現在でも日本海は日本の守備にとって10個師団の価値がある
と言われているのに13世紀の軍隊に島国をとるなど無理、兵站が続かない
文永の役で緒戦でいきなり矢がつきたことからもわかる
ニュース
元軍は前年の三別抄の乱鎮圧で渡海作戦を経験済みで、文永の役にも時間をかけて十分な準備をしてから臨んでいた。
元軍が負けたのは、単に日本軍より弱かったから。
高麗史にはっきりと元軍の方が劣勢で、無理をすれば優勢の日本軍に全滅させられてしまうから撤退した、と書かれている。
攻め込んだ元軍側の史書に「負けた」と書かれているんだから、否定する理由なんかないだろ。
高麗史には
「倭兵は大敗して屍は山をのごとく」
とあるが
>>高麗史にはっきりと元軍の方が劣勢で、無理をすれば優勢の日本軍に全滅させられて
そりゃそうだ、日本側は兵力を回復できるが、元側は海を越えてやってきて援軍も補給もない、だから引いた。戦闘で負けたからじゃない
弘安の役は防塁を作って準備していたこともあって終始有利に戦っていた日本の勝ちと言ってしまっていいが
>>255
高麗兵が殺したのは武士ではなく非戦闘員だよ。
日本の文献には高麗兵の上陸地に近い場所で逃げ遅れた多くの妻子眷属が犠牲になったと記されている。高麗軍が菊池武房に大敗したのはその後。
あと、高麗史・表では「壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」。
戦って負けた事を認めてるじゃん。
高麗史に負けたとは書いていない兵を失ったのは帰る途中に暴風雨に襲われ半数が座礁したある。確かに戦争目的を達しえなかったんだから
日本の勝ちと言っていいだろうが戦闘自体ではどうかわからない
日本の資料には日本が勝ったとあり、高麗側には倭兵を負かしたとある
ついでに日本人捕虜を200人ほど献上したという文献がある
弘安の役は終始元軍の上陸を阻止し優勢に戦ったので、弘安の役こそ日本の完全な勝利言ってもいいと思う
高麗史の年表の1274年には、戦って負けたと書いてあるだろ。
>>263
戦闘で負けていなかったとしても
戦争目的を達成できなければ負けたという
(豊臣秀吉の朝鮮出兵、アメリカのベトナム戦争等)
高麗はかなりやる気で日本を征服する気だった
高麗側の船を焼いて戦おうという発言が金方慶が戦闘では兵力差もあり決して戦闘で負けているとは思っていない事、征服する気があった事が伺える
戦闘で負けていないなんてことはないだろ。
高麗軍が赤坂で菊池武房に負けて海岸まで敗走した様子は、文献に詳細に書かれているぞ。
> 文永の役の元軍は3000近い騎兵を投入していた
少なくとも『元史』の方ではそのように書かれている部分は見た事がないのだが・・
文永の役について、『元史』世祖本紀には至元十一年三月庚寅条において、
「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等、將屯田軍及女直軍、并水軍 水軍、合萬五千人、戰船大小合九百艘、征日本。」
としか書かれておらず、同年十二月甲寅条に何時の間にか帰還した忻都らが、「賞忻都等征耽羅功、銀鈔幣帛有差」(本文中の「耽」の偏は本来「身」)と出てくる。
一応十一月癸巳条の末尾に「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。」とは出ているが、それ以外は音沙汰がない。
一方で『元史』列伝第九十五 外夷一 日本伝に
「(至元)十一年三月、命鳳州經略使忻都・高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。冬十月、入其國、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」
「元軍は3000近い騎兵」云々は
高麗側の資料か『南村輟耕録』あたりの情報だろうか?
あるいは『元文類』とか。
それに『元史』などのモンゴル側の資料は、負けたり兵員を多く失った場合はその旨書くのが普通だから、「元軍側の史書に「負けた」」とは書かれていない。
「矢が尽きた」というのは東西問わずモンゴル軍側の撤退の理由や「口実」として語られる「常套句」だが、「敗退」をも含むかと言うと微妙。
『高麗史』はともかく『元史』の記述を信じるなら大元朝側がいわゆる文永の役を自ら敗退と認識していたかは確認出来ないし、同時期の南宋作戦と比べると記事の文量が僅か。
現在のモンゴル帝国史、大元朝史研究に携わる人たちのおおまかな認識としては、文永の役は他の外征時に一般的に行われた「威力偵察」の類いだったとしているはず。
特に派遣した兵力が「一萬五千」という規模が他の「威力偵察」の事例の規模と共通する。
一万五千って直前に元から派遣された兵力で、それ以前に日本侵攻のため高麗に屯田していた元軍や、高麗軍の兵力は含まれていないよね。
あと、日本側の防衛の要である水城や大宰府なんて、海岸から15キロ程度しか離れていないだろ。わざわざ博多湾から上陸したのに、水城や大宰府を見ることも無く帰ってしまって、偵察の役割を果たしたことになるのか?
