逆に武田信玄が今川との同盟を維持していたらどうなったのだろう
ニュース
・義信事件
・第一次駿河侵攻
・徳川家の遠江侵攻
・越相同盟
・第二次駿河侵攻
・第三次駿河侵攻
駿河侵攻を契機として、義信事件が発生したのだから
駿河侵攻がなければ義信事件も発生しない
また、義信が生きていることで家督を勝頼が次ぐ必要はなくなり、
勝頼が継いだことによるゴタゴタも発生しない
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。 だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。
武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。
武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。
しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。
それ北条氏照が武田が今川を攻めたのも止むをえないと言ってるんだが。
そもそも義昭が甲越相の同盟の話を実現させようとしていたのを
今川が嗅ぎ取って、秘密条約をやるんなら、俺に内緒にせずに
俺を同盟の保証人として参加させてくれよと言ってきた時に
そんなのないよと隠していたのが北条。
それで疑心暗鬼になった今川が上杉との同盟を結んで武田挟撃を計ったんだぞ。
北条も義昭の使者が訪れているのを内緒にしていて同罪なんだよ。
だから氏照も武田の今川攻めを容認してる。
>>7
今川が開戦に向けて動いてる。
もしそれが事実なら、12月に攻めようとしていた氏真は基地外か?
謙信の助力は当然得られないし、甲信も雪深いだろうに。
そもそも武田が先に織田と組んだのが原因だよな。今川武田の対立は。あれで義信事件が起きたんだし。
そもそも氏照は越後の取次なんかやる権限あってそんな手紙出したのか? 明らかに氏康と言ってることが正反対だが。
まずソースとなる史料を提示して貰うべきでは
徳川ほっといて武田攻めるとか証拠となる史料がなければとても信じられん
今川攻めの前には「遠江は今川、三河は半分にしよう」と譲歩してますが今川が裏切ってました
ただ遅すぎたんや
最終的に勝てたから良かったものの、
遠江に侵入して家康にキレられたり
駿河を北条に取られたり
信玄らしからぬ拙速さでグダグダだった
謙信の関東侵攻に併せて今川攻めを行えばよかったんや
いや無理に決まってるだろ
謙信は絶対に北信濃返せって言ってくるし、
もし本当に返して今川裏切ったら信濃の豪族からも甲斐の豪族からも総スカン喰らって
信虎みたいに追放されるぞ
そもそも1563年に今川で遠州錯乱が起きると、今川が負けたら攻めるで、と家臣に手紙送ってるのが信玄だろ。氏真が盛り返したから諦めたけど。
それを今川が攻めてきそうだとか笑わせる。
同じく1563年に家康に今川の味方はしないって書状送ってるな。
それは今川を助けるためだと思いますけどね
最後の最後まで信玄は同盟に固執してましたし
言ってることが意味不明過ぎる
武田は今川が負けたら今川を攻めるのではなく「今川が負けたら反今川勢力を攻めて助ける」の間違いでしょうに
当時は義信も三国同盟も健在で上杉が大勢力なのに今川を攻める理由も余力もないですって
上杉が大勢力だって(笑)
何にもわかってなくてワロタ。
当時上杉は大勢力ですってば
越後、上野、関東諸侯、関東管領の権威
それ放っておいて今川攻めなんて不可能
後年でさえ、西上野と武蔵の領地を削ってやってます
?
こいつマジで大丈夫か?
上杉が大勢力ってあれは1561年の話。
その後は北条と取ったり取られたりの繰り返し。
ましてや「関東管領の権威」って。
何かの冗談か?
上杉は1565年には下総を攻めてますし、西上野は1568年まで上杉のものですって
だから1563年当時は長尾上杉は越後、上野、関東諸侯を従えてる巨大勢力で今川を攻める余裕なんて無いですって
ええ?
長野業盛が1566年に箕輪で自害してるのに、西上野を上杉が支配していたというのか?
あのあと、武田は上杉に箕輪城を返還したんだね(笑
そうだな、余裕ないな。
何しろ、武田信玄は上杉にビビって、せっかく奪った箕輪城を返還したみたいだし。いやすまんすまん。
>>29
いわゆる遠州騒乱が勃発して今川領は大混乱となった。晴信を改め信玄は今川氏のこのような混乱を見て、当初は今川氏の支援を承諾していたにも関わらず、考えを改めて今川氏の領土を奪うことを計画し始めたという。
『佐野家蔵文書』によると遠州騒乱で氏真が苦戦しているのを知った信玄は、今川氏の取次を務めていた穴山信君の家臣に密使を送り、遠江の情勢を探るように命令し、もし氏真が敗れるようなことがあれば駿河侵攻を行なうという考えを示したという。
だから無理がありますって
義信事件の後ですら、今川との同盟に固執してますし
その書状の原文提示してほしいのですけどね
松山城落としたことで上杉との形勢が変わったことで、他に目を向ける余裕が出来たからだな。
関東管領の権威だってさ。
そもそも鎌倉公方か古河公方に権威がねーなら、関東管領もクソもないわ。
関東管領にはそれ以上の権威があったことは確かやろ
元から守護大名ならいろいろ居たけど
権威だけあっても意味はないが、旗印としては有用
例えば関東では北条氏が勢力を伸ばしていて、その他の勢力はそれを苦々しく思っていたわけだが
そこに関東管領が現れ、北条を討伐するという大義名分をくれたら参集する大義名分ができる
足利義昭も同じ
本人に力はなくとも反織田の旗印になったおかげで信長包囲網が組めただろう
ただ、これは本人のカリスマとかではなく、
あくまで織田が周辺諸国にとって脅威であったからこそできたこと
とはいえ旗印がないと合従は組みにくいし空中分解するから
力はないが権威だけある大名家も重要なんだよ
>>55
九州だと少弐がそれに近いかね、何度も滅亡してるんだけど旧臣が生き残り担いで挙兵を
繰り返してる。
実際には肥前の一国人まで勢力衰退してるけど、野心家が担ぐにはちょうど良いんだよね。
九州三守護の筆頭って、地方的規模での足利将軍みたいな感じだし。
更に江戸初期には、鍋島「実は俺んち少弐庶流です」とか言い出したり。
大義名分は、これだけ重要。
あの北条氏でさえも、古河公方を担いでいたぐらいだからね
成り上がりだからこそ大義名分が必要とも言える
見苦しい言い訳をして信用失ってるからw
その上に今川攻めたら四方から袋にされて当然
氏真はそのせいで家康に裏切られるという人生最大の失敗をしたわけじゃん
信用を失わなかったから彼らの保護を受けられ生き延びた訳で
安直に失敗とは言い切れないだろ
家康が裏切らなかったら信玄の侵略を防げたとも限らんし
どちらも氏真の信用とは関係ないな
仮に維持するとしたら信玄の選択は
1.謙信と北信濃上野で戦争継続
2.今川と組んで三河攻め徳川を滅ぼす
3.東濃に進出して信長と決戦
4.飛騨を攻めて越中に出る
これくらいかな?
