或以「山東未平。韓暹楊奉、新將天子到洛陽。北連張楊。未可卒制」
ある人は主張した「山東は平定されておりません。韓暹、楊奉は新たに天子を率いて洛陽に到りました。北は張楊に連なっております。にわかには制することが出来ません」
ニュース
彧勸太祖曰「昔高祖東伐、爲義帝縞素、而天下歸心。自天子播越、將軍首唱義兵。
荀彧が曹操に勧めて言った「昔高祖は東に征伐しに行き、義帝のために白の喪服を着たことで天下が帰心しました(※)。天子が自ら(長安より)逃げられると、将軍は義兵を唱えました。
※高祖の宿敵である項羽は主君である義帝を殺害した
高祖は義帝のために喪に服したことで大義名分と天下の歓心を得た
寄せ集め感しか感じなかった
演義では取り上げられないけど
一応群雄の一人やからね
徒以山東擾亂、未能遠赴關右。然猶分遣將帥、蒙險通使。
ただ山東で憂いるべき乱があり、未だ遠く関右に赴けませんでした。そうであっても将帥を遣わして険阻を越え使者を通じられたのです。
雖禦難于外、乃心無不在王室。是、將軍匡天下之素志也。今車駕旋軫、義士有存本之思、百姓感舊而增哀。
外において難を防いでいたといえども、心が王室になかったわけではありません。これは将軍が天下を正さんとする志があったからです。今、天子の御車は戻られて、義士はこれを存続させようとする思いがあり、百姓は昔を思い哀れみを増しております。
誠因此時、奉主上以從民望、大順也。秉至公以服雄傑、大略也。扶弘義以致英俊、大德也。
誠にこの時こそ、お上を奉り民の望み従うのが、大いなる順です。公正さに乗じて群雄を服させるのが、大いなる略です。義を広め英俊を招致するのが、大いなる徳です。
荀彧が推挙した人材の優秀さは尋常じゃない
郭嘉だの鍾よう、戯志才だのと天下の奇才ばかりやわ
この辺りの働きを見ると、光武帝の配下の第1位のトウウの如しやな
このほかに荀攸とか陳羣も推挙してるからね
人脈おばけや
>>971
死ぬほど軽率で、頭に血が上ると見境がなくなり
他人の才能は見抜けるけど
自分の才能は見抜けない荀彧とでも言うべき鄧禹
こんなんでも最高の待遇で生涯を終えられた辺り
君主との相性が人生を分けるんやなと感じる
天下雖有逆節、必不能爲累、明矣。韓暹楊奉、其敢爲害!
天下に逆臣ありといえども、必ず何度も上手くいかないのは明らかです。韓暹、楊奉がどうして害になりましょうか!
若不時定、四方生心、後雖慮之、無及」太祖遂至洛陽、奉迎天子都許。
もし時を定めずして四方にこのような心が生まれれば、後に憂慮しても遅いでしょう」曹操は遂に洛陽に到り、天子を奉って迎え、許を都とした。
正史はあくまで簡潔やからな
張苞の生涯なんて七文字で終わるし
屯田は曹操の政治のなかでも優れたものやな
屯田で力つけたといっても過言ではない
天子拜太祖大將軍、進彧爲漢侍中、守尚書令。常居中、持重。太祖、雖征伐在外、軍國事皆與彧籌焉。
天子は曹操を大将軍に拝命し、荀彧は漢の侍中に進み、尚書令を代行した。常に中央に居て、重用された。曹操は征伐で外にあっても、軍事のことは皆荀彧と計った。
教科書のっとるんか
学生時代三国志でめっちゃウキウキしてたら
一行で終わった記憶がある
日本史でも班田収授法とか墾田永年私財法とか太閤検地ってやるやろ
太祖問彧「誰能代卿爲我謀者?」彧言「荀攸、鍾?」先是、彧言策謀士進戲志才。志才卒、又進郭嘉。太祖以彧、爲知人。