江戸時代に書かれた「北條九代記」だと文永の役は、
『関東より筑紫へ下知して、武備に怠りなし。同十月に蒙古の賊船対馬に寄来る。筑紫の武士等集りて防ぎ戦ふ。蒙古の軍法乱れ靡きて整らず、矢種盡きえれば海辺所々の民屋を乱暴し、これを以て、此度の利として軍を引て漕帰る。日本の武士等も、攻め破られざるを勝にして、軍はこれにて止みにけり』
正直言って江戸時代の国学者の方が、現代の歴史研究者なんかより遥かに日中韓の史書に精通し、客観的に解釈しているような気がするのだが・・・
威力偵察って敵の防備を知るためにやる事でしょ?
文永のあと5年も6年も後に来たらもっと防備が強化されちゃって、せっかくの偵察情報が無駄になるじゃん。
実際、弘安の役のとき上陸地点に文永の役のときにはなかった石垣できてちゃったわけだし。
文永の役が威力偵察目的なら、すぐに「本隊」で攻めなかった元軍はとんでもないアホウという事になっちゃうんじゃないの?
単純に七年であれほど防備を固めるとは思っていなかったんだろ
南宋攻めにも忙しかったんだろうし
学者の間では「文永の役は威力偵察」「弘安の役が本腰」が定説になっている
厨の俺でも突っ込みどころ満載の説が学会で定説になれたの?
3万なんて本気のわけないだろ
>>284
単純に日本軍が勝ったと認めたくないからだろ。
戦前までは、普通に戦って勝ったことになっていたのに、太平洋戦争で負けた途端、文永の役でも負けてたことになってしまった。
それで「文永の役は暴風雨のお陰で助かった」ことにしたんだけど、当然のことながらいろんな方面から突っ込みが入って、しかたなく今度は「文永の役は威力偵察」だったことにしたんだよ。
橋頭堡を構築するには十分な兵力
1066年にノルマン軍は7000の兵力で、海という自然の防壁に守られたイングランドを征服している。
文永の役の日本軍は補助戦闘員を含めても1万程度だったんだから、3万以上の兵力を投入して敗北した元軍は、単に日本軍より弱かったとしか言いようが無い。
海があるということを考慮すれば全然足りない
戦術的には全く根拠が無い
北九州の港湾を抑えるのには十分
それにイングランド王ハロルドの軍はノルマンディー公ウィリアムと戦う前に“最後のヴァイキング”ノルウェー王ハラルド苛烈王とスタンフォードブリッジの戦いの激戦で辛勝したばかりで疲弊していた
イングランドはその前にデンマークにだって征服されてるだろ。
海が有ろうが無かろうが、その国が弱ければ他国から征服されるよ。
その作戦目的は北九州を押さえて宋の後背の海上交通路を圧迫遮断することで、京や鎌倉の奪取や本全土の征服は含まれていない
主作戦正面に寄与するため、また、渡洋侵攻作戦の膨大な準備所要を考慮すれば悠長に威力偵察なんやってられる暇は無い
その証拠に文永の役で元軍は3万とも言われる大兵力で侵攻している
ましては元はわずか2、3万の侵寇兵でモンゴルの本隊が来たわけでないし
第一、騎兵以外のモンゴル軍本隊なんかいるのかねぇ
モンゴル人自体少ないのに
>>301
モンゴル軍が多国籍軍だってのは、ほとんどの侵攻で共通で日本だけが例外では無い。
マムルーク朝がアイン・ジャールートの戦いで勝ったモンゴル軍が1万2000だったことを考えれば、文永の役で4万、弘安の役で14万の元軍に勝利した日本は、世界史的には立派にモンゴルに「大々的に勝った」国だよ。
>>302
文永の役では、戦略目標を達したという意味では「負けてはいない」けど、実際の戦闘では相当苦戦しているからな。菊池氏などはよく戦ったが、総大将の小弐氏は本営としていた箔崎八幡を捨てて太宰府に移ろうとしている。防衛ラインを下げるつもりだったわけだから、優勢ではないと判断したんだろう。
ただ、弘安の役は日本軍の完勝と言っていいだろう。
上陸すら許さなかったのは戦術戦略ともに優れていたと言っていい。
江南軍が戦闘部隊だったら、あるいは危うかったかもしれないが。
総大将の小弐が水城に引き上げる決定をしたのは、単に夜になったからだろ。
大宰府防衛が目的の日本軍が、本来想定していた防衛ラインは水城。
その証拠に籠城戦に備えて、水城に豊富に兵站を蓄えていたりする。
