そのルートにある家で息子が母親にこう釘をさした。
「母さんは紅茶をあふれるほど注いで、ソーサーにこぼれたのをすするだろ。
あんな行儀悪いことは女王陛下の前で絶対にしちゃいけないよ」
母親はうなずいた。
後日、はたしてこの家に女王陛下がたちよったのである。
がちがちに緊張した母親は、
息子の助言など忘れていつも通りのくせで紅茶を飲んだ。
そして女王陛下が帰ったあとで、母親は息子に自慢げにこう話した。
「おまえは行儀悪いなんて言ったけど、
陛下だってソーサーにあふれた紅茶をすすっていたわよ!」と。
女王陛下は内心もちろんこの飲み方に驚いていた。
しかし、自分が普通の飲み方をすれば相手は粗相をしたとあわてて、
恥ずかしがってしまうにちがいない。
そこで女王陛下は、とっさに相手をまねてソーサーから紅茶をすすったのだ。
君主たるもの、どんな相手でも気遣うというおはなし。
似た話で「フィンガーボウルから水を飲む陛下」というものもある。
結構ウィットに富んだ民族でもあるよね
>>4みたいな感じのディスりじゃない、
その国や民族の良い面にスポットを当てた逸話が
ここで投下されて行くと良いな
地位にかかわらず他人のメンツを安易に潰しちゃイカンってことだよ。
お姫様のファンガーボールの話を小学生の頃に聞いて感動したことがあるな。
長征残留部隊の司令官だった陳毅(後の10大元帥、政治局常務委員)は
停戦の通知を行うために湘贛省ソビエト地区に入ったがそこの主席だった
譚余保(後の湖南省党副書記)は陳毅を党を裏切ったスパイだとして
牢獄に押し込め銃殺しようとした。
しかし念のため党中央に問い合わせたところ
陳毅の通知は正式な党の指示であったことが確認され
譚余保は陳毅に泣いて謝罪した。
さすがに陳毅は剛毅な男であり笑って譚余保を許したのであった。
門が閉まっていて入れてもらえないということがあった。
身分を門番に伝えても規則ということで開けてもらえず、しかたがない
ので朝帰りをした光武帝は、自分を入れなかった門番に褒美を与えた。
東ローマのレオン6世がお忍びで夜の町を歩いていたところ、
兵士に不審がられたので、金貨を渡したところ見逃してもらえた。
更に別の兵士と出会った際も、金貨を出すことで見逃してもらえた。
こういうことを何度か繰り返していたが、
最後に会った兵士は金貨を出すと逆に怒り出し、皇帝を鞭打って牢に入れた。
翌日、牢から出られた皇帝は金貨を受け取った兵士たちに罰を
自分を牢へ入れた兵士に褒美を与えたという。
春日局が門限を破って大奥に戻ろうとしたところ、
門番に遮られて帰ることが出来なくなったので、
冬の寒い夜を外で過ごす羽目に陥った。
翌朝、門番は信用出来る男という理由で誉められ、褒美を貰った。
ナポレオンの陣中において、不審な男を兵士が誰何したところ、
要領を得ないので引っ立てられた。
男はナポレオンであり、兵士を賞賛して警備を任せた。
スピルバーグだかも会社のセキュリティを徹底し、
IDカードを持たないものは絶対に入れぬようにしたら
自分が忘れてガードマンに止められたとかやってたな
神聖ローマ皇帝のカール5世は、
お供一人を連れて急ぎの旅の道中、日が暮れてしまった。
案内人を探そうと村に入り、一軒家の戸口を叩くと、
酔っ払って寝入りばなを起こされた農夫が出てきた。
農夫は道案内を頼まれて、不承不承カンテラに明かりを灯し、
頼んだ人に話しかけた。
「お前さんは誰だい」「カールだ」
「そうか。おいカール、このカンテラ持っててくれ、用を足してくる」
農夫が戻って来てカンテラを受け取ると、
お供が「この方は皇帝陛下であるぞ」と一言。
仰天した農夫は平謝りしたが、
皇帝は彼の税と賦役を生涯免除するよう指図したという。
カール五世がイスパニヤ王カルロス一世となるべく港に上陸した時に
通り掛かりの漁師が言うに
「王様、そのだらし無く開いた口を閉じた方がよろしゅうございますよ。
この国のハエは大層無礼ですからねぇ」
後年、カルロス一世が一介の農夫に
「この国では誰が立派な王かね?」と尋ねると
「そりゃ一番はイザベル女王様ですわ。
それに比べて今の王様はまるで駄目だね。
暇さえあれば新教徒をやっつける戦争ばかりしてる。