曹操は荀彧に問うた「誰が卿に代わり私の謀略家となれるか?」荀彧は言った「荀攸、鍾?です」これより先に荀彧は策謀の士と言って戲志才を勧めた。戲志才が亡くなるとまた郭嘉を進めた。曹操は荀彧を人材を知っているとした。
畑から収穫でもするみたいに推挙しよるな
うーんこの人脈おばけ
激励の手紙を送るエピソード好き
まさに君臣の信頼がよく分かる
そこもやるで
曹操って方針を間違えること多いけど
部下の言うこと聞くから強い
アカン
諸所進達、皆稱職。唯、嚴象爲揚州、韋康爲涼州、後敗亡。
諸所の勧められた者は皆職に相応しかった。ただ、厳象は揚州刺史となり、韋康は涼州刺史となり、後に敗死した。
自太祖之迎天子也、袁紹?懷不服。紹既?河朔、天下畏其彊。
曹操が天子を迎えてから、袁紹は不服を内に抱いた。袁紹は既に河朔を併合し、天下はその強さを恐れた。
太祖方東憂呂布、南拒張?、而?敗太祖軍於宛。紹益驕、與太祖書、其辭悖慢。太祖大怒、出入動靜變於常。衆皆謂以失利於張?故也。
曹操は東に呂布を憂い、南に張繍を拒み、そして曹操軍は宛において張繍に敗れた。袁紹は益々驕り、曹操に書を与え、その言葉は傲慢であった。曹操は大いに怒って挙動が常に変であった。衆人は皆張繍のために利を失ったためだと言った。
演義やと策での降伏やけど
正史やとガチで降伏したのに
兄嫁取られて切れて攻撃して勝った
みたいなながれやからな
そこらへんほんと草
鍾ヨウ以問彧、彧曰「公之聰明、必不追咎往事。殆有他慮」
鍾ヨウは荀彧に問うと、荀彧は言った「公は聡明で、必ず過ぎたことを咎めない。恐らく他に憂慮があるのだろう」
袁紹の方がよほどファンキーやからな
曹操は漢の将軍でありたいと思っていたらしいし
袁術
「まぁ、ワイは国を作ったんやけどな。
きっと後世では四国志ってタイトルで有名になるやろなぁ」
ハチミツ幼女となって
褐色孫策に命狙われてるぞ
劉虞を皇帝に擁立しようとしたりしてるんだよなぁ
食料庫をもっとマシな奴に守らせてるんだよなぁ
淳于瓊は西園八校尉の超大物やぞ!
格なら曹操に匹敵する
則見太祖問之、太祖乃以紹書示彧、曰「今將討不義。而力不敵、何如?」
そうして曹操に会ってこれを問うと、曹操は袁紹の書簡を荀彧に示して言った「今まさに不義を討つべきだ。しかし力では敵わなず、どうすればよい?」
彧曰「古之成敗者、誠有其才、雖弱必彊。苟非其人、雖彊易弱。劉項之存亡、足以觀矣。
荀彧は言った「古より成功と失敗は、本当に才があれば、弱いといえども必ず強くなります。仮に才がある人でなければ、強いといえども弱くなります。劉邦と項羽(※)の存亡を見ればわかることです。
※秦が滅びた後、天下を争った二人のこと
初めは項羽の勢力が上回っていたが、後に逆転し劉邦が勝った
今與公爭天下者、唯袁紹爾。紹、貌外寬而?忌、任人而疑其心。公、明達不拘、唯才所宜。此、度勝也。
今、公と天下を争える者は、ただ袁紹だけです。袁紹は外面では寛容ですが内面は妬みがあり、人を任じてもその心を疑います。公は明達でこだわらず、ただ才を良く思います。これは度の勝利です。
郭嘉やな
他にも賈クが四勝四敗を挙げたりとかしてて面白いで
紹、遲重少決、失在後機。公、能斷大事、應變無方。此、謀勝也。
袁紹は決断が遅くて少なく、後にある機会を失います。公は大事を決断出来、臨機応変です。これは謀の勝利です。
荀彧伝の大半は曹操への進言だよな
