法正伝をやるやで
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法正、字孝直、右扶風?人也。祖父真、有清節高名。
法正は字を孝直といい、司隷部右扶風?の人である。
祖父の法真は清廉潔白で有名だった。
※馬超、孟達と同郷
建安初、天下饑荒。正、與同郡孟達、?入蜀依劉璋。
建安初年(196年)、天下は飢饉に見舞われ、
法正は同郷の孟達と蜀に入って劉璋を頼った。
久之爲新都令、後召署軍議校尉。
既不任用、又爲其州邑?僑客者所謗無行、志意不得。
久しくして新都令となり、後に召還され軍議校尉になるはずであった。
しかし、任用されず、また郡や村で共に客人となっていた人に
誹謗中傷を受け、志を為すことが出来なかった。
※劉備は法正を股肱の臣として使いこなしたんやが
劉璋は法正や李厳ら有能な臣を使いこなせなかった
負けるのは必須やね
>>467
はえー、知らんかったわ
今度調べてみるわ、サンガツ
松、遂?璋宜迎先主、使之討魯、復令正銜命。
張松は劉璋に劉備を迎えるように説得し、劉備を遣わして張魯を討たせるようにし、また法正にその説得をさせるように進言した。
※法正にあまり関係ないので中略
劉璋が張松を遣わして曹操と組もうとしたが、曹操に罵倒されたため帰還
>>471
張松って意外と侮れんよな
然後、資益州之殷富、馮天府之險阻。以此成業、猶反掌也」先主然之、泝江而西、與璋會?。北至葭萌、南還取璋。
その後、益州の富を資本とし、天賦の険(土地の険しさ)を利用するのです。これによって大業は成り、それは掌を返すがごとくです。」劉備はその通りだと言い、泝江を西に行き、劉璋と?で会った。北の葭萌に着き、南に行って劉璋を倒した。
正、既宣旨、陰獻策於先主、曰「以明將軍之英才、乘劉牧之懦弱。張松、州之股肱、以響應於?。
法正は劉備に劉璋からの宣旨を述べると、ひそかに献策して曰く、「劉備殿は英才であり、劉璋は怠惰でございます。張松は州の股肱の臣であり、これも内応しましょう。
※中略
鄭度が劉備は危ないから兵糧攻めにしろと劉璋に進言
先主聞而惡之、以問正。正曰「終不能用、無可憂也」
劉備はこれをまずいと思い法正にどうすればよいか聞いた。法正は「劉璋はこの策を用いません、心配することはありません」と言った。
※中略、結局鄭度の策は用いられなかった
※法正が劉璋に降伏を説く書簡を出す
長いうえにつまらないため中略
書簡の大ざっぱな内容は
・現在の劉璋の状況がとても危ういことを説く
・孫権が弟(誰かは不明)と李異、甘寧らを出陣させて後続としていると嘘で脅す
・降伏して一門を保つように進言
※中略
劉備が成都を囲むと許靖が城壁を超え逃亡しようとしたが失敗した
そのことを知った劉備は許靖を用いなかった
正?曰「天下有、獲?譽而無其實者。許靖、是也。
法正は説いて曰く「天下には、虚名ばかりで実質が伴っていないものがおります。許靖がまさにこれです。
>>481
意外と逃げてばっかりの人生やで
宜加敬重、以眩遠近、追昔燕王之待郭隗」先主於是乃厚待靖。
重く用いることで多くの人の目を誤魔化すのがよろしく、昔燕王が郭隗を待遇したことに倣うのです。」劉備はこれにより許靖を厚遇した。
※「先ず隗より始めよ」という凡人を厚遇することで賢人を集めたという故事より引用している
然、今主公始創大業、天下之人不可??、靖之浮稱、播流四海。若其不禮、天下之人以是、謂主公爲賤賢也。
しかし今、劉備殿は大業を始められ、天下の人に許靖の実質が無いことを説明するのは不可能であり、しかも許靖の名前は天下に広く知れ渡っております。もし許靖を礼遇しなければ、天下の人は賢者を軽く扱ったと言うでしょう。
以正爲蜀郡太守、揚武將軍。外統都畿、?爲謀主。
以降、法正は蜀郡太守、揚武将軍となった。外においては成都とその周りを統治し、内においては謀略の中心となった。
一?之德、睚眦之怨、無不報復、擅殺毀傷己者數人。
一食の恩や睨まれたくらいの恨みも必ず報復し、
己を誹謗中傷したもの数人を勝手に殺害した。
※一般人「なんやこいつ」ギロッ
法正「あ、睨んだな、鞭打ち二十回や」
法正、畜生!