1は西上野の維持だけで精一杯だろう
2は一番無難だがその後に今川と揉めそう
3は下手すれば信玄討ち死に
4は道が険しすぎて難しい
武田が今川との同盟を切った理由としては
下記の3点かな
①もう攻めるところがない
②越後侵攻が厳しい
③織田徳川を敵に回したくない
①・②については第四次川中島で大損害を受け、越後攻略が厳しくなったのが大きい
代わりに上野とか飛騨とかに手を出していたぐらいだから、本当に攻めるところがなかったのだろう
美濃を攻めようにも、あのクソ狭い中山道を通って侵攻するのは厳しいし、何より維持が困難
③はあまり語られないが、駿河侵攻の時点ではまだ稲葉山城は陥落していないが、
西美濃攻略は順調に進んでおり、もう美濃斎藤氏は風前の灯火だった。
信濃は三河や美濃と面しているから、もし織田徳川上杉に同盟を結ばれ、信濃を攻められると保たない
そのため武田?織田の同盟が計画されたが当然今川はそれに反発…それも手切れの一因になった
よって、駿河侵攻を止めたら今度は織田徳川上杉に一斉に信濃を攻められ窮地に陥っていたかもしれない
(実際には織田は上洛しか考えてないので信濃には興味なかったと思うが)
その時点で今川は既にボロボロ、援軍はこない
このルートはこのルートで相当厳しいものになっていただろう
と言われているが、逆に当時の上京で今川攻める以外にどういう手立てがあったかね
今川助けて裏切り者の家康を討伐だな
まぁ諏訪や北信三家を汚い方法でぶっ56した信玄を氏真が信用するとは思えないがなww
どさくさに紛れて三河ぶんどるのはアリっちゃアリだが
その場合は織田徳川上杉で組まれると厄介なんだよなぁ
ひたすら北へ進んでたらどうなってたかね?
春日山城は落とせなかっただろうなー
そもそも、信濃の飯山城すら落とせていないし
一応、飯山城さえ落とせれば春日山は目と鼻の先なんだが
自分もそう思う
細かい条件抜きにしても
謙信と氏真どっちが楽かって考えたら
駿河行くよなと思う
しかし駿河攻めもかなりリスキーだったと思うけどねぇ
一時的に周り全部敵になったし
駿河攻略は早ければ早いほうが良い
>>78
家康に押される今川?
家康は、武田が駿河に攻め入ったから遠州に攻め入れただけで、武田が駿河に攻め入らなければ、まだまだ今川は持ちこたえたと思うよ。
武田信玄がお膳立てしたんだからな、徳川家康に。
というか、1566年から遠州攻めて勝ててないぞ家康。今川に押さえられてる。
>>84
三河遠江駿河三ヶ国で当時約80万石って所、三河はせいぜい25万石だ。
信玄が今川との同盟堅持なら、今川も状況立て直してる気がします。
なろうで有ったよね、信玄が信濃で押されてるパラレルワールドで、信玄が本気で本願寺に
頼み込んだんで史実より三河一向一揆がひどい展開に。
結局最後まで今川との同盟堅持して滅亡した為、なんか義理堅いと思われてる武田家。
>>87
三河29万石で、
駿河と遠江を合わせても40万石しかない
その上、遠州錯乱で遠江の国衆も離反しているし
吉田城の開城時点(1564年)ごろでは今川と徳川の国力は拮抗していたか、
今川の方が遠江を押さえられていないだけ劣勢だったといえる
まぁ徳川方も三河一向一揆でボロボロだったりするんだが
なんであのチャンスをモノにできないかね氏真は…勿体ない
下手すりゃ義元の二の舞になるかも
まあ信長の上洛が遅れたかも知れないのでその意味では後世の与える影響は少なくないだろうが
いや、東美濃決戦はこの場合斉藤を背後に残してやる可能性もあり、そうなると信玄が勝てる可能性もないわけじゃないと思うが。
>>90
信玄は上杉徳川とも戦わなければならないからどうかな?
今川はあの状態だし時期にもよるが中濃が織田に制圧されたあと斉藤は守勢一方だったからあまり当てには出来ないかと
西には信長と同盟した浅井もいるしね
そして対織田戦にかかりきになると上野と北信濃は上杉に遠江は徳川に制圧されかねない
北条は佐竹里見らへの対応で手一杯だろうし
鍵はやはり本願寺をはじめとした一向宗の動向だと思う
彼らが完全に武田北条側に回れば越中伊勢長島三河で暴れることになるので上杉織田徳川佐竹諸々連合は一転して大ピンチに
一番うまみがないのが武田家だよね
そもそも信玄というか、信虎以後の武田の外交が酷すぎる。
じゃあ今川が北条と同盟すると言ったら
今川と同盟破棄して今川・北条と戦うの?
>>93
そんなことはないでしょ
信虎時代は今川や北条と戦ってたけど、国力差がありすぎて
今川領や北条領を切り取ることは現実的に不可能だったので、
三国同盟を結んで信濃に進行したこと自体は正解
で、信濃に進出するとなると山内上杉家と戦わないといけないから
北条と手を組んで対抗できたのは非常に大きい
今川義元が桶狭間で討ち死にしたのが全ての崩壊の始まりだった
今川と結ぶのはいいけど、北条と結ぶ必要はなかったよ。
それだと西に出たい今川に旨味が少ないからなあ
みんな薄々気付いてると思うけど信玄及びその家臣はあまり外交手腕が上手いといえない
結局三国同盟は今川の誇るバトル坊主太原雪斎の手腕が大きかったんだと思うよ
逆に北条と組まないことのメリットは何?
