世界史の話に戻すけど
イタリアが大航海時代に乗り遅れた理由として、イタリア諸国は自分たちが直接事業に乗り出すよりも、他国の国王にリスクを背負わせて、利息を手に入れるほうが安全だと考えていて、コロンブスに直接資金を提供することなど考えてもみなかったことがあげられる
先に上陸して、
インディアンに銃を売ってほしかったな
ニュース
中国の歴史を見ると、しょっちゅうモンゴル人に攻め込まれる日々が、千年も二千年も続いている。
インドの歴史も、中央アジア人に攻め込まれ続ける歴史だ。
でも、イタリアがゲルマン人に攻め込まれた回数は、おそらく、さらに多いのではないかと思われる。
歴史には、数えきれないものがいくつかある。
「ゲルマン人がイタリアに攻め込んだ回数」も、そのうちの1つだ。
高校は3年間しかないし、世界史の他にもやるべきことが山ほどある
さすがに、中世ヨーロッパを深く探求してるヒマなどない
あとマジャール人騎兵も傭兵として雇われてたとか
イタリア(中フランク王国)は、メルセン条約でアルプス以北の領土を失った
「イタリア」の原型ができたのは、この時だったと考えられる
この時期位から、俗ラテン語から分離してイタリア各地にて、今に至るまで差異のある言語になったしね
サヴォイアドーフィネプロヴァンス含んでた時代もあったけど最終的にスイスになってるし
地元主義
これは北・中部イタリアにだけ当てはまることであって、
南部ではナポリを除くと都市の発達はほとんどみられなかったんだよな
北西ヨーロッパのような封建制もなければ、
北・中部イタリアのような自治都市国家の歴史もなかった
ただ専制があっただけ
むしろあの地域は北アフリカに近いのかもしれない
ギリシャとは、狭い海峡をはさんで、ほぼ連続している
サラセン海賊に暴れ回られ一時期はムスリム勢力圏になったこともある
ビザンチンは徴税地としか考えず
ランゴバルド人は内陸部で勢力争いしかしない
神聖ローマ、スペインも遠隔地なので植民地扱い
ノルマン人支配の時が比較的マシかな
皇帝フリードリヒ2世のときは、シチリアが世界の中心になった
王国都市の工業は重税と国王の独占企業にとによって衰退し、商業は特権を得た外国商人に支配された結果、王国では北部・中部都市の製品を輸入し、そこへ食糧・原料を輸出する経済構造が成立した。
ギルド規制が強く残り、伝統技術へのこだわりや
高品質と高賃金の維持などのために
外国製品との競争に遅れをとったことがあった
>>232
まあ、仕方ない
オランダ・ベルギーも、毛織物を生産する製造業から、イギリス産の毛織物を輸入して大陸諸国に売る貿易業に転換したくらいだからな
フィレンツェだって、当初は毛織物の製造業で伸びてきたが、次第に商社や銀行へと業種転換していった
新興国に移っていくのは、昔から製造業の宿命なのだろう
貿易不振によって行き場を失った運用資金は、毛織物をはじめ、ガラス、レース、印刷業など各種の地場産業に投資されるようになった
ヴェネチアの場合はそうだな
滅亡したビザンチン帝国から、ガラス職人とかを連れてきたのが大きかった
ムラーノ島は、中世の頃からガラス職人が集まる島。そこで作り出されるガラス工芸は「ヴェネチアングラス」として、ヴェネチアの特産品であり世界に誇る工芸品でもあります。
なぜ、ムラーノ島にこのような技術が結集したのか?それは、かつて敷かれた政策が理由だったそうです。
ヴェネチアングラスの工房が集中し始めたきっかけは、13世紀中世にまで遡ります。
当時、東西貿易の中心地だったヴェネチア共和国は、取引物の中で最も珍重されていたガラス製品を自国で製作して、
利益をあげたいと考えていました。しかし、原材料や燃料を自国で産出することが出来ないヴェネチア。
コピーや類似品が、原材料が豊富な他国で生産されることも懸念されていました。
そこでヴェネチアがとった政策は、非常に大胆なものでした。
ガラス職人だけでなく、家族、販売者をムラーノ島へ強制的に移住させたのです。
この政策は技術流出を防ぐためだけではなく、溶解炉が火元となる火事の被害を
最小限に抑える目的もあったと言われています。
狭い島内に押しやられた職人たちは、独自の技術を次々と生み出していきました。