そんな事やらなくても世界で多分一番強い王様なのに、全く困ったバカですわ」
この二つの話は史実かどうかは判らんが、
カール五世はこんな小咄が語られるような
ユルい一面を併せ持つ性格だったんだろうね。
若手将校が見舞いに訪れたところ、
それらしい屋敷の前で野良着をつけて後片付けをしている老翁がいたので、
「爺さん、東郷閣下のお屋敷はここか」と問うた。
すると老翁「そうだ」と言ったきり、振り向きもせず作業を続ける。
将校相手に態度がでかいのに怒って近づいてみると、老翁は東郷本人だった。
戦後演奏旅行を再開し1923年日本にもやってきた。
演奏が休みの日、ある場所に訪れた。
クライスラー「今日は日本で最も偉大な場所に行きました」
日本人の記者「それはどこですか?」
クライスラー「乃木将軍の墓所です」
女も物も略奪 して回ったことがあった。
ところが、皆逃げ惑っている中で
一人だけ冷静な老婆がいて
「お前さんたち、悪いこと言わないから早くお帰りなさい。
もうすぐ娘が帰って来るが、そうしたらお前さんたち、おしまいだよ」
と言う。
だが、誰も本気にすることは無く、遂には老女自身も縛り上げ、
馬の背 に乗せて連れ去った。
ところが、半里も行かない内に、後方を見ていた老女が喜びの声をあげた。
すさまじいばかりの砂煙と馬蹄の響きで、娘の帰還を悟ったのである。
娘はまず、遠くから奪ったものを置いて立ち去れば、命は助けようと言った。
そして、誰も本気にはしないと見るや、瞬時に三つ四つと矢を放ち、
敵の騎兵を射落としてしまった。
インド人たちも矢を放つが、射程距離が違い過ぎて勝負にならない。
あっという間に半数が射殺され、残りも抜刀して突進して来た娘の手にかかり、
全滅させられてしまったのであった。
一部出ているペルシャもさることながら、
インドも古代から王への不敬にはかなり厳しい土地でしたし。
透明人間になる薬を飲んでいた竜樹が王宮で殺されそうになった時、
王の頭の周囲に踏み込んだら罰(確か死罪)を受けることを利用し、
王の側に逃げ込んで一命をとりとめたという話を初め、
仏典にも王の不可侵性を示す話がずいぶんありますが、
時代が下っても、イスラームが来ても、ムガールが来ても、
緩和された気が致しません。
日本人=自害する。
ドイツ人=脱走を謀る。
イタリア人=歌い出す。
アフリカ第二の高さを誇る山、ケニア山のレオナ峰(4985m)に初登頂した
のは、第二次世界大戦中にイギリスの捕虜収容所からこの峰を眺めていてど
うしても登りたくなり、物資を懐に入れるなど準備を重ねて脱走した三人の
イタリア人捕虜。
下山した三人は収容所に戻り、罰として一月弱の独房生活を強いられた、
というのはいい話……なのでしょうかね。
1966年の大地震の時、周囲の多くの建物が倒壊するなか
ナヴォイ劇場はビクともしなかった。
どういう境遇になっても日本人、国民性は変わらんわ
なんとなくいい話げだった気がする。
変な男たちの三人連れに出会って意気投合。
彼らは実は盗賊団で、これから王の宝物庫を荒らしにいくという。
面白くなったアッバース大帝も着いていって、道々お互い自己紹介をする。
盗賊1「自分は動物の言葉が分かる」
盗賊2「自分はどんな鍵でも開けられる」
盗賊3「自分は一度見た顔は決して忘れない」
大帝「自分は実は絶大な権力を持っていて、
髯をちょっと捻るだけでどんな大罪人でも許すことができる」
途中で犬が吼えたのを聞いて盗賊1がいわく
「犬が言っている。
『大金持ちはお前たちの中にいるのに、今宵お前たちは何処に行くのか』」
やがて庫に着くと盗賊2が鍵をこじ開けて四人で荒らしまわる。
翌朝大帝は王宮で兵士を呼びつけて昨夜の盗賊たちの人相を詳細に語って
「ひっ捕らえてまいれ!」と命令。
そこで三人の盗賊が捕まえられてきて、
盗賊たちは顔を上げられずにがたがた震えている。
ところがそこで盗賊3がふと大帝の顔を見上げて驚いていわく
「俺たちは三人とも特技を披露した。今度はあんたが髯を捻ってくれ」
これには大帝も苦笑して彼らを許すしかなかったという話。
「臣民が皇帝の為に血を流すのではなく
皇帝が臣民の為に血を流さねばならぬ」と言っていた。
但し、その具体的方法として皇帝が考えていたのは
