イギリス・フランスのみでなくブルゴーニュについても語りましょう。
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彼女が一番有名というのも・・・なにか違うというかおかしいというか。
というほうが歴史通っぽく聞こえる
というほうが歴史オタっぽく聞こえる。
パリを奪還したのも、ノルマンディーを取って、完全にフランス軍を優位に導いたのはこの人なのに。
イギリス人にとっては、あの戦争はトロワ条約で終結した戦争で、
イギリスの勝利で終わった戦争という認識になっているそうな。
イングランド側からみれば結局戦費の捻出に汲々した戦争じゃなかったのかな。
課税の可否についてパーラメントで諮るわけだけど、賛同が得られないので
国王は何らかの妥協せねばならず、その結果国王の権限が制約されて議会の
発言権が強くなっていったという流れなのかな?
国王による新税・増税 -> 都市や領主の反発 -> 国王の無制限な権限を制約
間違ってそうなんで、誰か突っ込んで(;´Д`)
まずさに求められているけど、考えてみれば英軍は、ずっとウェールズやスコットランドで激戦を続けてたん
だよね。つまり戦いのキャリアが全然違ったと。
百年戦争のイメージ
百年戦争と言っても戦っていない年も結構あって、
フランス側の最大動員数も2万5000を越えた戦いがない
とかいう話もあったような。
今なら本屋に「百年戦争」フィリプ・コンタミーヌ 白水社 クセジュ文庫
が売っているはず。
>>41
私もそうなんだけど、おフランスでは英雄なんでしょ?
黒太子はそういう名前の試作戦車もあったような。
たしか実績としてはジャンヌダルクより上で
王家しか入れない墓地に唯一入ってるとか
なんか凄そうではあるんだけど、ここまで描写がないとさみしいね。
>>41
"Strategy"
by B. H. Liddell Hart
(「戦略論」日本語訳もあったが、今は入手できないと思う)に
デュ・ゲクランが有能な戦略家として紹介されていた。
ちなみに、リデルハートはクレシー、ポアティエ、アジャンクールの戦いは
イギリス側の戦略的失敗寸前だったが、フランス側がそれを上回る
失敗をしたため、イギリス側が救われたと述べている。
つまり、フランスが応戦しなければイギリスはなんの成果もあげられずに
戦費の無駄使いで終っただろうと。
# 実際エドワード3世は財政破綻寸前だった。
イギリス人の側からこのような意見が出されるとは珍しい。
>>88
>イギリス人の側からこのような意見が出されるとは珍しい。
そうでもないんと違うか?
「戦術一流、戦略三流」というエドワード3世評は、
二世代ぐらい前まではイギリスでも通説と違う?
あとリデル・ハート(というか彼の世代)は基本的に中世に興味ない人やろ。
Strategy でも中世カバーしとるの7pぐらいやしな。
100年も戦争やってる間、
ドイツとかスペインとか、隣国の干渉はなかったんですか?
フランスの求めに応じたローマ教会の介入や、ナバラとの争いがありましたが、干渉っつーか、
むしろイベリアなんかでは介入する側でした。
1365~1369カスティーリャを巡る争いで仏は勝利し、そして仏は強力なカスティーリャ海軍を
味方に付けて一気に巻き返しました。
ドイツやイタリア半島に関しては、特に聞きませんね。
>>45,47
ドイツは干渉しなかったけど、英仏間抗争の影響受けて
一四世紀末に国王を廃位しちゃってるよ。
もちろん、英仏間抗争だけが原因じゃないけどね。
基本的には、我関せず、がドイツ(帝国)側の基本政策じゃないかしら。
1338年に神聖ローマ皇帝ルドヴィヒはエドワード三世を皇帝の代理人に指名して、諸侯に対してエドワード三世に協力するよう命令してるニャ。
そうですよね。
病気やら内紛とかもあったし、
その頃の冬は寒いから
戦闘なんかほとんどやってなかったし。
>>81
当時のフランス自体がバラバラの諸侯連合体だったんだ。
もともと実質的に存在したのが、表に出てきただけだと思うぞ。
フランドルについては直轄なんて夢のまた夢だろ。
そんな統制力が当時の宮廷にはない。
イギリス軍との天秤にかけられ、骨までしゃぶり尽くされる可能性大。
下手すりゃしたたかに名前だけ利用され、
直轄領にするつもりが、単なる売り物にされるだけという
笑えない話になる可能性も……。