元軍は日本軍にとって前哨戦に過ぎない博多で戦闘不能に陥ったわけで、戦闘ではまったく日本軍に歯が立たなかった可能性が高い。
確かに主戦闘陣地は水城だが、前方地域で出来るだけ敵の前進を遅滞し
戦力を漸減するのが陣地防御の基本
当初の計画通り夜になったから主陣地に引き上げたのか、前地での戦闘が不利になったから主陣地に後退したのか、今となっては推測の域を出ない
論理的に考えれば夜間は地形を知悉した防御側に有利だし、前地を放棄することはすなわち夜が明けたら主陣地で敵と渡り合うことを意味する
副将の劉復享を討ち取ったとの情報を、捕らえた捕虜から得ていたからね。
日本軍は水城さえ維持していれば、後方から援軍が到着して日毎に有利になるのだから、日没後も博多を維持するリスクを犯すより、より堅固な水城で朝を迎えようとする判断は別に不自然じゃないだろ。
通常、前地の戦闘を優位に進めている防御側は、主陣地の掩護と防御準備の余裕の獲得のために、そのまま前地での戦闘を継続する
わざわざ優勢な戦場を放棄し、戦闘中の部隊を主陣地に収容する行為は、戦術的には論理性がない
また、日没後に博多を放棄する意義も非論理的
地形を知悉しているのは防御側であり、夜戦でのリスクは防御側よりもむしろ攻撃側にある
事実、戦後、博多放棄は非難されている
もし、前地での戦闘で元軍が戦闘不能に陥るほどの損害を受けていたとすれば、水城への後退は戦術的には致命傷になりかねない大失策といえる
また、水城での戦闘は出来るだけ遅らせればそれだけ増援部隊の収容も容易になる
前地での戦闘を優位に進めていたと仮定した場合、博多の放棄に戦術的妥当性は薄い
また、封建軍制の日本軍で、指揮下の御家人衆に地域の放棄を容認させるほど小弐景資の軍事統帥権が強力だったか疑問
彼の指揮下には博多周辺に所領を持つ御家人も少なくなかった筈である
勿論、戦場の霧効果も無視できないし、小弐景資の状況判断を示唆する史料が乏しいため、水城への後退が予定の作戦行動だったのか、苦戦の末の撤退だったのかを判断するには材料不足で、新たな史料の発掘が待たれる
そういった御家人たちは戦後「御家人が自分の所領を守るために戦うのは当たり前」
として、幕府の恩賞の対象から外されている。
これらの部隊が自分の部隊の周辺の状況のみを頼りに各個の判断で優勢な戦場を棄て、整斉と水城に後退したとは信じ難い
状況証拠及び戦術的妥当性からいえば、水際~博多周辺での戦闘で日本軍が優位に戦ったとする推測はますます成立しにくい
博多周辺に所領を持つ御家人とは松浦党など。
こういった武将たちは文字通り元軍と死闘を繰り広げていたし、日本軍の中での損害も集中している。
ただ、小弐景資自身は最初から博多周辺での戦闘には淡白だった。
この辺は外国との戦争経験が少ないことが影響してると思うし、そのため大損害を受けた民間から非難されたのも仕方が無いと思う。
ただ結果的には20日の戦闘では、小弐景資指揮下の主力部隊はほとんど温存されたし、元軍が翌日以降の戦闘継続が不可能との判断を下したのも事実だろ。
組織だった指揮系統も情報伝達組織も満足に整備されていない当時の日本軍が組織的に内陸撃破型の対上陸作戦を展開できたとは考えにくい
統帥上の欠陥と情報不足のため水城から動くに動けなかった日本軍主力部隊、全般の戦況もわからず各個に目前の敵と戦った挙句に損耗して水城まで撤退を余儀なくされた水際部隊、というのが実情だろう
元軍の実情はともかく、小弐景資以下の前地の戦闘に対する状況判断は相当に悲観的だったに違いなく、戦闘で日本軍が元軍を圧倒したとは考えにくい
>>333
それでは元軍が水城まで進軍できず、たった1日で撤退に追い込まれた説明がつかない。
当時の日本軍に組織だった指揮系統や情報伝達組織が整備されていないなどということは無い。
竹崎季長が小弐景資の陣を訪れた際、日本軍の大部分がその指揮下に集結し、元軍が進出してきたところを、一同にて追い物撃ちする作戦だと告げられている。
現実に日本軍はその作戦に沿って、夕刻まで4倍の敵に対して戦線を維持した訳だろ。