ガラス製品や鏡、シャンデリアなど美しい芸術品を生み出す力が育てられていったのです。
原材料の産地であるイギリスが毛織物の生産にも乗り出したため、加工貿易が衰退した。
仕方なく、イギリス産の毛織物を輸入する輸入業に転換した。
ヴェネチアもフィレンツェも、15世紀が繁栄のピーク。
とくにフィレンツェは、それまでの存在感があまりなかっただけに、なおさら栄光の15世紀が輝いて見える。
16世紀に入ると急速に衰退した。海洋貿易の主舞台が、地中海から大西洋・北海に移ってしまった。
海洋貿易と金融は切っても切れない関係なので、金融もついでに衰退した。
イタリアでは、北部・中部の都市が、ナポリ王国、シチリア王国、サルデーニャ王国に
各種製品を輸出し、そこから食糧・原料を輸入した
いわゆる「小麦と毛織物の交換」であり、その結果、後者は前者の経済的植民地
になった
南部が後進地域となる兆しは中世から始まっていた
商業特権を利用してイギリスからフランドルに輸出していた
イギリスの良質羊毛を母市に輸出し、フランドルの高級毛織物を模倣した
フィレンツェ製品を生産し始めた。
14世紀後半、イタリアおよび地中海世界の高級毛織物市場では、
フィレンツェ製品の独占状態が実現する。
476年、傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国を滅ぼした。
東ローマ帝国の皇帝ゼノンは、ただちにオドアケル追討令を発し、東ゴート王のテオドリックがイタリアに侵攻した。
テオドリックは勝利し、宴席にオドアケルを呼んで謀殺した。
最初の「イタリア王」が、オドアケルなのか、テオドリックなのかについては諸説ある。
でも、このときに「イタリア王国」が成立したのは確か。
オドアケル統治期は15年ある
オドアケルは最初東ローマからパトリキウス(総督)の爵位を貰おうとしたが失敗
やむなくレックス(王)を名乗った
>>246
それなら、最初のイタリア王はオドアケルだな
ローマ王と言うべきか?
「イタリアの王」を名乗ると東ローマ始め周辺国に敵視されるから「王」だけ名乗った
テオドリックもそうだったような
三分の一の土地を奪うことになった
テオドリック亡き後の東ゴート王国は、結局、東ローマ帝国から敵視されるようになり、ユスティニアヌス大帝が攻めてきた
20年におよぶゴート戦争で、ローマは廃墟になった
東ゴート王国からイタリアを奪回した東ローマ帝国だったが、その栄光はすぐに終わる。
メロヴィング朝フランク王国はなんとか撃退したものの、今度はランゴバルド王国が攻めてきた。
文化が崩壊したおかげで記録に乏しいとはいえ、ランゴバルド人がイタリア王を名乗るに至った。
ランゴバルド人は200年にわたってイタリアを支配したが、774年、ついに真打ちが登場する。
カロリング朝フランク王国のカルロマーニョ大帝が攻めてきた。
露骨なイタリア侵略だったが、「ローマ教皇の保護」という大義名分を掲げてた。
774年、カルロマーニョはランゴバルド族を破って、イタリア王に戴冠した。
これが、中世イタリア王国の正式なスタート。それまでは前史ということになる。
イタリア史では、888年から962年までを、「独立イタリア王国」の時代という
888年は、国王カール3世の死によってこの王国がフランク帝国から独立した
時点であり、
962年は、オットー1世(大帝)がこの王国を神聖ローマ帝国と結合した時点である
イタリア王国は、カロリング朝が断絶すると、王位は各地で自立した
諸侯たちに妨害されて安定せず、国内は混乱をきわめたので、
強力な東フランク国王の支配を直接間接に受けるようになった
この間に、イタリア国王が皇帝になる状況は次第に過去のものとなり、
今度は東フランク国王が皇帝になり、さらにはイタリア国王をも兼ねる
状況が形成されていく
774年、ランゴバルト王国を滅ぼしたカルロマーニョ大帝によって、カロリング朝の中世イタリア王国が始まった
887年、タナボタ的に西ローマ皇帝とイタリア王の地位についていたカルロ肥満王が廃位され、翌年に死去。
イタリア王国も西ローマ帝国も、ともに崩壊した。
この百年あまりは、中世イタリアが比較的に安定していたカロリング朝の時期