ギー・ブルトン,フランスの歴史を作った女たち第1巻,中央公論社,1993,pp.312-316
ゲクランはけっこうウブだニャ。
エドワード三世はホントに金に困っとったみたいだニャ。
年収三万ポンド程度しかないのに1339年には借金の総額は少なくても三十万ポンドに達していたニャ。
だから、1338年2月にイギリスの商人達を羊毛貿易の独占を餌にだまくらかして、がっぽり儲けたみたいだニャ。
ドルトレヒト事件と言われたこの事件で出された債務証書はゼンゼン信用されなくて、表示金額の百分の一から二百分の一の価格で取り引きされたみたいニャ。
1345年1月にはバルディとペルッチのイタリアの二つの商会もエドワード三世に金を貸しまくったあげくに踏み倒されて破産してるニャ。
踏み倒された額はバルディが十三万八千ポンドで、ペルッチが九万二千ポンドだニャ。
これだけ無茶しても金が足りなかったみたいだニャ。
なにせ、ドイツや低地地域の諸候に払う予定の金だけで約二十三万ポンドになったニャ。
ドイツ皇帝に払う額だけでも六万ポンドに達してるニャ。
戦争は金がかかりすぎルンだニャ。
桜井清,イギリス・ステープル制度の史的研究,白桃書房,1974,pp.143-191
ed.m.m.postan & e.e.richm, the cambridge economic history of europe vol.3, cambrige, 1963,pp.459-461
>ドイツ皇帝に払う額だけでも六万ポンドに達してるニャ。
最初の数年は、
「低地諸地方で仲間を増やそう」作戦
とっとるからね。
(けどこいつらタダ飯ぐらいで働かん。)
そんで40年代からはしだいに略奪行(chevauchee)戦略と、
現地委任・代理戦争方式(ブルターニュやアキテーヌ)中心に移行していく。
>>92
>最初の数年は、
>「低地諸地方で仲間を増やそう」作戦
>とっとるからね。
低地諸地方はフランス侵攻の拠点になるばかりでなく、当時経済的にも
ヨーロッパ有数の先進地帯だったから、低地諸地方をイングランドの
影響下におけるならまあ見あった投資といえるのではないかな?
クルトレー(1302)
カッセル(1328)
の戦いでフランス騎士軍とフランドル歩兵の衝突あったことから
あながち見当はずれとはいえまい。
>そんで40年代からはしだいに略奪行(chevauchee)戦略と、
これは他に選択なかった事情があったらしい。
ノルマンディーまでエドワード3世の軍隊を運んできた船が
かなり(許可なく)帰国して、本国との連絡を絶たれたため、
やむを得ず陸路をフランダースへと向かったということ。
#金欠かね。
クレシーでフランス側が戦闘に持ち込むのではなく、エドワード3世の
軍隊の進軍を妨害するだけでもこの遠征を失敗に終らせた可能性がある。
>>95
Chevauchee戦略いうのは1346年のそれだけやのうて、
100年戦争全体、少なくとも前期百年戦争の時期を一貫して貫いとるイギリスの戦略やね。
これは、イギリスの戦争目的とも関わるポイントやけど、
やっぱアキテーヌをめぐる封建的主従関係の整備やろ、究極は。
交渉によって有利な条件を引き出す。そのためには相手に嫌がらせをし消耗を強いて厭戦気分を募らせる。
もちろん、選抜した少数の精鋭しか投入しなければ支出を押さえれるし、
お宝満載して来れば収入もウハウハちう軍事財政上のメリットもあったやろうけど。
(あともう一つ。英軍にはいわゆる長弓戦術いう切り札があったから
いざちゅう時にはケツまくって会戦に持ち込める強みがあった。)
ただ、1346年戦役については、英軍は当初ノルマンディー西部の領有化を目論どったいう説はあるね。
実は今、standard、とも、monumentalとも表される百年戦争に関する決定版通史が
刊行中なんだけど、(一冊が700p近くもあるというのに)1328年から語りはじめて
第二巻の終わりでやっと1369年、という進行状況なので、これじゃ完成するまで、
それこそ百年かかるんじゃないだろか?(第一巻が1991年、第二巻が1999年、
完成すれば最低六巻から七巻か?)。知ってる人も多いだろうが、
Sumption,Jonathan:The Hundred Years War I & II:Univ. of Pennsylvania Pr.
