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この時代のドキュソ順位をつけるのはどう
1位石虎
2位赫連勃勃
3位がむずいな・・・
冉閔
苻生
侯景
とか
個人的には石虎とかかなぁ
こいつの人生は、孔融とかデイコウに権力を持たせたらどうなるか、という仮定に対する回答みたいなもんじゃないか?
しかし晋書の王衍伝、最後は石勒が王衍の威厳(笑)にビビッたかの如く書いてるけど、絶対にありえんと思う…。
正直生まれた時代が悪かった
いくら高帝・武帝系皇族の再簒奪を恐れたとはいえ、一族28名を殺し尽くすのは…。
しかも殺害前に香を焚いて、殺害後に哭泣する態度、自分のような凡人には、ちと理解できかねる。
>>22
と言っても、傅亮・徐羨之は打算抜きで擁立してくれたわけじゃないぞ。
長男の少帝と次男の劉義真(後秦滅亡後、長安留守になったあの人物)を同時に殺した上で、三男の文帝を迎え入れている。
帝位につけた理由は、十中八九「劉義隆は病弱で操りやすい」という点と思われるが。正直、「喰わなければ喰われる」危機感を常に抱いていたんじゃないか?
皇親にしても、武名の高かった劉道規は東晋時代に死去していて、劉裕の弟たちには側近に睨みをきかせられる人材がいなかったし。文帝の弟たちもまだ未成年ばかりで、頼れない状況だったことも考慮に入れるべきでは。
ちなみに、檀道済が殺された元嘉13年は、文帝の病が重篤になったため、正月の宴が取りやめになっていたりする。檀道済を謝晦たちから遅れて処刑したのは、個人的にはこれがきっかけだと思う。
兄二人を殺した過去を持つ、武力を持った将軍の存在に加えて、いつ死ぬかもわからない不安が、今のうちに粛清してしまえ、という行為に走らせたのではないかと。
勿論、文帝が荊州刺史時代から抱えたブレーンたち(王曇華ら)の意向・謀略も考える必要はあるだろうけど。個人的には、文帝を悪人と断罪するのは待った方がいい気がする。
あれだけ好き勝手に暴れ回ったんだから名前負けはしてないでしょ。
じゃあ、暴れん坊将軍の方がよくね?
モヒカンの異民族がひゃーほー言いながら襲ってくる
逆に漢族の中にもとんでもないDQNが結構いるし。
赫連勃勃「お前ほどひどいやつはそんなにいねーぞ」
海昏侯「さあねえ」
宇文ヨウ「正直すまんかった」
六朝は呉をはじめに、東晋、劉宋、斉、梁、陳の建業を首都にした南朝の総意で使われることが多い
宇宙大将軍の宇宙は仏教用語(まあ、我らもスペースの意味で使ってる宇宙も、そこから来たんだが)
何考えてこんなの名乗ったんだ候景ってやつは。
この場合、宇は空間の広がり、宙は時間の広がりをそれぞれ意味する。
つまり全ての場所全ての時間を通じての大将軍であるぞという、ある意味時間には区切られる皇帝よりも凄まじい主張をしてるんだ。
何か大事業やった政権ってあった?
>>63
文化的事業だと、北魏とかは石窟をいっぱい作ってる(江南でもたくさん寺院建ててたな)
あと、国力に関しては確かに政府そのものの統制力の低下は見受けられるが民間(と言うか荘園経済)の方は古代と比べ物にならないくらい向上している
江南の方ではクリークの発達が著しい(水稲の生産力向上はもう目前)
洛陽伽藍記とか見ると、華北も結構文化に爛熟しつつあったと思うけどね
そういう仏教文化興隆の嚆矢が石虎……だったような
少なくとも三国よりは上じゃないの。
江南の開発も進んだし。
つ 梁
国力が落ちたのは北だけ(幾つも分裂してるし)。軍事力という面では上がってる
南は蝶裕福。文化も絢爛豪華。商人が台頭と
一世紀は先をいってた
あくまで一説だけど、この時代の人の名前に「之」がついてるのは五斗米道の信者だといわれてる。
それが本当だとするとかなりの数の五斗米道信者がいたことになるね
せめて正史の帝紀とか皇族の列伝を読んでから語ってくれ。
親父が都で幽閉されてるのに、その間ずーっと息子同士で縄張り争いだからなあ。
DQNの含有率が高いのは間違いないんじゃないかい?
まともそうなのは長男と三男くらい。
元帝もどうも名君とは呼びがたいし。
西晋を滅ぼしたのは劉聡だが
約裸一貫からの建国者
劉淵はよくは知らんのでなんとも言えないが、劉秀以外みなほぼ裸一貫じゃね?
