日本は暴風雨がなければ撃退できたかどうかわからないし、モンゴルの本軍や騎馬部隊と戦ったわけでない
マムルーク朝のバイバルスがモンゴルの騎馬部隊を撃退したのは有名だが、他にもモンゴルの騎馬部隊を撃退した例はわりとある
1284-85年
ベトナムの大越が元軍を撃退
1287年
再度、侵攻してきた元軍を大越は撃退
1296年
タイ北部のタイ人のムアン(小王国)八百熄婦、元軍を撃退
1300、01年
ミャンマーのパガン朝は瓦解したが、チャウセの地方領主を中心に2度にわたる元軍の侵攻を撃退
1282年
占城ヴィジャヤに元軍は海路侵攻するが撃退される
1293年
ジャワのクディリ朝に元軍侵攻しクディリは陥落するが、前王朝シンゴサリの娘婿のウイジャヤが元軍を撃退し、マジャパヒト王国建国
1241年
ポーランドへ侵攻し南下してきたモンゴル軍の一部がオーストリアのノイシュタット要塞を包囲するが、皇帝フリードリヒ2世の息子エンツォ率いる神聖ローマ帝国・シチリア王国軍が救援し、モンゴル軍を撃退
ニュース
モンゴル帝国最強の大元ウルスに勝利した日本とは同列に語れないな。
それに、ベトナムやポーランドは散々国土を蹂躙された上での勝利だろ。
日本は九州に橋頭堡を築かせないという完璧な内容での圧勝。
日本に侵攻した元軍はほとんど高麗、南宋の兵であり、モンゴルの騎馬部隊ではない
しかも日本側の勝利と言われているものは御家人が戦功があったように報告するため、小舟で元軍の船一隻に侵入して何人か殺したのを誇張しただけ陸上戦で元軍を大々的に破ったことは一度もない
やはり暴風雨が元軍に最大の被害を与えた
それに侵攻兵力が25万とかも誇張、実際その兵力が補給物資を含め当時の船舶で博多湾に来襲したなら かなりの船舶は湾外にあぶれ、上陸した兵力も限定されてしまうだろう 従って日本に侵攻した兵力は実際はもっと少ないと思われる
ベトナム、オーストリア等に侵攻したのはモンゴルや遊牧民の本当の騎馬部隊
オーストリアはポーランドと違うし、皇帝軍が初めてモンゴルと戦った(ポーランドのリーグニッツで戦ったのはポーランド、ドイツの〈諸候〉、ポーランドは帝国領でない)
>>130
その高麗、南宋の兵を使ってフビライはナヤン・カダアンの乱でモンゴルの騎馬部隊に
勝利したんだろ。
モンゴルの騎馬部隊<大元ウルス軍じゃん。
文永の役で元軍が暴風雨に遭ったのは、御家人にまったく歯が立たず、日本から逃げ帰る
最中の11月5日、対馬沖でだよ。
高麗史にはっきりとモンゴル軍の総司令官が、「日本軍が優勢だから退却するしかない」
と言って撤退を決定したと書いてあるだろ。
当時の日本人の日記にも「モンゴルはすぐに退散した」と書いてあるし。
あと弘安の役で元軍が暴風雨に遭ったのは、博多湾で撃退され、2ヶ月近くも日本軍から
逃げ回った末のこと。
それに暴風雨の被害にあったのは元軍のごく一部で、十万以上の元兵は御家人によって
皆殺しにされた。
殺した数が10万人なぞありえるはずない
戦死者10万なら少なくとも倍の20万人以上の負傷者が出たはずであり
大量の捕虜が発生したはず
逃げ帰った生存者が多くいることはわかりきっているのだから少なくとも投入兵力は60万人以上ということになるか
ありえない、ありえない、絶対ありえない
なぜなら陸づたいに侵攻するわけでないから侵攻兵力の食糧は現地徴発になるからだ
当時の北九州の人口を推測してもそんな大兵力を投入したら1ヶ月もしないうちに全員餓死するだろう
>>134
7月30日に元軍が暴風雨に遭遇した後、船が壊れて逃亡不可能な元軍が10万以上、鷹島に立て籠もっていたんだよ。