どの道、国力的に北条には勝てないし、
北上した場合は山内上杉家とガチンコしないといけないんだぞ
そもそも氏真を信用させて、うまいこと取り込むとかやり方はいくらでもあるだろう。何のために今川と政略結婚して、親戚になったんだ。
信長は尼子再興軍利用したり、家康取り込んだりしている。義昭と対立した時ですら、自分は悪くないように情報操作したり朝廷取り込んでる。
氏康も古河公方取り込んだり、謙信も関東や北陸の国衆をうまいこと利用して取り込んでる。
信玄だって、義信を取次にして今川に食い込むとかやり方はいくらでもあるでしょ。何で堂々と悪名背負うのがわかっていて、同盟破棄して攻め込まにゃいかん? 史実の駿河侵攻は最悪のやり方でしかない。
>>104
そうなんだよな
信玄って十分に準備してから事に臨むタイプなのに
駿河侵攻って信玄らしくない、異常に焦っているように見えるんだよな
信玄が死んだのが1573、駿河侵攻はその5年前
胃がんを患っていたというし、やっぱり体調面で何かあったのかね
自分の死期が迫っていて焦ったとか
戦術的には準備しても戦略的には最初からあんなもんじゃないか?
晩年の信玄は完全に老害化していたと思う
老害(普通に戦に勝って所領も広げる)
所領広げると言ってもなあ。
駿河侵攻後に広げたのは石ころみたいな土地ばっかり。
東美濃、遠州二俣に犬居、三河野田に長篠。
こんな山間部ばっかりどうせいと言うんだ?
しかも駿河を取ったのはいいが、駿府は放棄して江尻みたいな田舎を本拠にするわけわからん統治やってるし。
それにともなって商人も逃げただろうから今川みたいに清水港で経済隆盛させた痕跡が見られない
関ヶ原合戦の大津城も戦災を理由に廃城してるし
>>110
清水湊使わないなら、駿河取った意味が全くない。せいぜい3500の兵力と、岡部元信くらいしか利益ない。
それで義信や飯富ら多数の家臣失ってるんだから、得るより失ったほうがでかすぎる
織田軍のあまりの強さにビビったんだよ信玄は
その後は織田から勝頼の嫁迎えて嫡男の義信は廃嫡
もしかすると義信事件自体が信玄のでっち上げかも知れん
だがその定説には疑問が残る(宮下風)
只でさえびびってたノブに最後の最後で何故喧嘩を売ったのか
義昭や浅井の偽情報に踊らされたのだろうな
あと家康のやりようにキレていたので冷静な判断が出来なかったのかも知れん
病気と加齢で耄碌していたのもある
上杉と武田の和睦が成立したから、同盟結んでいた効果はあった
なんで1565の時点で信玄が同盟結ぼうとしていたのかはわからんね
今川との関係悪化するのが目に見えていたのに
勝ち目ない信長との決戦より内部崩壊している氏真を潰す方が容易いと思ったからでしょ
不戦なのに婚姻まで結んだら、仮に武田側がこれは不戦だからと他家に受け取れといっても無理でしょうな。
信玄はよく拡げたとおもうけどな
海をもたないってのはあらゆる面で厳しい
思考力にも影響すると思う
海を持って有効活用できてない。
何のために持ったのかわからない。
そういう思考がなかったんじゃない?
生まれてからずっと海ってものが
無い人生なわけだし
>>123
今川もろくに使ってない宝の持ち腐れだったけどね
というより使いたくても無理だったんじゃないの
伊豆から東は北条水軍の縄張りだし
今川の三河、尾張遠征で水軍使ってないところを見るに当時の船で遠州灘を越えるのは出来ないこともないけど危険で熟練者じゃないとリスクがでかった
こんなところじゃない
一応伊勢から将来の武田水軍がやってきてるけど今川がまったく使ってないところを見るにそんな気がする
駿府は今川時代に義元が友野氏に命じて木綿役を徴収したり、京まで海運していたとされる等文書が多々あるが
今川滅亡後に友野氏は引き続き武田に地位を保証されるが、京まで商いをしたとされる活動が見当たらなく(信玄が織田徳川を敵に回したから海運できるわけないかw)
武田滅亡後に再び家康の下で活動した痕跡が多々残されている
つまり清水港を宝の持ち腐れにしてたのは武田だけだよ
織田を敵に回した弊害が出てるな
武田信玄の西上作戦は経済封鎖されたのでヤケクソで行ったとかいう珍説があるが
あながち間違いでもないのか
それなら1572年春に出陣して、信濃伊那に5000から6000と山縣あたりを残して、あとの2万で信濃から美濃に行けば良かったのではないかと思う。どうせ半ば自棄なら、浅井朝倉が少しでも力があるうちにやるべき。
信長は武田が攻めてくるまでは上杉と武田の和睦に尽力してたからそれはないね
家康の書状にも織田と武田を手切れにさせると家康が息巻いて書いてたくらいだし
当時は京が東京みたいなもんだからな
京を掌握してる織田を敵に回して商売できるわけがない
そもそも中山道通って甲信で商売する利点ってあるのかな? 東海道通って駿河で商売ならわかるけど、駿府は荒廃してるんだし。江尻だと東海道から外れてない?
そもそも甲信など山側が欲しいのは塩と海産物
塩の道と呼ばれるのは千国街道、秋葉街道、飯田街道があるし
山側で消費される物は微々たるもんだ
いやそういうのじゃなくて遠征による軍事利用。
上杉、毛利なんかだと水軍による兵糧、兵士運搬あるけど今川水軍そういうのないでしょ
駿河から三河、尾張なんて遠いんだから水軍使えば楽で大量に運べるのに
そういう使い方してない
上杉は冬になると雪で兵站厳しくなる上に街道もそんなに整備されていない
毛利は西国の話で古来から水運海運が発展している
今川は街道整備されまくってる主要街道の東海道がある
それに大量に運べるというが当時は大船で港に接岸できず、上荷船・瀬取船・茶船等の小舟に荷を移してそこから港に運んでた
だから小舟を所有する港側がその手間賃として運上費を要求してた
大船だけで行っても港と商人を支配下においてないと荷は降ろせないぜ?
