最初ドアをノックして「女王よ」と言ったがアルバート公は無視した。
そこでもう一度ノックして「あなたの妻です」と語りかけると
アルバート公はドアを開けて妻を中に入れた。
偉大な女王も家庭に入れば一妻になるという心温まるエピソード。
市民の憎悪はマリーアントワネットの寵愛を盾に
散々浪費してきたポリニャック伯爵夫人に集中していた。
王族はポリニャック伯爵家にスイスへの亡命を勧めたが、
肝心のポリニャック伯爵夫人は行かないと言い張った。
涙の洪水の中でアントワネットはポリニャック伯爵夫人にこう言った。
「私は恐ろしくてたまりません。どうか友情の為だと思って行って下さい。
私を敵視する人々の怒りから逃れるのは今しかありません」
更に
「私の気持ちから、そしてあなたへの友情故に、自分を犠牲にする事はしないで」
と言った時にルイ16世が現れたので、
アントワネットはルイにもポリニャック伯爵夫人の亡命の説得を頼んだ。
ようやくアントワネットの懇願を受け入れたポリニャック伯爵夫人。
真夜中、アントワネットは最後の挨拶を言伝た。
「愛する友よ、アデュー!この言葉を口にするのは恐ろしいけど、
言わねばなりません。馬の手配の為の命令を同封しておきます。
私に残っている最後の力であなたを抱きしめます」
ポリニャック伯爵一族はこうしてスイスに逃れ、
一方同じく市民の憎悪を集めていたアントワネットは
フランス国王の妻という誇りから亡命を良しとせずパリに留まる決意をする。
これが悲劇に繋がるのであるが、
亡命したポリニャック伯爵夫人とアントワネットは
その後も手紙をやり取りしてお互い慰めあったり、
率直な恐怖感を綴ったりして、
離れてしまっても友情は変わらなかったのであった。
1419年8月に帰国したときには珍しい動物を連れ帰ったという
彼が献上した動物の中には
ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどがあったが
特に永楽帝を喜ばせたのは首の長いキリンであり目を細めて喜んだとのこと
日本のキリンという名前もそのとき付けられたらしい
動物園の人気者は
昔も今も老いも若きも一緒だね、
というちょっといい話
その日、湖南省の僻地に駐屯していたある中隊にも敗戦の報せは届いた。
中隊は七人の中国人捕虜がおり、
時折腹立ち紛れに殴打されたりもしていたが、
長い間生活を共にする内に情が芽生えていたところであった。
つい三日前に近隣の村を焼き討ちしたばかりで、
まだ煙が見えていた時である。
敗戦と分かれば住民に何をされるかと思っていたが、
とりあえず捕虜を解放することになり、
告げられた捕虜たちは初めは呆然としていたが、
やがて歓喜の表情を浮かべ、その場を去っていった。
歩哨が村の焼け跡から何かを手にした元捕虜たちが走ってくるのを見つけた。
もしや、武器を手に報復に来たのか。
歩哨はそう思って震え上がったが、手にしていたのは酒と杯であった。
『戦争は終わった。どちらが勝ったにせよ、
互いに生きて家族のもとへ帰れるのだ。
めでたいことではないか。俺たちも、これから数百里を歩いて故郷へ帰る。
そちらも無事に帰れるよう、さあ、門出の乾杯と行こう。』
中隊に行き渡るには少ない酒であったが隊の全体に嗚咽の声が広がった。
気がつくと、すでに元捕虜たちの姿はなかったという。
中国はでかいが住民はそれに慣れてるんだなw
私が一番泣けたのがそこでした。
これから数百里を歩かないといけないのに
わざわざ酒を持って行くというのが。
アステュアゲス王の率いてきたメディア軍と戦闘した時のちょっといい話
アスティアゲスは精兵を戦陣の背後に配置し、
兵士たちに逃げたらこの者たちに斬られることを悟らせた
