>>203
有名だけど農民のある意味いい話
関が原で破れた三成は、農民の格好をして伊吹山を彷徨していた。
三成は空腹の余り、山の田の稲穂をとり、石ですり合わせて籾殻をとり、玄米のまま食べたので腹をこわした。体調を崩し、先に進めなくなった三成は懇意にしていた自分の領国古橋村の三珠院に厄介になろうとしたが住職は後難を恐れ、三成を門内に入れなかった。
そこで三成をかくまったのは百姓・与次郎太夫である。
与次郎太夫があえて危険を冒してそれをしたのは、飢饉の際に三成より百石の米が村に施されたことに感謝していたからだといわれている。
村では緊急の寄り合いを開き、極秘に与次郎太夫の援助をすることに決め、三成を匿うことにした
家康は三成追跡を近江出身で三成と親しい田中吉政に命じた。
直ちに吉政は在住の住民に対して、次のようなお触れを出した。
「三成を捕らえたものには永久に年貢を免除する。捕らえることかなわず、討ち果たした場合には当座の褒美として金子百枚を与える。もし、匿う者があれば本人はもとより、一族およびその村の者も厳重に処罰する。」
このお触れのことを知った三成は村の者に迷惑をかけることは自分の取るところではないと考え、
与次郎太夫にこれまでの行為を謝し訴人するようにと告げた。与次郎太夫は、それを拒み、追っ手がかかる前に逃げることを薦めたが、三成の説得をうけ泣く泣く訴人をした。
また、三成捕縛は三成と与次郎太夫の合意訴人ではなく、他村から古橋村に来ていた与次郎太夫の養子であったとも伝わっている。そして古橋村にはこのような言い伝えが残っていると云う。
・他村から養子縁組をしない
(三成を密告したのが他村からきた養子だったため。太平洋戦争終戦まで村で守られてきた。)
・味噌汁が沈殿する
(三成の最後の食事が味噌汁だったため)
・夏季には韮のオジヤを食べる。
(腸をわずらった三成公供養のため)
小説でもよく出てくる話
ニュース
古橋以外での三成と百姓
谷口村に残る伝承。
関ヶ原を落ち延びた三成が谷口村の庄屋宅を訪ねた。
突如現れた三成のその満身創痍の姿に驚いた庄屋は急いで自宅の寝間の床板を破り、三成を縁の下に匿った
そこで1、2日を匿ってもらった三成は庄屋に感謝し
その別れの際に「鳩八の紋」と「石田の姓」と「短刀」を残して立ち去ったという。
その短刀はその後、自宅の天井に吊るしていたが第二次世界大戦中
軍需用に供給するのは畏れ多いと村の神社に奉納していたところ、なくなってしまったという。鳩八の紋と石田の姓は現在も使用されている。三成を匿った跡地には石田神社が祀られている。
現在の石田会館(三成出生地)近くにある石田八幡神社の神使は鳩であり、鳩八の家紋と関係があるかとも考えられる。
同僚には嫌われても領民には慕われていたようです
・朝霧がなかなか晴れない
・密告した奴が金を受け取った橋が金遣橋(かねやりばし)→なまって金谷橋
とかもなかったっけ?
全部で7つ合わせて七不思議扱いされてた筈。
でもどの土地だろうが、味噌汁は放っておいたら沈澱しないか?
>>205
石田屋敷跡で買った本によると
古橋(三成が最後にとらえられた場所。ちなみに三成の母親の出生地)の言い伝え
1、養子をとらない(>>205
2、なわしろの種まきは午前中に行わない
「午前中に種まきをしてた男が三成の件を漏らしたので、三成の怒りで風が吹き、巻いた種がみな土手に吹き上がってしまった」ので種まきは午後に行うようになった
3、古橋は朝霧がなかなかはれない(これも三成の怒りのせい)
4、腹痛には韮粥を食べる(三成が韮粥で腹痛を直したので)
5、金谷橋は「金やる橋」から、田中吉政が「三成をとらえたやつには金をやる」立て札をこの橋に立てたので、村人がその橋を「金やる橋」と呼んだ
6、みそ汁のおりが沈む事
三成がとらえられた日のごちそうがみそ汁だったので、三成の沈んだ悲しい心によって、今でもみそ汁のおりが底に沈む
7、自然に生える茶の木が多い
三成がお茶好きだったので古橋ではあちこちに茶の木が自然に生える
で七つ。
古橋では今でも三成にちなんで「三献茶」の飲める茶会が開かれてるそうだ
三成、微妙な嫌がらせしすぎだろw
>>216
佐和山ふもとの清涼寺(三成の家臣だった嶋左近の屋敷跡)じゃ
木に触ったら腹痛になる←三成の呪い
とか言われてるんだぜ。
戦に負けて残首だから怨念が強いと思われたんだろうが、呪い地味すぎて三成が憐れになってきたw
そういえば昔、三成が捕まったのは腹壊してンコ拭くのに紙使ったから
(当時紙は貴重品でケツ拭くのに使えたのは位の高い人だけ。農民は木の皮とか)
って話も聞いた事あったな。今思えば徳川時代に作られた創作なんだろうけど
当時から三成=腹下し野郎だったのかw
その話(三成が捕まったときに腹を下していた)には前フリがあるんだよ。
関ヶ原前夜~当日未明まで結構雨が降っていて火が使えない状況だった。
火が起こせないので飯は炊けない、しかし腹が減っては戦は出来ないので白米をボリボリと食べる石田方。
一方、その時家康は全軍に下知していた。
「火が起こせないからって白米を生で食うなよ、腹を壊して下痢になるから。
水に浸してふやけさせてから食べれば大丈夫だから、そうするように」
さすが糞漏らしの代名詞は違うな。経験者ゆえの知恵か
三成がちょうど下痢で苦しんでた場所で
級にお腹急降下で間に合わずにその場の草むらでやったことがあるよ
あれも呪いだろうか
>>229
でも兵糧攻めのあとに降伏したはらすかし兵士が思わず食って
縮小してる胃腸が対応できず破裂して死ぬこととかもあったらしい
間違いない、三成の呪いだ