それだけこの王佐が曹操をなだめすかし
ケツを蹴ってきたって事なんやろう
曹操はよく方針を間違えるからね
荀彧がいなければ
大陸の三分の一を制圧出来なかった
逆に言うと正史曹操って
めっちゃ喜怒哀楽と気分の浮き沈みが激しいんだよな
劉備の方が感情を表に出さなかったって記述があるし
表面的な性格は間逆やったんかなーと思う
ライバル同士が性格真逆って面白いな
厚い展開
紹、御軍寬緩、法令不立、士卒雖衆、其實難用。公、法令既明、賞罰必行、士卒雖寡、皆爭致死。此、武勝也。
袁紹は軍を制御するのに緩く、法令は成り立っておらず、兵士は多くとも、その実用いるのに難しいのです。公は法令を明らかにし、賞罰は必ず行われ、兵士は少ないといえども、皆死を争います。これは武の勝利です。
あの漫画でいかれてない奴って誰やねん
紹、憑世資、從容飾智、以收名譽、故、士之寡能好問者多歸之。公、以至仁待人、推誠心不爲?美、行己謹儉、而與有功者無所?惜、故天下忠正效實之士咸願爲用。此、德勝也。
袁紹は代々の資産に就き、ゆったりと智恵を飾り、名誉を収めるので、故に士は能が無く問答を好む者が帰します。
公は仁によって人を待遇し、誠心を推して見せかけの美しさをなさず、行いを慎み、功ある者に惜しみなく与え、故に天下の忠義と実力のある士が用いられようと願っております。これは徳の勝利です。
度量の広さや戦争に強いからやろうなあ
戦争の強さは騎馬民族を散々に打ち破ってるあたり
歴代でも相当のもんやで
曹操の致命的といえる欠点って方針を間違えることなのに
部下の進言を聞くとすぐ修正するから手が付けられん
ここんとこ劉邦とかと似てると思う
夫以四勝、輔天子、扶義征伐、誰敢不從?紹之彊、其何能爲!」太祖悅。
この四勝(※)をもって天子を補佐し、義を助けて征伐すれば、誰が敢えて従わないでしょうか?袁紹の強さは何が出来ましょう!」曹操は喜んだ。
※似たような話が郭嘉伝や賈ク伝などにも見て取れる
おそらくそのどれかは彼らの才能を表現するための創作であろう
曹操に戦上手の印象ないな
>>39
曹操は決して戦が上手いってわけではないからね
戦術レベルで神ってるのと
部下の忠言を良く聞き入れたから勝てた
逆に聞かなかったときに負けまくってる
赤壁の賈クの進言スルーとか
豚を振る舞おうとした親切さんを皆殺しにした曹操に
ビビった子供はワイだけでは無いはず
こいつ真の主人公やでーからの畜生行為
そらビビりますわ
彧曰「不先取呂布、河北亦未易圖也」
荀彧は言った「先に呂布を取らずして、河北は容易に計れないでしょう」
領民はもう慣れてそうやなぁ
太祖曰「然。吾所惑者、又恐紹侵擾關中、亂羌胡、南誘蜀漢。是我獨以?豫、抗天下六分之五也。爲將奈何?」
曹操は言った「その通りだ。私が惑わすのは、また袁紹が関中に侵攻して、羌族や異民族が乱を為し、南の蜀、漢を誘わないかということだ。これは私一人が?州、豫州で天下の六分の五に抗うことである。どうすればよいのだ?」
人材が湧き出る泉のすごさよ、曹操の第一の功臣は荀彧やな
我が子房とはしゃいだのも分かる気がする
これ
荀彧伝を読むと
曹操の方針のほとんどが荀彧の立てたものってのがわかる
郭嘉ですら比べ物にはならへん
彧曰「關中將帥以十數、莫能相一。唯韓遂馬超最彊。彼、見山東方爭、必各擁衆自保。
