今日は呂蒙、曹昂伝をやっていくで
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呂蒙、字子明、汝南富陂人也。
呂蒙、字を子明といい、汝南富陂の人である。
少南渡、依?夫鄧當。當、爲孫策將、數討山越。蒙、年十五六、竊隨當、?賊。
幼いころに南に渡り、姉の夫の鄧当に依った。鄧当は孫策の将となり、幾度も山越(※)を討った。呂蒙は年十五六で密かに鄧当に随行し、賊を討った。
※山越は南方の異民族
一騎当千好き?
世代的にな、好きやで
當、顧見大驚、呵叱、不能禁止。歸、以告蒙母、母恚欲罰之、蒙曰「貧賤、難可居。
鄧当はこれをみつけると大いに驚いて、叱ったが、禁止することは出来なかった。帰って呂蒙の母に告げると、呂蒙の母は怒ってこれを罰しようとしたが、呂蒙が言った「貧しい所に居り難いものです。
?誤有功、富貴可致。且、不探虎穴、安得虎子」母哀而舍之。
何か間違って功績でも有れば、富貴を招くことが出来ます。そして、虎の穴を探らずに、虎の子を得ることが出来ましょうか」母は哀れんでこれを捨ておいた。
時、當職吏、以蒙年小輕之、曰「彼豎子、何能爲。此、欲以肉餧虎耳」他日與蒙會、又蚩辱之。蒙大怒、引刀殺吏、出走、逃邑子鄭長家。
時に、鄧当の職吏が呂蒙の年少なことからこれを軽んじて言った「こんな未熟者に何が出来るのだ。これでは肉を虎に与えようとしているだけだ」他日にも呂蒙と会って、またこれを侮辱した。呂蒙は大いに怒り、刀を引いて吏を殺し、逃走し、邑の鄭長の家に逃げ込んだ。
出因校尉袁雄、自首。承閒爲言、策召見奇之、引置左右。
校尉袁雄に出頭して、自首した。間に立つことを承るものが言をなしたので、孫策は招いて見るとこれを素晴らしく思い、従者に引き立てた。
數?、鄧當死、張昭薦蒙代當、拜別部司馬。
数年すると鄧当が死に、張昭は呂蒙を鄧当の代わりに推薦し、別部司馬を拝命した。
權統事、料諸小將兵、少而用薄者、欲?合之。蒙陰?貰、爲兵作絳衣行縢。
孫権は事業を統べることになると、諸々の小さな将兵を計って、兵が少なく用いるところの薄い者を併合しようとした。呂蒙は密かに利子付きで貸してもらい、赤い衣と行縢(むかばき)を兵のために作らせた。
少数の兵力しか出せない小豪族は併合するで!って感じなのかな
及簡日、陳列赫然、兵人練習、權見之大悅、增其兵。從討丹楊、所向有功、拜平北都尉、領廣德長。
閲兵の日に及び、(呂蒙の軍は)陳列すること輝くようで、兵士は訓練されており、孫権はこれをみて大いに喜び、その兵を増やした。丹楊を討つのに従い、向かう所で功があり、平北都尉に拝命され、広徳の長を領した。
なんか以外やな、縁もゆかりも無い感じやけど
そういう意外性を見つけるのって面白いよね
從征?祖。祖、令都督陳就、逆以水軍出戰。蒙、勒前鋒、親梟就首。將士乘勝、進攻其城。祖、聞就死、委城走、兵追禽之。
黄祖征伐に従った。黄祖は都督陳就に水軍で戦に出し迎撃させた。呂蒙は先鋒を御して陳就を晒し首にした。将士は勝ちに乗じてその城に進攻した。
※黄祖の守る城なので江夏のこと
權曰「事之克、由陳就先獲也」以蒙爲橫野中郎將、賜錢千萬。
孫権は言った「これに勝てたのは、陳就を先に捕獲したからである」呂蒙を横野中郎将とし、銭千万を賜った。
蒙ちゃん時代から将の片鱗はあるんやね
まぁそりゃそうやが
才能ある人って
小さく用いても大きく用いても
その力を発揮するもんやからね
ワイも黄祖に興味持ってなかった
呉志は呉に有利な記述多いからね
黄祖は味のある将軍だよな、不屈って感じ
北方版の黄祖を撃てば孫家も軟化するだろうって
劉表の思惑から
江夏に張り付けられた不遇の老将軍のイメージが強い
関わった人が多いからその扱いはしゃーない
是?、又與周瑜程普等、西破曹公於烏林、圍曹仁於南郡。
この年(208年)、周瑜、程普らが西において曹操を烏林で破り、曹仁を南郡で包囲した。
益州將襲肅、舉軍來附、瑜表以肅兵益蒙。
益州の将襲粛が軍を挙げてやって来ると、周瑜が上表して襲粛の兵を呂蒙に与えようとした。
ビルマ?
