果たしてどっちが上?
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逃げ足は秀久のが早い
かみさんは宗茂のが怖い
運は秀久のが良い
あれ互角じゃね
タイ捨流とか鬼畜すぎんぞ
信長家康は仙石のほうがよく見えるんじゃない
部下とどこの誰かも分からん奴、関が原で味方する奴と張り切ってる敵だもの
宗茂>>>越えられない壁>>>仙石だな。
関ヶ原大遅参の原因を作った仙石と大阪の陣の秀忠軍総参謀長宗茂
格が違いすぎる。
>>17
更に宗茂は島原の乱にも参陣してるからな
人間的な魅力も宗茂が圧倒的に上だな
>>17
関が原遅参はいまだ確定の説は無いのに、確定してるかのように原因を仙石に押し付けるな
あと実力なら不等号に異論はないが信頼度ならそんなに差はないと思う
仙石は秀忠からも結構良い扱いうけてるしな
マンガ化されてるし
一般的な知名度は秀久>宗茂になってるだろ
戦国時代好きならもとからどっちも知ってるだろうけど
スタート地点が割りと良いんだけど大して出世しなかったからな
能力的にはかなりのものがあるだろうが地味だし
島津に対して大勝利とか、関が原で主力として西軍勝利とかあればなあ
それに悪いように見れば
関が原後軍を率いていながらあっさり帰って行き
途中で親父の敵も取らず
抵抗もせず所領を召し上げられ
徳川に忠節を尽くす奴だからな
十河、長宗我部勢らの方面指揮官になれたものを・・・
能力があるのは大谷吉継とかかな
仙石は実戦で殺し合いして武功を上げたタイプだから
実戦形式でやりあったら圧倒的に仙石が有利だな
ルール決めて試合形式なら圧倒的に宗茂なんだろうけど
家臣に譲って勲功にさせるくらいだぞ
実戦で仙石ごときに引けをとるとは思えん
その内泥水でも啜る仙石が意地汚さで勝つ
つまり真正面からじゃどうあがいても勝てないっていう
逃走術と頭の柔軟さだけは秀久だとおもうぞ
戦場で鈴付けて目立とうとしてまで武功あげてでも復権しようとしてるだろ
宗茂は改易されても何もしなかったぐらいだ
部下に養ってもらって生活してるいかにもボンボン育ち
秀久は小豪族生まれだから生活にはハングリーなんだとおもう
そのせいでお家第一で仙石家の敵になるなら息子でも容赦ないからなあ
何もしなくても周囲が放っておかなかった宗茂の人望のがすごい
確かに
関ヶ原の敗戦大名で再び大名に返り咲けたのは宗茂だけだし
しかも旧領の柳川を与えられてだからな
丹羽長重も西軍で改易、復帰もほぼ同時だけどね
正しくは旧領に復帰したのが宗茂だけ
40~50万石のチャンス蹴って改易だから西軍に付いたのって大失態だよね
まぁそれは宗茂の生き方の問題だからな
40万石とか法外すぎる
輝元みたいに恩賞反故にされたろう
>>54
終始東軍なら能力的に見ても相当の加増があるだろう
浅野、黒田、福島、池田あたりを見る限り40万石も十分ありえると思う
反故にされたのは毛利や伊達なんかの動きがあやしい連中じゃないか
家康は宗茂を褒めたと同時に「だからこそ宗茂には15万石以上は絶対にやってはいけない」と
秀忠に釘を刺したそうだ
じゃあ余計駄目じゃねーかwwwwww
島津相手に篭城で耐え切るは、引いたと見たら父の岩屋城を奪還した宗茂
では比べようがない
相手も違うんじゃないか
仙石秀久が相手にしたのは兄弟一の軍略家、島津家久だし
十河、長宗我部にしても自分らは何も得しない、この遠征にやる気があったのかどうか
日本一の兵、真田を相手にして関が原に遅刻した仙石
まあ、実際に会った事も無い俺たちが言うより当時の人たちの方がよくわかってるだろう。
実際に接した大名や武将の記録では仙石の評価は褒める所もあるけど、ダメな所も多いって
感じだけど、宗茂の記録は全て褒め称えるものしかない。
