江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を追いつめた。
この合戦に参戦した将兵による記録・証言が基となって、後世に江戸幕府・諸大名家の各種史料にその勇将振りが記録された。
それらを基に軍記が作成され講談や小説などに翻案、創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。
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クドくてうんざりした
忍者だすな侍だけを動かせといいたかった
だよね 架空の忍者が活躍とかアホかとw
忍者と言っても服部半蔵や百地丹波のこともあるし
前田慶次が大坂夏の陣や冬の陣に出てくるアニメよりかは
半分実在の人間をベースにしている真田十勇士の方がよほどリアリティがある。
武田→織田→北条→徳川→上杉→豊臣→幸村散る
顔、生き方全て。
日本文化的美学にあふれている
大坂城や上町台地、天王寺あたりまで街歩きしているけど楽しい
きっと実物もかっこよかったんだろうなあ。
嘘です
最近はかなり旗色が悪いよ
そういうことにはならない
『真武内伝附録』には「慶長二十年に書かれた幸村の署名の写し」を装った虚偽記事があるというだけで、
『真武内伝附録』そのものが偽書であるか否かの問題ではない
「我が家の土蔵で、江戸時代中期の古文書が見つかりました。
○○斎が書いた日記の一部です」と、A氏が発表した
↓
実は○○斎が書いたものではなく、
A氏の祖父が大正時代に○○斎を装って書いた文書だった
偽書とは、こういうものを言う
1615年、真田信繁が戦死
1672年頃、『難波戦記』というフィクション作品が発表される
主人公は、実在した真田信繁をモデルに創られた架空の人物「真田幸村」
作品は大人気を博す
信州真田家では、『難波戦記』の人気にあやかり、
家譜にある信繁の項を幸村へと改竄し始める
1731年、『真武内伝』成立
それから数年以内に『真武内伝附録』成立
「真田幸村の花押」まで捏造する
真田信繁の書状の原本 約100年ぶり発見
10月24日 19時33分
ことしのNHKの大河ドラマ「真田丸」の主人公になっている武将の真田信繁が、自身の老いた姿など記した書状の原本が、およそ100年ぶりに見つかりました。
真田幸村の名前で知られる信繁は大坂の陣で徳川勢と果敢に闘って敗れた武将で、NHKの大河ドラマ「真田丸」では俳優の堺雅人さんが演じています。
書状は三重県に住む男性が古書店で購入し、信繁に関する古文書に詳しい慶應義塾大学の非常勤講師、丸島和洋さんが24日に鑑定を行って、筆跡や花押、それに紙の質などから信繁の直筆と判断しました。
丸島さんによりますと、書状は義理の兄の小山田茂誠に宛てられ、書かれた時期は特定できませんが、故郷に住む人たちに会いたいという内容が記されています。
また、「去年から急に老け込んでことのほか病気がちになり、歯も抜けてしまい、ひげも黒いところがなくなってしまいました」と自身の老いた姿を嘆く様子もつづられています。
この書状は、写本が東京大学史料編纂所に残されていて、原本は大正3年(1914年)に所在が確認されていますが、その後、行方がわからなくなっていました。
丸島さんは「写本ではわからない信繁の力強い筆遣いなどから、当時の信繁の生活の様子を知ることができる。
病気がちと書いているが、字は弱っている人の字には見えない」と話しています。
大坂城に入る際のシーンのヒントに今回の書状について、鑑定に当たった丸島さんは、記された内容や花押の形などから、信繁が関ヶ原の戦いのあと14年にわたって幽閉されていた今の和歌山県の九度山にいた時期に書かれたと見ています。
今月16日の大河ドラマ「真田丸」では、信繁が九度山を脱出して大坂城に入る際に、年老いた姿に変装するシーンが放送されています。
このシーンは、写本として伝わってきたこの書状の内容にヒントを得て作られました。
丸島さんは以前、この書状を著書の中で紹介していて、このシーンが放送された日に出版社から「原本が見つかったという情報がある」という連絡が寄せられたということです。
丸島さんは「書状には、このまま九度山で一生を終えるのではないか、それだけは嫌だという気持ちがにじみ出ている。
信繁が変装しているシーンが放送されたときに原本が発見されたという連絡を受け、とても縁を感じています」と話しています。
幸村の契約金は7億5000万円? 歴史フォーラムで真田丸秘話
2016.11.26 12:25
NHK大河ドラマ「真田丸」が大坂城を舞台にクライマックスを迎える中、歴史フォーラム「豊臣大坂城と真田幸村」がこのほど、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれた。豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こして公開する豊臣石垣公開プロジェクトの一環。
詰め掛けた幸村(信繁)ファンらがメモを取るなどして、熱心に聞き入っていた。
スカウト条件「巨額の契約金+50万石の大大名」
北川央大阪城天守閣館長と、城郭考古学者の千田嘉博奈良大学教授が基調講演。北川館長は幸村関連の古文書を紹介しながら、幸村の人間像に迫った。関ヶ原合戦で敗北した昌幸・幸村父子は九度山へ幽閉された後、経済的困窮が深まっていく。
昌幸は1月5日付けの書状で長男信之に「借金もかさみ、このままでは1年持たない。早く残りの仕送りを送ってほしい」と、新年早々から窮乏を訴えていた。昌幸が懇願した仕送りは20両で、現在の金額で600万円だった。