その後は帝国が四分五裂する状況が続いていたが、951年、ベレンガーリオを打倒したオットーネ1世がイタリア王となった。
962年、オットーネ1世は戴冠して神聖ローマ皇帝となる。
カルロマーニョ大帝以来、久々の英雄が登場した。
この887年から951年までの数十年間は、フランク王国にも神聖ローマ帝国にも支配されていなかった時期
843年、ヴェルダン条約により中フランク王国が成立
北イタリアからライン川流域にかけての、ブルーバナナと呼ばれるヨーロッパ最良の地が中フランク王国となり、
両側の辺境地帯が東フランクと西フランクとして分離した
947年の勢力図
カロリング朝崩壊後の混乱を経て、オットーネ大帝が帝国を再興する数年前の状況。
ライン川流域を失った中フランク王国からは、さらにブルグント王国が分離独立しており、図のオレンジ色の領域が失われている。
ピンク色のところが、イタリア王国となった。
まとめると、
オドアケルが西ローマ帝国を滅ぼす
↓
テオドリックがオドアケルを滅ぼし、ほぼイタリア全土を支配(東ゴート王国 約60年間)
↓
ユスティニアヌス大帝が東ゴート王国を滅ぼす(東ローマ帝国)
↓
ランゴバルト族がほぼイタリア全土を支配(ランゴバルト王国、約200年間)
↓
カルロマーニョ大帝がランゴバルト王国を滅ぼす(フランク王国 100年あまり)
問題は、カロリング朝フランク王国の支配が崩壊した887年以後なわけだが、ベレンガーリオ1世がイタリア王になった。
しかし、イタリア貴族の反乱により、ベレンガーリオ1世は打倒された。
その後はブルグント王がやってきてイタリア王になったり、混乱が続く。
最後は、ベレンガーリオ2世が、オットーネ大帝に滅ぼされて、この時期は終わる。
人によって、「無秩序時代」と呼ぶ人もいれば、「独立イタリア王国時代」と呼ぶ人もいる。
ベレンガーリオたちの時代は、フランク王国や神聖ローマ帝国に支配されなかった例外的な時期というわけだ。
イブレーアのアンスカリ家
アルルのボゾン家
スポレートのグイド家
ユラニアのヴェルフ家
等が王になって降ろされて繰り返してる
それとも俗ラテン語?
ラテンとゲルマン、ちょこっとビザンチンをミックスしたイタリア語醸成時期だったかも
んで南はサラセン海賊とビザンチン、ランゴバルド圧政で海岸沿いは無人だった
20世紀になっても、北イタリアのロンバルディア地方と、ローマ以南とでは言葉が通じなかったと言われている
イタリアは、バラバラすぎて、なかなか言語統一できなかった
統一の三傑の1人、サルデーニャ王国の宰相カヴールは、北イタリアを統一した時点で満足していた。
南イタリアに関心を示したことすらなく、生涯に1度も足を踏み入れなかったのではと言われている。
「南を併合してローマを首都にする」ということにあくまでもこだわったのは、三傑の一方の雄、ガリバルディだった。
いや、スウェーデンにいたのは紀元前の話で、その後はドイツのエルべ川のとこにいたんだな
しばらく記録が途絶えた後、5世紀末にドナウ川の中流あたりで、いきなり再登場。
パンノニア(ハンガリー)からイタリアに移動してきた
前から思うことだが、「神聖ローマ帝国の皇帝は、肝心のドイツ統一をおろそかにして、イタリア侵略ばかりしていた」という、よくある批判。
ありゃ、後付けの理屈なんじゃないのかね?
当時の北イタリアにいたのは、「イタリア人」ではない。
ランゴバルド族は、南ドイツ人と同じような民族。
むしろ、北ドイツ人のほうが、皇帝にとっては違和感のある存在だったのではないか?
寧ろ「属州出身のローマ皇帝」みたいな意識でイタリアを支配の中心に位置付けてたのでないか?
ノルマン人は、大西洋をグルッと回って地中海に入り、シチリアを乗っ取ったんだな
身体能力の高さを活かして、重要拠点をゲットした
人口30万人、うち武装兵は4万から5万と推定される。
文化水準の低い少数のランゴバルド族は、イタリアに文化的にも
人種的にもたいした変化をもたらさなかったが、政治的には
決定的な変化をもたらした。
以後、イタリアは、19世紀に国民国家として統一されるまで、
分裂したままにとどまることになるのである。
ランゴバルド王国の時代はむしろ、珍しくイタリア全土がほぼ統一されてた時代なんじゃないの?