君主同士の決闘であった。
その子ニコライ1世の話。
陸軍の主計官に会計を誤魔化して私腹を肥やしている男がいた。
発覚しそうになり主計官は自殺を決意した。
夜、いよいよと拳銃を手にした主計官の肩を叩く人がいた。
皇帝その人であった。
「今回だけは無かったことにしよう」と語りかけて
主計官は自殺を思いとどまった。
エカテリーナのことは念頭に置いていたのかな。
まあ、エカテリーナのような母親を持ったからこそ、
女性でも決闘して全然問題無いと考えていたのかも知れないが。
これ有名な「ちょっと」どころじゃない話だけど
パリ・コミューン崩壊の時、ヴェルサイユ政府軍に捕らえられた
コミューンの少年兵がいた。
即時銃殺になろうとして
少年兵曰く、
「お願いだから少し待って!近くの家に母さんがいるんだ。
最後のお別れをしたいんだ!必ず戻ってくる。行かせてくれ!」
政府軍の将校は「嘘を付いてそのまま逃げる気だな」と思いつつ
憐れに思って「一時釈放」してやった。
しばらくして、なんと少年兵は戻ってきた。
「さあ戻ってきたよ!撃てよ!」
ユゴーが伝えている話。
実利よりも誇りに生きるのはかっこいいがそれで死ぬには少々若すぎるな
この後どうなったんだろう?
賊に「老母の所へ食料を届けてからにしてくれ」と言って一旦
解放された息子が戻ってきたので
殺されずに済んだという話がありましたね。
(桑の実の話とは別)
以下、『大智度論』ほかにある説話ですが。
昔、実語(嘘をつかないこと)を心がけている須陀須摩という王がいた。
ある時この王が園に出ていると、空から翼を持つ鹿足という王が現れ、
須陀須摩王をさらっていってしまう。
鹿足王は、百人人の王の頭を神に奉げようとしていたのであるが、
須陀須摩王が
「私は昔から嘘を言った事が御座いませんが、
園に出る前に出会った婆羅門に
『帰ったら供養しよう』と言ってそのままになっておりますので、
これを遂げさせて頂きたい」と訴えたところ、
七日の猶予と共に返された。
無事供養を遂げた主に対し、
周囲は「守りを固めてさらわれるように致しましょう」
と勧めたが、嘘をつきたくない須陀須摩王は鹿足王を待って身を委ねる。
鹿足王は感心し、更に教えを説かれたこともあって、改心したのであった。
類話は、実話から願望まで各所にありそうです。
ヨーロッパでキリスト教の聖人の話ということになってたって事もあるし
他の国の話が場面と人物を変えて言い継がれている
って事もあるかもしれないね
聖ヨサパトと聖バルラームのことですね。
ソロモンの逸話や大岡裁きで有名な
「二人の女が一人の子を争う話』もガンダーラから両話の記録より古い
(仏教説話を題材にしたとおぼしき)像が出土しています。
像の出土より前に没していますが、
南方熊楠は仏典や漢籍の事例を渉猟した上で、
インド起源の話が東西に広まったものとしています。
こういう例をみるとキリスト教も多神教的側面を保管出来てるよね
神が聖人になっただけで
フランス貴族出の海賊であるミッソンは
マタガスカル島にリバタリアという海賊の国を建国した
リバタリアは合議制であり人種、言語、民族によって差別されない
自由と平等が保証された理想郷だったという
この理想郷を守るためミッソンは海の守りを徹底させリバタリアの安全を図った
ある日、いつものようにミッソンが海賊稼業から帰ってくると
リバタリアの国民は全員虐殺、略奪されていた
ミッソンは海賊らしく海の守りには長けていたが陸は無防備だったために
マタガスカル島の現地住民に襲撃されたのだ
自ら作り上げた理想郷が消滅した事に失望したミッソンは
ヨーロッパへ帰る事にした
しかし帰る途中、運悪くハリケーンに遭遇し海の藻屑と化したという
勝手にやってきて住みついてるやつら何なのって話だからな
みなごろしにした当時の由長は英雄だろ。
誰でも平等に殺せます。
ユダヤ人抑圧政策を採っていたニコライ2世に
あるユダヤ人が自分達にも自由と平等をと直訴した。
皇帝は彼に哀しげに目をやり
「予は諸君を解放してやりたいが、
ロシア帝国の為を思うとそれはできない」と答えたらしい。
市民からは嫌われていた
ある日、これまたチャールズ2世の愛人(ということはライバル)の
ネル・グインと馬車で出かけたところ