そして遠州灘は小船じゃ越えられない難所
義元は信秀晩年に知多半島(及び愛知郡東部)まで進出して水軍で伊勢湾渡って城を落としたりしとるよ
なんだかんだで義元は凄い
完全に信玄の自爆
家康が黙って見ているはずないやん
むしろ当時の家康が何を言えるというのか
今川相手に遠江の切り取りすらおぼつかなかったのに
あちこちの勢力に接触して信玄を疑心暗鬼に陥れ自爆に追い込んだ
まぁ、結果武田は爆弾持って家康に特攻かまして来たんだけど
信玄に大敗しててそれは贔屓の引き倒し過ぎる
信玄には、外交という考えはないのかね?
諏訪も今川も徳川も織田もみんなそう。
戦っているイメージだけどね
駿河侵攻がめちゃくちゃなだけで
西上作戦は謙信警戒して冬前まで待ったがために朝倉撤退して手遅れになったけどね
自分は謙信が行軍兵站困難になる冬前まで待ったくせに
同盟国の朝倉が冬で行軍兵站困難になる冬で撤退したら激しく非難するという
外交なんてそんなもんやろ
仲良しこよしのお花畑じゃあるまいし
朝倉があのまま近江在陣して、2万近くの食糧はどうするんだろ。木ノ芽峠はたぶん雪で使えないし、浅井と一向宗あたりで補給可能なのか?
近江辺りは近畿の人間食わせる米が集まってくるから金さえ有ればなんとかなるで
(室町期はその辺りの商人が投機目的で米の流通止めて飢饉起こしてるぐらい)
なんとかなる目算が無いから撤退したんだろ
そりゃ武田のために大金使って止まる義理も無いしな
出来る事と実際に行う事の間には深い溝がある
越前と若狭でせいぜい50万石しかないのに、
200万石以上ある織田と戦い続けていたのだから当然
対陣中に家臣が敵陣に駆け込むとかどう考えても異常事態だしな
魚住とかも全く言うこと聞かなくなっていたみたいだし
あのまま対陣していたらたぶん朝倉軍は自滅していたと思う
そりゃ朝倉も撤退する
木曽って冬越えなんか可能かね?
信忠は旧暦2月、現在の3月だが。
雪降る前に移動して美濃で越冬するのが現実的だけど
ビビリの信玄がそんなギャンブルするとは思えん
それが一番現実的じゃないという
信忠の場合、春前だったし攻めた武田は勝手に崩壊して行ったからな
高遠城も1日で陥落してるし日数もまともな戦もしてない
勝頼の明知攻めは冬だな。
勝頼の明知城攻め 旧暦1月27日
勝頼の木曽征伐 旧暦2月2日(甲乱記では信豊が1月28日)
旧暦1574年1月27日を新暦に直すと2月28日と3月3日と出る
どっちが正しいんだ
冬と言えるか微妙な時期だな
>>152
木曽は雪はあんまり降らないよ
まぁ戦国時代は氷河期だったから当時は積雪凄かったかもしれないが、
もっと降雪量がやばい信濃北部で冬に戦ってるからそれよりはマシなはず
ただ木曽はそもそも道路事情がやばすぎる
あんなんで大軍行軍するのなんて無理に決まってる
1560年の桶狭間の時点で駿河侵攻は決心したが、粛正に7年かけたのは、やはり義信、そして北条は地縁血縁的集合体として今川擁護論して、織田脅威に対する無関心さがあったのだろう。
それ故に駿河侵攻なくば、勝頼、景勝と同じ末路を辿るだけだろう。
織田を脅威だと思うなら
そもそも織田と同盟結ぶなよww
今川と組んで三河に侵攻しろ
60年から65年勝頼正妻を織田から迎えるまでに方針転換を図ったのは、今川の無力化だろう。結局義信一派は、地縁血縁的関係から局所的な判断で今川同盟関係の継続発展を求めたのだと思うが、67年の義信事件をしてその一派を粛正するほど織田脅威論を信玄が理解していたか来週同盟なのだろう。
それから10年の駿河侵攻によって織田徳川に対する圧力を与えながら一撃講和によって有利な条件を引き出すのが合理的だ。北条は地縁血縁的関係を重視するあまりに、大局観がなかった、またその必要性もなかった。
>>165
義信事件は1565だぞ。
1567は信玄が義信をぶっ殺した年。
1565ならまだ今川は余力あった。
織田も東美濃から西美濃に手を出した頃で、まだ武田がやりあおうとすればできた。
だから支配領域として駿河侵攻を肯定し、織田徳川軍に一撃を加えて講和に持ち込む、その途中で病死するまでは予測できなかったのではないか。
かなり前から病気の兆候があって、自分が死なないとか考えていたとしたなら無責任すぎます。
確かに信玄の死は、ある程度予期できた可能性がある。特に西上作戦の途上で病死するのは、信玄の合理性に欠ける。しかし西上作戦が一撃講和論であるならば、死ぬまでに一撃を加えることは可能と考えたのではないか。
謀反に失敗して処分されたということやね
そりゃ今川にとっては織田は仇敵だし
織田と組む=今川裏切る
に等しいでしょ
それと最も重要なのは三国同盟がもう無いということだ。
守りの要、互いに生かして使う戦略上もっも重要なことである。
これが分からない者は清洲同盟の重要さも分からない。
三国同盟は戦国外交の最も鮮やかな華である。
戦国時代なんだから、裏切り裏切られは当然なんだよなぁ
戦国時代だから当然。
戦国時代でも裏切りは責められるぞ。特に大義名分がないのは。
その意味で駿河侵攻は肯定されるべきだろう。もし駿河侵攻がなかったら、織田徳川連合軍の駿河侵攻を許すだけで、結局駿河侵攻は避けられない。
また駿河が滅びれば、必然三国同盟も失い、北条と徳川織田、さらに上杉の包囲網になる可能性もあった。
1565年まで三河一向一揆
1566年に牛窪城落として東三河平定、三河平定で12月9日に三河守拝任
遠江のどこ攻めてたっけ?
>>199
愛知県史に載ってたな、ソースは忘れたが、
1566年に引間だか見附だかを攻めてるとされていた。
何度もってのはわからないが。
あとは1565年12月30日酒井の書状で(反乱中の引間に)援軍を送るってのがあるけど、
実際に送ったかは確認できないので、口約束の可能性がある。
そりゃ三河統一してからちょっとして信玄が今川に牙を剥いたのだから時間がないだろう
つーか仮にも最終的な天下人になった家康に対して能力なんかどうでもいいとかあんまりじゃないか?
