キングダム実写映画上映記念に作ってみた
ニュース
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廉頗者、趙之良将也。趙恵文王十六年、廉頗為趙将伐斉、大破之、取陽晋、拝為上卿、以勇気聞於諸侯。藺相如者、趙人也、為趙宦者令繆賢舍人。
廉頗は、趙の良将である。趙の恵文王の十六年、廉頗は趙将となって斉を討伐し、これを大破し、陽晋を取り、上卿になり、勇気によって諸侯に知られた。藺相如は、趙の人で、趙の宦者令の繆賢の舍人(下級役人)であった。
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趙恵文王時、得楚和氏璧。秦昭王聞之、使人遺趙王書、願以十五城請易璧。趙王与大将軍廉頗諸大臣謀、欲予秦、秦城恐不可得、徒見欺、欲勿予、即患秦兵之来。
趙の恵文王のとき、楚の和氏の璧を手に入れた。秦の昭王はそれを聞くと、使者をやって趙王に手紙を送り、十五城と璧を交換したいと願い出た。
趙王は大将軍の廉頗や諸大臣と相談して、秦に渡せば、秦の城は恐らく手に入らず、欺かれるだけかもしれないし、渡さなければ、秦軍が来ることが心配であると。
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計未定、求人可使報秦者、未得。宦者令繆賢曰:「臣舍人藺相如可使。」王問:「何以知之?」
計が定まらないうちに、使者として秦に返事をする者を求めたが、見つからなかった。宦者令の繆賢は言った「臣の舍人の藺相如なら使者になれます。」王は問うた「どうしてそう思ったのだ?」
ふんけいのまじわり(?)の人?
せやで
やっぱり知らんか
李牧伝または王翦伝やったほうがええ?
すまん無学なワイにはどれもわからん
イッチの思うままやってクレメンス...
すまんな
でも面白い人物やから退屈はしないと思うで
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対曰:「臣嘗有罪、竊計欲亡走燕、臣舍人相如止臣、曰:『君何以知燕王?』臣語曰:『臣嘗従大王与燕王会境上、燕王私握臣手、曰「願結友」。以此知之、故欲往。』
答えて言った「臣はかつて罪を犯したとき、密かに燕に逃亡しようと考えましたが、臣の舍人の相如は臣を制止して、『君はどうして燕王をご存知なのですか?』と言いました。
臣は『臣がかつて大王に従って燕王と国境でお会いすると、燕王は私臣の手を握らせ、「友になりたい」とおっしゃった。このようにして存じ上げたので、行こうとしているのだ。』と語りました。
廉頗と藺相如と趙奢の3人が生きてた頃が
趙の最盛期と言っても過言ではないわね
刎頸の交わりは漢文の授業では出ても
おかしくはないから知ってて損はないんでないかな
そうそう
完璧や怒髪衝冠の語源もこの人やから雑学としてもどうぞ
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相如謂臣曰:『夫趙彊而燕弱、而君幸於趙王、故燕王欲結於君。今君乃亡趙走燕、燕畏趙、其勢必不敢留君、而束君帰趙矣。君不如肉袒伏斧質請罪、則幸得脱矣。』
相如は臣に『そもそも趙が強く燕が弱く、さらに君が趙王に寵愛されているため、燕王も君と友になろうとしたのです。今君がそのように趙を逃亡して燕に走っても、燕は趙を怖れ、必ず君を留めようとせず、君を縛って趙に返すでしょう。
君は肉袒伏斧(肌脱ぎになり処刑される格好になる)して罪を罰してもらうべきで、幸いであれば赦されるかもしれません。』と言いました。
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臣従其計、大王亦幸赦臣。臣竊以為其人勇士、有智謀、宜可使。」
臣がその計に従うと、大王も幸い臣を赦免してくださいました。臣は密かにこの人が勇士で、智謀があると思いましたので、使者にするべきでしょう。」
以前紹介してもらった気がする
漫画やっけ?
