、宗茂は峰打ちにして、
犬を追い払った。そのことを聞いた紹運に「なぜ斬らずにわざわざ峰打ちにし
たのか」と聞かれると宗茂は「太刀とは敵を斬るものであり、犬畜生を虐るもの
ではありません」と答え、その器量の大きさを感じた紹運を感動させたという。
凄い子供だなw
的な活躍のほうに本当の凄さを感じるだよな。
関が原で西軍について大阪決戦主張した上、改易された人間が、大阪の役で
秀忠の参謀的な役になった上、秀忠、家光二代に渡って相伴衆(将軍の相談役
みたいなもの)を勤めるってのは常識では考えられんことだと思うし
秀忠に猛妻の手なづけ方を相談される宗茂。
宗茂「ウッ…」
>>70
そもそも浪人時代、最初京・伏見にいた宗茂が江戸に行ったのは丁度ギン千代が
亡くなった頃なんですよね~
個人的解釈では徳川と豊臣の決戦の際即大阪に馳せ参じるため付近にいたの
だと思うんだが彼女の死で吹っ切れて時勢を読み徳川に仕える気になったん
じゃないかと思うんだがどうなんだろうね?
ちなみに別の考えだと大阪の役のとき秀忠の傍近くにいたんだからやろうと思えば
いつでも秀忠を殺れたわけで、そのタイミングしだいでは豊臣家に大逆転勝利をもたらす
こともできたかもしれない。
つまり徳川家に仕えてその信頼を得ておいて土壇場で裏切るという壮大な策略をもって
江戸に行ってたとしたらほとんど成功してたんだよなあ
・・・まあ当然そういうキャラじゃなかったねw
宗茂ってさ、闇千代との確執、浪人後の陰で辛苦する家臣を前に大名気質、
ってのがなければほとんど完璧超人?
大名気質っていくか
例えば干してある米を雨がふってるから中にいれたらいいんじゃないか?
って普通にわかったけどあえてとりこまなかったってみたいに
家臣がのぞむ殿様を演じてるところがあると思う。
もちろん世間知らずも多分にあるとは思うけどね
それは小説での解釈なのでわ?
実在した宗茂は普通に気にも留めてなかったっぽい
西軍諸将が次々に東軍に帰順する中で、大坂城での徹底抗戦を主張したり、
領国柳河で鍋島・黒田・加藤らの大軍を迎え撃ったりと、あくまで武人の
意地を貫こうとする所が格好良い。
帰路で一緒だった島津へのはからいも忘れないで
立花家は家臣にもなんらかのエピソード持ってる人多いね
由布雪下 : 栗のイガを挿し込む。自分の知行を削って小野和泉を登用
小野和泉 : 賄賂で得た金を出兵費用に。戦のたびに傷が増える
薦野増時 : 晩年黒田家に仕えるが墓は道雪の傍に
米多比鎮久 : 朝鮮で親子の虎を撃つ、改易後も闇千代に仕える
十時連久 : 戦場で必ず一番槍を取る
十時連貞 : 虚無僧の姿でならずもの3人を瞬く間に斬る
立花統春 : 加藤家から逃れてきた罪人を匿って切腹する。
戦歴や戦才なんぞ全てにおいて宗茂が勝っているのに・・・同い年でもね・・・
知名度だけ低いから信長の野望でもただの戦武将に・・・(泣)
だから信繁と宗茂のステータスを必ず交換していますわ
>>207
>真田のアレより知名度が低い宗茂が可哀相なくらいだ・・・
>戦歴や戦才なんぞ全てにおいて宗茂が勝っているのに・・・同い年でもね・・・
とはいっても宗茂は大阪の陣じゃ東軍諸将の一人に過ぎないから、
東軍を潰走させた信繁とじゃ、自ずと差が出るんじゃないか?