権力をかさに着た畜生にしか見えません!
或謂諸葛亮曰「法正於蜀郡太縱橫。將軍、宜啓主公、抑其威福」
ある人が諸葛亮に言って曰く
「法正は蜀郡においては勝手すぎます。
諸葛亮様、劉備殿に進言してこれを抑えてくだされ。」
ちょっとトイレ行ってくるから即興でクイズ出すやで
劉備は北に曹操、東に孫権、内に○○を恐れていたと法正伝にある
劉備を恐れさせたこの人物を答えよ
正解は↓や
亮答曰「主公之在公安也、北畏曹公之彊、東憚孫權之逼、近則懼孫夫人生變於肘腋之下。當斯之時、進退狼跋。
諸葛亮曰く「劉備殿は公安に居たとき、北に曹操を恐れ、東に孫権を恐れ、内に孫夫人が事件を起こすのを恐れておられた。かつてはこのように進退窮(きわ)まっていた。
嫁かいw
そうなんや、孫夫人を恐れてたんやで
法孝直、爲之輔翼、令翻然?翔、不可復制。如何禁止法正使不得行其意邪」
法孝直はそのとき翼となって劉備殿を飛翔させ、再び制約されることがなくなったのだ。どうして法正にその意にそぐわない行いをさせるよう、物事を禁止させられようか!」
>>501
草
初、孫權以妹妻先主。妹才捷剛猛、有諸兄之風、侍婢百餘人、皆親執刀侍立。先主?入、衷心常凜凜。亮又知先主雅愛信正、故言如此。
かつて、孫権が妹を劉備に嫁がせた。孫夫人は才があって勇猛で、兄達のような風格があった。侍女を百余人は、皆刀を持って侍り立っていた。劉備は部屋に入るたび、内心ではびくびくしていた。諸葛亮はまた劉備が法正を信頼していたのを知って、こう言ったのである。
※何故孫夫人を恐れたかここに書いてある
二十二年、正?先主曰「曹操、一舉而降張魯、定漢中。不因此勢以圖巴蜀、而留夏侯淵張?屯守、身遽北還。此、非其智不逮而力不足也、必將?有憂?故耳。
建安二十二年(217年)法正は劉備に説いて曰く「曹操は一挙に張魯を降伏させ、漢中を平定しました。しかし、勢いに乗じて巴蜀を取ろうとは思わず、夏侯淵と張?を駐屯させて、急いで北に帰りました。これは曹操の能力不足ではなく、きっと内に憂慮すべきことがあったのでしょう。
今策淵?才略、不勝國之將帥。舉衆往討、則必可克。
今、夏侯淵と張?の才を見るに、国の将帥は力不足です。
兵を挙げて討伐に向かえば、必ず勝てるでしょう。
※若干中略
此、蓋天以與我、時不可失也」先主善其策、乃率諸將進兵漢中、正亦從行。
これは恐らく天が与えたときです。天の時を失ってはなりません。」劉備はこの策を良いと思い、諸将を率いて漢中に進軍し、法正もまた随行した。
二十四年、先主自陽平南渡?水、?山稍前、於定軍興勢、作營。淵、將兵來爭其地。正曰「可?矣」先主命?忠、乘高鼓譟攻之、大破淵軍。淵等、授首。曹公西征、聞正之策、曰「吾故知、玄德不?有此、必爲人所教也。」
建安二十四年(219年)、劉備は陽平から?水を南に渡河し、山にそって少しずつ前に進み、定軍・興勢において陣を張った。夏侯淵がまさに兵を率いてその地を争いに来た。
※世に言う定軍山の戦いやで
正曰「可?矣」先主命?忠、乘高鼓譟攻之、大破淵軍。淵等、授首。曹公西征、聞正之策、曰「吾故知、玄德不?有此、必爲人所教也。」
