関ヶ原の役のころ、伊勢桑名城主であった氏家行広のお話。
行広が、友人であった京極高知・朽木元綱と小田原攻めの前に近江水口の宿に泊まった。
その宿屋の主人は、よく当たる占いをするという。
朽木元綱が、『この三人の中で、最も出世しそうな者は誰だ?』と聞いてみた。
主人はしきりに恐縮したが、やがて行広を指差した。
『現在、桑名のお城は空き城ですが、近い将来あなたさまは必ずや関白のお気に適い、桑名の殿様となられましょう』。
予言は的中、小田原攻めの後に行広は桑名二万五千石の領主となった。
宿屋の主人は、多くの引き出物目当てに桑名に賀儀を述べに現れた。
だが主人の期待を裏切り、行広は祝儀程度の引き出物しか与えなかった。
行広の吝嗇に対し、近臣は怪しんだが、行広はこう語ったという。
『かの者の予言はたまたま当たったものである。まぐれ当たりに莫大な褒美を与えては、父祖の代からのおまえたち家臣に何をもって報いればよいのか。軽くもてなしたのは、そのためである』
しきりに感心する家臣たちに対し、行広は更にこう続けたという。
『だが考えてみれば、宿屋の主人との縁もゆかしいものがある。この縁をここで絶っては惜しい。これからは京・大坂への往還のたびに、あの宿屋を本陣として使ってやるがよい』
ニュース
天正二年、上杉謙信が木戸伊豆守に送った手紙
「関東に攻め込んだ際、船で利根川を渡る事になったのですが、途河の最中、北条に攻撃されては危ないと思い、佐藤筑前に『その危険はないか?』と、聞いた所、『地形から考えてその危険性はないでしょう』などと言うので安心して船を出そうとしたら、案の定北条方からの待ち伏せ攻撃を受け、途河する事ができなくなり、みっともない姿をさらしました。あの馬鹿者には腹が立って仕方がありません。
しかしまあ、武田信玄や北条氏康ですら、失敗する事はあるのですから、私が失敗するのも、それは仕方のないことでしょう。」
なんのかんので信玄や氏康を認めているツンデレ謙信であった。
謙信が松山城救援に進軍中に、勝手に降伏した事に怒った謙信
松山城を落城させた北条と武田のが陣を張ってる真ん前を堂々と進軍して北条が作った砦を落として、また北条と武田の大軍が陣を張ってる真ん前をゆったり進軍して帰っていった時は北条と武田ほどの軍勢と戦って負けても恥にはなるまいって言って敵陣の前を往復して挑発してるし。
信長の方が年は近いからな
その後、しばらくしてから家康が病に倒れて亡くなると、後継者の秀忠は謹慎処分を受けて押し込められてる忠輝の警護の人数を増やすように命じた。
警護の人数が急に増えたのを見た忠輝は家康が亡くなったことを悟り、涙を流した。
警護を増やしたのは、弟の忠輝に父親の死をそれとなく知らせるための処置だったのである。
その後すぐ秀忠に改易されるけどな
あの時代の基準なら、殺されなかっただけ、「人道的」と考えたほうがいいと思う。
どこかで隠棲して余生送った奴は
本人的にはいろいろ大変だったろうが
はたからみたら羨ましすぎるよな
木下勝俊とかも
秀家とかは微妙だが
盛親も十分に援助してくれる人がいたら京で天寿を全うできたかもしれん
気候のいい八丈島の、しっかりとした食事とストレスの少ない生活のおかげであんなに長生きしたとか。
秀家の没年は1657年くらいだから、家綱の時代だよ。
忠輝の話
忠輝1683年没
家綱1680年没
>>285
130歳まで生きた渡辺幸庵なんて武将がいる
生まれが1582年(本能寺の変があった年)、死んだのが1712年(新井白石たちが正徳の治やってた頃)
>>286
腰抜けた…
石で怪我する程度の実戦経験ある最後の幕臣、ってだけで敬意をうけた人がいるらしいけど、
渡辺さんも実戦経験があるんなら、18世紀には神状態だろうな
・秀吉様が臆病になられますように、米粒をいただきたい、焼き塩鯛の身を焦がしつつ
・元旦から不機嫌な信長と木下藤吉郎、長宗我部元親と羽柴秀吉の饅頭
・静御前が使ったといわれのある薙刀、伊達政宗の愛馬「五島」
・小早川隆景と黒田如水、信長「豆腐食う寺」、毛利の信義と大友の信義
・直江兼続「死ぬ気でやれば何とかなる」、長野業正の娘はいずれも美女揃い