家康がてこずりまくった東三河の戦いも今川との戦いやけどな
ぶっちゃけ三河時代の家康に関しては三河國人の旗頭的な立場が強く自ら兵を率いて活躍した記録が乏しい
すぐには無理だが遠江取られるのは時間の問題だったと思うけど?
掛川、高天神が取れてないのに時間の問題(笑
そもそも信玄と組んで攻めたときですら掛川を自力で落とせなかったはずだが?
信玄が協力しなければ、掛川まで迫ることすらまだまだかかることだったろうな。
軍事だけじゃなくて調略とかいろいろ手はあるでしょう
ただでさえ遠江の連中への求心力下っているのだから氏真は
だいたい氏真に能力あったら親父の仇討ちするよ
若僧の頃とはいえ家康と氏真じゃ才能に差がありすぎる
>>186
武田と関係が怪しくなった1565年以降
敵対関係に近くなった1567年以降も
家康は遠江を削ることさえできていない。
今川は史実で対武田に備えていた分を家康に向けられるんだから、
史実以上に家康は遠江に手を出せなくなると考えるのが自然では。
家康を舐め過ぎ
奥平や穴山も寝返らせ三河一向一揆を謀略で解体した手腕を見れば求心力失った今川の切り崩しなんて簡単だろう
時間は多少かかるだろうが氏真じゃ家康の謀略を止めることは出来んよ
>>203
能力なんてゲームじゃあるまいし。
遠州惣劇で離反しそうな連中は片付いたとも言えるが、
より問題が深くなったとも考えられるから、切り崩しが不可能とは思わないが、
史実じゃ単独では遠江は取ることが出来ていない。
まあ家忠日記増補とかだと家康は今川に人質出して和睦したことになっているが。
斉藤潰れるのは時間の問題だし北伊勢が織田の支配下に入るのは史実通りだろ
信長が東濃で武田を牽制したら信玄は身動き取れなくなり今川への支援どころじゃなくなる
対上杉戦にも支障出かねない
その間に家康は遠江の切り崩し図るだろうね
そもそも東濃って信玄の支配下だったのでは?
信長の野望では何故か遠山氏が斎藤・織田の家臣になっているが、
少なくとも斎藤氏の家臣だった時期はない
1555に木曽氏が武田に下ったタイミングで遠山氏も武田に従属している
一方で織田も遠山氏とは縁組を行っているから、おそらくそのタイミングでは
織田と武田の両方に従属しているみたいな状態だったはず(戦国ではよくあること)
駿河侵攻しなかったら海を求めて直江津を目指し、上杉の敵地に食い込んで戦わないといけない
海津城という前線基地を築いて、地の利を得ているにも関わらず川中島では謙信から大損害を食らった
三国同盟継続して、その謙信に地の利がある敵地で戦うなら、またも大損害どころか信玄が討死しかねない
そして、冬になれば雪で孤立して行軍兵站困難になる
これは木曽と美濃間も同じで、武田が勝てなかった義元を倒す戦上手な信長と衝突するから消去法で消える
東は北条と上杉が争って泥沼だから現実的じゃない
南は義元死んで元康に離反され弱体化した今川
消去法で南しか攻める(勝てそうな)所がなかったって話だな
で1568年には信長の上洛の援軍に行っている
そして年末には信玄の駿河侵攻
家康は遠江を攻める暇がなかったんやな
戦国大名が忙しいのは当たり前やけどな
内部事情で今川本隊が出てこない東三河での戦いも自ら兵を率いず結構負けとるし
家康って一国規模に成長した大名としては異例なほど戦場に出て大勝利した話が殆ど無いんだよな
あるのは信長に援軍出した時の講談的な活躍ぐらい
それを言うなら今川軍も飯尾連竜の離反で城攻めたが大将の新野親矩や三浦正俊、中野直由が討死して軍を退いてるで
今川軍は人材不足で真正面からじゃ勝てないから暗殺という手段を取らないと鎮圧できないくらい弱くなってる
何がそれを言うならなのか良く分からんが
家康は武田が駿河侵攻してくるまでその弱ってる今川と良い勝負してたって事なんやけどな
三河は取れたべこれは
そもそも信玄が斉藤見捨てて織田と組まなければ
ノブが美濃取れたかも怪しいし
それまでの家康が毎年何度も軍事行動起こしているだけに、落差が目立つ。
信玄は信濃攻略に信長は美濃攻略に何年かけたと思っているんだ?
一度天秤が傾いたら早いけど
見逃されている点が多いよな
・美濃は広大で50万石もある
・織田家が尾張統一できたのは1562
・1562年に徳川と同盟結ぶまで尾張三河国境付近で争っていた
・美濃東部は支配できていない
信長の勢力拡大見ると分かりやすいぐらい効率的に平野と商業地抑えとるからなあ
家康自らの野心で独立したってより信長の圧力に耐えられなくなった西三河の国人衆に担がれて独立したって流れなんだよな
三河国人『織田がどんどん攻めてきて敵わん、あんた今川さんの舎弟なんだろ?今川に救援要請しろや』
家康『いや、今上杉が小田原攻めてるらしいんで、そっちで手一杯だって』
三河国人『はぁ?俺ら見捨てられてるやんけ!もう独立して織田と組んで今川攻めようぜ』
家康『そ、そんな・・・』
そんな感じな気がする
拒否れば祖父や父親みたいに殺されかねんからな
ホント三河武士は厄介
家康が下手すれば火種になりかねない氏真を終生重用したのを見ると
今川に反逆したのも本意だったとは思えないのよの
甲斐23万石vs信濃の5万石とか10万石の小大名潰すのに時間がかかるのは意味がわからない
>>231
諏訪をだまし討ち同然にぶっ殺したり、佐久郡で3000も殺して生き残りは奴隷にして売るとかした武田なんかを信濃国衆に信じろと言っても無理です。
ましてや信玄の場合、諏訪も松本もそうだけど、なぜか旧主の傀儡を立てずに直接支配している。そんなことしたら旧主の家臣団はみんな反乱するよ。諏訪は実際にやったし、小笠原も村上も長尾とつるんだ。
信玄のやり方が、他の大名と違いすぎて信頼を得られなかったのが信濃平定長期化の理由。
>>231
平野部より山がちな土地の方が攻めにくいでしょ、そりゃ
あと、信長が尾張統一できた年を間違えていた、
犬山城が落ちたのが1564だったわ
犬山の件は一度は従った同族が起こした反乱だからそこで統一というのは違うやろな
織田信清は独立勢力みたいなもんじゃないの?