この強制的な措置の結果メディア軍の戦闘力が増し、
ペルシア軍は陣列を破られ次第に後退しはじめた
このとき、ペルシア兵の母や妻が彼らの前に走り出て、
戦闘に戻るよう嘆願を始めた
躊躇する男たちを前に、女たちは衣を掻きあげ恥部を見せ、
母や妻の胎内に逃げ隠れしようとでもいうのかと問うた
これにより兵たちは奮起して再度戦列に入り、
メディア軍を押し返したすえ見事撃破してアステュアゲスを捕らえた
量産型を有効に使うと時間が稼げるという歴史的教訓らしい、、、
カテリーナ・スフォルツァ
ジローラモが暗殺された際のエピソード(伝説?)は有名である。
カテリーナと子どもたちは城外で反乱側に捕えられた。
しかし、城の守備隊は降伏しなかった。
そこでカテリーナは反乱側には守備隊を説得してくると言って、
子どもたちを残し城に入っていった。
彼女が城に入ったまま出てこないので、反乱側は人質の子どもたちを殺すと脅した。
すると、カテリーナは城館の屋上に立ってスカートを捲り上げると
「子どもなどここからいくらでも出てくる」と叫んだのだった。
これには反乱側もあっけに取られた。
やがて援軍が到着し、反乱は鎮圧された
(ただし実際に城壁の上でスカートを捲り上げたかは疑問も残る。
城壁の上からでは反乱軍まで声が届くはずがなく、
また逆に弓矢で射られる可能性もあるためである)。
その逸話は多分12世紀イングランドの
ウィリアム・マーシャルの親父の逸話のパクリだと思う。
息子のウィリアムを人質に取られて「殺す」と脅された親父は
城壁の上から「子供など金槌と鉄床でいくらでも作れる」と叫んだ。
マーシャルは中世ヨーロッパの騎士の手本として
ヨーロッパ中に逸話が知られていたから、
イタリアでもこの話は知られてただろうと思う。
部下がゲリラを捕まえてきてナポレオンに引き渡す
見ればまだ少年だった
ナポレオンは優雅な態度で少年に語りかけた
「どうして反乱軍に加担したのかね?」
少年は返す
「お前は独裁者じゃないか、スペインはお前みたいな奴の物ではない」
こう侮辱したがナポレオンは冷静にもう一度語りかける
「お前を許して縄を解けばお前は私の部下になるかね?」
少年は返す
「いや、もう一度ゲリラとなり今度こそお前を殺してやる」
結局この少年は殺された
さすがは名将
何時いかなる時でも執るべき最善の行動がわかっている
部下の兵隊たちと一緒に列車に乗っていた時の事
ある車内はリー将軍も含めて将兵たちで満席であったが、
そこに一人のヨタヨタした歩きの老婦人が入ってきた。
老婦人は足腰が悪いのかそれとも具合が悪いのか
座る席を探していたようだったが兵隊たちは知らぬ素振りをしていた。
そこでリー将軍が老婦人に声をかけて
席を譲り自らはピシッとした姿勢で廊下に立つと、
上官を立たせてはまずい と全ての将兵が声をかけた。
するとリー将軍は
「このようなか弱いご婦人が座れなかったのに
私の様な若くて元気な男が座る席などありはしないよ」
と答えたので将兵たちは自らの振る舞いを恥じたという。
(昭和2年発行の雑誌KING より)
出典がw
結局大した事はできずクリミア戦争にも負けた。
墓碑銘に良き意思を持ちながら
何も成せなかった人物と刻むよう言い残して死去した。
楚の共王も父の残した覇権を維持するため色々四苦八苦したが
結局晋に敗れて楚の国威は失墜した。
自分の諡号を最悪の霊か厲にしろと言い残して死去した。
不正がばれそうになって苦悩の末自殺しかけた時に、
「今回だけは許そう」と直々に語りかけて救ってやった、との逸話がある。
ロシア人って事故に遭遇すると
大量のアドレナリンでも出るんですかねww
>後先考えず海に飛び込んじゃったりと
ピョートル大帝の欧州遊覧の随行員。
