義経逆落しの華やかな伝説の一方で、後白河院が平家方に和平をほのめかして油断させたとも云われる黒い側面。
敦盛、知章ら若い公達の大量死。
小宰相入水や公達の首渡など戦後のエピソードにも事欠かない。
話題豊富な一ノ谷の戦いについて語りましょう。
古代以降の日本の歴史上、この戦いほど史実と後世に伝わっている伝説との乖離が大きい
戦いはないのではないかと思う。自分が何となくそう感じるだけだけど、越なんて後世の
創作100%という説もあるしね。
「平家物語」を正直に読んでいるだけだと、義経の奇襲がなくても、強兵揃いの坂東武者に
柔和な公達揃いの平家が勝てるようには思えないけど、当時の食糧事情(飢饉)や源氏の
都での地位の不安定さを考えれば、下馬評を大きく覆す結果だったのかもしれない。
>若い公達の大量死
経俊:18歳
敦盛:16歳
知章:16歳
業盛:16歳
師盛:14歳(16歳?)
通盛や経正も(死亡説もある教経も)十分若いが、10代がこれだけいるからな・・・
現代の16歳と当時の16歳とでは価値観が違うのを承知の上で、
未だに少年の公達がこれだけ、首を切られて死んだというのは物凄い悲劇だと思うな。
数え年でこれだから、実年齢は-1歳か2歳なんだよ。
>>7
延慶本で描かれる一ノ谷の戦いは、一般的に知られる覚一本と比べて違いが多い
(分かりやすい)ので読み比べれば興味深い。
延慶本で描かれる敦盛の最期は、熊谷直実が敦盛を呼び戻して組討となり、最終的に首を討つ
という総論に変わりはないが、首を討つまでのやりとりが少し違う。
(以下、意訳)
直実が平家の武者を組み敷いたあと、やはりあまりの美しい顔立ちと若さに驚いて、姓名を聞くものの
公達はただ、「早く切れ」と言い放つ。しかし、直実はなお、
「あなたのことは必ず供養いたします。義経公も説得いたします。」
と呼びかけたところ、公達は
(これまで縁があった者でもないのに、このように情けをかけてくれるとは何と有り難いことか。
もはや名乗っても名乗らなくても討たれてしまう。意地を張っても仕方がない)
と考え、
「私は太政入道(清盛)の弟・修理大夫経盛の末子、大夫敦盛、16歳。早く切れ。」
と名乗る。しかし直実は、組み敷く敦盛と自分の息子が同い年だと知り、更に討ち辛くなる。
しかし、気が付けばいつの間にか周囲は乱戦状態。仮に敦盛を逃がせば、自らも「敵を逃がした」
と非難を浴びるであろう、それは悔しい、と考え
「あなたをお助けしたとしても逃げ切ることは不可能です。この直実、ご供養はいたします。」
と言い、敦盛の首を切った。
・・・というもの。
省略したが、敦盛の装束の豪華さや、顔立ちの神々しいまでの美しさが、詳細に描かれていて、
それだけでの一読の価値あり。なお、敦盛の笛は横笛ではなく、篳篥。
名前は「小枝」ではなく「つきかげ」(月影?)とのこと。
(続く)
しかし、個人的には延慶本で敦盛の最期よりも興味深いと思われるのは、師盛の最期。
師盛が郎党と小船で沖へ逃れようとしているところ、味方に「乗せてくれ」と頼まれ、応じたものの
乗り込もうとした味方の鎧の重さで船が転覆して師盛も投げ出され、波間に浮き沈みしていた
ところを源氏方に熊手で浜辺まで引き上げられ・・・
ここまでは覚一本と同じだが、その後の描写が延慶本ではより濃く、少し興味深い。
(以下意訳、かなり残酷な描写あり。要注意)
川越小太郎重房の郎党が師盛を海から引き揚げ、師盛の首を切ろうと、薙刀を持った男が、
「かね黒(お歯黒)であるご様子からして、平家一門のやんごとなき方とお見受けした。名乗られよ。」
と問いかけると、師盛は
「お前(のような下郎)に名乗る名などない。首を取って人に聞くがよい。」
と答えた。薙刀で師盛の首を切ったのだが、切り方がまずく(下手で)、おとがい(顎)の上から
切ってしまった。
陣に戻り、人に尋ねたところ、「この首は小松殿の末の御子、備中守師盛である。」とのことで、
これは大将首だと判明して喜び、師盛の遺体まで戻って顎を切り取って、既に切っていた頭部
とくっつけて総大将に渡した。
・・・というものである。
つまり、延慶本では、「お前に名乗る名などない。首を取って人に聞くがよい。」という台詞は
敦盛ではなく、師盛の言ったことになっている。なお、師盛の年齢は言及がない。