あと、文永の役では博多での戦闘で日本軍が大きな損害を受けた形跡が無い。
伝わっているのは、松浦党が多く討たれたと言うことぐらい。
竹崎とかも最前線で戦いながら主従5人とも生存。
菊池氏も赤坂で元軍に100余人で突撃したはずなのに、元軍を撃破して引き上げてきた時も同じく100余人。
これが弘安の役だと、小弐一族だけでも多数の戦死者が出ているのに。
20日日没までに水城に到達できなかったのは、元軍の損害が大きかったためと考えられるが、それがすなわち日本軍が元軍を圧倒していたことを意味するものではない。日本軍の任務は元軍の撃退であり、上陸する元軍を水城以西に阻止することではない
戦場で戦闘を優位に進めていたとすれば、日本軍は元軍を水際で撃破できて然るべきで、わざわざ優勢な部隊を後退させて水城に全軍を集結させた行動は不可解極まることになる
事実、20日の戦闘で箱崎正面の島津勢と大友勢が押し込まれて夜に離脱し、中央戦線も圧迫され今津、麁原等が奪取されている
少なくとも、量的に劣勢な部隊がほとんど無傷で突撃を敢行するような圧倒的なキルレシオで戦っていたとは考えにくい
赤坂正面における菊池武房勢他約二百余名の突撃は、八幡大菩薩愚童訓では成功と記されているものの、菊池武房は負傷、落馬して後退しており、封建軍制下の軍隊で突撃に成功した部隊及びその指揮官の行動とは考えにくい
日本軍が水城に集結したのは、概ね三方向から侵攻する敵の圧迫に対応できなかったからに他ならない
戦場には前線指揮官である小弐景資の指揮下に入らずに戦闘する部隊があり、これらの部隊は小弐景資の与り知らぬ場所で各個に戦い、しかも当然ながら戦況や戦闘を小弐景資に報告する筋合いは無い
こうした指揮系統及び情報伝達組織の混乱を回避して、全部隊を掌握するため水城に集結させたと考えるほうが戦術的には妥当
>>335
八幡愚童訓って、もともと八幡神の霊験を強調するために書かれた文献だから、元軍については誇張し、武士の戦果については控えめに書く傾向があるの。更に後世の写本になればなるほど、その傾向が強くなる。
菊池次郎130騎、託磨別当太郎100騎、都合230騎と書かれているのは写本の方ね。
菊池武房は落馬したのではなく、馬当てといって当時の武士たちが敵の首を取るために行なう、ごく当たり前の戦い方をしていたのに過ぎない。
八幡愚童訓では何故、菊池武房の突撃が賞賛されたのかについては書いてないけど、元軍はその後、他の日本軍の追撃を受けながら、二手に分かれて赤坂から麁原まで敗走してるんだよね。
一方の菊池武房は、元兵の首を掲げて意気揚々と水城へと引き上げてる。少なくともこの方面での戦闘では、日本軍が元軍を圧倒しているだろ。
あと、小弐景資は最初から元軍を水際で撃破しようとはしていない。その理由は元軍の上陸した辺りは足場が悪く、騎兵の運用に適さないからだそうだ。
水際撃破を選択できなかったのは前述のとおり指揮系統と情報伝達組織の問題によるもの
水線部の砂浜は当然騎兵の機動を制限するが、当時の日本騎兵は随伴歩兵に掩護された弓騎兵で、大陸のような重騎兵の集団突撃を行わない
砂浜で騎馬武者が戦闘した事例は決して少なくない
また、博多周辺が騎兵の運用に適さないとは考えにくい
武士は水田部や山間部でも易々と戦闘している
戦闘で常勝していた日本軍が水城まで後退する戦術的理由はない
もし、日本軍が元軍を圧倒していたのならば、日本軍は戦場で常に敵を撃破し
元軍の組織的戦闘力を破壊しかねないほどの大損害を与えながら、後退を重ねていたことになる
これは戦史上でも非常に奇怪きわまる現象と言わざるをえない
水際撃破を選択しなかった理由について、小弐景資自身の説明が『一所にて合戦候べき由、候申き。赤坂は馬の足立ち悪く候。ここに控え候はば、定めて寄せ来たり候はんずらん。一道に賭けて追物射るべき由申さるる』なんだから、それで納得するしかないだろ。
あと、当時の日本の騎兵が集団突撃を行わない、というのも根拠不明。
小弐景資が博多でやろうとしていた一斉追物射ちなんて、重騎兵の集団突撃以外の何物でのないじゃん。