この元軍は8月7日~9日の日本軍の攻撃で捕虜2~3万を除いて全滅。
捕虜もその後、博多で旧南宋兵を除いて斬首。
元史の記述では、『十万の衆、還るを得たる者三人のみ』
日本の文献では、『但し、ことことくに、殺し尽くしても、こたひの神の威徳を、しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝か王に、事の趣を、いつはらす、いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』
フビライの対日本戦とその他の国との戦いを比較するぞ。
1257年
ウリャンカダイ率いる兵3000が大越に侵攻し、首都・大羅を約1週間占領。大越は3年に1度の朝貢を約束。
1268~71年
馬成旺率いる兵3000・馬300が占城を征服。
1274年
ヒンドゥ率いる兵4万が日本に侵攻して大敗。軍の還らざる者1万3500。
1277年
怱都率いる騎兵700がンガザウンジャンの戦いでパガン朝の戦象団に勝利。
1281年
ヒンドゥ率いる東路軍4万と范文虎率いる江南軍10万が日本に侵攻して大敗。兵の6~8割は生還できず。
1282~83年
元に叛旗を翻した占城に遠征。元軍の兵力は約5000から始まり、約2万にまで増強された。
1283~86年
宗王・相吾答児率いる船200艘がパガン朝に侵攻。翌1284年に江頭城を攻略。1286年、師を喪うこと7000にしてパガン朝を平定。
1285年
対占城戦への協力を拒んだ大越に侵攻。トゴン率いる元軍は大越の史記によれば50万。全土を制圧するも兵站確保とゲリラ戦に苦しみ敗退。
1285~86年
タタールダイとヨーウルダイ率いる兵1万がサハリンに侵攻し、アイヌ民族の骨嵬を追い出す。
1287~88年
再びトゴンが大越に侵攻。元の兵力は大越の史記によれば30万。首都を攻略するも補給艦隊500艘が伏兵に大敗。本隊も撤退途中に大敗。
1293年
兵2万・兵船500艘でジャワに侵攻。後のマジャパヒト王ウィジャヤとの同盟でクディリを攻略するも、裏切りに遭い退却。
ついでにカイドゥとかトルキスタン方面の戦線の情報プリーズ
>>141
すみません。
そっち方面は詳しい情報がありません。
インド戦線についてなら多少情報があります。
1221年
インダス河畔でチンギス・ハン率いるモンゴル軍がジャラールッディーン率いるホラムズ・シャー国軍を撃破。ジャラールッディーンはインドへ逃れて亡命を求めたが、奴隷王朝のイルトゥートゥミシュは拒絶。
1241年
タイル・バハードゥル率いるモンゴル軍がラーホールを襲撃。
1245年
モンゴル軍がムルターンを包囲。奴隷王朝のバルバンが急遽駆けつけムルターンを救援したが、デリーの防衛線はジェーラム川からベアース川まで後退。
1256~57年
モンゴル軍がパンジャーブに侵攻。1260年にフラグの使節がデリーを訪問し、バルバンは暗黙のうちにモンゴルの全パンジャーブ支配に同意。
1292年
フラグの孫アブドゥッラー率いる騎兵15万がデリーを目指して侵攻。国境近くでジャラールッディーン・ハルジー率いるハルジー朝軍に敗退。モンゴル兵4000がイスラムに改宗してインドに投降。
1299年
クトゥルグ・ハージャ率いるモンゴル軍20万がデリーの征服を目指して侵攻。デリー直前でアラーウッディーン・ハルジー率いるハルジー朝軍に敗退。
1303年
モンゴル軍12万が再び北インドに侵攻。デリー近くの新首都スィーリーで2ヶ月間に渡ってハルジー朝軍と対峙した後に撤退。一時窮地に立たされたアラーウッディーンは、この後に47万5000騎といわれる常備軍を整備。