宗茂の方が好きなんだが、信繁を貶めるのはイクナイと思う。
>>214
何も大阪の陣だけで判断する事は無いでしょうに。
少なくともkoeiのゲームに関しちゃ、
一本売れる小説が出て、ついでに大河化されて、
知名度上がって無茶苦茶強いという印象が一般に浸透したら
真田の倅と同じくらいになるでしょうな。
でも一般人でも知ってるような代表的な戦、
というのが無いのが少々痛いか。
早く第二集団から抜け出て欲しいもんです。
光栄ステータスだからしょうがない。
歴史シミュレーションが他メーカーからも出れば、状況は変わるんだが。
宗茂は個人的には、ややマイナー位の方が嬉しい。
ここまで非の打ち所の無い完璧武将だと
逆に人間味が薄くてドラマにならない
古来より日本人に人気のあった
源義経、楠正成、真田幸村、赤穂浪士なんか見ても
実力、実績よりも一瞬の華々しい活躍と物悲しい最期を迎えた悲劇性が重要
>>224
>>実力、実績よりも一瞬の華々しい活躍と物悲しい最期を迎えた悲劇性が重要
そのへんは親父や従兄が担当してるから
宗茂のばあい誇張じゃなくてそうなんだからいいじゃないか
そこまで宗茂も完璧じゃないよ。
浪人となっても大名気質がぬけなくて追従してきた家臣に苦労はかけてるし、
誾千代との確執はドラマの題材としては悪くないし。
ただその反面で美談も多くて、やっぱり完璧超人っぽく感じさせてしまうんだろう
けど……
>>229
でも何か主人公にしづらいキャラだと思う。
「不器用な天才」っぽいのが。
ノブヤボ革新での宗茂
重秀194
いったい何がおこったんだ・・・。
長尾為景より武田信虎の方が評価されるべき
幸村もそろそろ勘弁してほしい
ちなみに10位が190の柴田勝家だけど、11位が高橋紹運、武田信虎、吉川元春の
3人が189となってた。
だから戦闘力の上位者のほとんどが上杉武田と大友島津の武将で占められてることになる。
キリシタン疑惑とか、誾千代さんとの家庭内の状況とか、
記録がいっぱい残ってる割にはプライベートは謎多いよね。
>>286
姓=吉弘・高橋・(戸次)・立花
幼名=千熊丸
通称=弥七郎
名=統虎・宗虎・正成・鎮虎・信正・
親成・尚政・俊政・経正・宗茂・政高
号=立斎(りゅうさい)
左近将監・従四位下 羽柴柳河侍従・飛騨守
確かに変えすぎだね。
ちなみに宗茂という名は1609年頃に名乗ったらしい
小早川秀包と宗茂は接点が多いね
1、二人とも1567年生まれ
2、秀包の実父が毛利元就(71歳の時の子)で養父が小早川隆景(異母兄でもあるが)
と双方実父と養父が名将
3、秀包の奥方は大友宗麟の娘、宗茂の叔母と妹が大友義統、義乗にそれぞれ嫁いでる
4、秀包が久留米13万石、宗茂は柳河13万2千石と隣国で同程度の石高
5、肥後一揆、文禄の役、大津城攻め等で一緒に戦ってる
キリシタンかどうかは別としても仲良くなる要素は多いかと
淀真田伊達立花な。
堅物な本人としては、豊臣から天下を奪った徳川に仕えて本位だったんかね。
本意じゃない?関ヶ原で西軍についてやったんだから
だからじゃないの?信繁は最後まで西軍に忠誠を誓ったし、
兼続が大阪の陣で東軍についたのは家のためしょうがなくだし。
どう考えてもめんどくせえ事はみんな兄貴におしつけて暴れまわることを選んだとしか…
それと家を中心にうごくのは扱く当然のことだよ
それは恩義とかとは別のことなんだよな
でも、恩義を選び家を無視したために関が原のあと立花家が潰れて宗茂改易されてるじゃん。
信之の方が優秀なのは間違いないが
無職の自分を当時の将軍様が拾ってくれて、しかも大名にしてくれたりして
厚遇してくれるんだから、心境は徳川>豊臣になるのは至極普通だと思う
でも前田からの仕官の誘いは蹴ったんだよな
やっぱ大名であることに拘ってたんかな
>>695
それ、無色になった原因も徳川だろ。マッチポンプじゃん。
まあ、とある歴史小説だと、あくまでも豊臣に忠誠を誓ったのであって徳川が嫌いなわけじゃないっていってるけど。
関ヶ原の後、柳川に戻った宗茂は徳川に対する恨みなんて全くなかっただろう。
それに対して豊臣方には全く失望して、恨みの念すら持っていたかもしれない。
というのも、関ヶ原の後大阪城に入った宗茂は、篭城戦を主張し秀吉の恩顧に答えるべく
最後の一兵まで戦うつもりでいた。
しかし、大阪方は全く戦意なく今頃になって和睦しようとしており、必死で戦った自分達
は一体なんだったのだろう?といった感じてむしろ豊臣に騙された裏切られたという感覚
だったのではないかな。
また、秀吉から与えられた所領を全てなくし、立花家の存続すら危うくした時点で、秀吉
に対する恩義は全て清算したというのが宗茂の考えで、彼自身徳川家にそう語っているね。
そして、一旦白紙の状態になって今は徳川家に見込まれて自分は仕えているのだから、
今度も豊臣家の恩顧に全てを投げ打って報いたように、徳川家の為に全てを投げ打って
仕えていく所存です、と語ったている。
この言葉には、徳川家の人々も感動したそうな。
きちんと、筋道を通した生き方だと思う。
でもやっぱ返り咲いたって点が宗茂の最大のポイントだから今以上にマイナーになってるか。
>>701
徳川方で働けば戦後旗本昇進
豊臣方で働けば長宗我部盛親くらいの扱い、戦死するか戦後に処刑
って所じゃないかな
それか、大坂の陣の前に、加藤か細川あたりの部下になってるか
確か大坂の陣の時は秀忠の参謀的な立場にいたんだっけ?
698の逸話おかあって、徳川に結構信頼されてたみたいだね