がそれで、(1369年までの分までしか出ていないにもかかわらず)さすがにこれには
ゲクランについてもかなりかなり記述されているようだ。「ようだ」というのは、
あまりの厚さにめげて、今まで一度も中身を覗いていなかったからだが(笑)、
後ろのインデックスを見ると相当の箇所で触れられている。
本自体はペーパーバックで安く買える(一冊3000円台前半?)ので、興味がある人は
入手して、通読しないまでも(するに越したことはないが)好きなところを拾い読み
して楽しんでみては?読むとしても私はもっぱら後者だろうな(苦笑)。
我が輩もその本を読んでみたいニャ。
当然、拾い読みするだけだけどニャ。
厚さの割に安いみたいだニャ。
これなら、ガッコの図書館にも入ってるかもしれないニャ。
だけど、1冊出るのに8年近くもかかるなんて、待ちきれないニャ。
>>96
そうだねえ、猫氏(かってにこう呼んで悪いが)は英語に堪能そうだから
是非入手されてはいかがだろうか。
文章も(最初の10pぐらい読んでみた感想では)大河小説の始まりみたいに
荘重でありながらも明澄でむしろ読みやすい。
2ch風に言えば「名著のヨカーン」というのがひしひしとするよ。
しかし、著者は、A Former History fellow of Magdalen College,Oxford
と紹介されてるけど、第一巻の顔写真からして中年もいいところで
このペースだとジャンヌ・ダルクまで行くかな?
という不吉な予感も(苦笑)。
>Sumption,Jonathan:The Hundred Years War I & II:Univ. of Pennsylvania Pr.
確かにこれはええ本やね。
>大河小説
著者も言うとるとおり、narrative history(物語風歴史)いうやつやから、三国志的面白さがある。
漏れも時間切れの予感するけど、とりあえず敢行済みの分まででもエドワード3世の栄光と挫折の物語として読めるんよ。
あと普通パ・リーグ扱いされとるブルターニュやアキテーヌ戦線も詳しく(詳しすぎる?)書いとるのがメリットやね。
ただいかにも大著過ぎて、特に日本人にはジャングルに迷い込むの感が・・・
Christopher Allmand, The Hundred Years War,revised edn, Cambridge UP,2001
とかと併読した方がええんやろね。
3巻は、多分シャルル5世~デュ・ゲクラン戦争がテーマになるはずやけど、
そろそろ出てもおかしくはないんやが・・・
アルテュール・リッシュモンが活躍する本って
有りませんか?
彼の信奉者なもんで
ジャン=ポール・エチュヴェリー,百年戦争とリッシュモン大元帥,河出書房新社,1991
なんか、どうかニャ。
リッシュモンを主人公にした物語風の伝記だニャ。
漏れも「百年戦争とリッシュモン大元帥」か知らんけど、
訳者の大谷と言う人、多分本願寺関係者やろうけど、
「滞仏中、道ばたで原著を見かけ翻訳を思い立った」とあるだけで、
原著者がいかなる人物で、原著がどういう位置づけにあるのかさっぱり書いとらん。
・・・色々な意味ですごい本やったね。
レジーヌ・ペルヌー,ジャンヌ・ダルク,東京書籍,1992
で参考文献の一つとして数え上げられた本だから、
ある程度は歴史書として評価された本だと思うニャ。
そういえば、訳者の大谷って人はジャンヌ・ダルク本をたくさん書いてたニャ。