1327年
モンゴル軍がトゥグルク朝中枢部のバダーウーンまで侵入。但しこの時は、侵攻説と救助を求めて来たという説とがある。
元軍は基本的に東南アジアの軍が相手なら、数千規模の兵力で勝利することができる。
しかし、全土を制圧・統治するには数万の兵力を長期間投入することが必要で、そうすると兵站の負担が大き過ぎる。
いくら大軍を投入しても、大越のようにゲリラ戦で抵抗を続けられると、元軍側も消耗して撤退に追い込まれてしまう。
ちょうどアメリカ軍がイラク正規軍にあっさりと勝利した後で、占領・統治に苦戦しているような感じ。
反面、大越やジャワのように元軍を退却に追い込んだ国も、侵攻自体を阻止する軍事力は無いので、結局は自分から元への朝貢を申し出ることになる。
一方、日本に対しては、いくら大軍を送っても正面から粉砕されてしまい、九州に橋頭堡を築くことすらできない。 元が日本に対してできるのは、せいぜい高僧を送って鎌倉幕府のご機嫌を伺うことぐらいだ。日本が最後まで元への朝貢を認めないまま独立を維持できたのはそのため。
何でだろう。
日本の海岸線は断崖が多くて上陸できる地点が少ないからか?
(と思いつきでレス)
日本が勝てたのは海のおかげだろ
日本が特別えらいわけじゃない
>>146
勘違いしている人が多いけど、大元ウルス軍は海戦が得意だ。
長江や漢水といった大河に守られた南宋を征服するため、艦隊の強化に力を入れたからね。
だから、三別抄相手の珍島や済洲島への攻撃や、南宋の大艦隊相手の厓山の戦いでも、圧倒的な海軍力で勝利しているだろ。
加えて、元寇の際の元軍指揮官たちは、いずれも艦隊指揮の経験がある。
文永の役の元軍や弘安の役の東路軍を指揮したのは、三別抄に勝った時と同じ武将たちだし、弘安の役で江南軍を指揮した范文虎は、襄陽の戦いで南宋の水軍を率いていた。
ただ、モンゴル自体はそれほど人的資源を投入していないので高麗や旧金、旧南宋が犠牲者の大半ではあると思うが。
>>147
弘安の役で、防塁のために上陸できなかった元軍は、その代わりに博多湾の入り口にある志賀島に上陸。
対する日本軍は海の中道を通って志賀島の元軍を攻撃。
地形を見ればわかるけど、通常ならこんな攻撃は戦力の逐次投入になるから成立しない。
鎌倉時代の御家人が、元軍なんか話にならんほど強かったと考えるのが自然だろ。
日本襲来の一回目は南宋攻撃のため南宋と盟約を結ばぬせないための牽制攻撃でもともと襲撃したらすぐに引き上げる予定のヒットエンドラン戦法でたまたま撤収時に暴風雨に合い損害を受けた
投入兵力も2万7000程度
二回目の時、南宋はほとんど戦わずに屈服したため、旧南宋の職業軍人40万人が健在で放置すると反乱を起こしかねないため、多くは西方・北方戦線や広東・広西の鎮圧に振り向けた
それでも老弱兵が残ったため日本に振り向けた
江南軍は総兵力は10万だったがたいした武装をしておらず、入植用の農器具と種もみを携行しており、実質、武装移民であった確率が大きい
東路軍は4万程度の兵力だが、補給部隊を増強しただけで前回と戦闘部隊兵力はさほど変わっていない
しかしながら補給部隊をほきょうしたにも関わらず糧食不足になり撤収しようとしたときに台風が直撃した
いずれにしても二回の襲来とも日本軍により深刻な被害を受けたわけでない
もし騎馬部隊が乗船するなら騎兵一人あたり最低3頭の馬が必要である(同時期の十字軍の用例から)
従って有力な騎兵部隊を投入する意図があれば、さらに膨大な船舶が必要であり博多湾以外にも複数箇所に上陸せねばならなかっただろう