ああ、それ創作や
正史やと益州の南四郡が叛いたのを鎮めただけやで
蒙、盛稱肅、有膽用、且慕化遠來、於義宜益、不宜奪也。權善其言、還肅兵。
呂蒙は襲粛を盛んに称え、用いるべき胆力があり、遠くから我々を慕ってやって来たのだから、義においても兵を与えるのは善くても奪うべきではないと言った。孫権はその言葉を良いと思い、襲粛に兵を返した。
なお皇帝即位後
??「諫言拒否」
遼東、呂壱、二宮「え?なんだって?」
瑜、使甘寧、前、據夷陵、曹仁分衆攻寧、寧困急、使使請救。諸將、以兵少、不足分。
周瑜は甘寧を遣わし前方の夷陵に拠らせると、曹仁は兵を分けて甘寧を攻撃し、甘寧は困窮して、使者を遣わして救援を要請した。諸将は兵が少なく、(救援のために)分けるには足りないと言った。
蒙謂瑜普曰「留?公績、蒙與君行。解圍、釋急、勢亦不久。蒙保、公績能十日守也」
呂蒙は周瑜、程普に言った「凌公績(凌統)を留めて、呂蒙が貴方達と行きます。包囲を解き、緊急から逃れれば、勢いはまた久しくないでしょう。呂蒙が保証します、公績は十日の間守りきることが出来るでしょう」
又?瑜、分遣三百人柴斷險道、賊走可得其馬。瑜從之。
また周瑜に説いて三百人を分けて遣わし険しい道を遮断すれば、賊(曹軍)が逃走するときその馬を得られると言った。周瑜はこれに従った。
軍到夷陵、?日交戰、所殺過半。敵夜遁去、行遇柴道、騎皆舍馬?走。兵追蹙?、獲馬三百匹、方船載還。
軍が夷陵に到ると即日交戦し、殺すところ半数を過ぎた。敵は夜に遁走し、遮断された道に行き、騎兵は皆馬を捨て徒歩で逃走した。兵は追撃し、馬三百匹を獲得し、方船(長方形の船)に乗って帰った。
ワイ実は嫌い
料理人射殺が畜生すぎて
甘寧は鉄球ぶんぶん回して
一番乗りって名乗っときゃ良いんやなって
ニキはそろそろ来るで
於是將士形勢自倍、乃渡江、立屯、與相攻?、曹仁退走、遂據南郡、撫定荊州。還、拜偏將軍、領尋陽令。
これによって将士の形勢は倍になり、長江を渡って駐屯し、皆と攻撃し、曹仁は敗走して、遂に南郡に拠り荊州を平定した。帰って偏将軍を拝命し、尋陽令を領した。
魯肅、代周瑜、當之陸口、過蒙屯下。肅、意尚輕蒙、或?肅曰「呂將軍、功名日顯、不可以故意待也。君宜顧之」遂往詣蒙。
魯粛は周瑜に代わって陸口に当たり、呂蒙の駐屯する所を過ぎた。魯粛は心の中で尚も呂蒙を軽んじていたがある人が魯粛に言った「呂将軍の功名は日に明らかで昔を見て待遇するべきではございません。貴方もこれを顧みるのがよろしいでしょう」遂に行って呂蒙に会った。
福州とかただのコメ地帯やろか
始皇帝の時代から始まり
漢代から本格スタートしたらしいで
この時は士燮がその辺の利益独占してるっぽいね
数少ない呉が陸戦で魏を
しかも名将曹仁を打ち破り
重要拠点を奪取した南郡の戦い
時勢の差があるとはいえ
やっぱ周瑜って神だわ
この時代屈指の名将やと思う
酒酣、蒙問肅曰「君受重任、與關羽爲鄰。將何計略、以備不虞?」肅造次應曰「臨時施宜」
酒もたけなわとなり呂蒙が魯粛に問うて言った「貴方は重任を受け、関羽と隣り合うこととなります。どのような計略で不慮の事態に備えるのですか?」魯粛はとっさに答えて言った「時に及んで適宜に施そう」
