話したくなったw
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逆に天皇も大坂城に移して籠城するかいずれにせよ家康が「これはまずいな」と感じるような土俵で戦わないといけない
秀吉の小姓時代から福島正則や加藤清正から嫌われてたからな。
人望がなかったらあんなに味方は集まらないと思うんだけど
秀吉が死んだ途端に家康が勝手に養女を次々と大名の正室にねじこみ
諸大名たちの義父となり大名から人質を取っては主従関係を結び
露骨な天下取りに動き出したことについては上杉景勝も怒っていたわけだし
西軍は豊臣秀頼を天下人にする太閤の遺命が主だったとおもう
東軍は徳川家康の天下にするためについていった大名が多かったが
西軍は石田三成の天下にするためについていったわけではない
それじゃあ加藤清正が三成の立場だったら西軍を集めることが出来たかな?
上杉景勝は三成を天下人にするために西軍についたのか?
意味不明
家康は本来秀吉と同格で250万石、しかも五大老の筆頭で前田利家とツートップ。五大老と言っても家康と利家、ジュニアの秀忠と利長が秀頼の補佐役として指名されており、 景勝と輝元は外部顧問みたいなもの。秀家に至っては見倣いだから権限なし。
それに東軍諸将はみんながみんな家康を天下人にするために働いたわけでもないぞ。家康を秀頼の守役と思っていたから傘下に着いたもの、
景勝討伐のために駆り出されて成り行きで東軍に付いて行ったもの、
家康と三成では勝負にならないから保身で東軍に参加したものもいる。
>>7はいったい何の小説を参考にしてるのかと。
家康VS三成という小説を参考にしているのはお前だろう。
西軍の総大将は毛利であって石田三成ではない。
じゃあ輝の人望が問題なんですけど
お家存続、発展を考えた場合どっちに付くほうが有利かという打算が根源にある。
戦国大名にとっては普通のこと。
それを第一に考えなかった三成はやっぱり変態。
自分の業病でヤケになった大谷の自爆は、家臣達にとっちゃとんだ迷惑でしかない。
指揮してない
三成を天下人にするために上杉と毛利の大老2人が名前貸すかよw
西軍が勝ったら三成が征夷大将軍で天下を指揮し
上杉と毛利は三成の下につくつもりだったのか?
そんなわけはないw
豊臣秀頼公御自らご大坂城より出陣有って、元帥総大将として陣頭指揮にあたっていれば、、、
東軍の大多数は豊臣恩顧の大名、侍たちですから、徳川といえども(名目上ではあるが)主君に弓引く逆臣の汚名は免れなかっただろうし、付き従った武将、軍団は徳川の指揮下から離脱、豊臣方に付いて徳川方が瓦解することは容易いかと。
因みに、徳川の本隊三万(秀忠公が率いる)は真田氏の上田城攻めをした事が仇となり、戦法戦術に長けた真田氏に翻弄される形で信州に張り付けられていて、関ヶ原の合戦の時点では未だに信州、それからしばらくして大遅参(後の祭(戦さ)り)
大谷とか、あと誰?
関ヶ原限定だと大きい所は
宇喜多石田小西大谷くらい?
>>19
とても三成が家康に勝ってたような気にはなれない
仮に裏切りがなくてもね
西軍は関ケ原で決戦せず、主力部隊を大阪城に集結させて、持久戦に持ち込めばよかったのではないか?
そうすれば、豊臣秀頼を擁して、毛利・宇喜多などの重臣が居並ぶ西軍が政治的に有利になっていき、徳川方についた大名を切り崩せたのではないか?