小弐景資は自分の指揮下に集結した御家人に対して『言質の約束を違へじ』と誓わせていたから、かなり強固な軍事統帥権を持って、組織的に戦うことができたんだよね。
小弐景資のコメントは水際撃破を選択しなかったのではなく、選択できなかったと捉えるべき。戦場には小弐景資の指揮下にない日本軍部隊が各個に戦闘しており、彼は戦場を整理するためにも水城に部隊を集結させる必要があった
日本騎兵は随伴歩兵を伴う小規模な戦闘チームを組んで戦うため、大陸で行われていたような重騎兵による騎兵突撃は行わない。それ以前に、追物射とは騎射のことであり、騎兵突撃ではない
小弐景資が御家人衆に要求した誓約は、封建軍制で封主から軍の戦場指揮を委譲された封臣の軍事統帥権を保証しているだけ。これをもって通常の封建軍の水準を越えた強固な軍事統帥権を有していたことにはならない
資料を根拠にするなら、明らかに騎馬突撃はなかったという方に分がある。
騎射は衝撃力を伴わない
この時期の突撃は、騎馬であろうが徒歩であろうが白兵をもって実施される
古今東西、弓騎兵の騎射による騎兵突撃という事例は存在しない
フンやモンゴルのような弓騎兵で名高いステップ系騎兵ですら、突撃は刀槍その他の近接戦闘装備の重騎兵が行っている
嬲り殺しになる
止まって騎射する訳じゃないから。
そもそもこの時代の日本の軍制には、騎兵単一で突撃するという発想はない
騎兵である武士と、一部騎乗の場合もあったが随伴歩兵である郎党の小規模な戦闘チームが当時の日本軍の最小戦闘単位
騎兵のみを抽出して独立的に運用することは当時の日本の封建軍制が許さないし、それ以前に当時の日本で行われていた戦闘では、騎兵突撃を行う必要性も意義も無い
騎馬と歩卒がよーいドンで突進したら
一時的に騎馬だけが突出する。
歩卒は後から追従した。
騎馬が一時的に歩卒から離れる事を否定するなら
疾走しながらの騎射自体が成り立たなくなる。
平安末から鎌倉期では歩卒を伴わず騎馬武者だけで騎射する絵が多い。
蒙古襲来絵詞もその一つ。
だからといって、騎馬突撃が行われた根拠にはならないでしょう。
そのようにして騎射が行われていたってだけで。
西欧では国王直属軍や封臣軍、各召集軍単位で騎兵を抽出し単一兵科部隊として運用する。
同じ封建軍制ではあるが、こういう些細な点まで同じではない
騎射で騎兵が一時的に随伴歩兵と分離することと、騎兵を集成して独立した単位として運用することは全然違う
騎射と騎兵突撃は戦術的な効果も役割も全然違う
騎射は主に襲撃や小規模な小競合いのような場面で大きな効果を発揮する攻撃機動で、重歩兵の方陣が相手では戦術的効果は薄い
騎射の射程は概ね最大30メートル程度で、徒射に対して劣る
この上更に射撃の後に弓を棄てて突撃隊形に組み直し、改めて抜刀突撃するためには躍進距離が足りないし、当時の日本封建軍の編組を考慮すれば出来るわけがない
どうも仮定に仮定を重ねた不毛な意見にしか見えない。
文永の役で
現実に騎兵突撃を行なう日本軍が資料に描かれているのに、
「騎兵単一で突撃するという発想はない」なんて言うのは
何の根拠もない単なる思い込みじゃん。
「衝撃力を伴わない」とか言ってるけど、日本軍の戦法の「馬当て」なんて騎馬の衝撃力を武器にした戦法以外の何物でもないだろ。
当時、小弐景資の指揮下には日本軍の大多数が集結しており、元軍はその強固な組織力に、まったく歯が立たなかった。 攻撃を仕掛けた元軍副将の劉復享が逆に返り討ちに遭う始末だ。
文永の役は、『元史日本伝』が敗退の理由として「官軍整わず」と元軍側の軍法の乱れを挙げているように、組織力で勝る日本軍が4倍の元軍を撃破した戦い。
衝撃力とは馬の体当たりでなく機動の発揮による戦闘力の集中の意
元軍が全く歯が立たなかったのに日本軍が水城に後退、集結したのは戦術的に非論理的
文永の役で敗退したのは元軍だろ。
博多から水城までなんて、騎馬なら30分程度で移動できる距離。
普通に同一戦場じゃん。
一方の元軍は、乗船して日本から離れている。
どちらが敗北したかなんて一目瞭然だろ。
「敗北した元軍が、勝利した日本軍に全く歯が立たなかった」
のどこが非論理的なんだよ?