大帝から飛び降りろ!って命じられたら、
ハイ!って飛び降りることができるような国民だしねえ。
ピョートルさん自分だけじゃなく
人にも実践させてたんですねww
遼の太祖のところに、
猛火油という新兵器が献上されたことがあった。
水をかけるとますます燃え上がるというので、太祖は大喜び。
早速幽州に侵攻しようとしたが、賢妻で知られ
自らも軍を率いた皇后から
「油を試すために人の国に攻め入るのですか」
と言われ、取りやめたという。
原理はギリシャ火と同じだったのでしょうか。
俺が知ってる話と大分違いますね。
猛火油と三万の兵で
一気に幽州を滅ぼそうとした太祖に皇后は傍らの樹を指差し
「あの樹が皮を剥かれたら枯れてしまうのと同様に、
幽州も三千の精鋭で打撃を与えるだけで充分です。
三万の兵や、猛火油などと言う武器を使う必要性はありません。」
との旨を進言して太祖を感服させた。
太祖が崩じた時皇后も殉死すると言い張ったが、
百官から説得され仕方なく自分の手を切って陪葬したそうだ。
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、
御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、
立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」
俺はクリスチャンだから、この話はいつも身につまされるなあ。
自分は女を嬉々として殺そうとした男の一人そのものだもん。
民衆に男しかいなかったとは書いてないのに何故そう思った?
俺は他の男と違って自分を客観視できるとでも言いたいのだろ
そんなに俺、変なこと言った?
この話自体が、かなり普遍性のある話だと思うけど。
(お陰で日本の仏教は堕落を免れたという善い一面もある)が、
耶蘇を相手に異種格闘技戦をしたこともあった。
イエスの説く説教は、強く華やかで魅力的であるが、
そのラフな言い回しからは多くの矛盾点が生じ、
古来、神学者たちは、そこに一貫した整合性を組み立てるのに苦労した。
それに比べて決して派手ではないが、緻密で重厚な釈尊の理説には、
イエスの教えを言い負かすのに充分な理論性が備わっていた。
1603年、筑前博多の妙奥寺で行われた論争は、
こうした仏説の精緻な面が勝利のポイントとなった。
藩主黒田長政は、妙奥寺の落慶法要を兼ねて、
それまで強勢を誇っていたキリシタンに打撃を与えるため、
学僧として名高い唯心院日忠を京都から招き、
キリシタン批判の説法を講じさせた。
この地のパードレ(伴天連宣教師)とイルマン(仏僧出身の伝道師)たちは、
日忠に宗論を挑んだ。
日忠は、仏教にもとづく縁起や空といった
キリスト教では解き明かされることのない仏教哲学を展開して圧倒、
それに対して、パードレ側は来世のことを議論対象の中心にすえ、
優位に導こうとしたようである。
最終的に、問答は日忠の勝利とされ、
その報を聞いた黒田長政は大いに喜んだという
(長政の父如水はキリシタンである)
ウッパラヴァンナー(青蓮華)と呼ばれた女がいた。
その名の通り大変な美貌の持ち主だったが、
実の母と同じ男を夫とした苦しみから出家をし、仏陀の弟子となった。
間もなく開悟(悟りを開く)し阿羅漢(覚者)となり、神通力を得た。
後にひとりで森に暮らしていたある日、
彼女に恋慕していた従兄のアーナンダー(仏弟子の阿難とは別人)が、
彼女の留守中に忍び込み、帰ってきたところを凌辱された。
彼はそのすぐ後に表へ逃げ出したが大地が裂け阿鼻地獄に堕したという。
彼女は皆にその一部始終を話した。
「いくら悟っても快楽がないはずがないと」
