司馬光の猛反対と自派閥の裏切りくらいで凹む王安石の如き軟弱天才とは気骨が違うぜ!
時代が下るにつれて党派争いが激化して
そうゆう人たちがいなくなった感がある。
独裁者みたいな宰相が出てきたけど。
対案ないくせに新法に反対して、結局は自分の派閥の利益を守りたいだけだし
こんな奴を宰相にするしかなかった北宋末期は、滅亡するのが運命だったんだろう
何か日本の将来を暗示してる悪寒
でも、後から出て来た蔡京とかの奴らに比べたら、まだ芯はしっかりあっただろう。
皇帝がしっかり官僚機構を統御できれば良いんだけど、幼帝とか政治に興味が無い人物とかが続出したためにえらいことに
対して王安石は中小農民や商人へのテコ入れや既得権益の否定といった典型的改革派
水と油
政治姿勢はともかく、お互いを認め合って親交はあったらしいけど
司馬光は重農主義者
王安石は中国史の中で最も近代に近づいた人間かもしれない
いわゆる格差社会というやつか。
今も昔もどうしてこうゆう貧富の差をつけたがるんだろうね?
政治家や官僚は。
司馬光って『資治通鑑』という大歴史書を書いたのは評価するが政策面ではダメ出ししたくなるくらいだ。
どちらも後者の系統に腐敗政治家が目立つようだし。
そのバックボーンを守りたかったんですよ。
貧民層を守っても、彼らから俊英が生まれるのは稀で
富民からならば期待できるのです。
その考えを考慮したうえで批判しないと、かた手落ちだと思いますね。
富民層は五代中の新興地主層がそのおおもとであり、その層は捨てられた土地を兼併していって
大土地を有したのであり、貧民層を労働力として雇った資本家でもあった。
科挙を受けるにも多額の資金がいるし、また時間も必要。
富民層から科挙生が多く排出されるのは、まさにその両方が親の代からの財産が豊富であり時間があるから。
貧民層は今日の食い扶持をどうするか、というレベルなので、むろん金もなければ時間もない。
しかも富民層はさらにその貧民層に対して、金貸し業をやっておりその利子で荒稼ぎもしていた。
もともと金のあるところに、底辺から搾り取ってさらに増えていくという構図があり
いつの間にか、貧民が自力で富裕な生活を送れないような社会システムになっていた。
当然、富民層のそうしたいという意思が根底にはあったのは間違いないだろう。
王安石はそういうところを国家の側から救済しようとしたのであって、司馬光を代表する地主出身や
それらをバックボーンとした多数の連中は、利権の放棄を強要されるので反発した。
司馬光は言う。
我らは豊かになろうとして豊かになったのであり、貧民たちが豊かでないのは怠惰のあらわれだ(多少表現違うけど)。
…まさに今の日本も同じようなところに落ち込んで
いるのがよくわかる。
唐の貴族と寒門抗争よりはまだ窓口が緩くなったとはいえ
裕福じゃなきゃ勉強できない、勉強できなきゃ科挙に合格できない、結果、裕福層しか政治に参加できない
そういう悪循環に陥ってるからな
本心では改革支持してても周囲から色々言われるとできない。
いくら上司から勧められても絶対に飲まない人は、
空気読まずに改革を断行できる。
歴史を書き残したのがほとんど旧法系の人間だからな
それと政治思想としての儒教を完成させたのも旧法党で
それが回りまわって日本のオレらも悪影響を受けているわけだ
有名な亡宋の三傑はじめとして多数が元と戦って死亡
後世の史書だと「やはり士大夫を養うのは無駄ではなかった」とか書かれている。皮肉っぽい感じもするが
真っ当な感覚の士大夫なら発狂ものだわな。
下に見ている北に日本がちからづくで蹂躙されるのと似た感覚つうことで。
宋の官僚連中は遊牧民を、原始人…とまでは思ってないが
下に見まくっていたのは事実だろうし。
宋の漢人に対して、文化面でコンプレックスみたいなものは抱いていたんだろうか?
モンゴルはどうなのかな?元王朝ですら漢化しきらなかったわけだし
チンギスハーンの通商や大遠征によって、中華文明だけじゃなくイスラムやヨーロッパ・インドといった同じくらい優れた文化があることを知っていたから一つの文明にのめりこむことは無かったんじゃ?