小弐景資が部隊行動に適さないとしていた赤坂正面で菊池勢他の小規模な突撃が大成功したというのは矛盾
しかもその突撃の成果を拡大せず、無為に水城に後退して博多を放棄した行動も不可解
結局、戦闘は概ね一連の不期遭遇戦の形で推移し、両軍ともに戦場では大損害を受けていたと考えるのが妥当
現代とは戦場のスケールが違う
乗船して日本から離れた元軍を「敗退した」とは言わないの?
これを同一戦場と断ずるにはいささか無理がある
文永の役の戦場は、今津から箱崎にまで及んでいた。
その距離は博多から水城までの距離と大して違わないぞ。
「戦場で日本軍が元軍を圧倒していた」こととは違う
同一戦場ではない
突撃の要旨は、機動を発揮して戦力を集中し、その衝撃力をもって敵の隊列を崩し、敵に地域の放棄を強要し、可能ならば最終的に敵の組織的戦闘力を破壊することにある
騎射の戦闘力はこのような要件を満たせない
騎射に限らず投射兵科の戦闘力の根幹を成す主たる要素は火力であり、突撃を行う近接戦闘兵科の戦闘力の主要素である機動とは根本的に相容れない。
戦術の歴史は機動と火力の相克を基調として発展しており、投射兵科である弓騎兵に突撃を強要するのは、カラコールの例を問うまでも無く、ほとんど何の成果も伴わないだけでなく、弓騎兵の貴重な戦術的地位と役割を否定することに他ならない
突撃が必ず近接武器でなければならないという発想がおかしい。
じゃあ、突撃銃って何よ?
カラコール戦法が失敗だったのは、当時の銃が単発だったために射撃の終わった後は、後方に退いて、弾込めを必要があったからだろ。
連射可能な弓騎兵と一緒にするべきではない。
武士という当時の軍事エリートを成員とする当時の日本武士は、イランの自由農民を起源とし、比較的重装で、村落や農地を略奪から防護し、近隣の村落との紛争に対応するために生まれたカタフラクトに近い発展過程を辿る
カタフラクトも、槍や刀だけでなく、弓も装備した一種の中騎兵または万能騎兵で、随伴歩兵を伴い戦闘に従事した
日本騎兵がどちらかと言えば弓に重点を置いていたのに対し、カタフラクトが主に刀槍を用いていたのは、周辺のステップ系騎兵が有力な弓騎兵の供給源として存在していたからで、カタフラクトは後に東ローマで編制兵科に採用され、更にフランク王国のカバラリウスの原型となり、その過程で野外決戦における要求から集成統一運用の構想が発生、制度化されている。日本武士にはこうした動きがなく、騎兵を抽出して統一運用する発想は生まれていない
突撃銃とは従来の歩兵用小銃にかわって弾を小型化させ射程を犠牲にする代わりに連射性能を向上させた自動小銃。
携行弾数が増加するという副次的効果もあったが、一方で弾の小口径化による威力の低下や連射機能の必要性に対して疑問視する声も少なくないが、当分は歩兵の標準的な小火器として用いられると思われる ちなみに突撃するから突撃銃というのは全くの誤解
近世以前の戦闘と、金属製薬莢式後装旋条銃が普及した20世紀の戦闘をその軍事技術を無視して同一に論ずること自体に無理がある
カラコールを行ったピストル騎兵は複数のピストルを携行していた
一発撃ったら装填のために後方に退いたというのは全くの誤解
突撃銃云々は言葉遊びみたいなものだけど思いついたら書いてみたくなった。
突撃は、何の武器で行なわれるかではなく、何の目的で行なわれるかで定義されるべき。
中世の合戦が、楯突き戦から馳組戦へと移行するのは、武士に敵の隊列を崩し、 敵に地域の放棄を強要し、可能ならば最終的に敵の組織的戦闘力を破壊することを期待しているからだろ。