>>149
>日本襲来の一回目は南宋攻撃のため南宋と盟約を結ばぬせないための牽制攻撃でもともと襲撃したらすぐに引き上げる予定のヒットエンドラン戦法でたまたま撤収時に暴風雨に合い損害を受けた
ここに書いてることは全部文献の裏付けなんか皆無なんだよ。
日本が当時滅茶苦茶強かったということを認めたくない日教組とかが、適当な事を教えたため、おまえは洗脳されているんだよ。
文永の役の目的は元史にはっきりと『その国に入りこれを敗らんとするも』って書いてあるだろ。
東南アジア戦線に数千の兵力しか投入しなかった元が、その数倍の兵力を投入した日本戦が、単なる牽制攻撃ですぐに引き上げる予定な訳がないだろ。
高麗の武将は撤退を決定した軍議で、帰りの船を焼いてでも断固戦い続けることを主張してるんだよ。牽制攻撃ならそんなこと主張するはずないし。
文永の役で元軍がたった一日で撤退しなければならなかった理由は、鎌倉時代の御家人が強すぎて、元軍がまったく歯が立たなかったからだ。
>>153
ジャワでも戦闘では普通に勝利してるよ。
ジャワの場合は、クルタナガル王がフビライに喧嘩を売ったため侵攻したんだけど、元軍が上陸した時には、既にクーデターで王朝は滅び、王も死んでいた。
仕方が無いから首都クディリを攻略してクーデターを起こしたジャヤカトワンも殺害。
その後に同盟を組んでいた現地勢力が裏切ったので撤退した。
軍事的に見れば、「元軍は海があっても強かった」だろ。
あと、大元ウルスは海に隔てられたサハリンも征服している。
確かに、文永の役での元軍撤退を『牽制目的』とするのは、あくまでもその不自然さから出た推測であって、文献があるわけではないんだよな。
俺も一時期その辺の資料を探したが、それを裏付ける資料は見つからなかった。
元軍に『矢が尽きた』という資料があることと、日本軍(少弐景資)が元軍の副将劉復亨を射抜いたことだけは事実。
資源はない、たいした農産物は生産していないし、工芸技術他も陳腐なものしかない、その上住民のほとんどは貧農
そんな日本を占領したところで元にとってなんのメリットもない
せいぜい老いて使えなくなった南人を植民させるぐらいだろう
そんな老いた南人でも当時の低レベルの日本人よりはマシだ
中国語など他国語の文献を読み取れない以上、日本の異常に誇張された史料を鵜呑みにしても仕方がないと思うが
>>163
>異常に誇張された史料
どこが異常に誇張されてるのか証明してみろ。
当時の日本は世界有数の金産出国だよ。
高麗人の趙彝とかいう奴が「南宋の富有は日本が金を輸出しているお陰です」って
クビライに進言したから、元は必死になって日本を征服しようとしたんだろ。
元史の日本伝を検索しても趙彝のそんな発言はない。
趙彝が出てくるのは
「元世祖之至元二年,以高麗人趙彝等言日本國可通,擇可奉使者」
という部分だけ。
宋史日本伝『東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす』
貢賦とは朝貢のこと?
日本側はそれと引き換えに何か得ていたのですか?
日本は中国に金を輸出して、それと引き換えに銅銭を輸入していた。
これは元史の記述だけど
1277年『日本、商人を遣わし金を持して来り、銅銭と易えしむ』
日本の史料の民経記によれば、1242年に南宋から帰還した船は銅銭十万貫などを持ち帰ったらしい。
高麗や南宋の降伏した兵が主力だったからでしょ
つまり元の2軍部隊だったから勝てた
モンゴル騎兵が強いのは平原での戦いで
日本で戦うなら定住民の歩兵部隊でも問題ないのでは?