私営HPの掲示板で話した内容だが、ここでも書いてみる
百年戦争前期
①王位継承戦1(ギエーンヌ地方争奪戦)
イングランドVS.フランス
②フランドル争奪戦
・フランス派(勝利)
フランドル伯ルイ1世=ド=ネベール(1304-1346)
・イングランド派
フランドル諸都市(指導者ヤーコプ)+イングランド(エドワード3世は、従兄弟をフランドル伯に推挙)
(後にフランドル伯爵家断絶→ブルゴーニュ公家へ併合)
③ブルターニュ公 継承戦
モンフォール党(イングランド)(勝利)VS.ブロワ党(フランス)
原因:ブルターニュ公ジャン3世の姪ジャンヌ・ド・パンティエーヴルの夫シャルル・ド・ブロワが継承権を主張。ブルターニュ公家の弱体化を策したフィリップ6世がこれを支持(それとも弱体化を狙ってフィリップ6世がブロワ伯を押したのか?)。
百年戦争後期
④王位継承戦2
フランス有力貴族のオルレアン派(VS.)ブルゴーニュ派の対立が深刻化。
オルレアン公ルイ(1372-1407)の暗殺+ヘンリー5世(1387~1422)死でフランス王位空位に
↓
アルマニャック派(オルレアン派)(+王太子派)VS.ブルゴーニュ派(+ヘンリー6世・イングランド)
ブルゴーニュ公家:ジャン1世の子、シャルル5世の弟フィリップ豪胆公に始まる家系。(ヴァロア=ブルゴーニュ家)
オルレアン公家:シャルル5世の子、シャルル6世の弟ルイ・ドルレアンに始まる家系。(ヴァロア=オルレアン家)
・ブルゴーニュ公家は、自領の拡張とフランス王権からの独立を図ってフランス王と対立。シャルル7世のブルゴーニュ公ジャン暗殺で、親イングランドが決定的に。
・オルレアン公家は、宮廷内でのブルゴーニュ公家との政争の結果。親フランス派。
アンジュー公ルイ1世(シャルル5世弟)の死後、ブルゴーニュ公の対抗馬としてオルレアン公ルイ・ドルレアンが諸侯に祭り上げられた様。
・ヨランド・ダラゴン。アンジュー公ルイ2世の妻。
シャルル7世の義理母であり、ブルターニュ公フランソワ1世の義理母。ブルターニュ公家と王太子派つなぐキーパーソン。
・アンジュー公家。シャルル5世の弟ルイに始まる家系。
シャルル5世死後、アンジュー公ルイがベルドラン・ディ・ゲクラン、ブルゴーニュ公フリップ、
(ベリー公ジャンも含む?)とともにシャルル6世の後見役となる。が、ベルトラン・デュ・ゲクランは早々に死去。ブルゴーニュ公フリップが宮廷内で台頭(ベリー公ジャンはこれを支持?単に関心がなかっただけか?)。
宮廷内の派閥は、アンジュー公ルイVS.ブルゴーニュ公フリップとなり、
幼いシャルル6世はブルゴーニュ公フリップ寵愛。結果ブルゴーニュ公フリップがフランス宮廷を牛耳り、政争に敗れたアンジュー公ルイは嫌気がさしたのかナポリ遠征へ。失敗し死亡。
以後アンジュー公家は、フランス宮廷内での発言力を失い結果ナポリ王に固持するように…
・アルチュール3世(1414-1450)。フランス軍最高司令官アルチェール・リシュモン大元帥。
ブルターニュ公フランソワ1世の叔父。妻は、ブルゴーニュ公ジャン無怖公(1371-1419)の娘マルグリット(1390-1442)。フィリップ善良公とは義兄弟(アルチェールが義弟)。
つまり、ヨランド・ダラゴン→ブルターニュ公家→シリュモン大元帥→ブルゴーニュ公家という縁で、芋づる式に王太子側へ。
あなたがフランス軍の大将だったら、クレシーやアザンクールの戦いをどのように乗り切りましたか?