漫画絵が上手い
廉頗と藺相如の話も載ってたで
ググったらリアル寄りで本当に絵が上手かった
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於是王召見、問藺相如曰:「秦王以十五城請易寡人之璧、可予不?」相如曰:「秦彊而趙弱、不可不許。」
そこで王は召見して、藺相如に問うた「秦王は十五城と寡人(王の自称)の璧を交換したいと願い出たが、渡すべきか否か?」相如は言った「秦は強く趙は弱いので、承諾しないわけにはいきません。」
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王曰:「取吾璧、不予我城、?何?」相如曰:「秦以城求璧而趙不許、曲在趙。趙予璧而秦不予趙城、曲在秦。均之二策、寧許以負秦曲。」
王は言った「(秦王が)わが璧を取り、私に城を渡そうとしなければ、どうするのだ?」相如は言った「秦が城と交換に璧を求めて趙が承諾しなければ、非は趙にあります。趙が璧を渡したのに秦が趙に城を渡さなければ、非は秦にあります。
この二策を比べますれば、承諾して秦に非を負わせるのがよいでしょう。」
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王曰:「誰可使者?」相如曰:「王必無人、臣願奉璧往使。城入趙而璧留秦、城不入、臣請完璧帰趙。」趙王於是遂遣相如奉璧西入秦。
王は言った「誰を使者とすべきだ?」相如は言った「王がその人を見つけられないようでしたら、臣が璧を奉じて使者となりましょう。城が趙の手に入れば璧は秦に渡し、城が手に入らなければ、臣は璧を全うして趙に帰ります(完璧の語源)。」
趙王はこうしてついに相如に璧を奉じさせて西のかた秦に行かせた。
じゃあ何なのかというと字のごとく宝物なんだよね
ちな三国演義ではこのときの璧を削って玉璽を作ったことになってるで
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秦王坐章台見相如、相如奉璧奏秦王。秦王大喜、伝以示美人及左右、左右皆呼万歳。相如視秦王無意償趙城、乃前曰:「璧有瑕、請指示王。」
秦王は章台に坐して相如に会い、相如は璧を奉じて秦王に献上した。秦王は大いに喜び、美人(女官)や側近に渡して見せ、側近はみな万歳を叫んだ。相如は秦王には趙に城を渡す考えがないと見るや、そこで前に出て言った「璧には傷がありますから、王に指し示しましょう。」
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王授璧、相如因持璧却立、倚柱、怒髪上衝冠、謂秦王曰:「大王欲得璧、使人発書至趙王、趙王悉召群臣議、皆曰『秦貪、負其彊、以空言求璧、償城恐不可得』。
王が璧を渡すと、相如は璧を持って立ちながら退き、柱に寄りかかり、怒髪で冠を突き上げ(怒髪衝冠の語源)、秦王に言った
「大王が璧を求められ、人を遣わされて書を趙王にお届けになると、趙王は群臣をことごとく召して議論なさり、みな『秦は貪欲で、強さを自負し、嘘をついて璧を求め、城の代償は恐らく手に入らないだろう』と言いました。
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議不欲予秦璧。臣以為布衣之交尚不相欺、況大国乎!且以一璧之故逆彊秦之驩、不可。於是趙王乃斎戒五日、使臣奉璧、拝送書於庭。何者?厳大国之威以修敬也。
議論では秦に璧を渡さないことになりました。臣は無官の交わりでも互いを欺かないのに、ましてや大国がそうするわけがない!しかも璧一つのために強い秦の親しもうとする気持ちに逆らうことは、してはならないと考えました。
そこで趙王は五日間斎戒なさり、臣に璧を奉じて、朝廷に書を届けさせたのです。なぜでしょうか?大国の威を重んじ敬うためです。
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今臣至、大王見臣列観、礼節甚倨、得璧、伝之美人、以戯弄臣。臣観大王無意償趙王城邑、故臣復取璧。大王必欲急臣、臣頭今与璧?砕於柱矣!」
今臣が到着すると、大王は臣と列観(普通の宮殿)で会われ、礼節においてはすこぶる傲慢で、璧を手に入れられると、美人に渡され、臣を侮辱なさいました。
臣は大王に趙王に城邑を渡そうというお考えがないとみて、臣は璧を取り戻したのです。大王がどうしても臣に迫ろうというなら、臣の頭は今璧と一緒に柱で砕けましょう!」
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相如持其璧睨柱、欲以撃柱。秦王恐其破璧、乃辞謝固請、召有司案図、指従此以往十五都予趙。
相如は璧を持ちながら柱を睨みつけ、柱にぶつけようとしていた。秦王は璧が破壊されるのを怖れ、そこで謝罪して頼み、役人を召して図を案じながら、ここより先の十五都を趙に与えようと指示した。
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相如度秦王特以詐詳為予趙城、実不可得、乃謂秦王曰:「和氏璧、天下所共伝宝也、趙王恐、不敢不献。趙王送璧時、斎戒五日、今大王亦宜斎戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧。」
相如は秦王が趙に城を渡そうと偽り、本当には手に入らないと考え、そこで秦王に言った「和氏の璧は、天下が共に伝える宝ですが、趙王は恐れられ、献上しないわけにはまいりませんでした。
趙王が璧を送ろうとなさった時、五日間斎戒されましたから、今大王も五日間斎戒なさり、九賓の礼を朝廷に設けられるべきで、臣はそこでようやく璧を献上できます。」
それ間違ってないわ
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秦王度之、終不可彊奪、遂許斎五日、舍相如広成伝。相如度秦王雖斎、決負約不償城、乃使其従者衣褐、懐其璧、従径道亡、帰璧于趙。
秦王は考え、結局無理やり奪えないとし、ついに五日間斎戒して、相如を広成伝(秦の客を泊める施設)に泊まらせた。
相如は秦王は斎戒するだろうが、きっと約束を反故にして城を渡さないと考え、そこで従者に褐(毛織物の服。低い身分の者に変装させた)を着せ、璧を懐に入れさせ、小路から逃げて、璧を趙に戻させた。
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秦王斎五日後、乃設九賓礼於廷、引趙使者藺相如。相如至、謂秦王曰:「秦自繆公以来二十余君、未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙、故令人持璧帰、間至趙矣。
秦王は五日間斎戒した後、九賓の礼を朝廷に設けてから、趙の使者の藺相如を引見させた。
相如は到着すると、秦王に言った「秦は繆公より二十君余りを経ておりますが、いまさかつて約束を堅く守った者はおりませんでした。臣はまことに王が欺いて趙に背かれるのを怖れ、人に璧を持ち帰らせ、間道を通って趙に行かせました。
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且秦彊而趙弱、大王遣一介之使至趙、趙立奉璧来。今以秦之彊而先割十五都予趙、趙豈敢留璧而得罪於大王乎?