豪華な馬車はルイーズに反感を持つ市民に取り囲まれて罵声を浴びせられ、
立ち往生した
その時、ネルは馬車の窓から顔を出し
「私だよ、プロテスタントの売笑婦ネルだよ」
市民は「ネルが一緒じゃしかたないや」
と馬車の包囲を解いた
「海を荒らすのはどういうつもりか」
と問うた
海賊はすこしも臆するところなく、
「陛下が全世界を荒らすのと同じです。
ただ、私は小さい船でするので盗賊とよばれ、
陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」
と答えたという
暗殺を恐れて毎晩寝所を変えていたという
ソヴィエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンは
暗殺を恐れて毎晩寝所を変えていたという
常陸の戦国大名佐竹義重は
暗殺を恐れて毎晩寝所を変えていたという
時代や土地が変わっても専制君主の考える事は同じか…
どれも基本的に残虐な人物だし当然といえば当然かな…
佐竹義重で思い出したので一つ話でも
ムハンマド・アリーはオスマン帝国から
ナポレオン率いるフランス軍が去った後のエジプトに太守として追認された
しかし在地土豪のマムルーク達は半独立的でアリーの統治基盤は脆弱であった
イギリス軍がエジプトに上陸してきた時、アリーはこれを打ち破ったものの
イギリス側に付いたマムルークも少なくなかった
ある日、アリーは宴と称して
400あまりの有力なマムルーク達をカイロ、シタデル城に招待した
しかしこれはアリーが仕掛けた罠であった
アリーは城に集まったマムルーク達を一網打尽、皆殺しにした
地方のマムルーク達も翌年息子に軍勢を率いさせ攻め滅ぼし一掃
アリーはエジプトにおける支配権を確立し
エジプトは近代化への道を歩むことになるのである
以上、シタデルの惨劇でした
南方三十三館仕置か…
つまり佐竹義重はスターリンやチャンドラグプタや
ムハンマドアリーに匹敵する人物と言う事だな!
…あれ?あんまり誉め言葉になってない…?
オランダのライデン市、1807年のとある平和な夕方、
ライン川に停泊中の火薬の樽70個を詰めた船が突然大爆発した。
付近の家々は倒壊し、何百人もの人が生きたまま、
あるいは死体となって埋まった。
中には子供たちのいた校舎も三つあった。
油や鯨油の倉庫が多数あったので、大火災も起こり、甚大な被害が出た。
当時イギリスはオランダと交戦中だったにもかかわらず、ロンドンからは
救援物資や多額の義捐金を積んだ船がいく隻となく到着した。
「ライデン」とは、受難・苦しみの意味だそうですが、この災難が起こるより
ずっと前からこの町の名はライデンと呼ばれていたそうです。
ムガル帝国はヒンドゥー教徒の多い地域でのイスラム王朝であったが
その初期は異教徒に寛容で諸イスラム王朝に共通していた
異教徒に課す税(ジズヤ)も設けなかった
ある日隣国ペルシャからイスラムの神学者がムガル帝国の皇帝に謁見する機会があった
その神学者は
「異教徒には『コーランか剣か』で対応するべきだ」
と皇帝に進言した
皇帝は何も答えず代わりに隣にいた大臣がこれに答えた
「我々(イスラム教徒)はこの地においては
料理に含まれる一つまみの塩ほどでしかないそのような方策は現実的ではない」
後年、ムガル帝国の第6代皇帝のアウラングゼーブは熱心なイスラム教徒であり
イスラム法にも基づく統治を行いジズヤも設けた
彼は外征を繰り返しムガル帝国の最盛期を築くが
それは諸民族、宗教との軋轢を生み帝国の基盤は大きく揺らいだ
彼の死後、帝国は急速に崩壊してしまった
果物売りの娘からツケで買っていた。
やがて学校を卒業し、ツケを未払いのまま軍人になった。
それから数々の武勲をあげ、将軍となり、第一統領となり、
いろいろあって最終的に皇帝になった。
そしてやがて、士官学校のあった町に行き、
いつぞやの果物売りの女を探し出し、ツケを払った。
利子として多額の金貨も一緒に。
それから、この町に来る度に自分が泊まる為に、と言って、
女の家も建て替えてあげた。
律儀なのかスケベなのかいろんな意味でいい話だと思う。
士官学校時代に小娘で皇帝になった時に再会って事は
どう考えても三十路過ぎてね?