という愚問。
まあ机上の空論、後付の知識でなら幾らでも、てとこだけど。
なかなかよいテーマですな。
クレシーとアザンクールでの敗戦の一番の理由はフランス騎馬隊が集団で突っ込んだとことろに、
馬止めに馬の足を止めたれたところでロングボーの餌食になってしまったこと。
しかも高台を先に押さえられて。
・・・・・ではどうするか、
まず経済面では当時のイングランドの主要な外貨獲得は羊毛の輸出でありフランドル地方で生地にしていた。
そこで、まず海路を絶ち収入源および人の補給を絶つ必要がある・・・
残念ながらフランス海軍は初期に壊滅していたのでバイキング(海賊)にドーバー海峡で暴れてもよいお墨付きを与える(取り締まらない宣言をだす)
つぎに軍事的にはイングランドのウリはロングボーである。
矢はすぐには補充できない為どんどん使わせしまえばよい。
まず最初の段階は、夜討ち朝駆けで案山子のような囮も登場させ、攻めては引くゲリラ戦で敵の矢を消耗させる。
敵が放った矢は回収されないように焼くか折る。
戦う時期も重要で雨季である冬場は矢の効果が半減するし、作物への影響も少ない。
最後の決戦には『鶴翼の陣』で望み戦力を分散させてロングボーの集中砲火を浴びないようにすることが基本。
そしてクロスボーの矢装填専門部隊を用意しておく。
先陣の騎馬隊はクロスボーに火をつけて馬止めや敵陣の火薬樽等に火をかける。同時に歩兵隊も波状攻撃で出撃。先陣の騎馬隊はクロスボーを放ったらUターンして矢装填専門部隊へ戻る。
第2波の騎馬隊が歩兵隊の間隙を縫って前線に出るがこれもクロスボーを1発撃ったら引き返す。
第3波の騎馬隊も同様に攻めては引く。これはロングボー(有効射程距離:256m )とクロスボウ(有効射程距離:320m)の差を利用するが、
敵は引返すとは思わないので射程距離に入ったと思ったら弓を引くので少なくともここまでに一人当たり2本×3回=6本の矢を失う。
そして騎馬隊たちは敵の射程距離ギリギリで引き返し矢装填専門部隊から次のクロスボウに交換する。
矢装填専門部隊は受け取ったクロスボウに矢を装填する。
この時点で歩兵の先陣が到達する頃合となりロングボーは矢を放つ余裕がなくなり後は兵士数の勝負である薄氷戦となる。
>>229
いいね・・・盛り上がってきたね
>・・・ちゃんと言うこと聞く軍隊・・・
そう・・そのとおり
クレシーの戦い(1346/08)でのイングランドの布陣であるが、騎兵隊としては中央にエドワード3世の中央大隊、
右に黒太子エドワード大隊、左にノーサンプトン伯大隊の3大隊で合計6千兵を敷き、さらに外側に弓兵2大隊を
左右に構えて合計6千兵の鶴翼の布陣。つまりは総勢1万2千兵。
一方フランス側は総勢4万兵と言われているがそれでも負けた。
ひとえに戦略的にはフランス側は突撃あるのみの『烏合の衆』であったこと、少数のイングランド側はバラバラに
ならないように騎兵も馬から下ろさせてほぼ全員徒歩で布陣して戦うといった勝つ為の徹底した戦略とそれを遵守
したことに他ならない。
次のポアティエの戦い(1356/09)もフランス有利の下馬評とは異なり、ほぼ同じ展開でフランスが負けた。
今回はフランス側も馬を降りて戦ったのでかなり善戦したようであるが最終的は側方からの遊撃部隊に不意をつか
れたことから負けた。
しかし、イングランド側は騎兵3千、弓兵3千に対してフランス側は約2万兵といわれていて3倍の兵士数を
持ったとしても負けるのだからどうしようもない。 やはり突撃しか能がなかったのである。
更には国王ジャン2世が捕虜となったためここからフランスの財政が極度に悪化していった。
時は経ったアザンクールの戦い(1415/10)でもしかり
イングランド軍総勢1万2千兵に対しフランス軍約5万。
面白いのは開戦前夜イングランド軍は私語禁止の命令を出している(罰則は武具の没収や耳削ぎ)。
一方でフランス軍は徹夜の大宴会を催していた。
これらのことから両軍の指揮統率力がいかに異なっていたかが伺われる。
つかそもそも無理に決戦に及ばなければそれで良かっただけなのに。
>>230
>・・・そんな緻密な機動が出来るんかい。
敵に近づいて一矢放ってのUターン。実際問題としてできないことはない・・・でもできなかったからその結果負けた。
ポアティエで馬を下りてもそれでも負けているのだから、馬に乗って勝つ方法を考えるべきであった。
平原で500mくらいの距離は充分に目視でき、260mと300mの差は判別できる。
陣地を分散して広いエリアから集団で突っ込んでくるフランス騎馬隊を高台より狙い撃つのがいつものパターン。
そしていつもフランス側はドン・キホーテよろしく突撃しては殲滅されている。
死にたくなければやるしかないのだが・・・実際にはやらずに死んでいる。
>>234
そのとおりなのだが・・・難易度の問題ではない
目の前に馬止めが見えているのに突っ込んでいくほどおろかな行為はない。
命が惜しけりゃクロスボーの射程距離に入ったら火矢を一発撃って帰ってこい・・・
・・・歩兵が前線に到達するまではそれだけで良かったはず
しかしその指示を出す指揮官がいなかっただけ。
そしてフランス騎士はプライドだけで我先にと引くことを考えず突っ込んで行った。
そして、馬止めで立ち往生している間に長弓の餌食になっている。
ならば引き上げて騎馬隊の両外側から歩兵を進ませるのが常道策とは思いませんか?