今の東京ほどには発達してないだろ
それだと国力の点で大いに差が出るし結局東軍が勝ってよかったんだよ
でも関西在住としては
西軍が勝ち政治の中心が関西となる歴史も見たかった。
少なくとも西軍の負けはなかっただろうけどな
そもそも家康がそんなところにつっかかっていかないから戦にならない
よって、東軍の負けもない。家康を倒すには...ということだったら
やはり秀吉が存命中で元気なうちだな
小田原征伐後がベスト...適当な罪をでっち上げて袋叩き
実際秀吉の死から関ヶ原にかけての家康の謀略とかって凄いよ
太刀打ち出きるものがいない
>秀頼を西軍の総大将に担ぎ上げる事に成功してれば
>少なくとも西軍の負けはなかっただろうけどな関ケ原に秀頼が担ぎ出されていれば
家康はこれ幸いと11歳の秀頼を戦犯として処刑するだけだよもともと家康は本多や井伊などの徳川の譜代家臣に関ケ原の戦功を立てさせるつもりで
外様の力はそこまで宛てにしてなかったし
秀吉恩顧の清正や正則もこの時点では家康の臣下となり姻戚関係を結んだ後であり
多少本気モードがなくなったところで西軍に寝返ることはあり得ない
もともと西軍の毛利が大坂城を占拠し秀頼を擁した状態で東軍大名たちは戦っており
秀頼が西軍の人質にされたり殺されても本望(むしろそれを奨励)という立場だった
関ケ原に担がれなかったことで
その後も家康は少しだけ秀頼に気を使わないといけなくなったが
関ケ原に担ぎ出されていればそこで豊臣宗家滅亡
家康は笑いが止まらなかっただろう
あのー...秀頼が西軍の総大将として立っても戦になる前提で語ってるけど
家康が秀頼を攻める大義名分が何処にあるの?
自分から謀叛人に成り下がるって?
三成や輝元みたいな「君側の奸」を討つんじゃなくて御本尊ですよ?
逆臣上杉を討伐するって言って大阪を出たのを忘れてないかな...
さすがに関ヶ原まで辿り着く前に殺されるわ
関ケ原の最中に大坂城から秀頼を連れ出して西軍に担がれた場合の話だろ
9歳の秀頼に政治能力はなく秀頼が総大将となって
自ら陣中に繰り出し西軍を指揮するという前提は無理というかそもそも秀頼が成人していれば関ケ原は起こらない
家康が上杉攻めに入る直前であろうが、西上する途中であろうが、西軍と対峙した
家康が率いるのは上杉討伐のために集められた軍で、率いる武将も豊臣の家臣
だから秀頼を攻める大義名分もないし、攻めたいなら徳川だけでどうぞ...ってことになるの
家康ってそこまで馬鹿なの?
家康は上杉征討軍を使って関が原で全く別の大名を攻めているので
この時点で秀頼関係ないw
しかも関ケ原の恩賞として主君豊臣秀頼の領地を削って5分の1以下にし
徳川の領地にする傍若無人ぶりw
関ヶ原の戦いというか慶長五年の時点で家康相手に勝てる要素など全くないわ。
前田利家存命中
秀吉が死んだ直後から家康は諸大名に養女を送り込んで私婚し
次の天下人であると公言しはじめた
利家はこれ咎めて一発触発になってるよね家康はこの時点ですでに前田、上杉、毛利に勝つ自信があり
主張を一歩も曲げず不満があるなら戦だという態度を貫いた
それはまずいとおもった利家が「家康は好きなだけ
諸大名と私婚していい」と定め鞘をおさめた
利家は秀吉の死から一年もたたないうちに死に
前田利長は生母まつを人質に出して家康に臣下の誓いをした利家が生きている頃でも関ケ原が少し早くなっただけだよ
秀吉が存命中に無理してでも家康を倒さねばならなかったんだよね
利家と家康の間で戦になったら利家につく...
