司馬炎は、政策自体はそれほど悪いものではないのだが(むしろ政治的には名君の資質あり)各局面における政治的判断がことごとく裏目に出ているのが、今の評価につながってると思う
まあ、東晋見ていても暗君が多いと思うよ
しかし、もし名君が輩出されていたら、東晋朝廷は比較的早い時期に瓦解していた線が濃厚。あの日本の天皇制のような、政治的最高権力者不在の状態が、東晋の魅力であり強みであったからな
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司馬炎の政策って占田・課田制や九品官人法はともかく、魏の失敗を教訓にして皇族を優遇し、土地と軍権を与えたことは逆に皇族間の争いを誘発する結果に、八王の乱の遠因にもなった訳だし。
高官に対して賄賂や、異民族に対し何も対策をしなかったこと、挙げ句の果ては昏愚な司馬衷を皇太子とするなど、やってることに英明さがあるとはとても思えないが・・・
>あの日本の天皇制のような、政治的最高権力者不在の状態って、いつの時代?
仮に東晋を日本風に例えるなら鎌倉期の北条執権政治か徳川幕府に置ける老中合議制に近い状態ではというなら話はわかるけど・・・
司馬炎の時代九品官人法はもう形骸化が激しくて、有能だか出自が低い人物には足かせになってる
司馬炎は魏の失敗を教訓にして、皇族に軍権を与えたわけではないですよ。
皇族たちは元々洛陽に住んでいたけれど、文欽とか諸葛誕とか辺境での叛乱が多く続いたため、血縁のない有力武将に重要拠点を任せるのでなく、皇族に任せることにしたという話で。封地はあっても赴任していなかった皇族達は、すすり泣いて嫌がったということです。
この辺の事情については、誰かの列伝ではなく「晋書・職官志」に記されているため、マイナーな情報なのかもしれません。
それと、異民族対策についてですが、これは「異民族排除・抑圧」という考え自体が、当時すでにナンセンスなものと化していたのではないでしょうか。
晋書の匈奴伝では、太原の匈奴と漢人の生活上の混淆が進んでいたことが記されています。太原王氏の領袖である王渾が、呉征伐に劉淵を推したりしたのは、おそらくそういう背景があったからでしょう。
司馬炎が無能というよりは、その施策を継承し修正してゆくはずの後継者達に、政権担当者としての明確なビジョンが無かったこと、ビジョンのある者がいても実権を持てなかったことが、八王の乱を引き起こす原因となったのではないでしょうか。
>>190
なるほど、詳しい解説有難うごさいます。確かに司馬炎はその政策を継承し修正してゆくはずの後継者選びに失敗した感じはしますね。
本当は弟の斉王司馬攸を皇太子弟として位を継がせようとしたのですが、孫の司馬イツが利口なので孫に望みを託して司馬衷を皇太子としたのが真相みたいですね。ご指摘通り政権担当者としての明確なビジョンが無かったこと、ビジョンのある者がいても実権を持てなかったことも、確かに事実ですし。
あと質門なのですが
即位後まもなく晋朝成立の歴史を左右から初めて聞き、「そんな成り立ちの国が長く続くはずがない」と涙を流した帝って誰ですか?
>>192
東晋の明帝司馬紹。『世説新語』の尤悔篇にあるエピソード。
【原文】
王導、温嶠倶見明帝。帝問温前世所以得天下之由,温未答。
頃,王曰:「温嶠年少未諳,臣爲陛下陳之。」
王迺具敍宣王創業之始,誅夷名族,寵樹同己,及文王之末,高貴郷公事。
明帝聞之,覆面箸牀曰:「若如公言,祚安得長!」
【訳】
王導と温嶠が連れ立って明帝に謁見した時、帝は温嶠に先祖が天下を取れた理由を尋ねたが、温嶠は答えられずにいた。
しばらくして王導が、「温嶠は若輩者ゆえ子細を存じ上げませぬ。私めから陛下にお答え申し上げましょう」と言った。
そこで、宣王(司馬懿)が創業の初めに、名族を誅滅して己の与党を引き立てたこと、さらに、文王(司馬昭)の末には高貴郷公を弑殺したことについて、詳細に述べ立てた。
明帝はこれを聞くと、顔を覆い、ソファーに身を突っ伏して言った。「もし貴公の言うとおりならば、この王統もどうして長続きできようか!」