相手(女真、モンゴル)は「だったら実力で思い知らせてやる」というふうになったんだろう
金のときといい、モンゴルのときといい、ここらへんはどうにかならなかったのかねぇ…
人間の歴史は繰り返しが多い。
で、今の日本は過去の愚かしい現実をなかったことにしようとしているから
この先何年かで、また似たようなことが繰り返されるだろう。
歴史を俯瞰してみると、今がどういう位置づけかがわかるというもの。
まぁつまり、恭謙でない人間が存在する以上、どうにもならんということか…
明の失敗は何だか陰湿さを感じる。
これが暴君だったら末期の印象が大分変ると思う
隋の最期とかは誰も同情しないし。
末期の南宋政権を見ると忠誠心も失せる。
余談だが、南宋の忠臣として有名な張世傑の軍隊は略奪すること甚だしく
泉州ではそのせいで忌避された。
もともと宋は歴代支那王朝の中でも、全ての分野でハイクォリティの国家。
戦争が苦手と言われるが、それは軍閥の台頭を抑制してたから。
そもそも黄河流域は唐末からの混乱で消費地帯と化していた。
北の勢力がそこだけ手に入れても余り旨味は無い。
この時代は江南こそ中原だった。
まあ、全ての国力を長い防御線に投入する戦略は結果としては間違ってたな。
攻撃あってこその防御だということが証明されたと思う。
宋が対外的に積極的な姿勢に転換していれば、
唐以上の大帝国を実現した可能性もあったかも?
二代目太宗の時に、遼を攻撃して皇帝が行方不明になるほどの敗北しているから無理じゃないの?
方針転換したからこそ中国が大発展する内的余裕ができたともいえる
対外積極策は国力を削ぐ結果になったということか。
ところで西夏なら倒すことができたかな?
西夏じゃ、滅ぼしてもあの土地じゃあまりメリットないような・・・・・・
契丹に圧力をかけるには好位置か?
宋は建前上は軍閥を否定したけど、2万規模の孟氏の私兵(忠順軍)がれっきとして存在していた
呂文徳の軍閥もあるけどこれは一代での成り上がり
結束力も経験も弱体化した正規軍に比べて段違いだったんじゃないの?
中核に熟練兵がいれば、他の兵士を引っ張ることもできる
北宋太祖でも勝てなくても有利な講和を結べたろう。
その二人の創業が不完全ゆえに宋朝300年の戦略は決まってしまったとも言える。
世宗が燕雲を攻めるのに、破竹の進撃ができたのは
遼側にいくらかの政治不安があったからでしょう。
なので、世宗が遠征途上で病に倒れたのはまことに残念。
おそらく、機会としては最大の好機だったろう。
で、太宗のとき、なんと遼は最盛期を迎えてしまった。
たとえ世宗が再び現れても、似たような敗北を喫したであろうね。
あまり西夏にのめりこみすぎると契丹への備えがおろそかになるし。
モンゴルが強すぎたのか、それとも宋が弱すぎたのか…
そういう軍隊だったんじゃないの?
趙匡胤の禅譲は王を飛ばした?
