太史慈伝や
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太史慈、字子義、東??人也。少好學、仕郡、奏曹史。
太史慈は字を子義といい、東?黄の人である。幼くして学を好み、郡に仕えて奏曹史となった。
會郡與州有隙、曲直未分、以先聞者、爲善。時、州章已去、郡守、恐後之、求可使者。
その時郡と州では間が空いていて、正しきと間違いが分からぬ時は、先に聞いたものを善としていた。時に州の文章が既に行き、郡守はこの後になるのを恐れ、使者となるべき者を求めていた。
慈、年二十一、以選行、晨夜取道、到洛陽、詣公車門。
太史慈は年齢が二十一で、(使者として)行くのに選ばれ、昼夜を兼行して道を行き、洛陽に到って、公車門に行った。
見州吏始欲求通、慈問曰「君、欲通章邪」吏曰「然」問「章、安在?」曰「車上」慈曰「章題署、得無誤邪?取來視之」
州の吏が通達を求めているのを見ると、太史慈は言った「君、文章を通達したいのか」吏は言った「そうだ」(太史慈は)問うた「文章は何処に在るか?」(吏は)言った「車上だ」太史慈は言った「文章の題目は誤っていないか?取って来て見てはどうか」
吏、殊不知其東?人也、因爲取章。慈、已先懷刀、便截敗之。吏、踴躍大呼、言「人、壞我章!」
吏はまったく東?の人であると知らず、文章を取って来た。太史慈は既に先んじて懐刀でこれを切り捨てた。吏は躍り出て大声で呼ばわって言った「この人が私の文章を壊した!」
慈、將至車閒、與語曰「向使、君不以章相與、吾亦無因得敗之。是、爲吉凶禍福、等耳。
太史慈はまさに車間に到り、共に語って言った「もし君が文章を与えなければ、私もこれを破ることは出来なかった。これは吉凶禍福はどう出るかわからないということである。
何一つとして理屈が通ってなくて草生える
>>394
太史慈「文章破ったのは俺が悪いけど、見せた君も悪いよね」
官吏「はい。」
キチガイかな?
実際言われたら
かかわったらアカンやつと思うやべーやつ
吾、不獨受此罪。豈若默然?出去、可以存易亡。無事?就刑辟」
私が一人罪を受けるだけではない。黙然として共に出て行かなければ生存は容易に死亡となるぞ。刑罰を共に受けることは無い」
吏言「君、爲郡敗吾章。已得如意、欲復亡爲?」
吏は言った「君は郡のために私の文章を破った。既に意のままに出来たのに、どうして逃亡しようとするのか?」
慈答曰「初受郡遣、但來視章通與未耳。吾用意太過、乃相敗章。今還、亦恐以此見譴怒、故?欲去爾」吏、然慈言、?日?去。
太史慈は答えて言った「初めに受けた郡の命令は、ただ文章が通達されるかを見ることだけであった。私がその意を越えて文章を破ってしまった。今帰れば、また恐らくこれを見て怒られるであろうから、故に共に去ろうとしたのだ」吏はその通りだと言って即日共に去った。
結果見れば太史慈すげーってなるけどねこれ
こんなキチガイ理屈言われたら
そらはいとしか言えんわ
慈、既與出城、因遁還通郡章。州家、聞之、更遣吏通章。有司、以格章之故、不復見理。州、受其短。
太史慈は共に城を出ると、引き返して郡の文章を通達した。州家はこれを聞き、改めて吏に文章を通達させた。司は先の文章を理由とし、受理しなかった。州はその短所を被った。
由是、知名。而爲州家、所疾。恐受其禍、乃避之遼東。
これによって名が知られることとなった。しかし州家に憎まれた。禍を受けることを恐れ、遼東に逃避した。
うぐぅ・・・となって納得する謎展開って
以下にも中国の武侠小説っぽい
中国ってたまに謎の説得あるよな
水滸伝とか
「破った俺も悪いけど隠さなかった君も悪い。共に逃げよう。」
って言い、後でこっそり自分だけ上奏をすませたんだよね
賢いやっちゃで
若気の至りって事で
なお死ぬまで至ってる模様
ネタバレしないけど
死に際の台詞とか完全にやべーやつだよな
北海相孔融、聞而奇之、數遣人訊問其母、?致餉遺。
北海の相孔融はこれを聞いて素晴らしいと思い、度々人を遣わしてその母を訪ねさせ、併せて贈り物をした。
孔子の子孫やから(震え声)
時融、以?巾寇暴、出屯都昌、爲賊管亥所圍。
時に孔融は黄巾の害に遭い、都昌に駐屯して、賊の管亥に囲まれている所となった。
慈、從遼、東還。母謂慈曰「汝、與孔北海未嘗相見。至汝行後、贍恤殷勤、過於故舊。
太史慈は遼の東に帰った。母は太史慈に言った「お前は孔北海(孔融)と未だ会ってはいません。お前が行った後に助けてもらうことは心がこもっており、旧知の人より過ぎておりました。
孔融って
なんで太史慈の母にこんな良くしてたんやろな
あっ・・・
ナニを察したんですかねぇ?