蒙曰「今、東西雖爲一家、而關羽實熊虎也。計、安可不豫定?」因爲肅、畫五策。
呂蒙は言った「今、東西は一家となっている(孫と劉とは同盟している)とはいえども、関羽は実に熊や虎であります。計略をどうしてあらかじめ定めておくべきではないのですか?」魯粛に五つの策を画策した。
正史やと知勇兼備の名将
特に武のほうはやばい
>>589
正史注釈『傳子』に曰く張遼の軍略は曹仁に継ぐ
張遼以上の評を得てたんんやで曹仁
晩年は大将軍・大司馬に昇進。つまり魏の軍部のトップになっとる
このような人間も噛ませにされるのが
演義およびそれベース作品の常なので気をつけ
一族やから贔屓もあったやろうけど
その地位になるのは凄いわな
??「ここにいるぞ!」
??「一番乗り」
??「空箱だぁ!(憤死)」
ネタの宝庫やな
横山に影響されて
三国志覚えたやつも多いはず
肅於是越席就之、拊其背曰「呂子明。吾不知、卿才略所及乃至於此也」遂拜蒙母、結友而別。
魯粛はこれによって席を越えてこれ(呂蒙)に着き、その背を叩いて言った「呂子明(呂蒙)。私は知らなかった、卿の才略の及ぶ所がここまでに至っているとは」遂に呂蒙の母を拝して友誼を結んで別れた。
張遼、満寵「駄目です」
※有名な逸話なので裴松之が注釈のために引用した『江表伝』より抜粋
後魯肅上代周瑜、過蒙言議、常欲受屈。肅拊蒙背曰「吾謂大弟但有武略耳、至於今者、學識英博、非復?下阿蒙。」
後に魯粛が周瑜に代わって(江を)上って来て、呂蒙と議論をして過ごし、常に屈せられそうになった。魯粛は呂蒙の背を叩いて言った「私は大弟(呂蒙)がただ武略のみあると思っていたが今に至っては、学識が秀でて博識で、呉の阿蒙ではないな。」
それ聞くと
どうしても青い髪のほう思い浮かべてまう
さっきもそんなレスあったけど
直訳が蒙ちゃんなのが悪い、眼帯サイドにも責任は…
「阿」を訳すとき「ちゃん」がわかりやすいからね
蒙曰「士別三日、?更刮目相待。」
呂蒙は言った「士が別れて三日になれば、即ち刮目して相対するべきです。」
呂蒙最大の見せ場やね
荊州を忘れないであげてくれ
ここからは本文
時蒙與成當、宋定、徐顧、屯次比近。三將死、子弟幼弱、權悉以兵?蒙。蒙、固辭陳啓、顧等皆勤勞國事、子弟雖小不可廢也。
時に呂蒙は成当、宋定、徐顧と駐屯して近くに居た。三将が死んで子弟は幼く、孫権は悉く兵を呂蒙に併合させようとした。呂蒙は固辞して陳述の書を送り、徐顧らは皆国事に勤労で、子弟が幼いとはいえども廃すべきではないと言った。
呉の伝に共通してるけど
このへん兵は将の所有物って感覚が端々に見えるよね
私兵制やからね
豪族の集まりみたいにいわれるけど
その証拠の一つや
書三上、權乃聽。蒙於是又、爲擇師使輔導之。其操心率、如此。
書は三度上表され、孫権はこれを聞き入れた。呂蒙はここにおいてまた、師を選んで(徐顧らの子弟を)補導させた。その心配りはおおむねこのようであった。
魏、使廬江謝奇、爲?春典農、屯皖田?、數爲邊寇。蒙使人誘之、不從、則伺隙襲?。奇、遂縮退。其部伍、孫子才、宋豪等、皆攜負老弱詣蒙降。
魏が謝奇を廬江に遣わし、?春典農として皖の田郷に駐屯させ幾度も侵略させた。呂蒙は人を遣わしてこれを誘い、従わなかったので、隙を見て襲撃した。謝奇は遂に撤退した。その部伍の孫子才、宋豪らは皆老弱な者を伴って呂蒙に会い、降伏した。
