戦国時代誕生のきっかけとなった「応仁の乱」。日本史上屈指の大乱のダメージから、京都はなぜ大復興を遂げることができたのか??歴史研究家の河合敦氏による新書『繰り返す日本史』より一部抜粋・再構成してお届けする。
◆「京都大復興の立役者」は誰か?
被支配階層が団結によって惣村や寺内町をつくって生活の安全を図り、逃散や土一揆、一向一揆によって己の要求を貫徹した現実を紹介してきた。じつは、商売やもの作りで生活している人々も、室町から戦国時代にかけて同じような状況をつくっていた。
例えば京都である。応仁の乱で京都の中心部は戦場になり、大きな被害を受けた。それを復興させたのは、町衆と呼ばれる豊かな商工業者たちだった。市中には彼らが運営する「町」という自治組織が続々と誕生していった。地方の荘園における惣村と同じように、町衆は町掟(規則)をもうけて自検断(独自の裁判)を行い、町の出入り口には木戸をつくって防御機能を高めた。
町は、さらにいくつか集まって町組となり、町組は町衆から選ばれた代表である月行事によって運営・統括されるという自治体制が京都に誕生した。1500年には、約30年ぶりに祇園会を開催、三十六基の山鉾(やまぼこ)が巡行して京都の再生を世間にアピールした。
ちなみに町衆の多くは日蓮(法華)宗の信者で、互いに信仰で深くつながっており、そうした彼らの団結を法華一揆と呼んだ。
天文元年(1532年)には、一向宗(浄土真宗本願寺派)の拠点だった山科本願寺を焼き打ちし、京都から一向門徒たちを追い出している。
しかし天文5年、比叡山延暦寺の僧兵たちが戦国大名六角氏と結んで京都へ乱入、日蓮宗の寺院をことごとく焼き払い、法華一揆(町衆たち)を京都から追放してしまったのである。この天文法華の乱により、せっかく復興した京都の町は、応仁の乱のとき以上の広い範囲で延焼してしまった。
ただ、この事件から数年後、町衆(日蓮宗門徒)らは京都に舞い戻り、ふたたび町の自治を始めた。だが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を再興したことで、町衆たちの高度な自治は終わりを告げたのである。
高度な自治を行っていた都市としては、和泉国堺が有名である。この町は36人の会合衆(豪商)の合議制によって運営されていた。
堺は古代からの要地で、良港に加え熊野街道が走り、京都にほど近いので中世に飛躍的な発展をとげた。室町時代には、幕府の実力者細川氏と結んだ堺の商人は、日明貿易で大いに稼ぎ、その後は琉球や東南アジアへも積極的に貿易船を出した。
フランシスコ・ザビエルなどは、「堺は日本の最も富める港で、国内の金銀の大部分が集まるところだから、ここに商館(貿易センター)をつくるならポルトガルに大いなる利益をもたらすだろう」と本国に書き送っている。
また、莫大な持参金を携えた堺の豪商の娘が京都の公家さんに嫁ぎ、逆に貧乏公家の子弟が多数、堺の豪商の養子となったという伝承もある。
このように室町時代から戦国時代の堺には、有り余る財力を有する豪商たちがゴロゴロ存在したのだ。彼らは、得た富を来世のために寺院に寄付をしたり、寺社を建てたりした。また、「大坂は食い倒れ、堺は建て倒れ」という語が残るように、屋敷に金をかけて贅をこらした造りにした。
◆堺の街を屈服させた織田信長の凄さ
しかし、一番多く資本を投下したのは、町の防衛に関してであった。ある外国人宣教師は、「堺の街は東洋のベニス(ヴェネチア)のように濠や塀で守られた自治都市である」と述べているが、豪商たちはその財力で町の周囲に深い堀をうがち、傭兵を雇って町の治安を確保したのである。
例えば、堺の豪商である日比屋了慶(ひびや・りょうけい)は、300人の部下に海賊船を撃退させたといわれており、おそらく豪商たちは町全体で数千人の武力を抱えていたと思われる。これは強大な戦国大名に匹敵する数だ。同時に、近隣の戦国大名に金銭を提供し、用心棒のような役割をさせていたらしい。
そんな自由都市「堺」を破壊したのも織田信長だった。上洛して室町幕府を復活させた信長は、堺に対して二万貫の矢銭(軍資金)の提供を求め、要求に従わなければ軍勢を派遣する構えを見せた。
堺の豪商にとっては、これくらいの金額は大金とは言えなかったし、信長の要求に応じることは、これまでの自治政治を放棄し、信長の軍門にくだることを意味した。しかし最終的にかなわないと判断し、堺は信長の直轄領となったのである。
ニュース
50~55才のシニアオッサンの仕業だな
つながLANに繋がってる・・・
そして室町幕府
室町幕府は出だしからグダグダだからな
まともな統一政権は秀吉からだよ
新しい発見とかあったらまた色々書き換わるのかな
話じゃないか。
多い時は両軍30万ぐらいが集結したと言われてるが
本当にそんなに集まったのかな?