しかも秦は強く趙は弱いのですから、大王が一介の使者を趙に遣わされれば、趙はただちに璧を奉じて参ります。今秦の強大さをもってまず十五都を割いて趙に渡されるのであれば、趙は璧を留め置いて大王に罪を着せるような真似はいたしません。
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臣知欺大王之罪当誅、臣請就湯?、唯大王与群臣孰計議之。」
秦王与群臣相視而?。
臣は大王を欺いた罪が誅殺に値すると存じておりますので、臣は釜茹でにしていただきたく、ただ大王には群臣と計議してから決められますよう。」秦王と群臣は互いを見て驚いた。
ノート捨てたせいでどこ出典かが思い出せへん
藺相如にアンチおるんか…
秦に璧を渡して向こうが約束を破ればあちらは非難される
でもこちらが破ったせいでこちらが悪者や、
それで秦が攻めてきたらどう責任とるんや?
完全に秦のほうが正しいよな?
って感じの内容や
そういう考え方もあるんか
ワイは浅いから璧も城も残ってよかったね(小並感)しかなかった
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左右或欲引相如去、秦王因曰:「今殺相如、終不能得璧也、而絶秦趙之驩、不如因而厚遇之、使帰趙、趙王豈以一璧之故欺秦邪!」卒廷見相如、畢礼而帰之。
側近のある人が相如を引き立てようとすると、秦王は言った「今相如を殺しても、結局は璧を手に入れられず、秦趙の交歓が絶たれることになるゆえ、厚遇して、趙に帰らせたほうがよく、趙王が璧一つで秦を欺くはずがない!」
朝廷で相如に会い、礼(に則った儀式)を終えてから彼を帰らせた。
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相如既帰、趙王以為賢大夫使不辱於諸侯、拝相如為上大夫。秦亦不以城予趙、趙亦終不予秦璧。
相如が帰ると、趙王は賢人ゆえに使いして諸侯に辱められなかったと思い、相如を上大夫とした。秦も城を趙に渡さなかったが、趙も結局秦に璧を渡さなかった。
結果見れば残当
君主と秦からは期待されたからセーフ
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其後秦伐趙、抜石城。明年、復攻趙、殺二万人。
その後秦は趙を攻撃し、石城を攻略した。翌年、また趙を攻め、二万人を殺した。
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秦王使使者告趙王、欲与王為好会於西河外?池。趙王畏秦、欲毋行。廉頗、藺相如計曰:「王不行、示趙弱且怯也。」趙王遂行、相如従。
秦王は使者をやって趙王に、王と誼のために西河の外の?池で会おうと告げさせた。趙王は秦を怖れ、行きたくなかった。廉頗、藺相如ははかって言った「王がお行きにならねば、趙の弱さと怯えを示すことになります。」趙王はかくして行き、相如はそれに従った。
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廉頗送至境、与王訣曰:「王行、度道里会遇之礼畢、還、不過三十日。三十日不還、則請立太子為王。以絶秦望。」王許之、遂与秦王会?池。
廉頗は国境まで送り、王と決別して言った「王が行かれ、道のりと会合の礼(儀式)が終わるまでを計算すれば、帰るのに、三十日は超えますまい。三十日経って帰られねば、太子を立てて王とさせていただきます。それで秦の望みを絶つのです。」
王はそれを許し、ついに秦王と?池で会合した。
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秦王飲酒酣、曰:「寡人竊聞趙王好音、請奏瑟。」趙王鼓瑟。秦御史前書曰「某年月日、秦王与趙王会飲、令趙王鼓瑟」。
秦王は酒を飲んでたけなわになると、言った「寡人は密かに趙王が音楽を好まれると聞いているので、瑟(弦楽器)を演奏してほしい。」趙王は瑟を弾いた。秦の御史は進み出て書いた「某年月日、秦王は趙王と会飲し、趙王に瑟を弾かせた。」
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藺相如前曰:「趙王竊聞秦王善為秦声、請奏盆?秦王、以相娯楽。」秦王怒、不許。於是相如前進?、因跪請秦王。秦王不肯撃?。
藺相如は進み出て言った「趙王は密かに秦王が秦の音楽に達者だとお聞きしておりますので、盆?(瓦器の打楽器)を秦王に演奏していただき、互いの楽しみといたしたく存じます。」
秦王は怒り、承諾しなかった。そこで相如は進み出て?を進呈し、跪いて秦王に願った。秦王は?を打とうとはしなかった。
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相如曰:「五歩之内、相如請得以頸血濺大王矣!」左右欲刃相如、相如張目叱之、左右皆靡。