って公言してたとかいう蒲生が生きてた場合の利家対家康には興味がある
会津に移転させられたんだねしかし逆方向には徳川に近い伊達もいるし上杉一人ではどうにもならんよな
豊臣系の武将を会津に込めるとしてもその重責を担える大物は皆無なわけで
下手すりゃ清正や正則みたいに家康の味方になってしまうし
なんで家康は秀頼を連れて会津征伐へ出陣しなかったんだろうなw
三国志だと魏の実権を握った司馬昭は重臣の諸葛誕が地方で反乱が起こすと
皇帝と皇太后を連れて出陣して鎮圧した
家康の天下取りのための上杉征討だからだろ
家康が上杉に対して徳川への臣従と人質を命じたのに対して
上杉が断ったことが上杉征討の発端だから
秀頼を擁することで上杉が秀頼に臣従し豊臣に人質を出しても
家康の希望とは全然違うことになる
後の12000を大津城に向かわせ、大津城の15000を関ヶ原に投入していたら十分勝負になった。
大坂城を攻撃するようになるまで十四年も必要とするほど直接戦闘に踏み切れなかった。
なお秀頼自身が出なくても毛利本隊か最低でも秀包くらいが関ヶ原に出てくれば、
吉川の日和見や小早川の西軍攻撃は阻止できた可能性はある。
東軍が秀頼を奪い返すという名目でますます西軍に突進し
関ケ原後は豊臣の領地を削って徳川に付け替えるだけだよ西軍が攻撃をやめないならば秀頼を殺すと言えば
家康は勿論「どーぞ、どーぞ」だろ
家康が処刑しなくても西軍が殺してくれれば御の字
豊臣恩顧大名は余計に西軍憎しで奮闘してくれるし大坂城にいた毛利が秀頼を連れ去ることも人質にすることもできたのに
家康はそれでいいから西軍を討ったわけだし
だから田辺城に人数割きすぎ。
幽斎はろくな兵をつれてないから多くても5000でいい。残りの10000を大津城に差し向け立花宗成・小早川秀包・毛利元康の3人だけでも関ヶ原に投入してたら、毛利と島津がまともに動いてた。
ほとんどは西軍に寝返った方が早いと思う、という見方もある。
秀頼関係なく戦うなら、家康の圧倒的優位は動かないだろうけど。
毛利や上杉主導で秀頼を補佐していくという構想は東軍大名たちになかったと思うよ
自分たちは家康の下で働きたい
秀頼を取り返せばそれが実現するのだから当然家康に忠誠を尽くす大名たちだって自分や家族や家臣たちの生活のほうが大事だからね
お家が滅んでもいいから秀頼に忠誠尽くすなんてまずないから
西軍に取り込まれてしまうケースが多かった。本心では東軍に着きたかったというケースが多く、そのため、東軍への内通、戦闘に参加せず傍観、土壇場での寝返りを生ずることになった。
島津は率いている人数が少ないので東軍の仲間に入れてもらえなかった。
家康に同行した福島、浅野、池田あたりは、家康が反秀頼なら家康に敵対して戦うだろうよ。 大坂の陣が近いころですら秀頼のために尽くしてるんだし。
そもそも家康は武将連中を秀頼への忠誠の名目で引き連れている。
東西の戦力がほぼ互角で秀頼まで擁したとなれば福島たちが寝返ることで西軍有利になるんだし。 秀頼の出陣を一番恐れていたのが家康なんだよ。
小山から引き返したあと一ヶ月も江戸で諸大名の引き留め工作に終始したんだから。
反秀頼ではなく「秀頼を取り返す」 関ケ原の前、上杉景勝の家老・直江兼続が家康にたたきつけた
直江状に見られるように
家康が秀頼をコケにして天下を自分の思うようにしている様子はあったんだよ
それでも福島、浅野、池田は家康に従った
福島や池田は関ヶ原の前から家康の娘婿だった
関ケ原の後、家康が秀頼の所領を奪って徳川に付け替えるのを見て
福島、浅野、池田はなぜ一切文句を言わなかったんだ?
家康から領地を加増されて大喜びで家康の征夷大将軍就任に臣従の誓いをしたんだ?
大阪の役の頃ではすでに遅い
取り返す、といっても秀頼が敵の大将として担がれて福島らに「家康を討て」とくればそうもいかんよ。あなたがいうように簡単に行くなら家康だってじっくり構える必要なんかなかった。
関ヶ原の戦後は、家康は名目上秀頼の補佐だし、将軍職に豊臣は無関心。
秀頼が目指したのは関白だから。
「家康を討て」でも相手が9歳の秀頼では
福島だって秀頼が無理矢理言わされているだけとしか思わんだろう
家康が秀頼を取り返しさえすれば「三成を討て」「毛利を討て」
に簡単に変更できることは明白
そんなことは分かってるから秀頼を取り返すために頑張るだけ関ケ原後の家康は秀頼の補佐ではなく武家社会の主君として振る舞っている
家康が大坂城に入ったのは関ヶ原の戦後処理の時だけで
徳川が豊臣を上回る石高を手にすると二度と大坂城を訪問せず
以降は一度も秀頼に臣下の礼をとっていない(二条城対面は対等対面)家康が将軍になるときには豊臣の目をそらすために
7歳の孫・千姫と秀頼の婚礼を決め淀殿を婚礼準備に奔走させた
その隙に征夷大将軍となった
あと、秀頼が目指すのは関白だから
福島らは家康の征夷大将軍就任に何の不満もなかったという点
家康は関ケ原後、摂関の座を五摂家に返還しており
(豊臣秀次死後、この時まで摂関は不在だった)