原文、和訳付の親切なレス感謝です。
王導といえば東晋の元帝、明帝、成帝と三代に仕えた宰相で融和政策をとり、東晋の基礎を固めたといわれる人物。
彼は気取らず、また寛大な人物だった様で次のようなエピソードがある席で王導が何か言うたびに同座していた人々が褒めそやし、お追従のかぎりをつくすのでその席にいた王述が一同のお追従を聞いているうちに我慢できなくなり、人、堯舜にあらず、なんぞ毎事善を尽くすを得ん。
(堯・舜のような聖人ならともかくとして、すべてのことについて完全な人間などいるはずはありません)
自分が登用し、目をかけてやった者にこれだけ水を差されたにもかかわらず、王導はうなずいて、王述の苦言に感謝したのだった。
高歓みたいに情勢を察知して行動を起こし、後に権力者になった人物って前涼の張軌もそうじゃない?(張軌はやむえず独立したのだが)
散騎常侍としてエリートコースを進んでいたのに、八王の乱の激化を予見して、わざわざ辺境の地の長官である、涼州刺史を志願したんだし。
前涼といえば5代目、張重華に仕えた謝艾ってなかなかの名将だよな。
謝艾は前涼の主簿であったが、大抜擢を受けて中塁将軍にのぼり後趙の涼州侵攻を幾度と無く撃退しているし。
書生風の格好で戦場指揮を取っていたため、敵将から過分に罵られることもあったみたいだけど、石虎に「中原の総力を注いで、謝艾のいる一城を落とせないとはッ!」と歎息させたほどの人物。
在位が50年にも及んだ為、後半の治世は皇帝の老害によって国政が乱れたのは否めない。
もし昭明太子が早死にしなければ、梁が華北を平定する可能性はあったのだろうか?
昭明太子は治の人だから、仮に皇帝となったとしても、梁の繁栄を長引かせることは出来ても、華北を征服することは出来ないんじゃないかなあ。
正直、華北の平定は無理だったと思う。南朝の全てに言えることだけど。
華北には鮮卑・匈奴・氐・漢人その他の間の「民族問題」というものがあるわけで、それを巧くさばく政治制度や理念が南朝にあるかというと…。
たとえできたとしても、短期間で崩壊したんじゃないかなぁ。後趙や前秦の統一が、石虎の死後や苻堅の晩年に瓦解したように。
>>201
>後趙や前秦の統一が‥‥
構想が瓦解したのは石虎の場合は後継者問題が苻堅は事を急ぎ過ぎたのと人が良すぎた、王猛の死去などが原因じゃないかな?
東晋は亡命政権な上、土豪との軋轢を解消しきれてなかったり諸問題があるし、その後の王朝も後継者争いが起るか、優れた君主が現れても早死、又は文化に傾倒するからなぁ。
(初代は比較的マシなのだか‥‥)
それと華南という豊かな土地柄のせいなのかそれに甘んじてしまい、征服欲が薄いと思うが自分の見解。
宋の劉裕なら統一後を体制維持できそうだが、どうだろう?
司馬炎が禅譲の形式段階で相国になっただけだろとは思ってたけど、他で司馬炎が名宰相みたいなこと言ってたから不思議に思った訳。実際どうなんだろと疑問があったから意見を伺ってみたんだ。
>>207
司馬炎が相国(あるいは魏臣)時代に、目立つような政治的功績がなかったこと、帝位に就いた後に、様々な政策を次々に打ち出したことを比較して「政治家として功績を残したのは皇帝になってから」という文脈で司馬炎をあのスレで微妙な名相→皇帝の一例に挙げただけだ。確かに例に挙げるまでも無く、名臣じゃあないわけだが→司馬炎
両晋の名臣と言ったら、王導が筆頭に来るのかねえ
(個人的には杜預が一押しなんだが)
司馬炎の大将軍として呉を平定、三国時代を終結させた人物で、なんと言っても破竹の勢いの故事が有名だしな。
この人の徳治なしに、呉征服は語れないと思うのですよ。
司馬炎も、涙を流して
「これ(呉征服)は羊太傅の功である」
と言ってくれたんだし…。
別に羊コを疎かにしてる訳ではw
病気で倒れた羊コが杜預を後任に推挙したり
病弱な陸抗に薬を送ったエピソードには彼の器の大きさを感じるね。
(陸抗も酒を送っているし、こいつもなかなか器がデカイ)
確か、杜預には首に瘤があったのを、
どこかの城の住民が瘤のある木に
「杜預の首(瘤だっけ?)」と書いた札を下げたって奴でしょ?
