北宋(ほくそう、960年 - 1127年)
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)
金(きん、1115年 - 1234年)
西夏(せいか、1032年-1227年)
遼(りょう 916年 - 1125年)
そのために、数多くの英雄を輩出した。
楊業、狄青、岳飛、韓世忠等等。
また、水滸伝、楊家将演義、説岳全傳、射鵰英雄傳等
数多くの英雄たちの物語も、宋代を舞台としている。
外国って例えばどこ?
唐→7代12国→明みたいな扱いってこと?
チベットとかだな。
7代12国の次は元ですわw
ああ、素で忘れてた>元
チベットが出てくるということは宋は正当な統一王朝と見られてないってこと?
その外国ってどこ?
まぁ、そういうこと。
チベットが外国じゃないというなら、まぁいいけど。
教育熱心が1番の特徴。孫文、鄧小平、李登輝、李光輝(リー・クアンユー)、などは客家
紅幇や青幇などの幇(パン)は水郷クリーク(運河)の船乗りが起源らしい。
義侠心や宗教的なもので団結した非公然の結社。
幇の組織を使い国外へ脱出した華僑が多い。
清朝などはしきりに船乗りや水夫の設教を禁止する法令をだしていた
漢なら大漢帝国、唐なら大唐帝国という言葉がしっくり来るのに、
大宋帝国はどうもしっくり来ないとイメージだけど、
何だかんだで300年も続いたし、文化面でも今につながる基礎ができたわけだし、
実は凄いねえ。
唐代に比べて、あまり存在感がないようだけど。
代わりに西夏が頑張っている感じだね。
西夏のタングート人もチベット系のようだし。
宋代ではだいぶ壊れてますね…
あと、訂正。
一応、五朝という認識はあったらしい。 しかし、「(五朝)のあとに趙という帝がたった」くらいの簡潔な記述しかないみたい。
まぁ、自分は五代好きなんで宋(北宋)も好きでいろいろみるのだけど、最近はそれら諸外国と似たような見方をしています。
北宋も、太宗のとき真宗のときと、契丹(遼)に破れ講和を結んでいるわけですが、これが遼が上で宋が下なもんですから、北宋は遼の冊封受けたような印象が見て取れます。
むろん、北宋の人々は容認しませんが…
また南宋も同じ。 秦檜の講和策後、これも金の冊封国のような状態とみても差し支えないような状態。
これでは、隋唐の頃の絢爛たる超大国なイメージは損なわれますよね。
しかも唐代では太宗が突厥や周辺民族から「テングリカガン」と呼ばれ懼れられていたことを考えると…。
しかし宋国内のみでいうと、そんなものは関係ないぞと言いたいくらい、明るいイメージが覆っているんですよね。
官僚社会にはいろいろ矛盾や不合理は多々あれど、宋という多方面に発展していく時代は、人が生きてる感じがびんびん響いてくる。
簒奪したとは言っても、周朝の柴氏には手厚い保護を与え、殺しも必要最小限に抑えた感じ。
簒奪自体、決して褒められた行いではないけど、他の簒奪劇が凄惨な結果を伴うことが多いだけに、より高感度が増す。
その反動か、二代目太宗趙匡義は陰険なイメージがあるね。
アニキは鷹揚な性格で、弟は秀才。
アニキのいい加減なところを口をすっぱくしてたしなめるしっかりモノの弟という感じ。
まぁ、それが昂じてなんか横着する兄を毛嫌いしだしたようにも思えるけど。
13歳違うから、単なる兄弟というのとも違うなにかがあるのかもしれない。
わかる。観応の擾乱は無かったけれども。
それは年齢の違いからくる余裕だったのだろうか。
兄の遺言を、自分に有利にするためには、ああいう作為的な怪しい行動にでなければならなかったが、あからさまな部分は薄い。
まぁ、暗殺・簒奪と斬って捨てられてもしようがない不審さではあるが、あきらかというわけでもない。
結局、どちらも憶測の域を出ないということ。
ただ、国内整備や民政統治に関しては、趙炅(光義)のほうが辣腕だったようだ。
弟や甥を粛清してるけどな
趙匡胤にも暗いところがないわけでもない。
郭威のコピーである擁立簒奪劇、後周に近しい軍閥・実力者である韓通、李筠、李重進らの受け入れ拒否および討伐。
たぶん、趙匡胤本人の頭からすべて出た謀計ではないと思う。
宋という時代のために現れたような国家プランナー趙普や、冷徹な現実主義者の弟らの計画だったろうけど。
まだ、統一という段階に入らず、相変わらず地方政権のままだった太祖期では、不用意な粛清はできなかったのだろう。禁軍は自分のかつての職場だっただけに、義兄弟となった石守信らを配して、多少は安全だったろうが、王彦超や符彦卿といった大大名クラスは、下手に刺激するとどう動くかわかったもんでもない。しかも、符彦卿は五代を貫く名門で、加えて後周世宗の前皇后、後皇后の父親だったわけだし。
