新しい新生の情報を見ると北条は過大過ぎるな。
逆に佐竹義重が過小過ぎるのは何故なんだ?
北関東と南奥羽の与力大名を含めて100万石超。
北条との7度の合戦で一度も負けず、北条、蘆名包囲網には屈する所か蘆名盛氏が亡くなると蘆名家に我が子を送るその手腕。
政宗をあと一歩まで追い詰めた事からも、その強さは評価するべき。
むしろ蘆名盛氏盛興父子が健在の頃は政略と局地戦で負けてるんだけど
盛興を再評価するのはわかるけど佐竹は今が限界、城数と家臣増やすしかないな
>>636
前に佐竹義重の小説読んだけど
南陸奥だと田村清顕の動きが地味に有能な印象だった
田村が葦名側付くか、敵対するかで
局地戦で佐竹が負けたり、葦名が負けたりし情勢が変わって
田村清顕は戦は強かったんだろうけど外交がなあ
佐竹と蘆名が和平した後は伊達以外全方位敵に回して、傘下の大内の独立まで許して滅亡寸前にまでなってるし
ニュース
政宗に逆に追い詰められてるのがマイナスやね
人取橋も郡山も義重は政宗に負けていないだろ。
蘆名義広の摺上原大敗は惣無事令を厳守した事によるもの。
人取橋とか圧倒的に佐竹側が有利なのに負けてないってレベルなのがおかしい
政宗より確実に下だよ義重は
>>661
政宗自身も矢1筋、銃弾5発を受けて敗走しており、翌日の戦いでは死をも覚悟したと言われている。
無傷の義重がその恐ろしさから命からがら逃げ惑う政宗よりも確実に下との考えがおかしいだろ。
>>661
人取橋は南奥羽の諸大名が佐竹側に付いた事からも当時の力関係が分かる戦い。
戦果的にも分けとかのレベルではなく、伊達軍はなすすべなく防戦一方。
佐竹側の一方的な攻撃で伊達軍は敗走し続けており、鬼庭左月斎も討死にしている。
勝敗については南奥羽の諸大名を伊達氏の支配から開放した佐竹側の勝利。
北条側の江戸の動きが無ければ、伊達が滅亡してもおかしくはなかった。
逆に言えば北条と敵対したままで伊達を倒すのは無理ということやね
政宗は人取橋合戦を生涯最大の戦として、
回りに自慢してたみたいだね。
将軍家にも得意気に武勇伝語ってたみたいでしw
自信の墓に埋葬したのも、人取橋の時に着用した鎧兜だから。
御本人にしてみれば、ご自慢の戦だったんだろね
房総は傘下の千葉と一応同盟してる里見
常陸南西部は北条方の小田に加えて江戸って感じかな?
この状況で伊達に関わってる間に北条が手を出してきたら危急存亡では
佐竹義重のステータス
統率88 武勇88 知略83 政務86
…これより上げるの?
もう佐竹がどうよりも、北条が過大すぎてどうにもならない
九州も北条までとはいかないが、島津はともかく大友が全く欠点無しで過大だと思う
大友は蒲池が独立したように各国の勢力を従属で出してやればそれっぽい感じ
筑前筑後豊前の領主たちはほぼ家臣じゃなく従属勢力でいいと思うわ
それで毛利に調略されて寝返ったり耳川で大敗して離反されれば史実っぽくなるだろ
総合5くらい下でそんなもんだねって感じだわ
そんなん1とか2とか上げたって何も解決しない。
本質は北条との兵力差がありすぎてそこらの弱小と変わらず取り込まれるってこと。
佐竹義重と佐竹義宣がALL100でも北条には手も足もでないからな
五箇条の訓戒をナーフしない限り佐竹は北条の餌
兵力差が大きいのは史実通り
兵力差がある中で頑張ったとは思うが、結局下野南半国は北条に取られているし、生き残れたのは秀吉のお陰
政宗は叔父さん連中に容赦ないよなw
KOEIの北条優遇っぷりがわかる
伊達政宗 統率94 武勇86 知略87 政務96
南奥羽の与力大名が伊達家に寝返ったのも、佐竹家が惣無事令を厳守した事による。
謙信の逸話からも義重の強さは分かるが、義重を恐れた政宗の能力がこれ程なのは何なのかと。
あのまま戦い続けてたらどうなるか気になるわ
秋田から攻めたけど浅利頼平が途中で急死したので秋田の勝ち裁定
攻めたのは秋田だからどう見ても秋田が悪い
北条氏照
86 82 84 60
北条氏邦
81 88 81 65
佐竹義重
88 88 83 86
義重は北条に押されていたのだから兵力差を含めても妥当、これ以上は有り得ない
>>626
北条、佐竹の主なる合戦
1571 常陸岩井合戦 分け
1573 下野多功原合戦 佐竹勝利
1576 常陸下妻合戦 佐竹勝利
1578 常陸小川台合戦 分け
1581 下野佐野合戦 佐竹勝利
1584 下野沼尻合戦 分け
北条、伊達包囲網から沼尻では不利な状況下での和睦だが、
北条は対佐竹戦において勝利をしていない。
>>626