で、それに腹を立てて城民虐殺。
正直、杜預ってあんまり上司にはしたくないタイプだと思った。
呉を征服するときの上表文も、わざわざ最初に
「羊コは時宜を得ることができませんでしたが云々」
ってところが、
「成功したら羊コの手柄なんか無いもんね!おれの手柄だもんね!」
みたいに読めて…。
蜀から帰還する衛カンに「彼の終わりはよくないだろう」と予言したけど、
杜預自身、そう言えるほど清廉ではないという印象が…。
杜預は確かに自分の才覚を鼻にかけてるきらいはあるが、それを補って余りある実務能力を持っているから、「何でもある」って言う意味で「武庫」って綽名されてたほどだし
官僚、政治家、軍人、文人として全ての面で成功を収めている、確かに厭味なヤツだ(政治家としては、最後に政敵連中に敗北してるけど)
衛カンを悪く言うのは仕方がないっちゃあ仕方がないことだし
>>214
確かに呉平定の功労者は杜預なのに政治権力闘争では賈充、馮タン、荀 の勝ちになっちゃってるなorz
司馬炎ってかなり乗せられ易い人なの?
司馬炎は典型的な暗君のような
両晋の名臣に張華を推しては駄目ですか?
張軌に劉弘に陶侃に陸機に陸雲に劉聡に慕容カイにその他諸々、民族関係なしに見こんだ人物を推薦しまくった(しかもことごとく名をなした)辺り、人物鑑識の能力が神の領域に入っているような…。
知識人としては子産にたとえられたこと、裴頠と一緒に元康年間の小康を支えたこと、それも含めて凄い人だなぁ、と思うのです。
寒門でさえなければ、西晋のあり方がもうちょっと変わったかも…って、過大評価ですか?
>>218
その張華が推薦した東晋の陶侃の評価はどうなの?
五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務め東晋の柱石であっただけでなく、謹厳、実直な人物で知られている。
貧家の生まれで、たまたま同郷の人が官途につくため都に行く途中、彼の家に泊まった時、母親が髪を切り酒食をととのえ遇したのがきっかけで陶侃は世に出る糸口になったんだろ。
正にこの母にしてこの子ありって感じがするね。いかにも彼らしいエピソードも多数有るし。
宇宙大将軍の称号がメジャーになったりしたんだろうか?
宇宙大将軍・都督六合諸軍事の侯景閣下におよびもつかない小者だな。
>>224
丞相が抜けてる!
宇宙大将軍・都督六合諸軍事・丞相の侯景閣下だ!!
梁の武帝に和睦されたのは超誤算
琅邪王氏や太原王氏は有名だけど北海王氏って初めて聞いたな。
>>236
後漢から続く貴族じゃないですしね。
王猛自身、若い頃は行商もやってた苦労人…ていうか、たぶん
「書物を読める程度には金があった平民」
ってところじゃないですかね?
ただ、王猛のおかげで子孫はいい目を見たような気も。
孫の王憲は太武帝に「これは王猛の孫である」と取り立てられて、金持ち土地持ちの生涯を終えることができたし。
もっとも、曾孫の王昕は南朝の爛れた生活に憧れ実践して、高洋に一罰百戒とばかりに斬殺されるわけですが…。
しかし珍法功とか卜起とかスレッドが立ってるけど、この時代には陳珍(チンチン)さんが存在するんですよね…。作り話とか嘘ではなく、晋書・張茂伝に載っている人です。
陳珍は前涼に仕えた人物で、劉曜侵攻により張茂が親征せざるを得ないピンチに陥ったとき、ひとつの献策をしました。それは持久戦に持ちこむことだったのですが、その際の状況観察眼が素晴らしいもので
張茂が
「劉曜は三秦の精鋭を掌握し、士卒は闘いに習熟している。もし南安を落としてこちらに長駆してきたなら、どのようなはかりごとを出せようか」
と心配すると、
「劉曜は石勒という内患を除いていないのですから、向こうの兵は実は烏合の衆と言えます」「関東の雄(石勒)を放置したまま、劉曜が長期間涼州をかけて争うなど無理なのです」
と、涼州側からは内部分裂にしか見えない前趙と後趙の争いが、実は深刻な争闘であることを看破して、騎兵1800を率いて劉曜に闘いを仕掛けます。
陳珍の読み通り、劉曜側は持久に耐えられる状態ではなく、無念の退却に追いやられました。結果、陳珍は参軍→平虜護軍→折衝将軍と出世することになります。
この人の出番はこれだけなので、名将とか智将とか判断することはできません。
ですが、劉曜の軍団に怖じ気づくことなく一泡吹かせ、国を救ったという点は高く評価されて良いかと思われます。