荀彧は言った「関中の将帥は十数名で、一つにまとめることは出来ないでしょう。ただ、韓遂、馬超が最も強くございます。彼らは東方の争いを見ると、必ず各々が衆を擁して自らを保つでしょう。
致命的な大敗しようとその度に立ち上がる
?陽の戦いの致命的大敗北からの流転流転
流転中にも反乱起こされてニッチもサッチもいかなくなり、
袁紹の下に付き泥をすすってようやく?州に辿り着き
その先で青洲黄巾軍と対峙する
この辺のボロボロ曹操が一番すき
曹操って追い込まれたり
少数のときにやたら強くなるからな
不屈の主人公ですわ
何故か体を張ってくれる味方がいっぱいいた模様
やっぱ持ってるんすねぇ~
流浪のはてに身につけたもんやろうし
配下に人材推挙の鬼がおったら曹操もやることないわなあ
今若撫以恩德遣使連和、相持雖不能久安、比公安定山東、足以不動。鍾?、可屬以西事。則公無憂矣。」
今もし恩徳をもって慰撫して使者を遣わして和を講じれば、相対して久しく安んずることが出来ないといえども、公が山東を安定させるまでに動けなくするに十分でしょう。鍾?に西のことを任せるべきです。こうすれば公の憂いはなくなるでしょう。」
>>54
凄腕の官僚にして、書道の大家やで
鍾ヨウは有能なだけやなく
畜生としても輝いてる偉大な畜生なんで
そういう見方するのも面白いで
魏諷を引き立て
鍾会の親父って時点で畜生スメルが漂ってくる
ただようのは山椒の匂いだけどな
三年、太祖既破張?、東禽呂布、定徐州。遂與袁紹相拒。
建安三年(198年)、曹操は既に張繍を破り、東で呂布を捕らえ、徐州を平定した。遂に袁紹と相対して拒んだ。
孔融謂彧曰「紹地廣兵彊。田豐許攸、智計之士也、爲之謀。審配逢紀、盡忠之臣也、任其事。顏良文醜、勇冠三軍、統其兵。殆難克乎」
孔融が荀彧に言って曰く「袁紹の土地は広く兵は強い。田豊、許攸は智謀の士であり、謀を為す。審配、逢紀は忠義を尽くす臣であり、事を任じる。顏良、文醜の武勇は全軍の筆頭で、兵を統率する。ほとんど勝つのは難しいだろう」
こういう曹操vs袁紹とか歴史のメインイベントに
かかわりのない地域って何してたんかなという
張魯とかこの頃が激動の時期みたいやし
ついに袁紹とのガチンコと思いきや
その勢力差は隔絶してるからなあ
後ろには劉表や孫策もおるし
まだまだ苦しい状況やで
劉表は日和見してたし
孫策はこのころちょうど死んだ
曹操は孫策を憂いてたみたいだけど
郭嘉があいつ死ぬでって予言したら実際死んだ
195年あたり
彧曰「紹兵、雖多而法不整。田豐、剛而犯上。許攸、貪而不治。審配、專而無謀。逢紀、果而自用。此二人、留知後事。
荀彧は言った「袁紹の兵は多いといえども軍法は整っていない。田豊は剛情で上を犯す。許攸は貪欲で治まらない。審配は専行して無謀だ。逢紀は果断で自ら働く。この二人は留まって後事を為している。
チームがバラバラじゃねーか
沮授 「みんなちゃんとまとめてるよ」
農民兵「次は勝つんだな?」
袁紹「次(倉亭の戦い)は絶対勝つ!」
若攸家犯其法、必不能縱也。不縱、攸必爲變。顏良文醜、一夫之勇耳、可一戰而禽也」
もし許攸の家の者が法を犯せば、必ず望み通りにならないだろう。望み通りにならなければ、許攸は必ず変を起こす。顔良、文醜は匹夫の勇だけで、一戦すれば捕らえられるだろう」
※荀彧の人物眼を表している逸話であろうが、許攸の家の者が罪を犯して許攸が曹操の下に降るということまで言い当てるのは異常である
十中八九創作であろう
○○は優柔不断だ!