などと言った僧もいた。
しかし、仏陀は
「蓮の上の滴のように、どんな欲望も悟った心には留まらない」
と語って、ウッパラヴァンナーに何の罪もないことを説いた。
そして同じことがおこらぬようにと、町の中に尼僧が住む場所を造った。
ウッパラヴァンナーは尼僧の中の手本・目標とも言われ、
尼僧の中で「神通第一」と呼ばれるようにまでなった。
蓮華色比丘尼(比丘尼=尼僧)とも呼ばれる。
オーストリアのある収容所に向かう囚人のグループがあった
更生の見込みがない囚人を死ぬまで隔離する
奴隷労働で有名なマウトハウゼン強制収容所、
彼らはその外部収容所である
エーベンゼー強制収容所へ向かい行進を続けていた
エーベンゼーの所長アントン・ガンツの暴虐ぶりは
囚人はもとよりSS内部でも評判になるほどであり
それが発揮されることを期待してのものであった
その頃、ガンツは証拠となる文章を焼く傍ら
戦後の裁判で証言をしそうなものたちを片っ端から突貫作業で殺していた
さてこのご一行、最初はトラックで出かけたのだが途中で故障してしまい
歩いて収容所に向かうことになったため、大幅に工程が遅れることになった。
そして終に収容所に辿り着いたのだが、彼らが収容所に向かい入れられたのは
なんとも不思議な理由によるものとなった。
既に収容所は解放者と囚人のグループによって占拠されており
収容所の職員達は連合軍を恐れて周辺に逃げ出してしまっていた
外では彼らの安全を確保できないと判断した赤十字の社員は
生きては出られない収容所に、「安全」のため彼らを隔離したのだった
いい話ではなかったので
違うところに書くべきだった気がする
禅宗の印可証明(悟りを得た証明書)も得ている新潟県の良寛さんは
子供と遊ぶのが大好きだった。
日も暮れやすい秋の頃、良寛さんは、例のごとく子供達とかくれんぼうをしていた。
良寛さんは、刈り入れが終わって高く積まれた藁ぐまの中に隠れていた。
やがて日は傾き、夕暮れになり、子供達は、良寛さんに何も言わずに
一人残して帰ってしまった。
翌朝早く、近隣の農夫が、藁を抜こうとそこへ行った。
すると、奥から音を立てないようにしながら静かに良寛さんが出てきた。
驚いた農夫は、
「おや、良寛さま」
と叫んだ。すると良寛さん、
「これ、黙っておくれ、子供に見つかるではないか」
と小さな声でたしなめたという。
15世紀イタリアの五大国が1454年に結んだ和平協定。
イタリアの諸都市国家間の戦争に終止符を打った。
この和平協定によってイタリアは、
諸都市国家間の戦乱の時代に終わりを告げ、
その後40年間に及ぶ「イタリアの平和」をもたらすことになった。
またルネサンス(盛期ルネサンス)も最盛期を迎えることになる。
小国分立が固定化したんでは?ともおもわなくもない
エリザベス・ジャクソンは
夫の死後女手ひとつで育ててきた三人の息子が戦いに参加し、
13歳の末子アンドリューを除いて二人を失った。
彼女はこの悲しみに耐え、自ら進んで遠くチャールストンに赴いた。
そこで病気のアメリカ人捕虜が看護を求めていることを聞いたからである。
彼女は献身的に尽くしたが、遂に自分自身が発疹チフスに罹ってしまった。
残された最後の時間の苦しい息の下で、
彼女は間もなく孤児になる我が子アンドリューに次の遺言を書き送った。
「二度とあなたに会えないでしょうから、
これまで私が言いきかせたことを忘れず、心に銘じてください。
…友達を持たねばいけないと言いましたね。
…義務を忘れたり親切な行為に報いないのは犯罪です。
…何かする時にはいつも丁寧に
…けれども常に男らしさを失わないように
…他人の感情を決して傷つけぬよう…」
ここにいまわの際に母が子に寄せた切々たる深い愛情が滲み出ている。