今、爲賊所圍、汝宜赴之」慈、留三日、單?徑至都昌。
今、賊に囲まれる所となり、お前はこれに赴くのが良いでしょう」太史慈は三日留まった後、徒歩で都昌に到った。
時、圍尚未密、夜伺閒隙、得入見融。因求兵、出斫賊。融、不聽、欲待外救。
時に包囲は密にならず、夜に隙を伺って孔融に会うことが出来た。兵を出して賊を斬ることを求めた。孔融は聞かず、外の救援を待った。
未有至者而圍日?。融、欲告急平原相劉備。城中人無由得出、慈自請求行。
未だ(救援が)至らず包囲は日々狭くなった。孔融は平原の相劉備に緊急を告げようとした。城内に脱出できる人はなく、太史慈は自ら行くことを求めた。
融曰「今、賊圍甚密、衆人皆言不可。卿意雖壯、無乃實難乎」
孔融は言った「今、賊が囲むこと甚だ密であり、衆人はみな不可能だと言っている卿は強壮といえども実のところは難しくないか」
慈對曰「昔、府君傾意於老母。老母感遇、遣慈赴府君之急。固以慈有可取而來必有益也。
太史慈は答えて言った「昔、府君(孔融)は老母に意を傾けられました。老母は感激し、私を府君の緊急に遣わしたのです。私もやるべきだと思い、来たら必ず益があると思いました。
今、衆人言不可、慈亦言不可、豈府君愛顧之義、老母遣慈之意邪。事已急矣、願府君無疑」融、乃然之。
今、衆人は不可能と言い、私も不可能と言えば、どうして府君が愛のある義と老母が私を遣わした意図に沿えるのでしょう。事は既に緊急となり、願わくば府君は疑わないでください」孔融はその通りだとした。
於是嚴行蓐食、須明、便帶?攝弓上馬。將兩騎、自隨、各作一的持之。開門、直出。
これにおいて決まりを守り寝床で食事をし、(夜が)明けてから弓袋を帯び弓を取って馬に乗った。二騎を率いて自らに随行させ、各々に一つの的を持たせた。門を開き出て行った。
あれは若気の至りだから(震え声)
外圍下左右人並驚駭、兵馬互出。慈、引馬、至城下塹?、植所持的各一、出射之。射之畢、徑入門。
外の包囲の人は皆驚愕し、兵馬を交互に繰り出した。太史慈は馬を引き、城下の塹壕の中に到ると、所持した的の一つずつを植え、これを射た。射終わると、すぐに門に入った。
明晨復出如此、無復起者。於是、下鞭馬、直突圍中、馳去。比賊覺知、慈行已過、又射殺數人、皆應弦而倒、故無敢追者。
明日の朝、また出てこのようにし、起きる者はなかった。これにおいて弓袋を馬から下し、すぐに包囲の中を突破し、馳せ去った。賊が知ったころには太史慈は既に過ぎていて、また数人が射殺され、皆弦が引かれると倒れ、敢えて追う者はなかった。
遂到平原、?備曰「慈、東?之鄙人也。與孔北海、親非骨肉、比非?黨。特以名志相好、有分災共患之義。
遂に平原に到ると、劉備に説いて言った「私は東?の辺鄙な所の人です。孔北海(孔融)は骨肉を同じくする親ではありませんし、同郷の者でもありません。ただ名と志を良しとし、災いを分け患いを共にする義があるだけです。
今、管亥暴亂、北海被圍、孤窮無援、危在旦夕。以君有仁義之名能救人之急、故北海區區、延頸恃仰、使慈冒白刃、突重圍。
今、管亥の暴乱で北海は包囲され、孤立無援となり、朝夕危機にあります。劉備様は仁義の名で人の緊急のことをよく救いますので、北海はばらばらで首を伸ばして救援を待ち、私を白刃の危機を冒させてまで遣わし、包囲を行かせました。
太史慈は呉の臣下枠ではなく
呉の地に割拠した群雄枠で立伝されている
劉?や士燮と共に
元々の地盤や権威があった訳でもなく
身一つで彼らと並べられている時点で
只者やないって事やな
これは注目してほしい
後でも言うけど
太史慈の死に際の台詞からそういう扱いになったとワイは睨んでる
從萬死之中自託於君、惟君所以存之」
万死の中に君が私を託されたので、ただ劉備様のみ存続させられるところであります」
演義では考えたらずの猛将
正史では知的なスナイパー
それが太史慈
