武田家と上杉家の話。
武田信玄の七男に信清という人物がいた。
武田家が滅びた際、彼は高野山へ脱出した後、姉・菊姫が嫁いでいた上杉家を頼り、上杉景勝の家臣として仕えることになる。ここまでは結構有名な話。
そして、菊姫が病に伏した際には景勝は、洛中の名医を招いたり祈祷を行わせ、一方の信清は姉を見舞うべく急遽上洛をしたりしている。
さて後年、大久保長安事件というのが発生し、これに武田の一族も巻き込まれていくことになってしまう。
信清の舅・甲斐長延寺の実了や信玄の次男・海野竜芳の子息も連座したとして流刑になり、信清のもとにまで嫌疑が。
そこで景勝は家康の側近・本多正信に書状をしたため、さらに景勝の家老直江兼続は江戸にいた子息平八とつなぎをとり、情報収集に努める。この甲斐あってか、信清は連座を免れたという。
かつて川中島で死闘を繰り広げた両雄の子孫たちが、縁戚となり、その危機に際してこういう動向を示しているというのも興味深いと思う。
イイハナシダナー
本多正信に直江がパイプ繋いでたのもよかったな。
ニュース
黄金の磔柱、花押のセキレイの目、などで有名な政宗の奥州仕置きの、秀吉への弁明。
このことについて、後日、井伊直政が徳川家康に尋ねた。
「昨年の冬、私は奥州に参りましたが、政宗の異心は歴然たるものでありました。秀吉公はそれを承知の上で、許されたのだと思いますが、それは何故なのでしょうか?」
それに対して家康は、
「秀吉公はあのような性格だ。一つは、死を覚悟して上洛してきた政宗の勇気に免じて。もう一つは、自書の檄文を偽書と言ってのける不適さと度胸に免じて。政宗に大将の器量を感じたのだろう。そして何より、自分の方が政宗より何倍も器量が上だと知っているからだ。」
秀吉は才覚やら度胸のある若武者が好きだからなぁ。
まあ、本当に好きなのは立花宗茂みたいタイプなんだろうけれど。
あと、意識して器の大きい人間に見せようとしていたので、五十過ぎの自分が二十そこらの小僧と張りあうわけにはいかなかったとか、本来ならその位の年の子供がいても不思議じゃないから、子供の才能を愛するように可愛がったのか、色々考えられる。
まだ奥州仕置きの頃でよかった
晩年に発覚しようもんなら…
その約束を信じた秀吉が千人の兵を三木城へ突入させると、中村五郎忠滋はその約束を破って秀吉側の兵士を壊滅させた。だまされたことに怒った秀吉は人質である忠滋の娘を磔にして処刑した。その後、秀吉の兵糧攻めにより三木城は陥落し、中村五郎忠滋は捕虜となった。秀吉は「俺をだまして千人もの兵を殺したのは許しがたいが、おのれの主君のために自分の娘を犠牲にした忠義に免じて命だけは許す」と言って、忠滋を助け、後に三千石の待遇で家臣の一人に加えた。
最上義光ワンポイントちしき
義光はよしあきと読みますが、近年まで「よしてる」などと誤読されていました。
では何故よしあきと確定したのでしょうか?
妹宛の手紙に「よしあき」とひらがなで署名していたから
よくあることなんじゃなかったっけ。
よくある。普通のこと。
秀吉の直筆はほとんどひらがなだったとか。
応仁の乱真っ只中の頃のお話
大和国興福寺門前にて衆徒や村人が集い盛大に盆踊り大会が開催されていた
参加者はそれぞれ趣向を凝らした衣装や振り付けで踊りに踊り大層盛り上がっていた
そこへ颯爽と現れたのが大和国古市城城主の古市胤栄さん
大黒天のコスプレで登場した胤栄さん、自らアレンジしたイケてるダンスを披露
BGMには家中の笛の上手な者を投入する手の込みよう
このパフォーマンスに周囲はやんややんやの大喝采
何度もアンコールがかかって夜通し朝まで踊り倒すサマーフェス状態
古市さんの領民は、おらが領主こそ風流の達人だと鼻高々だったとか
なんというか、楽しくなる話だなw
これ大乗院寺社雑事記に載ってるやつかな
領主がコスプレして踊りに来るってほのぼのし過ぎだろw
楽しそう!
俺も踊り明かしたいZE!
領主というより自治会長だなw
・医学に通じていた毛利元就、桜の木にしがみつく鮭様
・武田信玄の異母弟「川窪信実」の心根、北向きに置かれた信長の兜
・瓜の皮むきをする尼子経久、若き上杉景勝が佐竹義重に送った手紙
・歌舞多城の乞食、池田輝政と福島正則、千利休の石灯籠
・福島正則が宇喜多秀家に贈った備前の酒が詰まった樽