国内にはいろいろ気を遣い、「もう戦乱はごめんだ」という感じで皆の心を揺さぶった。いわば、搦め手から敵愾心を封じ込めたという感じかな。 この辺はすごくイイ。
しかし最初に言ったように、かつての上司だった張永徳(後周の親類で宰相。兵権はすでになかった)はそのままにしたのに、禁軍の双璧だった侍衛軍の大将で、淮南節度使として新領土を統治していた李重進は、「降る」と言っているにも関わらず許さず挙兵に追い込んだ。
同じように、自分と兵権を二分した韓通は、真っ先に殺してるわけだし(これは韓通の強情さがかえってアダとなったのだろうけど。生きていても趙匡胤ほどの人気を得ることはムリなので、反対分子の代表格といったところか)。
韓通はともかく、なぜ李重進を… 実権のない後周の親類は保護するが、同じ親類筋でも兵権と人望をもった者は葬る、という図式に、ウラ読みするとなるのだが。
平和な時はよかったんだが、北方に強敵が現れると全然勝てない
有名な抗金の名将達は、そこで仕方なく認めた軍閥のボス連中
しかしこれが後に邪魔になり、また粛清を含めた押さえ込み
元が出現するとまた駄目だってことで孟キョウや呂文徳のような軍閥軍団を容認せざるを得なくなった
宋兵が弱い、というのは内乱や割拠の危険性を過度に防止した副作用だなぁ
北宋期は皇帝親政がほとんどで、幼少時では皇太后が替わって政務を取っており、特定の宰相・外戚がデカイ面する余地があまりなかったと言える。
南宋になると秦檜が出てくるけど、やっぱ賈似道あたりかな。末期も近いし。
賈似道は紙幣増刷や公田法で財政の建て直しを計って宋を助けようとした面は完全に無視されて、悪人まんまに
私欲があったのは事実らしいから謀殺されたのは因果応報としても、小説とかだとジョウヨウに援軍すら送らなかったことになってる
どの時代でもそうだけど、能力があり言っていることにも理はあっても、人柄が悪く本音のところでの動機が自分のためだけ、という人は一般受けはしないし、叩かれる対象になる。
文天祥は宰相として働く間がなかったらねぇ
もうちょい早く生まれてりゃ・・・
あの人は有為な宰相ではなく、立派な心意気をもった硬骨漢で終わる。
2年間、華南を転戦した統率能力は認められるけど、歴史から読み取れる彼のすごさは、やはり義士であるところ。
過大評価してやりたくなる人材ではある。
確かに早く生まれてても宰相にのぼって活躍したかはわからん罠
でも硬骨の臣としていい大臣になったんじゃないかなと思うね
こういう心術の清清しい人物は好感持てるな
平時だと煙たがられて謀殺されてたりしてな
まあ折り合いつけられなさそうだしな
諸葛亮と似てるな。
諸葛亮は活躍してないか?
三国志だと蒋済と似てないかな
実際の功績の割にはという意味でね。
こういう書き方をするとうるさい人が出るかもしれないけれど、諸葛亮がなしたことで後世に残る社会制度、政治体制、文化って特に無いでしょ?
強いてあげればその存在自体が一番の文化遺産。
後世に残したものがあるほうがエラいというわけでもないと思うが。
まぁ、残さないより残したほうがいいのだろうけど。
諸葛亮は文を残しているし、唐朝の南詔対策では諸葛亮の名前がちらほら出ているくらい。
多少影響はあったと思われる(詳しく読んでないから、全然関係ないとこの話かもしれん…w)。
だがまぁ、存在自体が文化遺産だというのは、納得。
悪いこともしたけどやるべきことはやった、ってイメージかな
文天祥は立派なんだけど、何か立派過ぎて親しみにくい印象がある
靖康の変で、金に連行されたのは太宗系の皇族?
靖康の変は、皇族狩りもだけど、女狩りの方も徹底してたようだね。
開封に住んでいた高貴な身分の女性はほとんど連れ去られてしまったらしい。
相手を蛮人扱いして約束を守らないのはやっぱり良くないね
管仲は偉いな。
下手すりゃ桓公人質にとって意見のゴリ押ししようとする輩が続出しないか
趙孟[兆頁](ちょうもうふ)の様に元に仕官した人もいるがこれは少数派。
大多数の皇族・宗族は隠遁生活をしてひっそりと余生を送った。
蔡京
秦檜
賈似道
宋代の嫌われ四大奸臣
ある意味可哀想な連中でもあるな。
実際以上に貶められているわけだし。
潘仁美は架空な人物
オリジナルは潘美
でも世間一般的には、物語の中の名前の方が浸透してそう。
秦檜、賈似道なんかはちょっと可哀想な部分もある。
大胆なものがあって、それが案外的を得ていたりすることがあったからね。
開封がダントツで繁栄していたのは有名だけど、
他の三京はどれぐらい栄えていたのかな?
応天、大名は宋以外の時代だとそんなに栄えていないよね?
曹操の府があったところとほぼ一致するんじゃなかったっけ。
鄴は邯鄲と安陽の中間ぐらいにあると思ってた。
大名府は邯鄲と梁山泊の中間ぐらいにあると思ってた。