武士に火力だけが求められるのなら、大鎧を着用する必要も、騎乗する必要も、大小の日本刀を装備する必要もない。
重装弓騎兵みたいな兵科自体が、日本以外にあまり例がないんだから、世界の他の地域では違うとか言っても無意味じゃん。
現実に文永の役で日本軍は弓騎兵による突撃を行い、元軍はその前に敗れ去った。
あのな、馬に乗って刀剣を持ってれば、世界中何処でも状況次第で騎乗突撃はやるんだよ。
遊牧民系の弓を所持した軽装の騎兵が射撃専門で全く騎乗突撃をしなかったと思っているならそれは大きな間違いで、彼らだって騎乗突撃を行う。
ましてや、日本の騎馬武者は重装である。
どうしても日本の騎馬武者だけは騎乗突撃しなかったことにしたい奴がいるようだ。
その理由として「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」とか言う。
しかし、例えば50メートルの距離で、盾を並べて弓による射撃戦をした後、敵が怯んだ隙を見計らって、騎馬武者と歩卒の主従混成部隊が突撃を行ったケースを想定してみよう。
当然の事ながら、一時的に騎馬武者が先行し、歩卒が遅れる形になる。
ただし、遅れると言っても、50メートルの距離だと、ほんの数秒の時間差しか生じない。
まあ、3~4秒差程度かな。
ほんの数秒程度歩卒の突入が遅れたところで決定的な問題を生ずるものではない。
むしろ騎馬の主人が刀で撃ち倒した敵を、駆けつけた歩卒が止めを刺すには丁度良いタイミングとさえいえる。したがって「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」と言う論拠は全く成立し得ない。
奇妙な論法ではあるが
重装か軽装かは装備の違いに過ぎず、運用とは関係ない
現実に文永の役で日本軍は騎兵突撃を行っていないし、それを示す資料も存在しない
日本軍の突撃は専ら騎兵と随伴歩兵の戦闘チームによる歩騎協同の突撃
装備と運用とが無関係なわけないだろ。
論じられているのは、封建軍隊であった当時の日本軍において
編制から騎兵のみを抽出して集成編成し、単一兵科部隊として運用し
騎兵突撃を行っていたか否か
>>375
お前が言いたいのは
「騎乗突撃すなわち騎兵突撃ではない」ではなく
「騎乗突撃すなわち単一兵科として編成された騎兵部隊による突撃ではない」ではないのか?
それなら議論する余地も無く結論は出てるだろう。
運用があって装備が決定する
装備を基準に運用を決めるなど本末転倒
前述したように当時大陸で行われていたような騎兵突撃は日本では行われていない
まして騎射による突撃などは行わない
現実に元軍は蹴散らされて逃げ帰っただろ。
弓と歩兵に蹴散らされたかもしれないじゃん。
流鏑馬だって的に向かって駆けたりはしない。
現在行なわれている流鏑馬と鎌倉時代の騎射は完全に同じという訳ではない。
文献や絵巻で見る限り、当時は進行方向への騎射の方が主流。
しかも和弓って大きいし
中世日本の騎射術には馬の首の右側に弓を構える馬手射のように正面に弓を射る射法もあり、鎌倉武士の射角はかなり広い
ただし、三十年戦争の頃のスウェーデン騎兵のような、騎射した後にそのまま突撃に移行するような事例は皆無
本来、鎌倉時代の軍制は主に小規模な小競合いや襲撃、遭遇戦等を想定して練られているので、騎兵突撃のような機動を行う必要はなかったし、そうした訓練も行っていない
しかもその絵巻だって騎兵突撃じゃないし。
日本軍の騎兵部隊の戦闘にかんする文章表現は「駆け入る」もしくは「駆け散らす」。
敵部隊に突入してるじゃん。
突撃と追撃は全然違うよ。