本来フランス軍は敵の3倍の兵士がいるんだから普通に戦えば勝てる。
でも烏合の衆で戦略がなかったから負けた・・・ただそれだけ。
実際できなかったわけだし。やらなきゃ負けるだけとかやらなきゃ死ぬんだしとか言ったってやれなかったんだし。
>>236
通信機はなかったがその頃の長距離通信手段は伝書鳩。
若者は知らないと思うが1000年以上のも間一般的に使用されているし、
フランスの北は半分だけで考えるとその日の内に通信文を受け取れる。
かなり使えた通信手段。
だから、問題は指揮官の戦闘意識の問題で普通に戦略立てりゃ勝てたってこと。
ポワティエ会戦に至っては戦場の位置も諸説紛々。
ポワティエの戦いはどうしてあそこの位置で戦闘になったのかから始まって
先陣がどこのなに隊でどこの布陣して相手方の位置関係など皆はっきりしているよ
まぁ・・・諸説あるなら一つでも書いてみなよ
少なくともポアティエの東か西かぐらいは知ってるんだろう?
>>250
ポワティエ東南方5マイルのNouailleの森付近が戦場になったらしい
というのはだいたい確かなようだが、
1.英軍がNouailleの森の北方に野戦陣地を構築し仏軍を待ちかまえた
(Ch.Oman,A.H.Burne,H.J.Hewitt,J.Sumption等)
という通説に対して、
2.戦いはNouailleの森西方で遭遇戦の形で始まった
(R.Barber, C.J.Rogers)
という有力説がある。
>おまえ『ポアティエの戦い』の両軍の布陣と最前線から本陣までの距離を
>解説してみなよ ・・・ できねぇだろう???
このレベルの話になると、多くの研究者もみんなそれぞれ工夫というか苦労している。
一般論で言うと、中世の諸会戦を記述するに当たっては、
あんまり断定的なことは言えないんじゃないの? 特に戦術レベルでは。
>>251
やっと真面目に話しができそうなので感謝するよ・・・ありがとう!!
俺は1のNouailleの森の北方に陣を敷いたと考えている。
当時仏軍は約3倍の兵士数を要していたので数だけなら普通は勝ち戦。
そもそも、英軍はボルドーからの進軍で無理がありポワティエ攻略をあきらめて退却中、
仏軍はそのポワティエから追いかけてきた
退却の途上逃げ切れないと腹を括って当地に陣を張ったと考えるのが普通ではなかろうか
なぜなら、ポワティエまで15kmのところまで来ていて勝ち戦でありながら
結局はポワティエを落としていない。
当時の参謀ソールズベリー伯やウォリック伯らも楽勝とは考えないだろう
エドワード黒太子に負けたときの退路確保を進言するはず。
即ち危なくなると森に逃げこむ戦法であり、ここで背水の陣を敷くほどおろかではない。
もし、2の戦地が森西方であればエドワードは博打をすることになる。
ターニングポイントとなるジャン・ド・グラィーの騎兵隊が森を駆け抜けて来たことになる。
ガスコーニュ騎兵隊があのあたりの森を熟知してたとは考えにくく、
森に入ることは路頭に迷うことになり、逃げるには都合が良いが攻めるにはリスクが大きい。
ましてや、思った位置に抜ける出ることはまずありえない。
戦術として起用するのには無理があるではなかろうか。
話は変わるけど、多くの研究者って、そんなに沢山の研究者がいるとは思えないんだけど・・・
俺は趣味で百年戦争を追いかけているけど・・・学会とかあるのだろうか??
英国や仏国ではそれなりに研究されてるのでは?
日本だとごく少数の趣味人というか、エドワード様萌えな腐女子とか、ジャンヌたん萌えなヲタクがほとんどの気がするが。
発射頻度の問題でクロスボウ隊の二の舞になりそうなんだけど。
なんて論争をやってたらしいが。
実際速射性じゃあロングボウの方が上だし、
問題は育成コストが火縄銃兵よりロングボウ兵のほうが高いってとこでしょう。
>>284
射撃精度も火縄銃の方が低く、防御用にしか使えなかったしね。
現代人は鉄砲信仰を抱きがちだが
当時の用兵からすれば弓・弩と同属、局面によってはこれらより劣った