やっぱり演技と無双の脳みそ筋肉みたいな武器の所為じゃないか
双鞭は防御力高すぎて
剣や刀で斬れない鎧の上から物理でぶったたくっていう
合理的な武器なんやで
なんせあの呼延灼が使ってるんやからな
備、斂容答曰「孔北海、知世閒有劉備邪」?遣精兵三千人隨慈。賊、聞兵至、解圍散走。
劉備が気を引き締めて容態を答えて言った「孔北海(孔融)は世間に劉備ありと知っておられたか」すぐに精兵三千を遣わして太史慈に随行させた。賊は兵が来ると聞き囲みを解いて離散した。
何もせず黄色い服着させられて
皇帝になった男とかもおるから
揚州刺史劉?、與慈同郡。慈、自遼東還、未與相見。暫、渡江到曲阿、見?。
揚州刺史劉?は太史慈と同郡である。太史慈が自ら遼東から帰ると、未だ見えていなかった。しばらくして長江を渡り曲阿に到ると、劉?に会った。
未去、會孫策至。或勸?可以慈爲大將軍、?曰「我、若用子義、許子將不當笑我邪」但使慈偵視輕重。
未だ(太史慈が)去らぬうちに孫策がやって来た。ある者は劉?に太史慈を軍の大将にするべきだと勧めたが劉?は言った「私がもし子義(太史慈)を用いれば許子将(許劭)が笑わないだろうか」ただ太史慈に(敵の)軽重を偵察させた。
>>457
許劭「太史慈は忠義の皮を被った梟雄だぞ」
うーんこれは慧眼
許靖「そんな奴のいうこと信用できないぞ」
弓が得意と設定されてるの少ないんだよな太史慈
どうしても戟のイメージが強いのか
時、獨與一騎、卒遇策。策、從騎十三、皆韓當、宋謙、?蓋輩也。
時に一人で一騎と共に孫策に遭遇した。孫策は従者に十三騎で皆韓当、宋謙、黄蓋のような輩であった。
韓当、宋謙、黄蓋のような輩であった。
謎の上から目線の言い草で草
これ以外だと本当にないからな
あと呂布とカクシとかがやってるけど
それ以外すぐには思い当たらん
慈、便前?、正與策對。策、刺慈馬而?得慈項上手戟、慈亦得策兜?。會兩家兵騎並各來赴、於是解散。
太史慈はすぐに前に出て闘い、正面から孫策と対峙した。孫策は太史慈の馬を刺し、太史慈の首の後ろの手戟を奪い得て、太史慈もまた孫策の兜を奪い得た。両家の兵馬が各々並んでやって来て、これにおいて解散した。
慈、當與?、?奔豫章、而遁於蕪湖、亡入山中、稱丹楊太守。
太史慈は劉?と共に豫章に出奔しようとしたが、蕪湖において遁走し、逃亡して山中に入り、丹楊太守を自称した。
是時、策已平定宣城以東、惟涇以西六縣未服。慈、因進住涇縣、立屯府、大爲山越所附。
この時、孫策は既に宣城以東を平定し、ただ涇県以西の六県が服従していなかった。太史慈は涇県に進んで行き、駐屯府を立て、山越(※)は大いに附属する所となった。
※山越は南方の異民族
策躬自攻討、遂見囚執。策?解縛、捉其手曰「寧識神亭時邪。若卿爾時得我、云何」慈曰「未可量也」
孫策が自ら討伐すると、遂に虜囚となった。孫策はすぐに縛めを解きその手を取って言った「神亭の時のことを覚えているか。もし卿が私を捕らえたならばどうする気だった」太史慈は言った「図りかねます」
これ本音とも打算ともとれて良い台詞やな
確かに打算ともとれるな
というかやりそう
策大笑曰「今日之事、當與卿共之」?署門下督。還?、授兵、拜折衝中郎將。
孫策は大いに笑い「今日のことは卿と共にしよう」すぐに門下の督にした。兵を授け、折衝中郎将に拝命した。
後、劉?亡於豫章、士衆萬餘人未有所附。策、命慈、往撫安焉。左右皆曰「慈、必北去不還」策曰「子義、捨我、當復與誰?」
後に劉?が豫章において亡くなり、兵士一万余りは未だ附随する所がなかった。孫策は太史慈に命じ、安撫に行かせた。従者は皆言った「太史慈は必ず北に去り帰りません」孫策は言った「子義(太史慈)が私を捨てれば、また誰と共にするのだ?」
周泰=ホモ、太史慈=ホモ
呉はホモだらけやないか
「呉は男子校の不良達を描いてるみたいで楽しかった」
って言ってるんだよな
やっぱりホモじゃないか!