ランゴバルド族が支配していた地域と、
ビザンツ帝国が支配していた地域に分かれていた
海賊やビザンチン追い出して南北イタリア統一する器量の王がいない
シチリア占領したムスリムの方が統治上手かったというね
かつてローマ地中海帝国の中心であったイタリアは、
地中海が政治的にビザンツ世界、イスラーム世界、
西ヨーロッパ世界に分裂した結果、この三つの世界の
境界が接する辺境の地になってしまった
イタリア半島が統一できなかったのはそのため
おそらくビザンツと共謀した族内有力者たちによって暗殺された。
続く574~584年の国王空位時代、族内有力者たちは、それぞれの
独立した領地を実力によって形成した。
しかし、ビザンツがこの機会を利用し、フランクと連携して
反撃に出ると、有力者たちはひとまず分立状態を解消し、
第三代のアウタリを選出した。
ビザンツとフランクの侵略も減少し、族民のカトリックへの改宗も作用して、
ローマ人との平和共存体制が成立した。
王国としてまとまったとはいえ、中部および南部の二つの公領はもちろん、
北部でも首都から離れた東方にあるフリウーリ公領およびトレント公領の
独立性は強かった。
第四代のアジルルフォの時代、すなわち6世紀末から7世紀初期に、
ようやく制度が整備されて国家としての体裁が整った。
ヒスパニアやアフリカから皇帝を輩出したローマ帝国とは隔世の感がある
9世紀になっても、イタリア王国から独立した、ランゴバルド系の
ベネヴェント公国が南イタリアに存在していたな
この公国では、相続原理が確立せず、フランク帝国と同様、
相続をめぐる抗争が展開した
839年、西方皇帝ルートヴィヒ1世(敬虔王)の調停により、
このベネヴェント公国が解体して、ベネヴェント侯国と
サレルノ侯国が出現。このサレルノ侯国では、861年、
辺境の有力者が独立して、さらにカプア侯国を創設した。
ここにランゴバルド系の三侯国が鼎立。
サラセン海賊には見向きもせず内部対立だけ行い略奪を見過ごし
イスラム勢からは負け続け舐められ
海賊退治は結局市民が自衛を始めたアマルフィ、ピサ、ジェノヴァが行うようになる
ノルマン人に駆逐されるまで混乱は続く
ギリシャ人にもムスリムにも寛容だったため住民達から支持されたのだろう
この王朝はビザンツ帝国と度々あらそっているが十字軍のときにはアンティオキア公国を建国
ここでもビザンツ帝国の支配は拒みつづけた
ピサは、ランゴバルド王国のトスカーナ公領がカロリング時代に
トスカーナ辺境伯領として再編されると、その領土の一部となった
1004年、ムスリムの略奪を受けたが、翌年以降、ジェノバと連合して
西地中海のムスリムを打倒していった
1005年のレッジョ、1015~16年のサルデーニャ、1034年のアンナーバ(アルジェリア)、
1063年のパレルモ(ノルマン人との共同作戦)における勝利がそれであり、
獲得した戦利品は海上事業を発展させる資金となった
ムスリム海賊との闘争拠点のひとつとなり、10世紀前半には3回にわたって
その略奪を受けた。
独立イタリア王国時代、ジェノヴァはオベルテンガ辺境伯の
領土の一部となり、辺境伯のジェノヴァ代官の家系から
都市貴族が形成される一方、市壁内部の支配権の一部が司教に与えられた。
1056年、司教と都市貴族との協定が成立し、続いて辺境伯がその裁判権を
放棄したことにより、ジェノヴァの自立性が確立した。
ジェノヴァは、ピサとともに西地中海の一大勢力として発展し、
1087年には、ピサと共同でチュニジアに遠征してジール朝を
攻撃するまでになった。
教皇に気に入られないと戴冠してくれないし
西欧世界の普遍的支配者であるローマ皇帝にはなれない
>>244
大陸部・半島部・島嶼部で、地形や風土が違いすぎる
大陸部のポー川平野はヨーロッパ最良の地
彼は南イタリアの製造業を育てようとしなかったし…
シチリアにいたんじゃダメだな
日本でいえば、鹿児島に将軍がいるようなものだ
ノルマン=シチリア王国は異文明を共存させたと持ち上げられているけど、
別にこの王国の住民が異教徒に対して寛容だったからではないんだよな。
国王が、その強大な権力でムスリムを守っていたから。
だから王権が弱体化したときには、キリスト教徒によるムスリムに対する
攻撃・排斥運動が起きている。
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