最初はそれなりに大きな戦があったみたいだが、途中からは小競り合いばかり
それでも家屋を焼いたりはしたのだろう
30万と言っても郎党まで含めた数で実際に戦う武士の数はその数分の一だろうな。
ガラクタ茶器をアホみたいな高値で流通させて武士に競って買わせて貧富の差を拡大させるわ。
誰彼構わず武器売りまくるわ。とんでもない奴だったんだぞ。
そのガラクタ茶器の値を意図的に吊り上げてたのが信長とか秀吉だっけ?
体制側の視点では有能だな
鎌倉時代に恩賞不足で没落してるのを学んでガラクタを謁見のパスポートにしたのは凄いぞ
確かに一向宗の殲滅は印象に残るけど、鎌倉室町の方が軍の機動スケールが大きい気がする。秀吉の中国大返しが霞むぐらい。尊氏なんて九州近畿関東行ったり来たり。
第二次世界大戦の時に京都も5回空襲されてるよ。
京都が他の都市のような大空襲を受けてなかったのは
原爆投下第一目標地(AA)になってて
京都は盆地で原爆実験に適してたので破壊されずにいたが
ヘンリー・スティムソンが京都を破壊したら戦後の占領政策が
上手くいかず、日本はソ連につく恐れがあると反対してたので
原爆投下目標地から一旦、京都は外されて代わりに長崎が追加されて
原爆投下目標地は広島、小倉、新潟、長崎の4都市になった。
当初は京都の梅小路いうところに原爆を投下する予定だった。
マンハッタン計画責任者レズリー・グローヴスは
京都に原爆投下することを諦めてなかった。
本土決戦してたら次は京都だったかな?
原爆だけでなく生物兵器も使用する予定で
攻め込んで来る兵数も、凄い数だったはず
ドイツは首都ベルリン陥落まで戦い、国土は酷い惨状となった
日本はそれ以上となっただろう
途中で米ソの対立が生じ、片方と休戦し無条件降伏はしなくてもよくなり
負けずに済んだかもしれんが
大戦末期の1945年3月、断末魔に喘ぐナチスドイツの無防備非軍事都市で
イギリスサクソン民族の故地古都ドレスデンに、市民大量抹殺を目的として
2波に分けて徹底的に多数の重爆撃機と戦闘機で空襲をかけた
米英のことだから、8月15日の降伏がなければ京都や奈良も
大空襲を免れなかった事態も想定できる。
細川護熙の華麗なる一族
細川勝元
応仁の乱で日本をめちゃくちゃにする
近衛文麿
世界大戦に引きずり込み日本をめちゃくちゃにする
細川護熙
非自民連立政権を投げ出し政治混乱を起こしバブル崩壊後の日本をめちゃくちゃにする
>>79
勝元は
三管領の細川京兆家だから
今の細川とほとんど関係ない
>>79
日本を滅茶苦茶にしたのは、満州事変を起こした石原莞爾と板垣征四郎、
昭和維新(テロ)を主導した、日蓮宗の井上日召のような日蓮主義者や
大川周明、北一輝のような悪しき思想家どもではないだろうか?
政治家はどの時点で切り取るかにもよるが、最悪なのはやはり東條英機。
>>95
東アジアの安定には、満州を取るのが不可欠
良いか悪いかは立場で異なる
中国が南北で統一すると、一番不幸になる
のは朝鮮半島。今は分断されてる
中国共産党体制が崩壊した後、日本は
北朝鮮や旧満州に投資して経済圏を作る。
アメリカのシンクタンクは、そこまで予測し、
政界・財界・防衛関係者に説明している
ヨーロッパなら数年も経たずに他国に侵略されとる
内裏も東寄りになって
崩れたと言うか教科書に載ってる図のような平安京は
想像上の理想的な平安京であって一度も実現したことが無いのよ
西側は最初からずっと過疎ってた
あとは延々戦国状態なんだよなあ