このアンドリューがのちにアメリカ民主主義に大きな足跡を残した
第7代大統領ジャクソンである。
どんな困難にも打ち勝つ強い意志力も驚くべき知識を持った高僧であった。
しかしその彼も、タクラマカン砂漠を越えた時の恐ろしさを、
その旅行記『大唐西域記』に次のように記している。
「砂漠に入ると、砂が風に流されて足跡を消してしまい、方向が判らなくなる。
そういう時に、歌や泣き声が聞こえてくる。
そしている場所が判らずに行方不明になってしまうことがある。
これは砂漠の悪魔や亡霊の仕業であろう」
六百年ほど後、同じ砂漠を通ったマルコ・ポーロも、
その旅行記『東方見聞録』に次のように記している。
「この砂漠を横断している時、無数の亡霊が話しかけてきたり、名前を読んだりする。
旅人がこれに惑わされるとあらぬ方向に誘い込まれ、命を落としてしまう」
二人の記録が偶然にも似ているのがおもしろい。
極限状態でそういう現象が起きるのか
生き残りがそうなったのを伝え、
それが現地で言い伝えられるようになったのか
川を渡るという象徴的な出来事に加え
所謂臨死体験って川の水のおと見たいのが聞こえるんだ
俺死にかけて気絶したことあるが、
周りの音が「さらさら」と小川みたいな音に聞こえる
脳がパニックになった状況だとそうなるんでしょう
これを「川の途中でひきかえした」と解釈するのはありうる
アメリカの人間は口々に卑怯な奇襲攻撃だと日本を責めた。
そんな中ひとりの日本人が立ち上がって発言した。
「奇襲を受けたから負けたでは軍人は務まらない。
いつ攻撃を受けてもいいように備えるのが軍人である」
アメリカ人を含めた出席者全員から拍手が沸き上がったそうである。
せめてアメリカ人が言うならともかく何で日本人が……
宣戦布告なんて行なわれてませんよ?
少なくとも私がリアルタイムで知ってる範囲内では
宣戦布告など行なわれたことは無い
戦後は宣戦布告の法的効力自体が否定されている。
それに湾岸戦争もイラク戦争も
事前に条件と条件を拒否した場合に攻撃することを通告しているだろ。
安禄山は私の腹の中には赤心(忠誠心)が入っていますと答えた
赤心って日本書紀とかにも出るけど元は中国語なんだね
今は「赤」は色名よりも丸裸の意味合いが強い
魏志-董昭伝(魏書 程郭董劉?劉伝第十四)が古例として上がっているね。
他にも董二袁劉伝第六の袁術伝なんかにも出てきている。
訓じて「きよきこころ」。逆に黒心が「きたなきこころ」。
『日本書紀』は編纂に当たって、
蜀志を除く『三国志』を本文に影響させていますね。
『隋書』も参照しているものの、
『隋書』にある例の「日出ずる国」云々は外交上の失敗なので
『日本書紀』には記していない。
失敗を対等外交の偉業扱いするのは後代のこと。
当時は失敗事例と考えられて
後世には偉業と思われるようになったということは
その間に何か大きな価値観の変化があったのだろうか
管見の限りでは、頼山陽が『日本楽府』で讃えたのが早いでしょう。
双方天子と署名したが、中国の皇帝は相次いで滅び、
日本のみ長く続いて尊いとしている。
聖徳太子の伝記では、大正以降に出て来るようになる様ですね。
日本が中国ほか他国に対して対等以上である
(と堂々と主張するのが正義)という意識がきっかけ。
あくまで一例ですが、
山陽存命中には『宇内混同秘策』というものも出ています。
しかし、今のネット上にもいますが、
称号が皇帝だから尊いだの、長く続いているから尊いだのと
いうのもよく分かりません。
現代では世襲君主であれば対等ですし、
その歴史が長かろうが短かろうが関係ありません。
彼らが批判している中国や韓国と同じ価値観・同じ土俵で争っている。
