戦国大名の武田信玄(晴信)が、腹心だった弟・信繁(左馬助(さまのすけ))に宛てて書いた直筆の書状が、長野県の旧家で見つかった。
信玄の直筆書状は、全国でも数点しか確認されておらず、信繁宛てのものは初めて。
書状は、縦24・2センチ、横31・2センチの大きさで、末尾には「八月十日」の日付とともに、「晴信」の署名と花押が記されている。
鑑定した武田氏研究会の平山優副会長によると、書状は「天文23年」(1554年)に書かれたものとみられ、
信州の小諸城(長野県小諸市)の攻略を狙っていた信玄が、信繁に対し、親族や家来を束ねて戦闘準備を整えるよう指示した内容。
長野県の旧家に掛け軸として残されていたが、墨の濃淡やくせ字の書き方などが信玄の筆跡と完全に一致し、本物と確認された。
憲法9条がまだなかったからね
ダンジョーに送ったラブレターと筆跡が同じだったんじゃね?
ラブレターじゃなくて浮気してごめんなさいもうしません、の詫び状だろw
息子は勝頼だろw
真田の方だろ。
つ真田信繁
でも家康をもう少しで仕留めるとこまで行ったのは真田信繁本人だよな
川中島で討ち死にが恥ずかしい死に方?
突然現れた上杉軍に突撃して本陣の立て直す時間を稼いでる>信繁
だから死後もその死を誰からも惜しまれた
小諸城って言ってもお城跡を公園にしただけなんで、門と堀ぐらいで見る城的なもんは無いぞ
散歩するには良いところだけどね
兄の武田信玄を支える弟という武田信繁にあやかって、真田もかくあるべしとつけたんでしょ。
それは既に甲斐善光寺の宝物館で定期的に展示されるので見ることができる。
長野の善光寺じゃなくて、山梨県甲府市にある方の善光寺だから間違えるなよw
おくる相手と内容により、直筆、代筆に花押だけサイン、全部任せるを使い分ける。
だからこそ直筆の書状は少なくて貴重
祐筆にさえもらしたくない内容の部分だけ直筆にする事もある
まちがいがないように公式文書は右筆に任せるけど、
それ以外は人によってさまざま
武田は古くからの家で教育も受けてるから、こういう身内宛の文書は自分で書こうと思えば書けるんじゃね?
成り上がりで字が書けなかったら無理だけど
武田信玄は直筆がかなり残ってる
直筆が非常に多いのが毛利元就
二人ともかなり筆まめで内容は繊細で神経質っぽい
伊達政宗の手紙だと明らかに本人しか書けないワイルドな内容が目白押し
身内宛は直筆とされる手紙が多い
特に身内の女性へは平仮名で書かれている事が多いので、当時の地名や人物名を
知る貴重な資料になってるそうです
琵琶湖の広大な農地を持ってた勢力と
力量拮抗してたっとか正直信じられないんだが
武田領は広かったのと金山や森林産業があったから金は比較的もってた
まぁ琵琶湖も今みたいに干拓される前で、安土城も湖に浮かぶ状態だったから
今のイメージでは語れない
近江は太閤検地77万、慶長郷帳83万で関東平野の武蔵1国とほぼ同じ
更に京への商いへの道(陸水)で今とは比べ物にならない商業地
金山がなくなると同時に滅びるって、ゴールドラッシュ成金の奥州藤原氏みたいだな。
ローマ帝国もラス・メドゥラスの金山が枯渇して衰亡したと言われているしな。
勝頼はそこからさらに上積みして、武田の最大版図
それにしては勝頼の評価が低い。結果的に負けたからか。
信繁生きてたら少なくとも義信事件は回避されたと思う。
信玄の弟と秀吉の弟は早死にが歴史を変えた感があるね
秀長生きてたら秀次事件や関ヶ原は起きてないのは確か。
豊臣の致命傷は自分の旗本や譜代がまったくいなかった点
>>585
譜代居ないのはまあ当たり前だな
譜代が居ないから、見知ったのに色付けて持ち上げざるを得なかったんで
しかも子供も出来ずが相当苦しい
山梨に行って飲み屋でとか、あるいは山梨県人の前で
武田信玄の悪口言うと半殺し的な目にあうって本当なの?
