大谷吉継と島左近の間のちょっといい話。
関ヶ原の戦いにおいて、大谷吉継の隊に島左近の息子、新吉信勝(一説には嫡子)が配されている。
小早川の裏切りを察し、それを迎え撃つべく布陣するまさに死地中の死地である大谷隊に、なぜ大事な嫡男である新吉を預ける事にしたのか、父・左近の胸中はわからない。
がしかし、お互い立場は違えど三成を思いやる間柄だった吉継と左近。
自分と同じく三成の為に命を差し出してくれた、主の親友への左近なりの義だったのではないだろうか。
ちなみに新吉は藤堂高虎の従兄弟、藤堂玄蕃を一騎打ちで打ち取り、大谷隊の士気を上げるなど多いに貢献、健闘したという。
その後、新吉は玄蕃の従者高木平三郎に討ち取られ己が役目を全うした。
信長のシンデレラ
織田信長は合戦に出かける度に、一足の足半草履を太刀の帯取りに結び付けていた。
その訳は誰も知らなかった。
天正元年八月、信長は越前に攻め入り、朝倉軍と開戦した。
このとき兼松又四郎正吉は諸兵に先んじて進み、一番首の功名を上げた。
首実検の折、信長が一番首を褒めていると、正吉が裸足であることに気がついた。
信長は腰から草履を外し
「わしは多年、この草履を腰につけ、そなたのような勇者の現れるのを待っていた。ようやく今日、この草履の主を見つけることが出来た。」
そういって与えた。
この粗末な草履は、「天下一の草履」と、皆の羨望の的となった。
めんどうくさい三河武士、小栗又一さんの関ヶ原
関ヶ原合戦の時、家康の四男、松平忠吉が、敵の首を取ってきた。
家康は大いにこれを褒め、戦勝の祝いに集まっていた大名達も大いに賞賛した。
その場にいた又一さん
「上様、逃げ回る敵の手足を押さえて首を取ったくらいの事を、そんなにお褒めになられては、忠吉様が、敵はいつも弱いものだと勘違いなさいますぞ?」
その場ドン引き。
家康、苦笑しながら「だからお前は出世出来ないのだ」
しかし家康はそんな又一さんを、生涯そばで使っていた。
本当にめんどくせえ野郎だなぁ、大好きだw
ガチの斬り合いになるだろうなw
また一番だから又一(家康が与えた名前)
そう。又一さんこんなひねくれた人だけど、徳川家を代表する勇者の一人なんですよ。
家康が呆れるほど一番槍、一番首を取ってきた人です。
面倒くさい三河武士のキング、本多作左衛門のおはなし
ある時作左衛門が領内の検分をしていると、池鯉鮒(ちりふ)という所に瓜畑があり、見事な瓜が作られていた。
それを見て作左衛門、「これは、誰の畑だ?」と尋ねたところ、その畑の番をしていた者が
「殿様の瓜畑です。」
それを聞いた作左衛門、怒ったの何の
「なんということだ!三河、駿河、遠江、三ヶ国の太守は、よりにもよって瓜作りになられたのか!?お前たち、よーく聞け!武士と言うものは知行を頂きこれを管理はするが、百姓のいたす事を真似はしないものだ!」
そう言うと畑に馬を乗り入れ、瓜を全部踏み潰してしまった。
畑の番人は慌てて家康の元に向かい、家康がどれほど怒るかとビクビクしながら報告すると、家康、
「いかにも作左衛門だ」
と、大笑いしたと言う。
馬に乗って破壊するもの
三河武士=瓜
森兄貴 =人間
・薩摩島津家60万石、滝川一益が羨むスズメ、浜野家の再興
・立花道雪の最後と家臣の絆、小堀遠州と細川忠興
・守銭奴と呼ばれた小野和泉、浅野家に仕えた上田宗箇
・金貨を自慢する伊達政宗と軽蔑する直江兼続、安土城の受付・織田信長
・毛利隆元「どうか父を長生きさせてください」、小早川の一番備・松野主馬