銭鏐(852~932)は、盗賊から身を起こし呉越国の初代君主となった男。
領内に消費税を導入したことでも知られるが、領民に恨まれたかと思いきや、
当時の民はこぞって王を褒め称え、現在も銭王として祀られるなど人気が高い。
集めた税は灌漑や洪水対策など公共事業に使って民生を向上させ、
今日に至る杭州の繁栄の基礎を築いたと言われる。
五胡十六国より五代十国の方がだいぶマシな感じ。
中国に入って政権立てた北方種族が、
鮮卑拓跋部の頃とくらべて突厥沙陀部族の民度が上がったんだろうね
たいがいにしろと言いたくなる名君だったな。
粗末な服を着て、外国の使節が高価な贈り物をするとそれを池に投げ込むという
ストイックなのにも程がある・・・
徳川家康みたいだな
家康も贅沢が大嫌いで贅沢な贈り物を渡されると
激怒してその場で叩き壊したらしい
農作業中の農民が刈りを邪魔した。
荘宗は怒ってその農民を殺そうとした。
1人の佞臣が御前に出て
「お待ちください。この男はなぜ自分が罪になるかを知りませんので
私が言い聞かせます」
荘宗
「よかろう」
佞臣
「第1に、お前は陛下の刈りを邪魔した。
第2に、お前は陛下が刈りを好まれるのを知らなかった。
第3に、お前は陛下が刈りをする場所に農地を作り作物を育てていて
陛下が刈りを出来ないようにしていた。
これらは万死に値する」
荘宗は苦笑いして農民を殺すのをやめた。
徳川慶喜は明治になってから借りしてて畑に入り込んで農民に叱られたら
金出したらいいだろと金だしたとかやってたな。
そこら一体の農作物を買い占める金だったっけ
俺もそう思う。佞臣伝とかに載ってる話かな。
でも、明らかにこの臣下は帝に諂うふりして、
農民の命を救おうとしてないか?
日本霊異記に、
聖武天皇が狩りで仕留めかけた鹿が民家に逃げ込んで取り逃がし、
怒った帝が農民一家を処刑しようとした、って話があったと記憶してる。
なんだかんだで一家は助かったと覚えてるが、イメージしてた、
内省的で真面目で繊細との聖武天皇とは懸け離れた話だった。
逃げ込んだせいで取り逃がしたのではなく、
鹿が逃げ込んだ先の家で、
狩りで追っていた鹿だと知らずに殺して食べてしまい、
一家が拘禁されたという話です。
処刑の予定は書かれておりません。
皇子(後に夭折、女帝即位と天武系断絶となる)誕生に伴う恩赦で
釈放されました。
フィリッポス2世が、城市を陥落せしめた時のこと。
住民が奴隷に売られそうになる中、一人の男が口を開いた。
「お待ち下さい。私の家は先王の時代より王家との縁が御座います。」
しかし、フィリッポスは思い出せなかった。
「すまぬが、どういう縁であったか申してくれぬかの。」
「しからば、もそっとお傍まで寄らせて頂きとう御座います。」
フィリッポスが許すと、男は耳元で囁いた。
「陛下、お召し物が……」
衣装のずれを指摘されたフィリッポスは、莞爾として言った。
「おお、この者は余の縁者に相違ないわ。解き放って遣わせ。」
美談がちょくちょくあるけど、西洋にもこういう例ってあるんだろうか?
玉座を譲り合う話はこれと唐の玄宗皇帝登位時くらいしか知らないが?
3年も譲り合ってしまいには自殺してしまうという
王の座を弟の知古に譲って日本に渡った。
まあこれは、「家出した妻を追っかけるんで、そんじゃ。」
という経緯だけど。
仏法を修めて後漢時代の中国にやって来て、
経典翻訳の大家になったという話もある。
この種の話は儒教の影響とも言い切れないのだろうかどうだろうか。
ベトナム皇帝は早くに譲位して上皇になるのが通例だった。
上皇はもっぱら事大して外交を担当し、内政にはタッチしない。
現役皇帝は上皇を風除けに、
中国の政治的文化的圧力から独立して国内を運営した