劉淵の出自は匈奴の単于。かなり恵まれている環境だな。
確かに劉淵は出自こそよかったが当時はその匈奴自体に往時の力はないよ
劉淵自体も魏によって五部に分割された匈奴の一部を率いてただけ
しかも晋に人質として送られ警戒されてた
その当時から武帝や王渾などに高く評価されていて
「劉淵を江東に派遣すれば呉を滅ぼすことは容易い」とまで言われていた
彼が大単于に推戴されたのは毛並みのよさもさることながら英主として部族から期待された為だろう
>>87
劉淵は子供の頃から、春秋左氏伝や孫子、史記などを諳んじた秀才
武芸にも相当秀でていたというから、只者ではない
南匈奴は相当漢化されてた証左だとも思う
王渾以外にも王済などにも呉の平定に推挙されたり、匈奴である割には晋朝に重用されるものの、やっぱ匈奴の重用はまずいよの声で帰郷して晋朝と対決するんですよね
成都王司馬穎へ義理立てしたりもしてる
劉淵の従祖父、劉宣もなかなかの人物だね。
儒者に帥事し「毛詩」「左伝」を学び、晋の武王のとき右部都尉、匈奴の右賢王に任じられ
八王の乱が起こると劉淵を成都王から離石の右国城に召し帰して大単于に奉じ劉淵が漢王になると丞相、都督中外諸軍事にとして開国の元勲と特にして尊重されているし。
でも劉淵自体は大単于・漢王となって以後、ほとんど親征してないよな
もっぱら戦争で活躍したのは劉聡・石勅・王弥といった将軍連だな
劉聡も中国的教養を修め武勇にも優れた人物だな
後年は酒色に溺れて国政乱したのが惜しまれる
陳瞬臣だと思うけどこの頃の非漢民族の君主にこういう失敗が多いのは
酒色のほかに楽しみを知らない文化レベルによるってのを読んで妙に納得したもんだ
漢化すると逆に文弱な傾向に陥りやすいしな
言い方は悪いけど、元々は超野蛮人だったのに漢化して、いきなり文弱になるし
同じ女真族の清もそうでしたね。
康熙帝の頃は、ロシアとネルチンスク条約を結んだりと、割と国際的だったのに、孫の乾隆帝の頃には、中華思想に汚染されて文弱になって、国際的視野が狭まって、かのアヘン戦争の悲劇へとつながって行くのですから。
この時までの劉淵の飛躍は、劉宣の知略に負うところが大きいと自分も思う
非漢民族が中原の国家に変貌するには漢族の力を借りるしかなかった。
漢化されれば民族の本質を失う、しかし中原国家として政権を維持するためには漢化せざるおえない。 まさにジレンマだな・・・
例えば北魏の太武帝は崔シ告に国記を編集させ石碑に刻みつけた。
それを読んだ鮮卑族拓跋部の人たち自分たちはこんなに野蛮ではないと怒ったし拓跋部の人たちも精神的に漢化していたんだね。
宣武帝は禍根を絶つために皇太子の生母を殺す北魏のしきたりを「忌まわしき風習である」として廃している。北魏の王室は漢化きわめて進んでいたし、漢の文明に傾倒しただけでなく、王室の血統もほとんど漢化していたようだ。
外戚の力を削ぐ為の先人の知恵だろうな。
鮮卑族は漢王朝が外戚に後漢王朝は外戚と宦官が政治に介入して衰退していったのは知っていたのかは不明たが。
漢の武帝も皇太子を立てるとき、その生母鉤弋夫人を殺している。
また魏は親族を疑いすぎ、晋は親族を重要視しすぎた。しかも両方とも裏目な結果に・・・
宋や斉の場合も代が進むと肉親同士骨肉の権力争いになるし
それに対し石勒は漢人士大夫を優遇し律令、官制を整えて一時的ながら華北に安定をもたらした。しかし石勒の死後以降の後趙は・・・
石勒は奴隷から後趙の王まで成り上がったスーパー逆境人間
>>102
洛陽で品物を売っている石勒を見た王衍は「あそこの胡人の子供は只者ではないやがて大成するだろう、放って置けば天下の災いとなる」と捕縛させようとしたがその時すでに姿はなかった。そんな逸話が残っているし、自らは字が読めなかったが学官に古典や史書を読ませそれをじっくり吟味したり漢族学者と史上の人物を論評したりしてるしな。
また僧の仏図澄を崇拝し教えを聞いたり所謂、耳学問だな。五代の後梁の太祖朱全忠も人の話を聞くのが好きで古今の歴史に通じていた。この二人は結構共通点があるし。石虎は仏教に寛容だっがかなりDQNだしw
曹休とか曹真とか夏侯尚とか。
次の世代の曹爽がアレだったから、司馬懿にやられちゃったが。
まあ、皇族っても皇位継承権のない奴らオンリーだけどな
にしてもなんで任城王曹彰には一万戸なんて大封与えたのだろうか
皇位継承に関わる皇族を冷遇・監視するのは漢からの伝統
それプラス曹丕が曹植たちと兄弟で後継者争いのとき側近による権力闘争があったのが更に皇族を冷遇するのに拍車をかけたのだろうな。それによりが司馬一族による政権掌握へと繋がっていくことになる。
いや、だからそれらを踏まえてなんで曹彰のだけやたら大封与えられてるんだって質問なんだけど
>>112
1万戸はまだ魏に禅譲される前の侯の時の話だよな
だからそもそも別の話だ
王になってからの方が封邑が減ってるくさい
曹彰は後継者争いには早々と不参加で軍部に人望があり、持って生まれた明るい雰囲気で兄弟間の潤滑剤になっていたみたいだよ。
だから優れた弟たちに後継者の地位を脅かされ心休まる日がない曹丕も曹彰と司馬懿にだけは心を許していたんだって。しかし曹操の死後、曹植と仲がよかったため疎まれたと言われているようだよ。
他山の石としたんでないかい