佐竹義重VS北条氏 3勝0敗3分
佐竹義重VS伊達政宗 0勝2分(事実上1勝1分)
北条伊達包囲網における沼尻のみを取って佐竹が押されていたとは何なのか。
守ってばかりで、押し返すことができないんだな
「義重の器量只人(ただひと)ならず、威、面(おもて)にあらわれ、髭、逆(さかしま)にして透間なく、
眼中の光すさまじく、夜叉、羅刹(らせつ)とも云いつべし」 「奥羽永慶軍記」より
「政宗は北条と同盟しながら瞬く間に裏切る義理も信義もない輩。 伊達などは略奪横領を
生業にして周囲に迷惑な家」 「会津陣物語」より
それと武田上杉今川過大を受けて北条過大になるパターン
里見太田長野結城宇都宮ももうちょいがんばってくれよ
そいつらが中途半端に数値的に頑張ったところで北条のエサが豪華になるだけだろ
そんな事よりそいつら全員、ちょっとでも不利になったらすぐに北条に従属してしまう、北条側は拒否できない
特殊能力の導入が欲しい
北条側がコイツらを有効活用しようとすると急にドミノ倒しのように謙信に流れるチームワークも忘れずに
相模から上総への上陸作戦とか絶対無理だろ当時の技術では
武田信玄から織田毛利長尾と同クラスの武将と評価されてるし
なお1561年に亡くなる模様(昔は1576年だったけど史実の見直しで大幅に短くなった
正木時茂は義尭旗揚げ時代からの功臣で戦場だけじゃなくて調略から周辺諸勢力との融和までやってる智将な一面も見受けられるからライバル勢力家臣筆頭の北条綱成にギリギリ対抗できるようなステータスにしてもいいと思うけどね
佐竹義重は生き残ってるから90近くまで値上げできる
里見って北条方の有名武将何人も倒してるよね
国府台合戦みたいに大規模で激突するくらいの軍事力あるし
あと三船山合戦で北条氏政を撤退させて、北条から唯一領土を手放させてる
安房まで押し込められて房相同盟結ぶことになったけどな
里見って国力って点でも意外とでかい
小大名のくせに一番抵抗してくる、なのにうまく倒せない
北条伝統の興国寺も勝頼に取られてる
北条伝統ではないな
少なくとも伊勢盛時が伊豆取った後、今川に返しているので、石脇城と立ち位置はあまり変わらない
それ信玄の代
守りに強いって具体的に何を指してるの?
大抵の信長シリーズで小田原城が一番落ちにくいからでしょ
寧ろ関東諸将が力を持ち続けている頃からガンガン攻めてるよ
守るのは信玄と謙信と秀吉が大軍で攻めた時だけ
それも謙信が攻めてきた時はまだ小田原城が二の丸までで武田が牽制しなければ落ちてた
総構えは対秀吉の時だけ
基本は旗色を覗って縫う様に(幕府と連携しての伊豆討ち入り、扇谷上杉側としての小田原攻め、小弓公方→古河公方の切り替え等)
昔は秀吉相手に小田原城の堅牢さ云々に驕ってって言われていたけど
そもそも桶狭間の戦いでも今川が攻めてきた時、諸将が籠城を進言したんでしょ?
基本兵力差が大きい時は籠城を選択するしかない
元からカチコチなら大森藤頼も耐えてただろうしね
システムと合致した固有能力のせいでゲームデザインの問題
佐竹なんか精々地方の雄クラスはいまでも十分強いだろ
神流川で北条が滝川を破った1582年時点での勢力図は佐竹が最上、伊達氏を大きく上回る。
与力大名が独立している信長の野望や現在の評価では地方の雄位にしか思われていなものの、史実では義昭の代に関東管領の座の話が有った程
佐竹家の影響力は強かった。
同年なら長宗我部家と比較しても佐竹家の勢力(高高)は上回っている。
長慶が過小の評価の為に義重が過大に思われている様だが、
信長から「鳥無き里の蝙蝠」と言われた元親や、義重に滅亡の寸前にまで
追い込まれた政宗の能力と比較したら過小な位だ。
影響力言うなら伊達だって十分凄くないか?
関東管領の話が来たのは
元々は山内上杉の男系支流だからだろ
その話を足利の召使いがと一笑に付す辺りが
佐竹らしいけど
そもそも上杉が佐竹を頼ったって作り話じゃなかったっけ?
下妻戦では命乞いする北条側の残兵の首を容赦なく刈った事から鬼と恐れられ、7人斬りや謙信に次ぐ者としての武勇伝が残る義重。
対伊達戦では郡山戦では引き分けるも人取橋では事実上の大勝利。
一度「奥羽永慶軍記」で調べるべき。
佐野家は北条氏忠が当主に。
壬生義雄は1585年に北条に従う。
小山秀綱も1582年から北条方に。
皆川広照も1585年に北条に降伏。
芳賀高継も1589年に北条に寝返る。
那須資晴は北条家と同盟。
宇都宮国綱は薄葉ヶ原で那須に敗北。
宇都宮城から退去する事態に。
その頃の佐竹って北常陸と陸奥に一郡ぐらいじゃ?
