そこで国境線が確定>共和制末期~帝政初期
それ以後はその国境線をいかに効率よく守るかに力点が置かれて
領土拡張ももっぱら安全保障のためのみに小規模におこなわれるようになったとさ。
第一次軍事革命(古代~1400)
馬、弓
第二次軍事革命(1400~1850)
銃、羅針盤
第三次軍事革命(1850~ )
蒸気機関、電信
第一次軍事革命(古代~1400)
馬(鞍と鐙)、合成板弓、弩
第二次軍事革命(1400~1850)
銃、羅針盤、竜骨外洋船
↑↑↑↑↑
ここまでが中国リード
第三次軍事革命(1850~ )
蒸気機関、電信
ツボは押さえてるけど。
当時は中国のほうが兵器が発展していたとか
そうまでして攻め込む必要が無かったから
だいたい貿易相手ではなかったか?
ローマにとって中国は遠いだろ。
逆に言えばどうしてモンゴル帝国はビザンツ帝国へ侵略しなかったのかと聞きたい。
まぁ戦ったことはあるらしいが。
その前にオゴディがおっ死んだからじゃね?
ローマ人が中央アジアのステップ地帯を占領して行ったって意味無いだろ。
東方遠征ならアレキサンダーの様に
イラン→インド→東南アジア→中国のルートになると思うが
イランで思いっきり、けつまづいてんじゃん。
イラン辺りで何回も負けて、皇帝が捕虜になってんじゃん。
つまり最強ではなかったということで。
ローマが戦争するときは、なにかに対する報復とかの大義名分があるときだけ
民主政治って感じでかっこいい。
イスラム帝国もインドとヨーロッパと中国を完全征服できず
その情報だけだと
両方退けたいんインドがかなり強敵だなw
実際は違うが
それがすぎると民によって解任される
しかも彼らは解任を当然と考えていてなんとももおっていない
我らと違うびっくり」とか中国側が描いてたような
これたぶん共和制時代のローマだから
その時点で両者は存在知ってそう
紀元前2世紀の頃すでに
ギリシャ人はセリカ国(漢)の存在を知っていて文献にも出てくる。
セラ・メトロポリス=長安
シナイ・メトロポリス=洛陽
ギリシャ人がセリカ国の首都をそう呼びローマ人も同じくそう呼んだ。
中国人の事はセレネ人と呼んでいた(ヘレネ人だったかも?)
中国は春秋~漢帝国までは魅力的だったがその後はずっと停滞
燕、趙、秦の三国のみで、北方騎馬民族らを防いでいた事は、驚くべき事ですな。
ローマはあくまでイタリア半島のローマ市民権保持者の財産と命を保障するために
敵を次々と囲い込んでいったら
いつのまにか地中海を内海化するほどになっていただけで、
モンゴル人やアレキサンダーのように征服欲に駆り立てられていたわけではない。
ローマは領土拡大に熱心だったわけじゃなさそうだな。
同盟国にすれば事足りる場合はそうしてたし。
利害対立した勢力を征服したり、
安全保障の関係で属州にしたりして、
成り行きで版図を築いたってかんじ。
モンゴル軍みたいに機動力ないとつらいだろう
当時としては傑出したニ大国だけど
アメリカ・ソビエトみたく地球の裏側まで兵を送り込む技術も国力も必要性もない。
そもそも同時代に(その時代の他国に比べて)でかい国が二つあったからって
即対立って図式しか思い浮かばないのはどうかと思う。
その先は遊牧勢力が健在だったという。
ローマ帝国が中央アジアのステップ地帯領土にして何か良いことあるかっての。
日本だって平安初期には青森辺りまで支配を広げたわけだが、
北海道はその後もずっと民間の入植程度で中央政権は手を出してない。
あまりに遠すぎるので攻めようなんて思いもしなかった。
中継貿易でイランとかの商人から漢の話は聞いていたが
漢(セリカ国)と秦(シエナ国もしくはシーナ国)が同時に存在したとか
変な形で伝わっている。
ローマ人は基本的にローマとその周辺にしか興味が無い。漢も同じ。
漢の文献だと
ローマの王は臨時で選ばれて(選挙の事)任期が過ぎたら別の王に交代し
これを恨むことは無いと書かれていて大分理解はしている。
フェルガナ盆地からローマ兵が迷って漢にやってきた逸話も有るし
来るだけなら不可能じゃない。
でも攻めてくる理由が無いのが最大の難点。
でもローマ、中国並の軍事大国だから相手にはしたくない。
>>114
ササン朝ペルシアやそれより前のパルティアは
中央集権国家でちょうど外交の相手としてはよかったんだよな。
本気になれば、それらを滅ぼして中央アジアまで進出できたかもしれないが、
そうしたところで当時のローマには何のメリットもない。
東方遠征をしたトラヤヌスも首都攻略後さっさと引き上げた。
それをいさめようとした側近に、
「余はアレクサンダーの轍はふまない」と言ったらしいし。
ifで勝手に妄想して見る。
もしローマ帝国がアレクサンダーの帝国の版図をほぼそのまま受け継ぎ、
(ペルシア方面)パルティア族に反乱を起こさせなかっとしたら。
(欲を言えば彼らも兵力として取り込む。)
ローマ帝国最盛期、トラヤヌス帝の治世、中国は後漢の100年前後、と設定してみると、
まずローマの東方征服の邪魔になるのはクシャーナ朝。
ただし、これをもし隷属させて(実際には超難攻になるだろうが)、
支配地域を自由に出来ればチベット~蜀地方ルートは無理としても、
フェルガナ/大宛のあたりからタリム盆地を通じ、
シルクロードを沿って諸都市(クチャ、トゥルファン、ゼンゼン)を攻め落とし、
涼州になだれ込むルートとか、
東南アジア方面から蜀地方、江南地方に攻め込むとか・・・・
地方貴族の一斉蜂起で補給絶たれて撤退しただけじゃん。
アレクサンドロスは逐一反乱制圧して支配した。
結局ローマはペルシャに勝てなかった。アレクは勝ったけど。
あれだけの領土を有してもう限界だったってわけだよ。
・パルティアが適度に強かったため
・パルティア制覇に軍を投入しすぎると、北(ゲルマン)の防衛が手薄になるため
中央アジアの砂漠や荒野、チベット山脈、モンゴル高原に黄土高原
こんな地域を面で支配しても全く利益は出ない上、大軍の移動は非常に困難。
せいぜいシルクロードの都市を押さえるぐらい
だから唯一可能なのは南回りのペルシャ~セイロン~ベンガルルート。
但しこちらもビルマやタイ北部の山脈を陸路で抜けるのは難しい
船腹があればインドまで押さえてインドシナを恭順だけさせて、
沿岸の港だけ拠点化するのがベターかも
ローマ帝国のあの版図が当時通信、補給の限界点だった。
メソポタミア以東を一時的に占領しても、補給が続かない。
パルティアン・ショットにより、戦闘に勝っても戦争は終わらない。
パルティアの侵略ですらこのような理由でできなかったのに、
それより数倍以上離れた中国なんて言わずもがな。