幸村らが苦しんだのは、経済的困窮ばかりではない。心身の衰えも忍び寄る。幸村は「とてもくたびれてしまった」「歯が抜け、ヒゲも白くなった」と嘆く。しかし、大坂の陣を前に大坂城入城を決意した幸村を、豊臣秀頼は破格の厚遇で迎え入れる。
「秀頼が提示した条件は、支度金だけで黄金200枚、銀30貫。現在の金額で7億5000万円に相当する巨額の契約金で、幸村はスカウトされたわけです」(北川館長)
借金まみれで当座の生活費にも困っていた幸村だけに、大いにモチベーションが上がったに違いない。大坂の陣に勝った場合の論功行賞もすごい。秀頼は幸村に知行50万石の大大名抜擢を約束していた。豊臣方有力武将では最上位の扱いだ。
幸村に対する秀頼の信頼の高さや期待の大きさを物語る。
一方、大軍で攻め込む徳川方は、幸村をどのようにみていたのか。
「真田が大坂城へ入城したとの一報が届いた際、家康は『籠城したのは父親か息子か』と、繰り返し質した。父親はすでに病死していたと知って、家康は安堵する。家康が怖れたのは昌幸で、幸村はさほど評価していなかったようだ」(北川館長)
大坂の陣が開戦すると、家康は幸村の機略や猛攻に苦しむ。幸村軽視は、用心深い家康にとっては、珍しい油断だったかもしれない。
「真田丸」の土塁の一部か 民間団体が人工的な土層発見
2016年12月9日 17時29分
大坂冬の陣(1614年)で豊臣方の武将・真田信繁(幸村)が立てこもった出城「真田丸」の痕跡を求め、大阪市天王寺区餌差町で発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」(会長、千田嘉博・奈良大教授)は9日、
真田丸の土塁の一部とみられる土層を発見したと発表した。真田丸の実態解明のための発掘は初めてという。
今年のNHK大河ドラマのタイトルにもなった真田丸は、豊臣大坂城の最外郭を巡る「総構(そうがまえ)」の堀の南に張り出して築かれた出城。大坂冬の陣で信繁が徳川方に大きな損害を与えて撃退したことで知られる。
多くの絵図には半円形の姿で描かれるが、千田教授らは真田丸を四角く描いた絵図や古い地形図、航空写真などから、現在は大阪明星学園がある場所を中心に、方形の姿に復元している。
調査では、古い地籍図で堀の痕跡のように見える区画の北側を約70平方メートル発掘し、人工的に土を盛った層を確認した。南の区画はやはり現在も堀状に低くなっており、盛り土は真田丸をめぐる土塁の可能性があるという。
幸村、薩摩に落ち延びた? 南九州市に伝説、ドラマで来訪増 山中に墓 地域おこしも [鹿児島県]
幸村は生き延びて薩摩に逃げていた? 大坂夏の陣で死んだとされる真田幸村(信繁)が実は、豊臣秀頼を守って、鹿児島県南九州市に移り住んだという伝説が地元で言い伝えられている。
18日に最終回を迎えた幸村が主人公のNHK大河ドラマ「真田丸」により、幸村の墓とされる同市の石塔を訪れる人は増えており、地元は伝説にあやかった地域おこしに取り組んでいる。
幸村の薩摩落ち伝説は京童たちが歌った「花の様(やう)なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退(の)きものいたよ加護島(かごしま)へ」との歌で有名になったといわれる。伝説の地は、同市頴娃(えい)町の雪丸集落。
南国鹿児島で雪がつく地名は珍しく、幸村がなまったと伝わる。
墓とされる石塔は、山中にあり、墓石は島津家が「特別な石材」とした山川石製。文字や模様は刻まれていない。墓に通じる坂道は地元で「とんどん坂(殿どの坂)」と言われ、雪丸自治会の雪丸重光会長(68)は「親から近づかないように言いつけられていた」と話す。
墓には丸い小石がたくさん供えられている。これは幸村の子を身ごもった女性を徳川の追っ手から守るため同町の大川地区に嫁がせ、その子孫が墓参りの際に小石をさい銭代わりに置いたとされる。その女性が産んだ男の子は、真田の2文字の間に江という字を挟んだ「真江田(まえだ)」の姓を名乗った。
真江田家の墓には真田の家紋「六文銭」が刻まれている。
集落の有志は昨年11月、ドラマ放送の開始(今年1月)を控え、墓の見学者をもてなそうと「雪丸幸せ村プロジェクト」と銘打った地域おこしを開始。駐車場を整備し、参道入り口につえを収める小屋を建設、山道にいすや手すりを設置した。
今年に入ってからは「ゆきまるくん」と名付けた武将キャラクターを制作。道案内の看板を作ったり、地元特産の茶を使った焼き菓子や六文銭クッキーを開発したりした。5月には大河ドラマで主役を演じた堺雅人さん夫妻が訪れ、集落の商店でクッキーなどを購入したという。
プロジェクトリーダーの田原三知恵さん(48)は「世代を超えた関係が築け、集落が元気になった」と語る。
参道の入り口に4月から置いているサイン帳には今月20日現在、国内外から1466人の書き込みがある。最終回翌日の19日に訪れた女性は「泣きました。丸ロス、1年間楽しかった」と記した。
20日に東京から訪れた加藤孝伸さん(51)、繭美さん(46)夫妻は「ここが幸村の最期の地であってほしい」と話した。
幸村の薩摩落ち伝説。多くの幸村ファンの歴史ロマンを駆り立てそうだ。
引率の兵が死に物狂いで戦った。
なんか浪人を惹きつける魅力があったと思うが
それはなんだろうね?
落ちぶれた浪人には夢とロマンがあったのかな幸村に
やっぱりそこですよね。本当に不思議。手勢が全部もと真田家の家臣とかなら
まだわかる(そうだとしてもすごいけど)けど。