相如は言った「五歩以内でありますれば、相如は首の血を大王に注がせていただきましょう!(暗に殺すといっている)」側近は相如を刺そうとしたが、相如が目を見張って叱ったので、側近はみな屈した。
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於是秦王不懌、為一撃?。相如顧召趙御史書曰「某年月日、秦王為趙王撃?」。
こうして秦王は面白くなかったが、一度だけ?を打った。相如は振り返って趙の御史を呼んで書かせた「某年月日、秦王は趙王のために?を叩く。」
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秦之群臣曰:「請以趙十五城為秦王寿」。藺相如亦曰:「請以秦之咸陽為趙王寿。」秦王竟酒、終不能加勝於趙。趙亦盛設兵以待秦、秦不敢動。
秦の群臣が言った「趙の十五城で秦王の長寿を慶賀してください」。藺相如もまた言った「秦の咸陽で趙王の長寿を慶賀してください。」秦王は酒宴をやめ、最後まで趙に勝てなかった。趙も多く兵を設けて秦を待ったので、秦は動こうとしなかった。
補足
咸陽は秦の首都
日本で例えれば東京くださいと言われるようなもの
まあ無理難題よな
堂々と殺害宣言するって賢人を通り越して狂信者よね
曹沫「せやせや」
曹沫は乾坤一擲を狙っただけやから
まだ納得できる余地はあるで
アヘン戦争で林則徐を殺したあとの清の悲惨さ見れば
藺相如は正しかったと思うわ
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既罷帰国、以相如功大、拝為上卿、位在廉頗之右。
終わって国に帰ると、相如の功績が大きいことから、上卿に任じ、位は廉頗の右(上)にあった。
中国は左が上じゃないの?
時代によって変わるよ
サンガツ
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廉頗曰:「我為趙将、有攻城野戦之大功、而藺相如徒以口舌為労、而位居我上、且相如素賤人、吾羞、不忍為之下。」宣言曰:「我見相如、必辱之。」
廉頗は言った「我は趙の将となり、攻城や野戦で大功を立てたのに、藺相如は弁舌の労だけで、位は私の上にいて、しかも相如はもともと賤しい身分の人だから、私は恥ずかしく、彼の下にいるのは我慢できない。」宣言した「私は相如にあえば、絶対に辱めてやる。」
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於是舍人相与諌曰:「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也。今君与廉頗同列、廉君宣悪言而君畏匿之、恐懼殊甚、且庸人尚羞之、況於将相乎!臣等不肖、請辞去。」
そのため舍人はそれぞれ諌めて言った「臣が親戚から離れて君に仕えているのは、君の高義を慕っているからです。
今君は廉頗と同列におられ、廉君は悪口を広めているのに君は怖れて隠れ、恐懼されることはなはだしく、しかも凡人ですらそれを恥じるのに、ましてや将相はどうなのですか!臣らは不肖ながら、辞去させていただきたく存じます。」
ホントカッコイイ
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藺相如固止之、曰:「公之視廉将軍孰与秦王?」曰:「不若也。」
藺相如は強くそれを制止して、言った「公は廉将軍は秦王より上と思うか?」言った「(廉将軍は)及びません。」
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相如曰:「夫以秦王之威、而相如廷叱之、辱其群臣、相如雖駑、独畏廉将軍哉?顧吾念之、彊秦之所以不敢加兵於趙者、徒以吾両人在也。今両虎共?、其勢不?生。吾所以為此者、以先国家之急而後私讎也。」
相如は言った「そもそも秦王の威をもってしても、相如は朝廷で叱りつけ、彼の群臣を辱めており、相如は愚かだが、廉将軍だけを恐れるわけがない。
私が考えるに、強い秦が趙に兵を送らないのは、われら両人がいるからである。今二匹の虎が共に戦えば、必然両方は生きられない。私はこのようにしているのも、国家の危急を優先して個人の仇を後にしているからだ。」
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廉頗聞之、肉袒負荊、因賓客至藺相如門謝罪。曰:「鄙賤之人、不知将軍寬之至此也。」卒相与驩、為刎頸之交。
廉頗はそれを聞くと、肉袒負荊(肌脱ぎになっていばらを背負う。負荊請罪の語源)し、賓客に連れられ藺相如の家へ行って謝罪した。(廉頗は)言った「卑賤な人(私)は、将軍の寛大さがこのようであるとは知らなかった。」
ついに親しく付き合い、互いのために首を刎ねられてもいい交わりを結んだ(刎頸之交の語源)。
宝釵が宝玉に
「あなた負荊請罪を知っているのね。私知らなかったわ」
と痛烈な皮肉言ってるのもこれが語源なんやで
時代が逆だから李広が刎頸の前の廉頗に似てるっていうのが正しいだろうけど
似てるかな
それはどういうところや?