法正曰く「討つべきでしょう。」劉備は黄忠に命じて高いところから太鼓を大いに鳴らさせながら攻撃させ、夏侯淵の軍を大破させた。夏侯淵らは首を刎ねられた。
※ここ物凄くかっこよくて好きやわ
>>512-514
なんか始まっとるwwww
曹公西征、聞正之策、曰「吾故知、玄德不?有此、必爲人所教也。」
曹操は西に向かい、法正の策を聞いて曰く「知っていた、玄徳はこのような能力など無く、必ず人に教えられたのだと。」
※曹操に認められるんやから法正も大人物ってことやな
玄徳はこのような能力など無く
どの能力なんやろ…
曹操は別の伝で「劉備は私に匹敵するが考えるのが遅い」と述べとるから
臨機応変さかもしれへんね
先主立爲漢中王、以正爲尚書令、護軍將軍。明年卒、時年四十五。先主爲之流涕者累日。諡曰翼侯。
劉備が漢中王になった時、法正は尚書令、護軍将軍となった。明年(220年)亡くなり、齢は四十五歳であった。劉備は連日涙を流した。翼侯と諡した。
>>518
蜀は大人物ほどすぐ死ぬ傾向にあるからかなC
賜子?、爵關?侯、官至奉車都尉、漢陽太守。
子の法?は、関内侯の爵位、奉車都尉、漢陽太守の官位を賜った。
諸葛亮與正、雖好尚不同、以公義相取。亮、?奇正智術。先主既?尊號、將東征孫權以復關羽之恥、羣臣多諫、一不從。
諸葛亮と法正は性向が同じではなかったが公の場においては互いに協力した。諸葛亮は法正の智謀を優れていると思っていた。劉備が皇帝になると東に行って孫権を討伐し、関羽の恥をそそごうとした。群臣は多くが諌めたが、一向に従わなかった。
章武二年、大軍敗績、還住白帝。亮歎曰「法孝直若在、則能制主上、令不東行。就復東行、必不傾危矣。」
章武二年(222年)、大軍は敗北し、白帝城へ帰った。諸葛亮は嘆いて曰く「法孝直がもし居れば、陛下をよく諌め、東に行かせなかっただろう。もし行かせたとしても、危険には晒さなかったであろう。」
この部分、実は陳寿の創作じゃないかという気もする。
創作は考えたことなかったわ
そうだとしたら陳寿はロマンチストやね
あまりに郭嘉の逸話と同じすぎる気がしてるんや。
蜀漢の法正は、魏の郭嘉と同じぐらいの謀臣やと宣伝するためではないかと。
そういわれてみれば赤壁の話と似てるわ
その可能性もあるなぁ
>>523
蜀科(蜀の法律)を作ったときの序列が
諸葛亮、法正の順やったから丞相は諸葛亮やないかと思う
これで終わりやけどおまけに陳寿の評を乗せとくわ
評曰。(中略)法正、著見成敗、有奇畫策算。然、不以德素稱也。?之魏臣、(中略)、正其程郭之儔儷邪。
(陳寿が)評して曰く。(中略)法正は成功と失敗をよく見極め、素晴らしい智謀を有していた。しかし、徳については褒められたものではなかった。もし魏の臣に例えるなら、(中略)法正は程昱、郭嘉の類であろうか?
薄徳知謀って曹操陣営向きかも知れんな
せやな。
しかし、諸葛亮の立ち位置もよくわからんのや。
軍師中郎将→軍師将軍になって、漢中王国での官位は無いからな。
はえー、じゃあ丞相法正、三公諸葛亮とかになる可能性もあるんか
なんかかっこええな
法正「北伐待ったなし!」
恰好いい
そろそろ終わりにするやで
ほな、また