男子校=ホモという偏見
餞送昌門、把腕別曰「何時能還」答曰「不過六十日」果如期而反。
(孫策は)昌門にて餞別して送り、腕を取って別れて言った「何時帰ることが出来る」(太史慈は)答えて言った「六十日は過ぎません」はたして期日に帰って来た。
劉表從子磐、驍勇、數爲寇於艾西安諸縣。策於是、分海?建昌左右六縣、以慈爲建昌都尉、治海?。?督諸將、拒磐。磐、?迹、不復爲寇。
劉表の甥劉磐は勇猛で、度々艾、西安の諸県を襲った。孫策はこれにおいて海?、建昌の左右六県を分け、太史慈を建昌都尉として海?を治めさせた。併せて諸将を監督して劉磐を拒んだ。劉磐は行ないを止め、またと襲わなかった。
慈、長七尺七寸、美鬚髯、?臂善射、弦不?發。
太史慈は身長七尺七寸(※)で顎と頬の髭が美しく、長い腕はよく弓を射て、弦が虚しく発することはなかった。
※一尺を漢代の24.2cmで計算すると186.34cmとなる
女子高生の黒髪が綺麗だねーみたいに
その髭美しいわねーみたいなこと言ってたんやろ(適当)
一騎当千か恋姫の世界だと思って想像しとくンゴ
魏ですねこれは…間違いない…
嘗從策、討麻保賊。賊、於屯裏?樓上、行詈、以手持樓?。慈、引弓射之、矢、貫手著?。圍外萬人、莫不稱善。其妙如此。
かつて孫策に従い、麻保賊を討った。賊は駐屯所の中の楼の上で罵詈し、手では楼の棟木を持っていた。太史慈が弓を引きこれを射ると、矢は手を貫通し楼の棟木に張り付けた。外を囲っていた万人で善いと称さない者はなかった。その妙技はこのようであった。
曹公、聞其名、遺慈書以篋封之。發省、無所道、而但貯當歸。
曹操はその名を聞くと箱に封をして太史慈に書を遣わした。開いて見てみるも言葉はなく、ただ當歸(※)が貯えられていた。
※當歸は草の名前であるが「當(まさ)に歸(かえ)るべし」と読める
帰って来て私に仕えよという曹操のジョーク
こいついつも変な箱送ってんな
曹操この手の謎かけ言葉遊び本当好きやな
孫權統事、以慈能制磐、遂委南方之事。年四十一、建安十一年卒。子享、官至越騎校尉。
孫権が事を統べると、太史慈がよく劉磐を制することが出来たので、遂に南方のことを委ねた。年四十一、建安十一年(206年)に亡くなった。子の太史享が越騎校尉の官職に至った。
なお寿命
なぜか貴重な戦力であるはずの
劉備と新野が独立している模様
面白い逸話なので裴注が引く『呉書』より抜粋
呉書曰。慈臨亡、歎息曰「丈夫生世、當帶七尺之劍、以升天子之階。今所志未從、奈何而死乎!」權甚悼惜之。
呉書曰く。太史慈は死に臨み、嘆息して言った「大丈夫が世に生まれたなら、七尺の剣を帯びて、天子の階に上るものだ。今、志は従わないのに、死んでどうするのだ!」孫権ははなはだこれを哀悼した。
※太史慈は皇帝になりたがっていたというのが見て取れる
太史慈は呉の臣としてではなく劉?、士燮ら群雄と共に列伝されているのはこれが理由かもしれない
陳寿の評
太史慈、信義篤烈、有古人之分。
太史慈は信義に厚く、古人のような分別があった。
確かに呉は魏蜀と比べてキャラ濃いな
太史慈も十分濃いけど
賀斉が特に濃すぎる
>>501
これはゲーム三國志の話だが
呉は知勇兼備のオールマイティー型の将がやたらと多い
全能力60~80のね
これは呉が、中央集権を確立していた魏蜀と違い
群臣が領地を治める封建制度をとっていたから
誰でも統治と戦闘の両方をこなさざるを得なかったという話
しかし制度としてこれは時代遅れであり
呉に政争が絶えなかったのはこれが大きな要員と言える
乙やでー今日も楽しかった
いやいや、見てくれてありがとナス
呉は豪族の寄り合いみたいなもんで
結束力はあまり無いからな、孫氏は象徴的な意味合いが強いし
だからこそ防衛戦では地の利も相まって強いけど
外へ攻めるとなると途端にボロボロになる
無双シリーズで絆絆うるさいけど
ぶっちゃけ呉が一番絆弱いで
この謎の理屈ゴリ押し説得はヨクサル漫画を彷彿とさせる