明確に反旗を翻したのが1562なだけで
独立性は高くてあつかい難そうだけど信長の姉を娶ってる時点で一度は臣従はしとるやろ
そういう勢力を完全に潰さなきゃ支配とは認めないなんて言ったら統一してる大名なんていない扱いになるわ
臣従というよりは同盟者じゃないかなぁと思っていた
ただ、美濃攻めに兵を出していたともいうし、
天正最上の乱の前の最上氏と天童氏の間ぐらいの関係だったのかな
信秀信長が嫡流である以上上下はハッキリしとるやろ
ただ父親が信秀とは別に岩倉織田氏に仕えてるところから別口で立身を図った様子が見える
そんな感じの従兄弟なんて戦国時代じゃ微妙な関係にしかならんわな
>>241
嫡流ねえ...? 抑々織田信秀の織田って清須織田「下四郡守護代」の分家で家老らしいぞ。
まあ血筋で言うなら上の下四郡守護代家や上四郡守護代家追放してるわけでさ。
信長の血筋を嫡流と思い込むのもどうかと。
信濃って40万石くらいあるだろ 小大名は基本的に反武田だったし
23万石vs40万石と考えれば時間がかかってもおかしくはない
結局信玄期に信濃統一はできなくて一応できたのは御館の乱の奥信濃割譲時になるのかな
奥信濃なんか3万石もない石ころの土地。
なぜこだわる?
>>250
しかし、奥信濃が無いと、
それこそ善光寺周辺が境界線になってしまう
善光寺は門前町が栄えているし、
善光寺周辺で10万石ぐらいの収穫高があるから
武田にとっては絶対手放せない
盾として奥信濃が必要なんだ
信濃の勢力は最初から反武田だった訳じゃないし、
協力しあっていたわけでもないと思うが?
>>262
諏訪=小笠原=藤沢で同盟。
諏訪没落後は小笠原=村上。
武田もこれに対して、武田=諏訪=村上で信虎時代は同盟。
信玄が諏訪に山内上杉と単独講和したのを裏切りとかほざいて、この三者同盟は破綻。
さらに諏訪を滅ぼして、小笠原と村上が組む。
信濃の反武田色が濃くなったのは、諏訪を滅ぼした後から。
村上小笠原と武田に従属させられた諸勢力も反発しだしたぐらいで、
基本的にはバラバラで対武田としては隣の勢力と協力ぐらいしかしていない、
甲斐23万石vs信濃の5万石とか10万石の小勢力相手の戦いだったな。
それであんなに苦戦したのか武田信玄。
>>268
10年で信濃攻略ってのは別に遅くはないと思う
甲斐は20万石、信濃は40万石で領土が3倍になったんだから大したもんよ
問題はその後、10年かかって殆ど領土を広げられなかった
信虎時代は諏訪と同盟結んでいて、佐久・小県も支配下においていたけど
信玄が家督継いだ時に諏訪とは手切れ、佐久・小県も諏訪と上杉に取られてしまったからな…
信長とかが例外なだけで、普通の大名はそんなペースだと思う。
信玄がそれを飲むのは厳しいんじゃないかな
義信派家臣「今更今川と手を切るとか無いわ」
駿河侵攻は
「織田徳川と同盟結んで欲しい」という信濃国人衆の要望と、
「織田徳川と同盟なんて結んだら今川と手切れになるだろふざけんな」という甲斐国人衆の反発
があったと考えるとわかりやすい
前者については、もしも織田徳川上杉で組まれたら信濃は北・南・西の3方面に敵を抱えることになるから
後者については、今川領国に隣接しているのが甲斐だから
で、信玄は前者を取ったと…
まぁ仕方ないよな、上杉に隣接しているのは信濃だから
そこから離反されたら困るし
しかも今川は義元の死後に織田からの圧力で三河が動揺しまくって徳川が独立する状況やし
穴山が駿河の利権で美味しい思いできたのは、山縣戦死して江尻城代になった後からだと思う。
駿河国衆との取次は穴山のままやし美味しいポジションは変わらんやろ
今川攻めるのは当たり前だが、やり方がある。
今川を力で追い出すより、乗っ取りなり懐柔なりやり方がある。
信玄は徳川の謀反でアップアップの今川に「今川が上杉と組んで我らを攻めようとしているによって、駿河を攻める!」なんて、余りに誰も信用しない大義名分使って攻めてる。しかもその徳川と組んで。
無理ある大義名分使ってでも最良のタイミングで侵攻する
まさに正しい戦国大名の姿やね
全然違う。
どこの大名も神輿担ぐか、無理のない大義名分使う。
駿河侵攻開始した時点で織田徳川とも隣接してるよ
だからこそ、織田徳川と組んでの駿河侵攻を選んだわけで
ゲーム的には接して見えるんだろ
徳川の当時本拠の岡崎には甲斐→信濃(駿河)→遠江→三河と今川領経由しないと三河には大軍で行けない
織田の本拠の岐阜にも甲斐→信濃→木曽、東濃(共に難所)→中西濃とこっちも大軍で行くには厳しい
甲斐から中道往還と甲州往還使って駿河に大軍で攻められる距離と比較してから云いなさい
実際に武田が木曽経由で東濃
飯田経由で奥三河を攻めてるだろ
大軍は送れないが、数千程度なら可能だし、
上杉と同時侵攻されればかなり厳しい
何しろ対上杉の主力は信濃勢なんだから
大軍の兵站維持できない経路使って敵本隊の大軍と戦い続ける馬鹿はいない
そんなもん遠いのと一緒だ
だから遠交近攻だと云っとろーが
>>293
武田本隊とは上杉が戦えばいいだろ
織田徳川は数千もいれば十分
三方面から同時に攻められるというのはそれだけで脅威になる
甲斐から見れば織田徳川は「遠」だが
信濃から見れば今川よりも遥かに近い、
脅威の存在なんだ
遠交近攻だと言ってんのに誰視点だよw
信濃衆が主導権握ってるような言い方してるが、信玄からしたら川中島で大損害を受けた上杉とまだガチで戦う?アホかw
弟の信繁含む重臣が死んで、しかも敵本拠の越後は冬になれば閉ざされて孤立するから領土拡張を見込めない
だから南進に切り替えたんだろ
南信濃は無かったことになってるみたいだが伊那を任されてた秋山も遠江に攻めてるだろw