劉知遠や郭威も、別に漢王、周王だったわけでもない。
漢民族は兎に角えらくて他は禽獣以下なんだ、と己らを慰めていた
それだけなら良いのだが、実際の外交や戦略でも相手を人間扱いしない悪弊が発生してそれが取り返しのつかない結果を何度も呼んでしまった
北宋滅亡や南宋滅亡の経緯を見ると、宋側の背信の数々に「どっちが蛮族?」という印象を受ける
鬼畜米英って言ってたのは、いつのことだっけ…
「ジャップ」とか「イエローモンキー」とかね
でもこの場合は違うでしょ、宋が二度も犯したのは同盟結んだ相手に対する数々の背信が呼んだ破滅なんだから
って事じゃ無くて
人として認めない様な、見下した態度取るが故に、
平気で同盟を反故にする馬鹿をやった。
って事を言いたいんだと思う。
それはむろんわかっているけどね。
中国政権にとってみれば、草原に現れる勢力ははるか昔からの歴史的外敵だから。
辺境の居住区は彼らの食料庫にされていたわけだから、敵愾心も根強いだろうね。
ただ、後晋期まではそれでも破綻しなかったわけだけど
どいうわけか、中華文明マジックが効きにくくなった、というのが運の付き。
相手が自分と対等に近い文化をもってしまったので、悪あがきの果ての自滅でしょう。
救いがないのはしょうがないね。再三同じ失敗繰り返しているから。
>>悪口言い合いならむしろお互い様
それは敵対国同士なら自然な感情だろうけど、日本だってその前には日英同盟なんてものもあった。
本土爆撃くらっても、まだ戦えるとごり押しした結果があれ。
戦局を見極められない上層部を持つと、民衆が憐れだ。
それを言うなら、いきがってはいるがもうボロボロの国の市民を30万殺した方もアレだぜ
(勝てば官軍だから非難されないけど)
末期の大日本帝国はどっちかっていうと文天祥みたいに片意地張ってた感じだ
なんか反日呼ばわりされたが、単にバカな指導者が嫌いなだけで
そこには日本とか中国とか関係ないんだけどね。
それは置いて、文天祥はみずからゲリラ戦(?)の戦力を
私財で組織し、自ら率いて
焼け石に水的な(結果論では無益な)軍事行動を起こしている。
指導者自ら死地に入って、意地を通そうとしているわけで、その心意気だけは
自分は評価できると思う。その軍才とか、そういったものは評価できないけど。
で、さらに重要なのは、自分だけ逃げて生き延びようとしていないところ。
隋の煬帝などが、群盗が起こったとき、その責任は楊トウなどに押し付けて、
江都に逃げたのが最大の罪悪だと思っている。
道教狂いの真宗が建させてた「玉清昭応宮」を忘れてはいけない。
それより開封城の真ん中を貫く、皇帝専用の御道ってのが、
具体的にどんな感じなのか、想像がつかない。
朱雀大路が三車線・三車線で、
真ん中の二車線が皇帝専用みたいな感じ?
じゃなきゃ、あんな城のど真ん中を貫かれたら邪魔で仕方ない。
中都で晒しものになったんだってね。
族滅までいかなくても、流刑とか?
ちょっと地方に流刑な感じじゃないの。
正気の歌は日本の志士達にも大人気
なら口だけ番長、李網も評価されてたよ。
愛国英雄タイプの英雄が多いわな。
北宋がそのまま続いていたとしても、いずれ開封は放棄せざるを得なくなったかな?
そういえば、後晋のころからやたら黄河が氾濫して、澶州とかの位置が
黄河の北岸になったり南岸になったりしている(歴史地図では)。
当時の政権は黄河の治水にかなり労力を向けたようだ。
かの後周世宗も、黄河の治水をやったしね。
4:39:08
主河口も、山東半島の北側に行ったり南側に行ったりしている。
どちらかと言うと長江の方が流れは安定しているのかな。
そういや、長江ってあんま氾濫とかの話も聞かないな?
大きな調整湖があるのが関係しているかな。
徽宗じゃないですか?
実戦部隊50万、廂軍50万、合して100万を国境に張り付かせることができる
国力を実現させている北宋で、「軍事力が貧弱」はない。
問題は、それを運用するシステムの腐敗。
百万を長い国境に張り付かせたら、一ヵ所突破されたらズタズタに分断されるんじゃ…
どんな運用想定しているんだよw
宋はモンゴル帝国を除き、中国王朝史上以前にも以後にも例を見ない、とんでもない軍備をもってた事になるんだが
北宋代はそれまでの中国とは違って人口爆発がおきているからね。
唐代だって府兵兵数は国内で60万→いくらかの部隊が長征健児として国境へ。
うち、補給部隊が計算されているかどうかは定かではないが
北辺一節度使管轄の兵力って十万規模だったから、それほど奇異なことでも
ないように思う(節度使兵力は傭兵)。
遼との和解の際に金払う必要無かったって指摘があるんだよな。
遼は遼で前線が伸びきってこれ以上の南進は無理だったそうだし
遼の高麗侵攻の時に行動起こしていれば
うまく立ち回って居たら燕雲十六州くらいは奪還出来たんじゃ