何で戦えば勝てる相手に降伏する必要があるんだよ?
輸出できるほどの金山ねぇ
いったい中世日本のどこにそんなに産出量の多い金山があったか
教えていただきたいものだな
ちなみ佐渡金山は開発が近世以降だがね
奥州の砂金がメインじゃなかったけ?
しかし金箔、金メッキで加工されたもの以外の金で作られた工芸品ないしは歴史的遺物は中世日本であっただろうか?
ましては‘日本で金が出るかもしんない’なんて不確かな情報をもとに大国、元が軍を動かすとは思えない
1277年に元自身が金と銅銭とを取引してるんだから
不確かな情報でも何でもないじゃん。
日本を過大評価しすぎ
日本と元の交易量なんか元にとってはわずか
戦国時代以降の日本の銀の産出が世界史的影響を与えたのは理解できるが、鎌倉時代の砂金程度で侵略を思いつくとは思えんし、船舶建造料を含んだ戦費を考えても見返りで砂金程度では大赤字は確実だ
とにかく捕虜、戦利品がほとんどないところを見ても日本軍による戦いでの大勝利はありえないだろう
通常、戦いで敗れた場合、重傷者は敵の手に落ちる
ましては陸続きでなく船舶でしか逃げるてだてのないのならなおさらである
元冦とほぼ同時期ごろに起き、ダンテの神曲でも記述があるモンタペルディの戦いでは、フィレンツェを中心とする教皇派都市の7万が皇帝派都市のシエナに攻めこんだ
シエナは人口5万で15~70歳の市民男子を動員、皇帝フリードリヒ2世の子シチリア王マンフレーディからドイツ騎兵の増援を受け2万で教皇軍と戦った
結果は皇帝軍が勝利し、教皇軍は1万8000が戦死して1万5000が捕虜になった
捕虜の中には多くの負傷者がいた
つまり戦果が大きく、敗者に逃げる手立てが限定されるなら、その戦果に比例して捕虜数も多くなるはずなのだが
元史日本伝には元軍の3~4万が日本の捕虜になったと書かれているな。
高麗史だともっと多くて
13万~14万の元兵が日本に降ったと書かれているけど・・・
突撃主体か騎射主体かは系統が違うような気がするね
明らかに騎射っぽいけどな
烏桓や柔然とかじゃない?
俺も烏桓に一票
皇甫嵩が韓遂を討伐する時に烏桓を援軍要請しようとした時に
一時期劉備の上司?だった鄒靖という人が
「烏桓は弱いので鮮卑の方がいい」と言っている
それに袁尚、袁煕をかくまった時に曹操の討伐を受けて
単于が討ち取られ二、三十万が降伏し移住させられた。
やる気なかったのか?
>>217
1度目のマラトンの戦いで負けたときは、ペルシア軍には騎兵がほとんど居なかったんだろ。当時のガレー船では、大量の騎兵を輸送するのは難しいし。
だから2度目では、騎兵を含む大軍を陸路ギリシアまで海岸沿いに進軍させ、兵站補給用の
艦隊を並走させる作戦を選んだんだけど、艦隊の方がサラミスで負けちゃったから・・・
上のほうに散々女真は弱いと書いてあるだろ
金が南宋に敗れたのは騎兵が活動しにくい地域に侵攻したときだし
山海関はもともと強力な要塞なうえに明軍は大量の火器を装備していた
モンゴル以外の北方騎馬民族はそれよりさらに弱いってことになってしまうわけだが?