それに武田武将は領土という餌を一番にしているから領土拡張を望めない義信路線は密告されて終わったんだろ
>>296
誰視点?武田という家はもう甲斐の領主じゃないんだから
甲斐国人衆と信濃国人衆で捉え方が違うのが当然だろ
お前みたいな考え方の奴が義信派だったんだろうなww
信玄に上杉とガチで戦う気がなくても上杉が攻めてくるんだから応戦するしかねーだろ
史実では織田と同盟結んだおかげで上杉と和睦できたが、
今川と同盟を結び続ける(=織田と同盟を組まない)ルートだと上杉と和睦できないんだから
また攻めてくるぞ
金持ちノブから金たかって甲斐信濃の国人を宥めつつ
上野越後を徹頭徹尾狙うべきだったな
今川との関係は悪化するだろうが
氏真に甲斐に攻め込む度胸は無いやろし家康相手にその余力も無いやろ
拡大路線やめるにしても最低でも港取らないと塩も取れないし、経済も好転しない
織田と仲良くするなら駿府の友野氏に木綿を京まで海運で運ばせて商売するのが良かろう
衣服だけじゃなく火縄の材料になるから需要は増大してた
間違えたのは西上作戦からだな
織田と敵対したから海運がダメになった
まぁそうなんだが、駿河侵攻後に織田と同盟結ぶことは徳川が反対するんだよな
そもそも織田と武田が手切れになった理由の一部は徳川のせいだし
信長に対して「徳川と武田のどっちを取るのよ!」って家康が言ったら
やっぱり織田と武田の戦いは避けられないのでは
織田が三河、武田が遠江みたいな感じで割譲するのはアリかもしれんが、
それは流石に緩衝地帯がなくなって信長嫌がるだろうし
家康がゴネて緩衝地帯が役割果たさないのなら要らんやろ
あくまで家康が持ってるのは弱者のイニシアチブであってちょっとでもバランス崩れたら捨てられるんやで
駿河侵攻後徳川がいろいろ言っても織田は武田と同盟結び続けて、
武田のために上杉と和睦したり、松姫との婚姻のため公家に吉日調べさせたりとかしていたが、
それを武田から逆撫でするような形で破ったから、絶許となったんで、
武田が馬鹿なことしなければ当面は織田と武田の戦いは避けられるし、
徳川単独じゃ直接武田に攻撃しかけるような真似は出来ない。
信長にしたら遠江の現役争いはお互いに決めてくれって話やからな
信長が三方ヶ原に兵を出した理由は直接東濃に手を伸ばしてきた事と三河にも手を出してきて家康が寝返る可能性が出てきた事の2点
信玄が死んだタイミングで上手く調整すれば普通に再度友好を結ぶ事も可能で
その件について徳川が口を出す事は到底出来ない
>>309
信玄あるいは武田にそんな高度な外交テクがあるわけないでしょ。
だから三国同盟で一番一杯食わされたし、長尾とは争い続けた。
信玄はそれをカバーできる別の能力が有って勝頼にはなかったというだけの話
結構やりたい放題の外交してるんだから
信玄死んで織田と手を結び直しても良かったやろ
秋山が最大のネックなので無理でしょ
岩村城での仕打ち見たら信長が秋山夫婦をどれだけ憎悪していたかわかるというもの
んであの夫婦の首をはねるなんて勝頼に出来るわけない
タイミングとしては秋山夫婦殺されたあとすぐに息子返し松姫と嫡男を人質に差し出して全力土下座しかないわ
武田と徳川が対立していて、その両方と織田は同盟しているのに、
家康が寝返るわけないだろ。
織田が徳川に援軍出したのは、武田が勝長人質に取って完全に敵に回ったからじゃ。
信長が援軍出さなきゃ普通に家康の選択肢になるわ
今川から独立して信長と手を組んだのも信長の三河への圧力に対して今川が援軍送らなかった事も大きな要因やし
家康が寝返る?
信長と信玄を手切れにさせると画策し、信長・謙信を巻き込んだ武田包囲網の首謀者なのに???
それを察知して三ヶ年の鬱憤とばかりに徳川に攻め込んだのが信玄
武田の軍門に下った後の諏訪頼重は甲府に連行され切腹させられたの見りゃ家康もただで済まないと思ってるから
武田に何回も蹂躙されても武田との徹底抗戦貫いたんだろ
関ヶ原合戦の石田三成が東軍に寝返るって言ってるようなもんだぞ?
長篠勝利後の細川への手紙にも信玄の恩義を忘れた身勝手な行い云々と、勝頼の代でも信玄への恨みを書かれてる有り様だから手遅れ
織田との和睦は全部信玄の裏切りのせいで無理
織田上杉抑える兵を残しても何とかなりそうだし
まあそうなると北条への支援出来なくなるのは確実だから関係悪化するだろうけど
そうなんだよなー、
1566の臼井城の戦いがターニングポイントになって、
北条上杉の関東争奪戦は北条が有利に傾いたが
それまでは武田北条が組んで、上杉関東諸将に対抗していたから
その状況で三河とか攻めたら、せっかく手に入れた信濃北部と西上野が上杉に脅かされる
とりあえず徳川を速攻で潰すことに全力尽くす
あとは信長と決戦か逆に同盟して今川北条相手に戦うか
仮に取れたとしても、今川に返せって要求されるだろ
その時に今川と同盟切って織田と結ぶのか?
武田にとって虫が良すぎるような
それがベターだと思う
せっかく切り取った三河を無条件で今川に返還とか義信派でもさすがに容認しないだろうしね
対今川戦へのいい口実になる
>>323
氏真程度を外交で何とかできないなら、信玄はどの道先はないな。
信長が家康を、朝倉が浅井を飼いならしたみたいに、今川を飼い慣らせないなら。
三方ヶ原の頃はもう信玄は家康を許さんと思うよ
とうの家康もそのくらいは理解してそう
家臣が家康殺して寝返るってのは無くはないだろうけど
家康の祖父は家臣に殺されてるしね
徳川家臣は西三河出身が中心だから、
武田について織田と敵対したら自らの本領が最前線になるから、
織田武田の力関係が逆転して武田が圧倒的に優勢になるまでは
そんなこと考えない気がする。
信玄の外交の見せどころじゃないのか?