1585年以降は北条、伊達による包囲網相手に応戦していた年代。
2大国相手に押されていた感は否定しないが、義重による敗北は一度もない。
その北条も1590年には滅亡している。
佐竹家の最大勢力は常陸の他、陸奥の蘆名、岩城。
南は下総の多賀谷。
下野には同盟の宇都宮を従え総石高100万石越。
常陸の半分とは程遠い。
謙信は決戦しようとしたけど、義重は北条と和睦して関宿明け渡しちゃった
奥羽永慶軍記調べたよ
『奥羽永慶軍記』(おううえいけいぐんき)は、江戸時代に秋田の戸部正直によって記された軍記物語[1]。
江戸時代の軍記物1つでこれが事実だって君すごいね
「奥羽永慶軍記」に関係なく義重が北条伊達に無敗である事を知らない訳でも無いよな。
知らないよ
北条が佐竹と対陣していて越後に軍を動かすのが遅くなり、上杉景虎が敗北したぐらい
あとは天正壬午の乱後、北条が本格的に下野、常陸に進軍し、下野南半国を手に入れたぐらい
こっちは代替わり後?
少なくても、この板の住人とは比較にならず当時の状況が把握できる。
摺上原において義重の動きはない。
そんな嘘をついて楽しいか?
義重は郡山まで援軍来てたのに小僧の政宗に蘆名滅亡させられ劣勢に追い込まれた義重
22歳の政宗を小僧など到底無理。
現在なら35歳〜に匹敵する年代だろ。
良い大人が大群率いて若干14歳の義広に仕掛けた戦い。
すげー理論だな…
93歳、92歳で死んだ 真田信之とか鬼庭綱元
は現在に例えると170歳位だねw
当時の平均寿命は30代。
初婚年齢も現代の30代ではなくその半分。
15歳で初陣なら22歳は中堅に当る。
真田信之は信繁と入れ換えられてるので、信繁が生まれたとされる誕生日が信之の本当の出生日であるから実際90ではない
14歳の子供(実子)を佐竹義重は助けようともせず見殺しにしたわけか・・・
さすが鬼畜義重
初陣も14歳で22歳が小僧と言える時代ではない。
多くの人が30代で死んでるわけじゃない
高々数百年でそんな進化の仕方あるか
学校制度が精神年齢の遅延を齎しているだけだろ
若干14歳とか、当時は十分な年齢だろう
「政宗が14歳で出陣したから、十分大人ですよ」
と言いながら、
「芦名義弘」は14歳の幼少期に、摺上原の戦い駆り出された可哀想な武将…!
とか言ってるのが意味不明
>>901
初陣が14歳で8年の間戦場を経験した政宗と数え歳で14歳。
実際には13歳の義広が初陣で指揮を取れるのかという話だ。
現在の世界で言うならば、硬式を初めて握った中学1年生が
大学生相手に野球で勝てるのかと言う事だ。
そんな可哀想な義広くん(13さい)を碌に助けなかった義重は薄情な奴だな
龍興いじめた信長を悪く言うのはやめろ
全くのスレ違いだが弱冠の誤用が目に余るなここだけの話じゃないけど
意味を分かってないのに無理して使おうとするから弱冠を若干とか表記するし
そもそも弱冠は本来20歳にしか使えないはずなのに若いという意味で適当に使われちゃってるし
これは還暦63歳とか言ってるようなものなんだがな
まあ後者は誤用に基づく新語法みたいな感じで許容されてるようだが納得いかんな
とGTOだかクニミツ祭りだかマガジン読んでた時こんな感想持ったこと思い出した
100万石以上で戦死謀殺以外の大名の享年(死んだ時100万宗麟義久信雄とかは除外めんどい)
三好長慶43歳
上杉謙信49歳
武田信玄51歳
徳川秀忠54歳
北条氏康57歳
豊臣秀吉61歳
伊達政宗70歳
毛利元就72歳
徳川家康75歳
前田利長53歳
前田利常66歳
若干の誤差は勘弁
・武田家の過大評価ひどすぎるわ土地まで優遇されてるし意味わからん
・天覧馬揃えで光秀丹羽勝家と並んでいる蜂屋頼隆さんの評価をしよう
・里見は地形と水軍が過小評価すぎて北条から守れない
・俺、歴史詳しくないけど謙信って実際史実でもバケモンだったの?
・強い大名があっという間に大勢力になっちゃうのどうにかならんかな
・足利将軍家の停戦がチートすぎてワロタ仲介で拡張し放題ですわ
・AI配下武将たちが生き生きと自らの判断で行動するというのは実際どうなの?
・秀吉は固有政策イマイチ、滅ぼした北条の下位互換だな
・みんなは決戦はどれぐらいの兵力差までだったら挑む?
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「信長の野望・新生」