自分の戦功に絶対的な自信を持っていて
激情家なところに最期の最期に運に見放されたところかな
なるほど納得
広の最後も悲しいしな
道に迷って自殺するとか草生えるけどかわいそう
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是歳、廉頗東攻斉、破其一軍。居二年、廉頗復伐斉幾、抜之。後三年、廉頗攻魏之防陵、安陽、抜之。後四年、藺相如将而攻斉、至平邑而罷。其明年、趙奢破秦軍閼与下。
この年、廉頗は東のかた斉を攻め、その一軍を破った。二年して、廉頗はまた斉の幾を攻撃し、攻略した。三年後、廉頗は魏の防陵、安陽を攻撃し、攻略した。四年後、藺相如は将になって斉を攻撃し、平邑まで行って(攻撃を)やめた。その翌年、趙奢は秦軍を閼与の城下で破った。
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趙奢者、趙之田部吏也。収租税而平原君家不肯出趙、奢以法治之、殺平原君用事者九人。平原君怒、将殺奢。
趙奢は、趙の田部の吏である。租税を集めたが平原君(趙勝)の家が趙に出そうとしないので、奢は法によってこれを処置し、平原君の有力者九人を殺した。平原君は怒り、奢を殺そうとした。
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奢因説曰:「君於趙為貴公子、今縦君家而不奉公則法削、法削則国弱、国弱則諸侯加兵、諸侯加兵是無趙也、君安得有此富乎?
奢は説いた「君は趙の貴公子で、今君の家が好き勝手できて公に奉仕しないというのであれば法はなくなり、法がなくなれば国は弱まり、国が弱まれば諸侯は兵を送り、諸侯が兵を送れば趙は無くなり、君はその富をなくしてしまいます。
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以君之貴、奉公如法則上下平、上下平則国彊、国彊則趙固、而君為貴戚、豈軽於天下邪?」平原君以為賢、言之於王。王用之治国賦、国賦大平、民富而府庫実。
君の貴さで、公に奉仕して法を順守すれば上下は公平となり、上下が公平であれば国は強くなり、国が強くなれば趙は安泰で、しかも君は貴いものの親戚ですから、天下に軽んじられることはありません」
平原君は賢人だと思い、王に話した。王が彼を用いて国税を管理させたところ、国税はとても平等となり、民は富み府庫は充実した。
◆
秦伐韓、軍於閼与。王召廉頗而問曰:「可救不?」対曰:「道遠険狭、難救。」又召楽乗而問焉、楽乗対如廉頗言。
秦が韓を攻撃し、閼与に軍を進めた。王は廉頗を召して問うた「救うべきだろうか?」答えて言った「道は遠く険しく狭いので、救うのは難しいでしょう。」また楽乗を召して問うと、楽乗も廉頗の言葉と同じように答えた。
子ではなく一族
直接の息子は間だよ
すまんな
ええんやで
誰でも間違いはあるんやから
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又召問趙奢、奢対曰:「其道遠険狭、譬之猶両鼠?於穴中、将勇者勝。」王乃令趙奢将、救之。
また趙奢を召して問うと、奢は答えて言った「道が遠く険しく狭いのは、譬えるなら二匹の鼠が穴の中で戦うようなもので、勇敢な者が勝ちます。」王はそこで趙奢を将にして、これを救援させた。
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兵去邯鄲三十里、而令軍中曰:「有以軍事諌者死。」秦軍軍武安西、秦軍鼓譟勒兵、武安屋瓦尽振。軍中候有一人言急救武安、趙奢立斬之。
兵を邯鄲から三十里離れたところまで進めると、(趙奢は)軍中に命じて言った「軍事について諌める者は殺す。」秦軍は武安の西に軍を進め、秦軍は太鼓を打ち喚声をあげ兵を指揮したので、武安の屋根の瓦はことごとく振動した。
軍中の斥候の一人が急いで武安を救いに行くよう言うと、趙奢はたちどころにそれを斬った。
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堅壁、留二十八日不行、復益増塁。秦間来入、趙奢善食而遣之。間以報秦将、秦将大喜曰:「夫去国三十里而軍不行、乃増塁、閼与非趙地也。」
(とりでの)壁を堅くし、二十八日間留まって行かず、ますます塁(とりで)は増えた。秦の間者が入って来ると、趙奢は食事を振舞って帰らせた。
間者がそれを秦将に報告すると、秦将は大いに喜んで言った「国から三十里離れているのに軍を進ませず、塁を増やしているということは、閼与は趙の地ではなくなったな。」