今川を何とかするのとか、徳川と織田を何とかするのとかさ。
織田に徳川より自分を信頼してというならば、それなりのことを態度で示せばよかった。しかし武田は援軍も派遣しないし、自分が求めるばかりで何にもしなかった。そりゃ、信長も徳川を選ぶよ。
岡崎城が本拠のままだったら完全に遠江から徳川勢力駆逐されていたが
浜松城を本拠にしたことで武田はそれ以上踏み込めず家康の戦略勝ちとなった
織田と敵対したらそこらの収入も無くなる
関東は火縄銃の火縄の需要もない
武田に与しても西三河が最前線になるだけじゃなく収入に関しても全くメリットがないからな
そりゃ織田を裏切れない
その頃には信長は濃尾だけでなく北伊勢も制圧しているだろうから単純計算で150万石
それに三河が30万石くらいだから今川が全く当てにならないので信玄はほぼ倍の勢力相手にしなきゃならなくなる
しかも背後には謙信までいる
あくまで信玄が織田徳川を敵に回すのなら信長は上洛前に武田潰しに動く可能性高し
優先順位は畿内
石高とか市場、湊と考えると織田の相手には成らんよな
人口も
田舎出身の割に頑張ったとは思うけど、やっぱり出発点が辛い
まぁ、飛騨や能登よりはましなんだろうけど
能登は海があり、公家が逃げて北陸の文化サロンの地になったぶん、甲信よりだいぶマシ。
甲斐に比べれば随分良い
信用が無く氏真が相手にしてくれないのなら駿河には手を出してはいけない
仮にも叔父で、妹の舅なのに。
日頃の行い
義兄の諏訪を騙し討ちしたり謙信との和睦を何度も破ったりしていたらそりゃ誰も信用しなくなる
でも、氏真は家康を頼ってるぞ。
氏真は家康が離反した際に三河家臣の人質を殺してる。その家康は信じて、信玄信じないって。
違うよ
徳川は掛川落とせなくて信玄裏切って北条今川と和睦した
だから氏真は徳川と和睦した形だし、北条が武田に鞍替えした後は徳川頼るのも自然な話
信玄の信用なんて関係ない
>>347
徳川みたいに氏真を飼えばいいんだよ。
駿河領有と、徳川攻めの大義名分にその存在は十分使える。
家康なんか家臣の妻子が、氏真に人質として殺されてるのに氏真を飼っていた。なぜ、信玄は氏真を飼えなかったのか。
家康も火種になりかねん氏真を生涯手元に置いていたのを見ると二人に蟠りは然程無かったんだろう
信玄は必要も無いのに敵対した訳でもない諏訪や北信御三家56してるし
あと義信56しても何とも思ってないかの様な振る舞い。家康も妻子を56してるがそのショックで寝込んだからな
諏訪以降、信濃の反武田勢力はよく抵抗したからな。あれがなければ、少しは信濃平定も早まったのかな。
破るの分かりきってたから家康は頭が良い
法的な拘束力の無い当時は相手が信用できるかどうかは過去の実績から量るしか無いわけで
信用できないヤツは脅威以外何物でもないから誰でも駆逐しようと躍起になる
>>355
実際問題、信玄に対する信用ごときで他国の方針は決まらない
謙信は信玄が駿河攻めでピンチの時も侵略しようとしなかったのは信玄が嫌いとか信用してないとかそういう問題より自分の都合と実利を優先したから
北条も信玄と再同盟したのは信義なんかで戦国時代乗り切れないの分かっていたから
君の発想だと信玄は謙信に真っ先に滅ぼされるはずだし、北条は再同盟なんてしてくれない
そもそもあの地域は信虎以前から天正壬午に至るまで裏切りと鞍替えの連続
武田と今川と北条の因縁の歴史を勉強してきな
誓詞なんて本当紙切れだから
謙信が駿河侵攻の時に攻めなかったのは信玄が信長に頼みこんで将軍から謙信に御内書が出てたからだぞ
そして北条との再同盟も氏政の正妻は黄梅院だし、北条がかなり譲歩して結んだ越相同盟は
上杉がまったく役に立たず氏政がぶち切れていた
氏政が謙信に武田を攻めてくれと要請しても攻めず、援軍要請しても城が落ちた後に来る有り様だった
そうこうしてたら駿河をほとんど取られて氏政にとっては武田以上に上杉の信用がなくなっただけ
だから氏康が死んだら速攻で越相同盟破棄して甲相同盟に切り替えた
君には信玄の不義理のせいで滅ぼすほど信長が単純で感情的な人物に見えるのかもしれないが、信長は合理的、政治的判断で滅ぼす選択したと思うよ
信玄が死んだ後の長篠の戦い勝利後、細川宛の手紙に信玄の不義理について信長は忘れずまだ書いてあったんだよなw
手紙に根切り連呼してたのは親族ころされた長島等の一向一揆と武田くらいという
結局、親父の負の遺産がでかすぎて滅ぼされたけど
そもそも謙信って結局、信玄より北条の方が嫌ってるし信用してないよね
虚仮にした上、騙して、子供を人質だからなー。
そもそも信長は、岩村と明智を奪われても、奪い返そうという行動をしてない。そもそも明智を勝頼が奪った際に信長は小里の守備を固めてるが、あれ明智を奪ったことで、逆に信長に蓋されて動けなくなったんだろ東美濃の武田は。
信玄も勝頼も、なぜ石ころみたいな土地をとるのに精を出すのかわけわからん。駿河侵攻してようやく宝物ともいえる駿河を手に入れても、有効活用しないから、駿河をとった意味がないし。
敵対した隣国の強敵だから不義理なんか関係なく滅ぼすに決まってる
勝頼が和睦交渉したのだって基本は本領安堵が希望だろうが、合理的な信長がそんなこと許すわけないし、信長には何のメリットもない
甲斐一国の安堵なんて勝頼も望んでないだろうし
そういう意味で両雄並び立たずでどちらかは滅びる運命にある