まずは簡単なのから
●蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。蜀の五虎大将軍筆頭。
>>3
正解!
次
●もともとは公孫瓚の部下であったが、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、○○も随行して劉備の主騎となった。
>>7
正解!
次
●208年に曹操が荊州を攻めた際に、趙雲に救われて九死に一生を得たが、劉備に「大将を失うところであった」と投げられた。
>>10
正解!
次
●諸葛亮の北伐にも従軍し戦功を挙げた。特に○○の名を高めたのは街亭の戦いで、○○は諸葛亮から馬謖軍の先鋒を命じられ、馬謖が山上に布陣しようとするのを何度も諌めた。
>>12
正解!やるな
次
● ○○は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。
184年、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、皇甫嵩や朱儁とともに黄巾軍に大勝し、その功績によって済南の相に任命された。
袁紹か?
>>15
正解!やるねえ!
次
●関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大した。
出て欲しい??
>>20
正解!
次
●曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れ、○○軍もやはり徐栄に敗れたが、曹操が兵を補充しに戦線を離れたのに対して、○○は袁術の支援もあって即座に再起し董卓軍に挑み続け、初平2年(191年)の陽人の戦いで○○は敗残兵を集めて、梁県の陽人に駐屯した。
>>24
正解!おまえら詳しいな
次
●剛勇をもって知られる。最初に丁原に仕えたが彼を殺害し、後に董卓に仕えるが、やはり殺害して放浪した。最期は曹操との戦いに敗れ、処刑された。
>>26
正解!
マイナーな奴把握した
次
●劉表の命令を受けた劉備が曹操の留守を狙って葉県へ侵入すると、○○は于禁・李典を率いこれを迎撃した。劉備は屯営を焼き払って博望に撤退した。
李典は「伏兵があるので追ってはいけません」と諌めたが、○○はこれを聞き入れずに追撃した。案の定伏兵の攻撃を受けて危機に陥ったが、李典に救出された。
違うぞ
>>42
正解!
次
●曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。通説では建安21年-22年(216年-217年)に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われる。争いの最初は○○が優柔不断で対策がなかったが、部下が考え出した策によって優位を取り戻した。
へー夏候惇そんなヘマやらかしてたのか
そういうのは夏侯淵と夏侯楙だけだと思ってた
>>45
正解!
次
● ○○(147年 - 223年、建和元年 - 黄初4年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。涼州武威郡姑臧県の人。董卓・李傕・段煨・張繡に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり重臣として活躍した。
カク
変換できねえ
知力はかなり高いやつ
すまんうんこしてた
徳川家康
漏らしてないから違うぞ😠
カク正解!
次
●父が羌族との混血であったため(『典略』)、この血を引いている○○も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。
関中の独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に曹操に反乱を起こして敗れた。一族も勢力も失い流浪した末、益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。
馬超か
>>64
正解!
次
●『三国志』の撰者陳寿は、○○の廃嫡問題が呉の滅亡の遠因になったと評しているが、注を付けた裴松之は、それに反論し、
「○○は罪ない息子を廃して、乱の兆をつくったとはいえ、国の滅亡は、もちろん暴虐な孫晧にその原因があったのである。もし○○が孫和を廃さなかったなら、孫晧が正式の世継ぎとなって、結局は滅亡にいたったのであって、事態に何の違いがあったであろう。」と述べている。
>>70
正解!
次
● ○○(? - 219年(建安24年))は、中国の後漢末期の群雄である。
重臣の中には野心家の張松・法正・孟達らがいて、彼等は既に○○の下では出世が覚束ないと考え、これを見限り劉備を益州の牧として迎えるべく画策する。
>>75
正解!
おまえら早すぎ三国志博士かよ!
次
● ○○(178年 - 219年)は、中国後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。
『三国志』の著者である陳寿は評の中で「○○は勇敢であり、謀をよく巡らして決断力があった。軍略の何たるかをはっきり理解していたのである。郝普を欺いて関羽を捕らえた事は、その最も妙なるものである。」と評している
>>79
正解!やるな
次
● ○○(170年代後半 - 221年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。
その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。
>>83
正解!
次 ちょっとむずかしめ
●陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。
みな○○を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。
>>91
正解!意外と簡単だったか
次
● ○○(172年 - 217年)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子敬(しけい)。徐州下邳国東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。
袁術・孫策・孫権に仕えた。赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論を唱え周瑜・孫権と共に開戦を主張した。
● 〇〇(? - 231年(太和5年))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。
231年の第四次北伐で諸葛亮が指揮を執る蜀軍が祁山に進出し、〇〇は詔により諸将を督し略陽に到着すると、諸葛亮は祁山を保持するために軍を還した。〇〇はこれを追い木門に至ったところで諸葛亮軍と交戦になり、矢を右膝に受けて戦死した。
明帝と陳羣は、歴戦の名将である〇〇の陣没を大いに悲しんだという。壮侯と諡号が贈られた。
>>106
チョウコウだな!
次出すぞ
●孫堅が反董卓の連合軍に参加した際、彼の息子孫策の名声を聞いた○○は寿春に赴き、孫策と面会した。同い年の両者は親交を結んだ。
孫策に舒への徙居を勧め、孫策はこれに従った。○○は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。
>>117
正解!
次
●建安5年(200年)、それまで睨み合っていた袁紹・曹操がついに対決した。開戦に際し、沮授が「○○は偏狭なので単独で任用してはいけません」と諌めた。
違うぞ!
>>129
正解!