張昭「一理ない」
後、從權拒曹公於濡須、數進奇計。又勸權、夾水口立塢、所以備御甚精、曹公不能下、而退。
後に孫権が曹操を濡須において拒むのに従い、幾度も奇計を進言した。また孫権に勧めて水を挟んで塢(防砦)を立てるように言い、これによって防備ははなはだ精強となり、曹操は降すことが出来ず撤退した。
どれになるか注意が必要
>>610は第一次の212年~213年の戦いやね
曹公、遣朱光爲廬江太守、屯皖、大開稻田。又令閒人、招誘?陽賊帥、使作?應。
曹操は朱光を廬江太守として遣わせ、皖に駐屯させ、稲田を大きく開かせた。また間諜に?陽の賊の総帥を招致させ、内応者を作らせた。
蒙曰「皖田肥美、若一收孰、彼衆必增。如是數?、操態見矣。宜早除之」乃具陳其?。
呂蒙は言った「皖の田は美しく肥え、もし一度でも収穫されれば、いずれ彼らの兵は必ず増えるでしょう。このようなことが数年あれば、曹操の様子を見ることになるだろう(曹操軍が攻めて来るだろう)。早めにこれを除くのがよろしいでしょう」こうしてつぶさに状況を述べた。
於是權親征皖、引見諸將、問以計策。蒙乃薦、甘寧爲升城督、督攻在前、蒙以精?繼之。
これにおいて孫権は皖に親征し、諸将を引見して計策を問うた。呂蒙が推薦して甘寧を升城督にし、督(甘寧)を前に置いて攻めさせ、呂蒙が精鋭を以てこれに続いた。
侵晨進攻、蒙手執枹鼓、士卒皆騰踊自升、食時破之。既而張遼、至夾石、聞城已拔、乃退。
朝に進攻し、呂蒙は手ずからばちを取って太鼓を打ち、兵士は皆躍り出て自ら(城に)登り、食事の時にこれを破った。既に張遼が夾石に至っていたが城が抜かれたと聞き、撤退した。
朝飯前ってか
誰が上手いことをいえと
むしろこんな昔から
こんなニュアンスの言葉ってあるんやな
今朝飯前の語源ググったら日本特有の言葉だった
でもそれに近いニュアンスがあるのは確かに面白い
中国で朝飯前を現代の意味で初めて使ったのは
光武帝配下の賈復やね
つっても朝食の前に敵を打ち破ったというだけで
それがコトワザとして残った訳やないっぽいな
長い歴史のなかで思い付くやつは思い付くネタやってことかなぁ
權嘉其功、?拜廬江太守、所得人馬皆分與之、別賜尋陽屯田六百人官屬三十人。
孫権はその功を良しとし、即座に廬江太守を拝命させ、所得した人馬を皆これと分かち、尋陽を屯田する六百人と官に属する三十人を別に賜った。
呉にはどんな派閥があるんや?
二宮の時に三男派と四男派に分かれたのは知ってるけど
それ以外はわからん
蒙還尋陽、未期而廬陵賊起。諸將討?不能禽、權曰「鷙鳥累百、不如一鶚」復令蒙討之。蒙至、誅其首惡、餘皆釋放、復爲平民。
呂蒙が尋陽に帰り未だ一年にならないうちに廬陵で賊が蜂起した。諸将は討伐しても捕らえられず、孫権は言った「鷙鳥百を累(かさ)ねても一鶚に如かないな(※)」また呂蒙にこれを討たせた。呂蒙は到着するとその首領を誅殺し、余人は皆釈放し、また平民とした。
※鷙鳥(猛禽類)が百羽いても一羽の鶚(ミサゴ)には及ばない、即ち無能な者が多く居ようとも一人の有能な者には及ばないという例え
本当にたまにいいこと言う
たまにだけど