それにしても、延慶本における師盛の最期の悲惨さは言葉にできないレベルだ。
敦盛も痛かっただろうが、きれいに切ってくれたであろう分、マシに思える。
創作ならば、あえて師盛の最期をこれほどまでに凄惨に描くだろうか。史実として伝わったから
ためらうことなく、書かれたのではないのだろうかと思う。
少し追記。
◆延慶本での敦盛の装束(原文は全てひらがな)
“赤地の錦の鎧直垂に、赤おどしの鎧に白星の兜きて、重藤の弓に切斑の矢負いて、黄金づくりの太刀はいて、
さびつきげの馬に金ぶくりんの鞍置て、あつぶさのしりがいかけて乗たりける武者一人、
中納言に続いて打ち入れて泳がせたり。”
・・・要するに無茶苦茶豪華な装束であることがうかがえる。なお、鎧の色は萌黄匂ではない。
◆延慶本での敦盛の容姿(原文は全てひらがな)
“熊谷腰刀を抜いて、内兜を掻かむとて見たれば、十五六ばかりなる若人の色白く見目美しくして、
薄化粧して、かねぐろなり。せんけんたるりやうはつは秋のせみのはねをならべ、
えんてんたるさうがはゑんざんの色にまがへりなむど云も、かくやとおぼえてあはれなり。”
・・・正直、後半は正確に何を書いてあるか読解できなかったが、熊谷が見たこともないような
美少年だったことは想像に難くない。
なお、敦盛の首は屋島に落ち延びた父・経盛へ送られており、直実と経盛の手紙のやり取りが泣ける。
もっとも、史実では敦盛の首も他の一門同様、京で首渡しの憂き目にあったと考える方が自然であり、
この点、延慶本の記述は疑問。(以上)
>>8~>>10
遅レスながら乙。面白かった。
師盛の悲惨さが洒落にならない。。。
>>12
当時、反乱などの重罪人の生首は獄門にかけられていたが、
獄門になる前に、検非違使たちが都の大路を首を掲げて練り歩いていたのが「首渡し」。
姓名を記した赤札(おそらく木簡)を髪などに結び付けられ、それぞれの首を槍の先に刺して
都大路を獄まで引き回していた。
霧社事件関連の写真でそれらしいものが幾つか見える
首渡の場面は陰惨だからか、あまり有名ではないけど、陰惨で残酷だからこそ、むしろ平家物語でも屈指の場面だと思うな。
つい数日前まで、笛を吹いていた美少年や、雅な和歌の名手、勇敢に闘っていた若武者たち。
その彼らが無惨に首を切られ、更にその表情と血の気を失った生首を槍で串刺しにされて引き回される・・・。
まさに諸行無常、盛者必衰。
南北朝時代の湊川の戦もそうだけど、主力より有名武将が戦った場所を名前にしているのは違和感がある。
若い公達が大勢討ち死にして、なにが一番悲しいって彼らの父君も母君も多くが存命だったということ。
討たれた敦盛ら公達当人にも憐憫の情を覚えるが、戦をしている以上死は避けられない。
武人である父君たちも同様。
でも、いくら武家の人間とはいえ母親はたまらんと思うな。
戦に同行していた治部卿局が最後に知章と会ったのはいつだったのだろうか。
彼女の記憶の中の最後の息子の姿は鎧・直垂を着込んだ凛々しい姿だったのだろう。
それが夫を庇って首を切られて死んだと聞いてどう思っただろう。
師盛の母、藤原経子は重盛の死後に出家したと聞く。
我が子が首を切られて死んだだけでなく、首だけになって京に戻ってきて、
獄門の憂き目に遭ったことを知ってどれほど嘆いたことか。
獄門にかけられた首を引き取って供養したと信じたい。
師盛の母は経子ではないかも
ある研究者の論考によれば、東大に保管されてある古系図では母は経子になっていない
当時の日記に師盛は庶子扱いされてて、庶子のために重盛の末子扱いで系図に記載された可能性がある
14歳というのは読み物系平家によるもので、史料性が高く古態を残しているといわれる延慶本には年齢は書かれていなかったと思う
実際師盛の子、源智が存在するし、記録により源智には姉妹が二人いた可能性もあり、20歳以上だった可能性が高いといっている研究者がいる
読み物系→覚一本などの語り物系の間違い
>>22
これは興味深いな。
師盛には子供の件もあるけど、都落ち以前に従軍した記録もあるそうで、
自分も14歳は間違いじゃないかと思っていた。
24歳を14歳と書き損じた説を有力視していた。
一方で、子供の順番を間違えるのも変な話で思案していたが、庶子ということなら説得力がある。