秀頼の関白就任を事実上阻止しているそして家康の征夷大将軍就任を持って全国の諸大名は家康の直臣になってるんだよな
秀頼の家臣ではなく家康の家臣
家康が征夷大将軍になっても秀頼は公家だから福島らに文句はなかったじゃなくて
福島らはこの時点で家康を主君と仰ぐ立場になっている
そうじゃなくても毛利家と長宗我部軍が東軍と戦っていれば、小早川秀秋も裏切ることはなかっただろうしな
毛利家が徳川に天下を取らせたんだな
本多正信は、石田三成が関ヶ原の戦いを起こしてくれから徳川の天下が取れた大功として、その息子はゆるしているんだよな
引いて大軍によるゲリラ戦してれば遠征軍の東軍の方が補給がつきる
大軍だからと安易に征東軍を行ってしまったのが負けた理由じゃね
福島や黒田は石田がいる限り寝返らないにしても
田中とか寺沢はむしろ石田に人脈的に近いのだからそこら辺は
長引けば多分寝がえり応仁の乱のグダグダ再びには持ち込めたはず
関ヶ原に立花宗成・小早川秀包・毛利元康ら15000が参陣していたら
小早川秀秋ら5将の寝返りはなかったであろう。そうなると戦線は膠着し毛利は弁当を食ってばかりおれず
山を降りざるを得なかっただろう。
小早川だけは無理だろう。あれは完全に東軍だから
史実では秀元も不戦に同意したとしか考えられない行動取っている
その原因が小早川が松尾山占拠したことの衝撃としか考えられない
そうでなければ目の前の吉川は無視して家康の本隊攻撃しているだろうただ西軍が1日でも粘れたら毛利元康と秀包の旗がたってしまえば
秀元も西軍で動くだろうけどそれができなかった理由を探っていけば
岐阜城を家康抜きで短期に落とされたことと
松尾山を小早川に占拠されたことにつきるんだよな
初めから元康と秀包と立花宗成は関ヶ原にいたらだよ。
秀秋は裏切れまい。
大津城をもっと早く落とせていたらか
しかし立花はともかく元康と秀包は関ヶ原が開戦していないなら
南宮山に行くだろうから小早川が松尾山落として東軍と分かっている
時点ではたして毛利家内を西軍でまとめられるだろうか
宮津なんか15000もいらない。
大津と宮津で15000でいい。
大津の15000を関ヶ原に投入すれば良かった。
幽斎の宮津城はロクな兵もおらずそれも500。
関ケ原の総大将が、
毛利か宇喜多か石田かわからない烏合の衆同然の西軍では無理西軍が勝つには西軍の強みを活かし、東軍の弱みを突くことだ
西軍の強みは大坂城と秀頼を確保していること、それが東軍の弱みでもある
だから、秀頼を奉じて大坂城に立て籠もって戦う それしか勝ち目はない
14年後に起きる大阪の役を先に前倒しでやってしまうのだしかも山陽道の毛利、宇喜多が海上から大坂城に補給してくれる
大坂城は天下無敵の要塞だ
しかも野戦と違って、籠城側としても敵軍を大坂城内に入れないという
目的が明快なので、烏合の衆でも戦いやすい
確実に西軍が勝つ
この場合関ケ原の本戦の時に主力が大津城を攻めるというような愚行もないから
そもそも戦力が違う実際の関ケ原は総大将がいない烏合の衆だから負けて当然だわな
というかあの状況であれだけ戦えたのは、徳川軍の主力がいなかったから家康は非常に稀有な勝利を手に入れたと思うよ
決して必然的勝利ではない
両方とも大失敗したんだな
日本でも普通にあるのだから3万くらいしか信頼できる部隊がないとしても
やりようがあったと思うんだけどなあ
この時代でも小牧・長久手で家康は1万7千で10万の秀吉軍相手に引きわけに持ち込んでいるし
そりゃ総大将がしっかり居れば3万vs10万でも勝ちようはあるさ
西軍は総大将が居なかったんだからこれが致命傷
名目上の輝元
最大兵力で最初に行動起こした宇喜多
事実上の指揮を取っていた石田の誰か分からんということか三成絡みでの人間関係は良く言われているが
こうなった原因の根本は毛利と宇喜多の確執じゃね
毛利からしてみれば宇喜多なんぞ滅んでくれた方がよほど良いのだし
楠木正成の700と鎌倉幕府の100万というのもあるしな。
少数兵力の反乱軍が中央政権側の大軍を破る事例が起こりやすい木曽義仲が平氏政権の大軍を破って都落ちに追い込んだ倶利伽羅峠の戦い
楠木正成が鎌倉幕府の大軍を破った千早城の戦い
六角高頼が室町幕府の大軍を結果として撃退した鈎の陣
そして江戸幕府の大軍を撃破した第二次長州征伐、鳥羽伏見の戦い
やはり人間同士の戦いだから、軍の統制と指揮って人数に負けず劣らず大事だよね
統制が取れて優秀な指揮官に率いられた軍なら
烏合の衆の大軍に対して勝つことはおかしなことでもなんでもない大軍といっても個々人の集まりだから
統制が取れてないと人数いても機能しないからね
愚かな指揮はもってのほかだし
島津義弘は朝鮮で5000の兵で30万の明・朝鮮の連合軍を破ったぞ
なぜそれをやらなかったんだ
西軍は大阪城に籠城して、「秀頼を擁して」戦うのが上策だ。
上に出ている見解に賛成する。
当時の西軍の諸将と兵力ならば、大阪の陣と比べて格段に優れている。
長期戦に持ち込めば、東軍は大阪城を落とせないのではないか?