割とマジだがどちらかというと精神的な半殺し、という目に遭う。
割とやっぱりマジなのかw
口利いてくれなくなったり挨拶してくれなくなったりとかか。
もう昔だけど、新田次郎が「武田信玄」の続編「武田勝頼」の取材に行った時、信玄の話だと思って寄ってきた人達に
今度は勝頼の話を書くと話したら「なんであんなやつを」とさっとひいてったって事があとがきにあったな
勝頼は浅慮な脳筋というイメージが地元にあるからな…
いろんなドラマのイメージに洗脳されてるんだろな
信玄より勝頼のほうが領土広げたのに
領土の大きさで武将の優秀さを判断するなら、最終的に当主になった時の領土と引退(死亡)
した時の領土の差額で評価せんといけんわな。
最大領土になった時の当主がその家で一番優秀な武将だというなら北条家で一番優秀
なのは早雲でも氏康でもなく氏政だということになってしまう。
>>292
じゃあ氏政が優秀だったんじゃないかな
武田も北条も滅ぼされた時の当主が無能というイメージは
やっぱドラマに洗脳されてるような気なするんだよね
だいたいあの時代は中央に巨大な戦力が誕生した時期で
どんなに優秀な当主でも属国になるか滅ぼされるかしかなかったよ
それじゃあ足利15代で一番優秀なのは尊氏でも義満でもなく、6代目の義教だね。
俺は絶対に違うと思うけど。
足利将軍家は知らんw
誰が一番優秀かという話じゃなくて、
こいつも優秀だったんじゃねってレベルの話です
健康不安だったからさっさと信長とケリつけたかったのと、なんとなく、若い家康を見逃してやった面もある気もする。
信玄が倒れなかったら信長との直接対決は見てみたかったな。
むしろその包囲網の盟主的存在が信玄でしょ。
信玄が上洛してきたら信長もそれどころではないとか言ってられんでしょ。そうでなくても家康を突破されたってことは、地元の尾張はすぐそこなのに。
たぶん北条攻めと同じになる
小田原城まで行って引き返したように
信玄の戦力では岐阜城で引き返すしかなさそう
たぶん中山道を飯田に向かって引き返す
信長がそれを追い、家康が北上してきて・・・
農繁期にさしかかるから岐阜落としたあたりで一旦引き返してたと思う
武田滅亡後、遺臣達を引き取ってるよね
井伊の赤備えは飯富・山県の赤備えに倣ったものだし
戦い方の師匠だろうね、信玄は
直接の原因は石川数正が寝返って軍制を改める差し迫った需要があったからだけどな
父信虎に可愛がられながらも兄信玄を立ててクーデターでも味方した
第4次川中島で討ち死にしたな
いい奴
兄弟が殺し会うのが常の戦国時代で互いにずっと仲良くやってたからな。
弟ぶち殺してる戦国大名はごまんといるからな。
たまにこういう古文書のニュースて出てくるけど、
どういう経緯で見つかるもの?
研究者が旧家を訪ねて蔵見せてくれて歩いて回るの?
そこの当主が大掃除とかで見つけて資料館みたいなところに持ち込むの?
なり地元郷土史家に連絡、あ武田家文書ですねとなり町等で吟味
10年ぐらい経つと噂を聞きつけ武田研究の有名な郷土史家尋ねて来て
発見となるんじゃないかな?ただ、昔からある武田家文書でも未だに
真贋で揉めてるけどね
戦闘準備を整えよ、って手紙書いて何日もかけて持っていったんだもんな。
今とは全然時間の流れ方が違うよな。
甲府から車で高速使えば川中島まで3時間もあれば着くよとか言われたら
信玄もたまげるだろうな。
善光寺まで上杉軍が侵攻してきたとの情報は海津城から甲府まで狼煙リレーで四時間でもたらされた
馬を乗り継いでも丸1日かかったらしい