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趙奢既已遣秦間、巻甲而趨之、二日一夜至、今善射者去閼与五十里而軍。軍塁成、秦人聞之、悉甲而至。
趙奢は秦の間者を帰らせると、鎧を包んで早く歩けるようにし、二日(の道)を一夜で行かせ、射撃のうまい者を閼与から五十里離れたところに置いた。塁を完成させ、秦人はそれを聞くと、兵士をことごとく連れて到来した。
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軍士許歴請以軍事諌、趙奢曰:「内之。」許歴曰:「秦人不意趙師至此、其来気盛、将軍必厚集其陣以待之。不然、必敗。」
軍士の許歴が軍事を諌めたいと求めたので、趙奢は言った「内に入れよ。」許歴は言った「秦人は趙軍がここに来るのを予想しておりませんでしたが、この到来(する秦軍)は気勢が盛んですので、将軍は陣を密集させて待つべきです。そうしなければ、必ず敗北いたしましょう。」
◆
趙奢曰:「請受令。」許歴曰:「請就?質之誅。」趙奢曰:「胥後令邯鄲。」
趙奢は言った「(軍事について諌めた者は殺すという)命令を受けよ。」許歴は言った「?質(腰斬)の誅殺をお願いします。」趙奢は言った「胥吏(許歴)は邯鄲で後の命令を受けよ。」
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許歴復請諌、曰:「先拠北山上者勝、後至者敗。」趙奢許諾、即発万人趨之。秦兵後至、争山不得上、趙奢縦兵撃之、大破秦軍。秦軍解而走、遂解閼与之囲而帰。
許歴はふたたび諌めたいと求め、言った「先に北山の上に依拠した者が勝ち、後に来た者が負けます。」趙奢は承諾し、すぐに一万人を出してそこに赴かせた。
秦軍は後から到着し、山を争ったが登れず、趙奢は兵を出してこれを攻撃し、大いに秦軍を破った。秦軍は解散して逃走し、(趙奢は)ついに閼与の包囲を解いて帰還した。
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趙恵文王賜奢號為馬服君、以許歴為国尉。趙奢於是与廉頗、藺相如同位。
趙の恵文王は奢に馬服君(彼の子孫はこれを取って馬姓を名乗り、一族からは東漢の馬援や三国の馬超が出た)の号を賜り、許歴を国尉とした。趙奢はこうして廉頗、藺相如と位が同等となった。
駄目なほうの登山家
◆
後四年、趙恵文王卒、子孝成王立。七年、秦与趙兵相距長平、時趙奢已死、而藺相如病?、趙使廉頗将攻秦、秦数敗趙軍、趙軍固壁不戦。秦数挑戦、廉頗不肯。
四年後、趙の恵文王は亡くなり、子の孝成王が立った。七年、秦と趙兵は長平で拒み合い、このとき趙奢は死んでおり、藺相如は重病で、趙は廉頗に秦を攻撃させていたが、秦はしばしば趙軍を破り、趙軍は(とりでの)壁を堅くして戦わなかった。
秦はしばしば戦いを挑んだが、廉頗は応じなかった。
垓下の戦いとかは先に山を押さえた方が勝ってるわね
山の上はメリット多いからね(水源があれば)
土木の変も登山して水断たれてて草生えた
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趙王信秦之間。秦之間言曰:「秦之所悪、独畏馬服君趙奢之子趙括為将耳。」趙王因以括為将、代廉頗。
趙王は秦の間者を信じた。秦の間者の言葉には「秦が嫌っていることがあり、ただ馬服君趙奢の子の趙括が将となることだけを恐れている。」趙王はそのため括を将とし、廉頗と交代させた。
◆
藺相如曰:「王以名使括、若膠柱而鼓瑟耳。括徒能読其父書伝、不知合変也。」趙王不聴、遂将之。
藺相如は言った「王が名声で括を用いるのは、琴柱をにわかで固定して瑟を弾こうとしているようなものです(音の調整ができなくなることから融通が利かないたとえとしている。膠柱鼓瑟の語源)。
括はいたずらに父の書物を呼んだだけで、変化に応ずるやり方を知りません。」趙王は聞き入れず、ついに彼を将とした。
◆
趙括自少時学兵法、言兵事、以天下莫能当。嘗与其父奢言兵事、奢不能難、然不謂善。
趙括は若いころから兵法を学び、軍事を語れば、天下で敵う者がいなかった。かつて父の奢と軍事を語ると、奢は論難できなかったが、良いとも言わなかった。
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括母問奢其故、奢曰:「兵、死地也、而括易言之。使趙不将括即已、若必将之、破趙軍者必括也。」
括の母が奢にその理由を問うと、奢は言った「軍事とは、死にかかわることであるのに、括はそれを簡単に話す。趙が括を将にしなければそれでよいが、もしどうしても将にするというのであれば、趙軍を破る者はきっと括である。」