その士官学校はブリエンヌにあると書いてあるので、実は士官学校ではなくて
陸軍幼年学校のことと思われ。すると卒業年から換算して再会までに20年くらい
経っていたと思う。てことは女は30代中ごろか後半くらいか?
再会時、女にはすでに子供もいたそうで、
ナポレオンがその子供の学費を出してやって
ナポレオンと同じ士官学校に行ったそうだ。
旦那の話はでてこなかったので未亡人だと推測。
疫病・不作・戦争で国内が荒れると
平民レベルは晩婚化が当たり前になるので
風潮的に中ごろ位では意外と気にならなかった可能性もある。
まあナポレオンが平民かは置いておいて。
皇帝になるまではそれどころじゃないくらい忙しかったんじゃないの?
皇帝になったあと返しに行ったからこそ、
果物売り女に最高の栄誉を与えられたんだし結果おーらいさ。
1790年代、フランス革命干渉戦争で、ライン川を挟んで睨みあう
フランス軍見張り兵とドイツ軍見張り兵。
見張りに退屈したフランス兵が「やーい、ばーかばーか」と叫ぶと
まじめなドイツ兵が「おーい、今何時か?」と聞かれたと勘違いして
「3時半だよ」と叫び返してあげた。
国民性というか、ちょっといい人の話。
1914年、第一次大戦の最初の年のクリスマスに
西部戦線のイープルでにらみ合っていた英独両軍の兵士が、クリスマス休戦で、
たばことかウイスキーとかソーセージとか交換したりして交流したそうな
残念ながら翌年以降はクリスマス休戦はなくなるが
まだ敵に対する敬意というものが残ってた時代だったんだな…
クリスマス 休戦 でぐぐったら、
いろいろ類似のエピソードがでてきて泣けた。
いい話なんだけど、せつない話だ。
取り締まってもききめがなかったので、趙匡胤は敢えて逆のことをした。
偽者の讖緯書を大量に書かせ、世の中にばらまかせたのである。
その結果、どれが「本物」か分からなくなり、世間が飽きて流行は収束した。
江戸時代後期、
四国の小藩で博打が流行しており、禁令も効果がなかった。
そこで藩の重臣がある法令を出した。
「今後、博打で負けた者は勝った者を訴えれば全額取り戻せることとする。」
こうして、藩内では博打は流行らなくなった。
道徳心自体を涵養したものでないという点を、
明治の法学者に批判されているお話ですが。
>>82
狙撃兵が真っ先に日常に戻り、
他の兵士も段々普段通りに撃ちはじめ、
というのが残念なことです。
「真のボヘミア王でないものが被れば一年以内に死が訪れる」
という言い伝えがあった
第二次大戦中、重要な工業地帯だったこの地域を統治していた
ラインハルト・ハイドリヒは
この言い伝えを迷信と侮りプラハ城に安置されていたこの王冠を被った
9ヶ月後彼はイギリスの支援を受けたチェコ人に暗殺された
ティムールの棺の裏にはこう記されていた
「私が墓から出た時、大きな災いが起こる」
20世紀、ソ連が調査の為にティムールの棺を開き遺体を外に出した
3日後、ドイツがソ連に侵攻を開始、甚大な被害を受ける事になる
災いを恐れたのかソ連はその後遺体を棺に戻し蓋を鉛で溶接、
以後ティムールの棺は開封されていない
李鴻章
「祖国の衣服を捨て西洋の衣服に身を纏うなど恥ずかしくないのか?」
森有礼
「400年前に辮髪で胡服を着た漢人がいたのか?」
李鴻章は慌てて話題を変えた
どう答えても政治的に見事にヤバ過ぎですな
「おまえが言うな」の代表例みたいな話だな
とある殺人犯の死刑囚がいた。
獄中で見事なまでに模範的な態度を見せたが
なぜか被害者の遺族への謝罪をしようとしない。
死刑執行が言いわたされた日。