次
● ○○(? - 218年)は、中国後漢末期の武将。
○○は驍勇果断で名を顕したと評している一方で、張遼や徐晃のようにその評判を裏付ける詳細な記述が無いのは、記録漏れがあったからだろうと述べている。
『魏書』は、○○が行軍の中から抜擢され、佐命立功して名将となったことを、曹操の人物眼が優れていたことの例えとして挙げている。
楽進
>>135
正解!やるねえ
次 ちょっと難しめ
●後漢の霊帝の時代、西園八校尉の一人として左軍校尉を務めた。霊帝の死後は少帝弁に仕えたが、董卓の専横が始まると中央から逃れて、袁紹配下の武将となる。
○○は兵糧輸送の任務を袁紹に命じられ、督将の眭元進・騎督の韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を率いて烏巣に駐屯した。
ところがその警備体制は充分ではなく、このことを離反した許攸が曹操に密告したため、曹操は○○の陣を急襲してきた。
>>144
正解!
次
●辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。
霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買った。
>>147
董卓正解!
次
● ○○(? - 212年)は、中国後漢末期の武将。
211年3月、馬超は韓遂らを誘って曹操と敵対(潼関の戦い)することを選び、7月から曹操と交戦し、9月に大敗した。馬超が降伏せず涼州に逃走したので、翌年5月に○○は三族皆殺しに処された。
>>154
正解!
次
● ○○(生年不詳 - 219年8月)は、中国後漢末期の武将。
関中軍閥の馬騰・馬超父子の配下で、曹操に敗れた馬超が漢中の張魯に身を寄せた時もこれに従ったが、そこで馬超と袂を分かち曹操に仕えた。
曹操配下として活動した期間は短かったが、その忠烈な最期を称えられ、史書に名を残す事となった。
>>159
正解!はやすぎぃ
次
●当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。
一時は曹操に敗れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。やがて自らを、帝舜の血族である陳の宣公時代の大夫の轅濤塗の末裔と称した。
>>161
正解!
簡単すぎるか?
次
●後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し、後に群雄として割拠した。河北の支配権をめぐって袁紹と争うが、劉虞を殺害するなどしたため人心を失い、最後は袁紹に敗れて自害した。
>>167
正解!
次 ちょっと難しめ
● ○○(176年 - 220年)は、中国後漢末期の参謀・政治家。
陳寿は「○○は判断力に優れ、並外れた計略の所有者であった。しかし、徳性について賞賛されることはなかった。魏臣に当てはめれば程昱・郭嘉に比類するだろうか」と述べている。
方正
>>171
正解!詳しいねぇ!
次
● ○○(183年 - 245年)は、中国の後漢・三国時代の武将・政治家。
陳寿は、「私は、○○の計りごとの巧みさを高く評価すると同時に、孫権がよく人の才能を見抜いて、 その人物が大きな事業を成し遂げられるよう取り計らってやった事にも感嘆する。○○は忠誠を尽し、国を憂いて身を亡ぼすことになったのだが、ほぼ社稷の臣といえるだろう」と評している。
>>177
正解!
次ラストで!
●小説『三国志演義』では、初めは荊州の劉表配下の親劉備派の将軍として登場する。
韓玄のいる長沙には、劉備の命令を受けた関羽が攻め込んでくる。○○の同僚黄忠が関羽との戦いで韓玄に内通を疑われ、処刑されそうになると、○○は民や兵士を扇動して韓玄を斬り、城を開けて劉備に降伏している。
>>181
魏延正解!
続きやるなら誰か出して良いぞ!
いちさん乙でした
○(221年 - 278年)は、中国三国時代から西晋にかけての武将。母は蔡邕の娘。
司馬炎(武帝)は、○を都督荊州諸軍事に任命した。赴任した○は民を慰撫し、呉の降伏者にも寛大な態度で臨むなどしたため、漢水の畔周辺や江夏において人心を得た。また、八百余頃を開墾して「十年之績」と呼ばれるまでの蓄えを確保するなど、内政・民政に手腕を発揮した。一方で、呉が何度か襄陽へ侵攻したため、計略を巡らせて呉の石城の鎮守軍を撤去させるなど軍略にも余念がなく、後に車騎将軍まで昇進した。任地では鎧を着けずに軽装で出歩くのを好んだ。
ようこ
正解!
196年、24歳の時に◯◯は許に来てから、名刺を持ったまま誰とも面会しようとしなかった。ある人が「なぜ陳長文(陳羣)や司馬伯達(司馬朗)のところへあいさつに行かないのか」と尋ねると「卿は豚殺しや酒売り(のような卑しい連中、の意)のところに私を行かせるつもりか」と断った。また「今の許で、一番ましなのは誰か」と訊かれると、「年長者では孔文挙(孔融)、年少者では楊徳祖(楊修)がいる」と答えた。さらに「曹公(曹操)・荀令君(荀彧)・趙盪寇(趙融)は皆、世に抜きん出た人物ではないか」と畳みかけられると、○○は「曹操はそんなに大した人物ではない」と答えた。さらに「文若(荀彧)は弔問に行くのが、稚長(趙融)は厨房で客を接待するのがお似合いだ」と言った。
つまり、荀彧は見てくれだけだし、趙融は食いしん坊のデブだという意味である。人々はこれを聞いて切歯扼腕した。つまり人々の憎しみを買ったという。しかし、その言動のおかげか、○○は許で一躍名士となった。
せいかい
151年 - 230年
離縁した妻と復縁することを曹丕から命じられたため、憤激して自害しようと山椒を目一杯喰らって咽喉に支障を来し、口が利けなくなったともいう