「以天下莫能当」
こいつはやべーやつですわ(確信)
つよい
趙奢
「息子は兵法書の中でしか生きたことのないバカだから
将軍にしたらアカン」
母親
「バカ息子がどんな結果残しても
アレとは縁を切るから一族は無罪にしてくれ」
アンチ乙
秦がもっとも恐れる将軍だから
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及括将行、其母上書言於王曰:「括不可使将。」王曰:「何以?」
括が行こうとすると、母は上書して王に言った「括を将にしてはなりません。」王は言った「どうしてだ?」
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対曰:「始妾事其父、時為将、身所奉飯飲而進食者以十数、所友者以百数、大王及宗室所賞賜者尽以予軍吏士大夫、受命之日、不問家事。
答えて言った「当初妾が(括の)父に仕えしていたころ、そのときは(括の父は)将となっておりましたが、(父)自身が食べ物や飲み物を捧げて食事を進呈した者が十人余りもおり、
友としていた者も百人余りいて、大王や宗室から恩賞として賜ったものはことごとく軍吏や士大夫に与え、命を受けた日には、家事を顧みなくなりました。
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今括一旦為将、東向而朝、軍吏無敢仰視之者、王所賜金帛、帰蔵於家、而日視便利田宅可買者買之。王以為何如其父?父子異心、願王勿遣。」
今括は突然将になりましたが、東に行って朝廷に出ますと、軍吏には仰視しようとする者がなく、王より賜った金や絹は、家に持ち帰って蓄え、日々田畑や住宅の安く買えるものを探して買っております。
王は彼の父とくらべてどうお思いですか?父と子は心がけが異なりますので、王は遣わすことのないようにお願いいたします。」
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王曰:「母置之、吾已決矣。」括母因曰:「王終遣之、即有如不称、妾得無随坐乎?」王許諾。
王は言った「母は放置しておいてくれ、私はすでに決めているのだ。」括の母はそこで言った「王が結局遣わそうとなさるなら、お考えの通りにならなくとも、妾を連座させないでいただけますか?」王は承諾した。
趙王「だって軍事語らせたら敵う者おらんし……秦も恐れてるっていうし……」
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趙括既代廉頗、悉更約束、易置軍吏。秦将白起聞之、縦奇兵、詳敗走、而絶其糧道、分断其軍為二、士卒離心。四十余日、軍餓、趙括出鋭卒自博戦、秦軍射殺趙括。
趙括は廉頗と交代すると、約束ごとをすべて改め、軍吏を変えた。秦将の白起はそれを聞くと、奇兵を出し、敗走したふりをして、糧道を絶ち、軍を二つに分断したので、士卒は心が離れた。四十日余りして、軍は飢え、趙括は精鋭を出して自ら格闘したが、秦軍は趙括を射殺した。
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括軍敗、数十万之衆遂降秦、秦悉?之。趙前後所亡凡四十五万。
括の軍は敗北し、数十万の衆はついに秦に降伏し、秦はそれをことごとく穴に埋めた。趙が前後で亡くしたのはおおよそ四十五万であった。
推定100万人以上は殺害してるであろう春秋戦国のジェノザイダー
法治国家秦では殺した敵の数=戦功でそれ以外認められんからなぁ
すでに相手になれる勢力がいなかったにしても強すぎる
大陸で「死神」とあだ名されるのは伊達じゃない
ちゃんと責任とって突撃したあたり馬謖とは格が違うわ
格が違う(目くそ鼻くそ)
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明年、秦兵遂囲邯鄲、歳余、幾不得脱。頼楚、魏諸侯来救、乃得解邯鄲之囲。趙王亦以括母先言、竟不誅也。
翌年、秦軍は邯鄲を包囲し、一年余り、ほとんど免れられないところであった。楚、魏の諸侯の救援により、邯鄲の包囲は解かれた。趙王も括の母の先の言葉をもって、ついに誅殺しなかった。
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自邯鄲囲解五年、而燕用栗腹之謀、曰「趙壮者尽於長平、其孤未壮」、挙兵撃趙。