彼は拘置所長に遺族への謝罪を切々と綴った手紙を手渡した。
所長達は驚くとともに「なぜ今まで一度も謝罪しなかったのか」と訊いた。
すると彼は言った。
「自分は心から悔い改めたつもりでしたが
どうしても生への未練がありました。
そんな自分が謝罪の手紙を出すと、
『もしかしたら遺族の人たちが
これで同情してくれて減刑に同意してくれるかもしれない』
と期待するかもしれませんでした。
それは真の悔い改めではありません。だから執行が決まった今日に
手紙をお渡しすることに決めたのです」と。
この死刑囚の名前も事件名も思い出せないんだけど
強烈に印象に残った。
からなんだけど
日本に開国を迫ったペリーは、日本に行く前に日本や日本人について調べました。
そしてこのような結論を出したそうです。
「日本人は自分たちの事を世界で一番優秀な民族だと思っているようだから、
その傲慢さをへし折るように交渉するのが効果的だろう」
日本世界一優れてると思ってたんだな・・・
なんか中国が上とか思ってそうだし
蘭学とかのほうが上とも思ってそうな気もするが・・・
イメージだけど、日本人は郷に入っては郷に従えの法則で、
場の空気を重視するからじゃないかな
外国に行った人は謙虚に学ぶけど、
日本に来た外国人には「礼儀作法を知らない奴」とか何とかに始まり
こっちの文化に合わせろっていう態度をとるかもしれない
アジア方面にいくと日本語で怒鳴り散らしてたりするけどね
アル・カーミルとフリードリヒ2世ね
フリードリヒ2世の墓が19世紀に調査されて
棺の中の彼はイスラム風の衣装を身にまとい、
シャツの袖にはアラビア語で
「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」
というカーミルに向けられたと思われる言葉が
刺繍されていたことが記録に残っている。
周辺に心を許せる人間がいなさそうだったフリードリヒ
かつて敵だった人間が一番心を理解し許せる相手だったとは皮肉だが
感動するエピソード
陸績が6歳の時、袁術の下へ行き、橘を出されたことがあったが、
彼は橘を三枚(枚は数え方)懐に入れておき、
辞去する際にこれを落してしまった。
袁術いわく
「陸君、客として来ていながら、橘を持って行くのかね。」
陸績は言った
「持ち帰って母に食べさせたかったのです。」
袁術はこれをおおいに奇とした。
後世、二十四孝の一つとされている。
彼のオラニエ公ナッサウの好敵手として有名なアンブロジオ・スピノラ
ジェノヴァに生まれた彼は傭兵隊長としてその半生をスペインに捧げた
が、当時宮廷を牛耳っていたオリバーレス公とは仲が悪く、
スペインの財政難も相まって戦費の支払いが滞り
スピノラ家は破産、彼は失意のうちに病死した
ユスティニアヌスの将軍ベリサリウスを彷彿とさせる人物である
アメリカのとある少年が仔犬にヴィクトリアと命名し、
我ながら良い名だと思った少年は、
ヴィクトリア女王に「陛下の御名をいただきました」と手紙を送った。
手紙を読んだ女王は少年の無邪気さを喜び、
米国大使を通じてこの少年の身元を照会し、
「私の名を使っていただき嬉しく思います、その後ワンちゃんはお元気ですか」
と返事を書いたとか。
男 私が「このブタ女」と言ったことが罪に問われているのでしょうか?
判事 そのとおりです。いかなる状況であれ、
公衆の面前で淑女を罵倒するような行為は許されません。
男 淑女にブタ女と言う事が悪い事だということはよく分かりました。
ところでブタに向かって淑女と罵倒することは罪になりますんで?
判事 それはジョークと言うものですな。
男 この淑女!