つまり当時の大名や武将は仙石より宗茂の方が優れていると思っていた。
個人的には仙石みたいな生き方も嫌いじゃないけどね。
関ヶ原後に豊臣家から2万石でリクルートしませんかなんて勧誘受ける部下をもつ宗茂と
本人以外、名のある部下がいない仙石じゃ、比べるのもかわいそうだよ。
如水から懇望された菰野とか清正からぜひ当家でと勧誘された小野とか、豊臣から2万石
でと打診された十時摂津とかの上に宗茂が君臨してるんだから勝負になりゃしないよ。
そこまで勝ってて所領の石高があんまり変わらないってのなあ
最大時 立花13万石 仙石10万石
秀久死去時 立花2万5千 仙石5万7千
仙石のゴマすりがうまいって言うかも知れんが、立花下手すぎじゃね
>>77
吉川弘文館の文献によると立花の柳川返り咲きに関して、宛がわれた
知行11万石 幕府指定で雑収入は石高に加えないよう釘を刺される。
その指定に基づき家臣に知行を分配した結果、蔵入り地はわずか7000石。
しょうがないので、雑収入を除いた状態で再検地したら、蔵入り地が6万6600石
に増加、つまり11万石だよと支給された領地の実高は、約18万石だったわけ。
しかも雑収入はカウントしない状態での18万石だから、実質は・・・・
まあ、これも前領主田中さんの新田開発のおかげなんだけどね。
秀吉時代の13万2千石も実際はもっとあったらしい。
検地方法の違いで差が出たようなんだけど、何故かあの三成と増田
長盛が目をつぶって13万石ってことにして没収されなかったみたい。
朝鮮出兵の際、本来加増されるべきものを、全く加増されなかったから、
こういう特別措置をしたのではないかと、人物業書では書かれてたな。
後藤又兵衛を温和なお坊ちゃんにしたような
>>88
関ヶ原前は、小早川隆景と義理の親子の関係を結び、秀包とは義兄弟というわけで
毛利ファミリーの一員だから、総長のテルが「秀頼様のために家康、ぶっ殺す」
ってぶちあげたら否やは言えないわな。
しかし関ヶ原後は、政治力に覚醒した感じじゃない。
「太閤様に取り立てられた自分は家を潰しても太閤様の恩に報わざる終えない。
その結果、関ヶ原で浪人したが、再び徳川様が取り立ててれたので、このご恩に報いる
為に粉骨砕身する」
と言って豊臣恩顧の自分が徳川に乗り換えるのを正当化したくせに
「関ヶ原では、東軍諸侯の首を一つ一つ刎ねて、大御所様の御首を頂戴するつもりでした」
と恐れげもなく言い放って、徳川に尻尾振って取り立てられた野郎なんて陰口、封じ込めてる。
正宗が秀忠に食膳を自ら給仕した時に、毒味、毒味と騒いだ幕臣と大悶着、起こしたときも
秀忠に随伴していた宗茂が
「正宗さん、腹が空いたんで飯、食わせてくださいよ。美味そうな飯が冷えちゃうじゃないですか」
って言って場の空気を和ませたり。
島津悪久が「俺、伊達のじじいに切れそうっすよ。謀反人、謀反人って言われて」と相談されたのを
「俺っちがマジ謀反してたら、伊達の兄貴が俺っちを絞めに来るわけで、その時はガチの殺し合いになってましたね。良かったすね。俺っちが大御所様に詫び入れて」
とか言わせたり、なかなか政治力があると思うよ。
>>89をみると毛利ファミリーとあるが、もともとは敵だよねえ
義兄弟の関係だけど、 実際婚姻関係ないから、仲いいけどファミリーとはちがう。
それに、小早川と、であって
毛利とではないから、命令される謂れはない、関ヶ原の戦いで従ったのは、
輝元が総大将だったから。
関ヶ原の戦い後、大阪城で戦うべしと
輝元に進言しても、やる気の無い態度に
呆れてサッサと国元に帰ってるしね。
ようなタイプじゃない。
戦術以外にも人としての有り方や政治的な駆け引き、領国経営なんかも当然教えてる
だろう。
でなきゃ細川、小早川、黒田etcと言った頭のキレる連中と仲良くなんかなれない。