邯鄲の包囲が解かれてから五年後、燕は栗腹の謀を用い、言った「趙の成年は長平で死に尽くしてしまい、孤児はまだ成年に達していない」、挙兵して趙を攻撃した。
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趙使廉頗将、撃、大破燕軍於?、殺栗腹、遂囲燕。燕割五城請和、乃聴之。趙以尉文封廉頗為信平君、為仮相国。
趙は廉頗を将として、迎撃させ、大いに燕軍を?で破り、栗腹を殺し、ついに燕を包囲した。燕は五城を割譲して和を請うたので、それを聞き入れた。趙は尉文に廉頗を封じて信平君とし、仮の相国とした。
これは恥ずかしい
陸抗さんみたいだ
廉頗が東周の名将として真っ先に名前上がるのはやっぱりこれがあるからだ
長平で四十五万を失ってからこれだからな
彼が規格外なんや(精一杯の擁護)
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廉頗之免長平帰也、失勢之時、故客尽去。及復用為将、客又復至。
廉頗曰:「客退矣!」
廉頗は長平で罷免されて帰り、権勢を失っていた時、旧客はすべて去ってしまった。ふたたび将に用いられると、客は戻ってきた。廉頗は言った「客よ去れ!」
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客曰:「吁!君何見之?也?夫天下以市道交、君有勢、我則従君、君無勢則去、此固其理也、有何怨乎?」居六年、趙使廉頗伐魏之繁陽、抜之。
客は言った「ああ!君はどうしてこれがわからないのですか?そもそも天下は商売のやり方で交際するもので、君に権勢があれば、私たちは君に従い、君に権勢がなければ去り、この道理は当然でございますのに、どうして恨まれるのですか?」
六年して、趙は廉頗に魏の繁陽を攻撃させ、攻略した。
面の皮が厚いやつやな
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趙孝成王卒、子悼襄王立、使楽乗代廉頗。廉頗怒、攻楽乗、楽乗走。廉頗遂奔魏之大梁。其明年、趙乃以李牧為将而攻燕、抜武遂、方城。
趙の孝成王が亡くなると、子が悼襄王として立ち、楽乗を廉頗と交代させた。廉頗は怒り、楽乗を攻撃し、楽乗は敗走した。廉頗はこうして魏の大梁に出奔した。その翌年、趙は李牧を将にして燕を攻撃し、武遂、方城を攻略した。
>>145
それどの時代にも言えることだけど
一人の名将の存在って小さいようで大きいわ
それもそやし
怒って簡単に国を裏切るってのも個人主義強いなって思ったり
個って個人の方か
あの時代は一統の概念がまだないから簡単に国を行き来するね
秦の富国強兵も他国の将軍を用いることから始まったしな
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廉頗居梁久之、魏不能信用。趙以数困於秦兵、趙王思復得廉頗、廉頗亦思復用於趙。
廉頗は梁(魏の首都)にいること久しかったが、魏は信頼して用いることはなかった。趙はしばしば秦軍に苦しめられたことから、趙王はまた廉頗を用いたいと思い、廉頗もまた趙に用いられたいと思っていた。
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趙王使使者視廉頗尚可用否。廉頗之仇郭開多与使者金、令毀之。趙使者既見廉頗、廉頗為之一飯斗米、肉十斤、被甲上馬、以示尚可用。
趙王は使者をやって廉頗がまだ用いられるかどうかを見させた。廉頗の仇の郭開は使者に金を多く与え、彼を中傷させた。趙の使者は廉頗に会うと、廉頗はそのため一食で一斗の米、肉を十斤平らげ、甲冑をまとって馬に乗り、まだ用いられることを示した。
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趙使還報王曰:「廉将軍雖老、尚善飯、然与臣坐、頃之三遺矢矣。」趙王以為老、遂不召。
趙の使者は帰って王に報告した「廉将軍は老いたとはいえ、まだ飯を食べましたが、それでも臣と同席すると、わずかな時間で三度も漏らしました。」趙王は彼が老いたのだと思い、ついに召し寄せなかった。
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楚聞廉頗在魏、陰使人迎之。廉頗一為楚将、無功、曰:「我思用趙人。」廉頗卒死于寿春。
楚は廉頗が魏にいると聞いて、密かに人をやって迎えさせた。廉頗は一度楚の将となったが、功はなく、言った「私は趙人を用いたい(趙軍を率いたい)ものだ。」廉頗はついに寿春で亡くなった。
武霊王の時代に乱が起きてなかったら趙による統一が早かったやろうね