いや、そら魏呉蜀(+他勢力)に挟まれて決めろとか悩むやろ……
蔡瑁と黄祖でどないして勝つねんって話だよな
シュリーフェンプラン応用すればいけるやろ(適当)
五年、與紹連戰。太祖保官渡、紹圍之。太祖軍糧方盡、書與彧、議欲還許以引紹。
建安五年(200年)、袁紹と連戦した。曹操は官渡に籠り、袁紹がこれを包囲した。曹操軍は兵糧がまさに尽き、荀彧に書を送って、許に帰って袁紹を引きつけたいと意見した。
彧曰「今軍食雖少、未若楚漢在?陽成皋閒也。是時、劉項莫肯先退。先退者、勢屈也。
荀彧は言った「今兵糧が少ないといえども、楚軍、漢軍が?陽、成皋の間に居たとき(※)ほどではありません。この時、劉邦と項羽は先に撤退しませんでした。先に撤退した者は、勢いに屈するからです。
※楚と漢は秦が滅亡した後天下を争った勢力であり、?陽、成皋の地で何度も戦った
官渡の熱さに華をそえとるよな
そういうところにも三国志ってロマンあるな
公、以十分居一之衆、畫地而守之。扼其喉而不得進、已半年矣。情見勢竭、必將有變。此、用奇之時、不可失也」太祖乃住。
公は十分の一の兵で地を区切って守っておられます。(袁紹は)その喉を締め付けられるように進めておらず、既に半年になります。状況を見れば勢いは尽き、必ず変がありましょう。これは奇計を用いる時で、失ってはなりません」曹操はこうして留まった。
まーた顔良の心労がたまるのか
なお心労は新キャラに行く模様
遂以奇兵襲紹別屯、斬其將淳于瓊等。紹退走。審配、以許攸家不法、收其妻子。攸、怒叛紹。顏良文醜、臨陣授首。田豐、以諫見誅。皆如彧所策。
遂に奇兵をもって袁紹の別の駐屯地を襲い、将軍淳于瓊らを斬った。袁紹は敗走した。審配は許攸の家の者の法を犯したことをもってその妻子を収監した。
許攸は怒って袁紹に背いた。顔良、文醜は陣に臨んで首を授けた。田豊は諫言して誅殺された。皆荀彧の計った通りであった。
歴史変わったかなぁ
>>89
淳于瓊は何の失態もしていないし
むしろ烏巣をよく守り一時は曹操を押し返してる
しかも生け捕りにされた後は潔く負けを認めて
曹操も帰服を促そうとしている
こんな将軍を酔っ払いにした演義ってやっぱ功罪深すぎだわ
めっちゃ、ええ人やん……
しかも演義だと
手足斬られて馬に縛り付けられて帰って来るからな
それで怒った袁紹に斬られたという
関羽の伝に詳しいからここでは省かれてるだけやで
敵陣に突入して首を取って来るっていう
リアル三國無双みたいなことした
六年太祖、就穀東平之安民。糧少、不足與河北相支。欲因紹新破、以其閒、?討劉表。
建安六年(201年)曹操は東平の安民に穀物を取ろうとした。食糧は少なく、河北を支えるのには不足した。袁紹を新たに破ったことで、その間に劉表を討とうとした。
呂布との戦争の時もピンチやったけど盛り返したし
勇将の下に弱卒無しとはこの事やな
曹操は度々危機に陥っては粘るから凄い
命だけはお助けくだされ
于禁は曹操軍きっての名将やぞ!
ワイはメシの負担を押し付けるための降伏説を推したい
彧曰「今紹敗、其衆離心。宜乘其困、遂定之。而背?豫、遠師江漢。
荀彧は言った「今袁紹が敗れ、衆人の心は離れております。その困難に乗じるのがよろしく、これを定めましょう。?州、豫州を背後に、遠く長江、漢川に出師したとしましょう。
正史には載ってないで
若紹收其餘燼、承?以出人後、則公事去矣」太祖復次于河上。
もし袁紹が残り火を集めて虚を突いて後ろに出たら、公の事業は去るでしょう」曹操はまた黄河の上に続いた。
紹、病死。太祖渡河、?紹子譚尚。而高幹郭援、侵略河東、關右震動。鍾?、帥馬騰等?破之。語在?傳。
袁紹が病死した。曹操は黄河を渡り、袁紹の子袁譚、袁尚を攻撃した。高幹、郭援が河東に侵略し、関右が震撼した。鍾ヨウは馬騰らを率いてこれを撃破した。その話は鍾ヨウ伝にある。
袁家の跡目争いは悲惨やけど
それも含めて歴史のロマンよなぁ
もしその争いがなければ
孫家は地盤を固めて急に対抗できなくなり
袁尚、曹操、孫権の三國志になったかもしれん