時間が経過すれば、加藤・福島・浅野など、豊臣家功臣たちが西軍に
切り崩されて、東軍は不利になるのではないか?
あの東軍の戦力で大坂城落とすのは到底無理そもそも西軍の方が数多いし、徳川軍だって秀忠合流しても6万しかおらん
あとの東軍は秀吉恩顧の連中だから大坂城攻めを長期間やるのはさすがに苦しい
船頭が多くなるだけで海にも山にも行けないグダグダな船になる未来しか見えない
三成はどうすれば家康に勝てたか
真田信繁はどうすれば家康に勝てたか考えるのは面白いけど、三成や真田が勝ったら天下泰平にはならず、
豊臣政権は室町幕府の足利義政期のように脆弱化
やがて大名たちが二派にわかれて第二の応仁の乱からの第二戦国時代だろう
家康が勝って戦国乱世が終結したのは、庶民としてはありがたい
歴史ってのはちょっと変わるだけで行先も随分変わる可能性がある
大阪城に籠城していては家康は絶対に攻めてこないから家康打倒は実現できない
もしこのIFなら西軍は大義を失い、領国に帰る大名が続出する
いや家康は攻めてくるだろ秀頼様を君側の奸から救出するそぶりを見せないと、
東軍に味方した豊臣恩顧系の諸侯が納得しない
攻めてこないだろ。
史実でも2か月も江戸に籠ってたのは豊臣配下が信用できなかったからだよ。
西軍が籠城策なんか取ったらまず攻めてこない
家康が上杉を攻めた後に立てば間違いなく西軍が勝った。
そこしか後から考えたら勝機はない
家康と景勝が合戦を始めた後ならどうだったろう。
それは東軍にとって地獄だね
まず東部戦線は膠着戦になる
伊達も最上も様子見に入るからねで、膠着戦になると西軍が秀頼の下で輝元を主将として大軍であることがわかると
東軍についてる豊富恩顧の連中が必ず動揺する
そうすると、裏切るやつが出てくるからそれを潮に寝返り続出
戦国時代の再来になりそうだね
佐竹が徳川の後ろをつき真田が江戸城に攻めよせる。
江戸城を落とした功労者は誰かということで揉めそう
家康相手に戦を起こしちゃ相手の思う壺だよ。
三成は徹底して不戦を貫くべきだった。
北マンの命で宇喜多が挙兵しちゃったのが先なんだけどね
ちょっとでも史実と違った展開になっていたら
どうなっていたか全くわからなかったただ、西軍の敗因は運が悪かったからではない
総大将がしっかりしていなかったことにつきる
やはり戦は大将次第ですな
毛利輝元はいつも通り二股かけてた
こういう時に二股かけるのは宝治合戦で負けてからはこの家の習性でもある
元就は大内と尼子の両方に基本的には通じていた
元就はそんな甘ちゃんじゃないぞ
尼子の方が優勢な状況であえて大内についたんよ
そして尼子の大軍を一手に引き受けて耐え抜いた
陶に対しても不利ながら策謀を用いつつ正面から戦った
どっちつかずの態度は取らんよ元就は
そして戦う時は自ら先頭に立って戦ったわ