ホンタイジはモンゴルを下し元の玉璽をもらっている
つまりモンゴルも弱いことになってしまう
やっぱ最初期の騎馬軍団の方が弱いだろ
馬の利用法も時代が下るほどレベルが上がっていくんだしさ
>>230
ヒッタイトは騎兵じゃなくて戦車(チャリオット)が主力じゃなかったっけ
最初に騎兵を使用したのはアッシリアだったと思う
匈奴とモンゴルを比べても、鐙の有無や鏃が骨から鉄へと変化するなど
一般的に言って後の時代のほうが戦闘力は高いが、当時の中東で恐れられた
アッシリア軍が最弱の騎馬軍団というのは違和感がないでもない
李如梅
「倭兵が三十人ぐらいでも女真兵一人に敵わないだろう」
刀伊の入寇や元寇の時の女真兵はかなり弱かったけどな。
それに白村江の戦いでの唐の水軍は靺鞨が多かったと言われる
文永の役で少弐景資隊と戦って負傷し、元軍が撤退を決めた際に真っ先に乗船したという劉復享は、女真部隊の指揮官だよ。
配下の女真兵まで弱いとは限らない
上の李如梅という人は明の将軍で
女真とも豊臣軍とも戦ったことがある人だよ
現実に直接対決では女真軍が負けているんだから、李如梅の認識が間違ってるんだろ。
白村江、刀伊入寇(ぼろぼろになりつつ辛くも撃退)
李如梅の認識が間違っているというが
30人でも敵わないというのは言いすぎだとしても
女真の方が強いというのは妥当だと思うよ
刀伊の入寇は李如梅の生きていた時代の500年前のこと
白村江に至っては1000年ぐらい開きがある
慶長の女真と日本どっちが強いかどうかは戦っていないからよくわからない
文永の役は、4万の元軍を1万の日本軍が撃退で、女真軍はその中核部隊のひとつ。
いずれも、日本軍の方が少ない兵力で勝利してるじゃん。
更に伝えられてる日本の損害は非戦闘員のものがほとんどで、戦闘の内容事態は九州にまったく橋頭堡を築かせないという日本側の圧勝。
刀伊の入寇は日本の被害も多い
(殺害された者数百、拉致千数百、牛馬も数多く奪われた)
藤原隆家の軍には現地人も数多く加わったというから
日本側の完全な勝利とは言えない
日本側は兵力差に押されて博多を放棄して大宰府に引いている
元が引いたのは矢が足りなくなってしまったから
(大陸と日本の間には海があり補給が困難だったんだろう)
「矢が足りなくなった」などというのは、単に「ボロ負けだった」ということの婉曲表現に過ぎない。鎌倉時代の史書には、いずれも合戦による日本軍の勝利が書かれている。
そりゃ日本側の資料なら勝ちって書くだろう
勝利したなんて書いてあったか?なんか知らんけどいなくなったぞよ、て感じだろう。特に文永の役では。
>>274
当時の文献には、はっきりと合戦でモンゴル軍が敗北したと書いてあるよ。
鎌倉年代記「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
帝王編年記「是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」
はいはい日本側の資料ではね
>>283
文永の役では、戦略目標を達したという意味では「負けてはいない」けど、実際の戦闘では相当苦戦しているからな。菊池氏などはよく戦ったが、総大将の小弐氏は本営としていた箔崎八幡を捨てて太宰府に移ろうとしている。防衛ラインを下げるつもりだったわけだから、優勢ではないと判断したんだろう。
>>283が引用したのは、「博多を守った」という程度の意味で、戦闘で優勢だったと言うことではあるまい。
ただ、弘安の役は日本軍の完勝と言っていいだろう。
上陸すら許さなかったのは戦術戦略ともに優れていたと言っていい。
江南軍が戦闘部隊だったら、あるいは危うかったかもしれないが。
総大将の小弐が水城に引き上げる決定をしたのは、単に夜になったからだろ。
大宰府防衛が目的の日本軍が、本来想定していた防衛ラインは水城。
その証拠に籠城戦に備えて、水城に豊富に兵站を蓄えていたりする。
元軍は日本軍にとって前哨戦に過ぎない博多で戦闘不能に陥ったわけで、戦闘ではまったく日本軍に歯が立たなかった可能性が高い。