明智光秀の妻の話
光秀が仕官できずに流浪していたころ、彼の家に客が訪ねてきた。
光秀は客をもてなしたいが、放浪の身で貧しかったので、妻のひろ子に愚痴をこぼした。
ひろ子は
「妻というものは、こういう不意の事態に対する心構えができていまいます。殿はもてなしの準備に気を使わないで下さい」
といって、酒肴を買いに行き、光秀は大いに客をもてなすことができた。
客が帰った後に
「そなたのおかげで明智の面目を保つことができたが、あれだけのごちそうを買える金をどこから工面したのだ?」とひろ子に聞くと
「実は、私の髪を売って金に換えました」と答えて、ひろ子は被っていた頭巾を取った。
なんと、ひろ子の腰まであった自慢の黒髪は無残にも根元から切り取られていたのだ。
光秀は大いに驚き
「いかに落ちぶれたとはいえ、我が妻にそのような思いをさせるとは、自分が情けない。よき主君に仕え、もう二度とひろ子にこのような思いはさせぬぞ。」と堅く誓いあった。
「 月さびよ 明智が妻の 咄せむ 」
これは、この逸話を詠った、松尾芭蕉の句である。
ニュース
確かに明智妻の話は、北条時頼と佐野の話・蜀漢劉備と狼の肉の話、に似てるな~とオモタが、更に原典となる故事はあるんやろね。
口コミの話
織田家の猛将で知られる佐々成政は、越前の郡持大名から越中の国持大名に抜擢された。
佐々は、領地が増えたので新規の家臣の求人募集をした。
なんと、募集要項には「武功自慢求む」とあるのみ。
仕官希望の牢人の面接官には、佐々自らあたり、武功自慢の内容がビックな者はどんどん取り立てた。
しかも、求人1000石の応募者には、1500石で採用。求人500石の応募者には、700石で採用といった具合に
牢人衆に大盤振る舞いをした。
見るに見かねた側近が
「殿が大盤振る舞いをするから、牢人の中にはホラやウソの武功自慢をする不届き者がいます。いいかげ
んな採用はお控えください」と諌めても
「ホラでもなんでも、ワシの手足になる者なのだから、構うまい。それに、武功自慢が三度のメシより好き
何だもん」と一構に気にしない。
果たして、佐々成政のうわさは近隣諸国に広まり、結果的に名のある牢人衆を多数召抱えるころができたとさ。
裏話ってあるものだな
福島正則は粗暴で人を罰することも多かった。
あるとき、近習の一人の武士がわずかなことで咎められ、一切食事を与えられず城内の櫓に閉じ込められた。
後日、もう餓死している頃だろうと思って正則が櫓に出向くと、その武士は餓死するどころか、顔色ひとつ衰えていなかった。
「さて誰かこっそり飯を運んだな」
正則は怒り、その者を捜し出して殺そうとした。すると、一人の茶坊主が死を覚悟して名乗り出てきた。
「昔、私は罪を得て死にそうなとき、この方に助けていただきました。その恩に報いるため、飯を運んだのです」
これを聞いた正則は目に涙を浮かべ、
「お前の志には感心した。人間はそうあるべきだ」といって櫓の武士を許し、茶坊主を報償したという。
三河時代の徳川家。
とある法令が守られず、当時徳川の名物と言われた三奉行、仏の高力清長、鬼の本多作左衛門重次、どちへんなしの天野康景が会議を開いた。
高力「法令が厳しすぎて守れないのだ。もっと守りやすい法令に改めるべき」
天野「いや、むしろ罰則を厳しくして、法令を徹底させるべきだ」
じっと聞いていた作左衛門、触れ書きの板を持ってこさせおもむろにこう書いた
「まもらねば、さくざがしかる」
これを城下に掲示したとたん、法令は遵守されるようになった。
いい話つか、それ笑い話だろ
サクザはその辺の民衆にも読みやすいように
法令の発表の際にはわかりやすい文体で平仮名で書いてたんだよな
甲が乙に~とかはやらなかったんだよな
単なる鬼ではない
隻眼片足で秀吉のおかん焼き殺そうとしたけどな
>>452
北条征伐で秀吉が駿府城に入った時も、秀吉の前で家康罵りまくったりw
これを思い出した
秀吉の元に諸侯が集まった時、秀吉がそれぞれの家の家宝や秘蔵の品をたずねてみた。
それぞれ宝剣や茶道具などを自慢し合う中、最大の諸侯である家康は一人黙っていた。
秀吉が「徳川殿はいかなる宝をお持ちか?」と尋ねると、家康は、
「わたくしは、ご存知のとおり先祖代々片田舎におりますれば、そのような宝物は何も持っておりません。
ただ、事起これば自分のために命を捨ててくれる家来が五百騎ほどおります。これが私の宝でございます。」
彼の嫡男隆元は、戦国の世には珍しい愛妻家で、側室を持たなかった
次男の吉川元春は、ブスと評判の嫁を貰ったが、やはり側室を置かなかった
そして、なんと三男の小早川隆景もまた、奥さん一筋であった
上の二人は後継ぎが生まれたのでまだしもだが、隆景には生まれなかった
にもかかわらず、側室を置かなかったのである
戦国一、嫁さんを大事にした一族と言えるだろう
>>447
遅レスだけど、側室持たなかったのは立場的に無理だったからでは
・隆元
大内義隆の養女という当時毛利が臣従していた大内家から嫁をもらってる以上、側室なんて持てない
・元春
講談ベースに考えるなら、熊谷家との絆を考えた打算でブスを嫁にしてるから、
わざわざ側室を迎えて熊谷家との仲を微妙になんかしない
・隆景
二つに別れた小早川家を統一する為の結婚だったから、側室なんて持てない
まあそれを抜きにしても嫁さんを大事にしてるのは事実だろうけど
元春の嫁さんは、本当はブスじゃなかったんだが・・・・・
後家さんになってしまって、親父が心配していたところへ元春の求婚で、感謝感激した。
というんであって、時代が経つにつれていつのまにやらブスということになってしまった。
だから講談ベースに考えるなら、と前置きした
真田昌幸と島田兵四郎
慶長5年(1600年)第2次上田合戦の時のことである。
秀忠の使番である島田兵四郎は,
本陣から攻城中の上田城をはさんだ場所に陣を張っている,
石川隊に連絡をつけなければならなかった。
上田城を迂回していくと大幅に時間を浪費してしまう。
そこで兵四郎は剛胆にも
「」上田城の門の前から城内を通りぬけさせてもらいたいと大声で頼んだ。
その報告を受けた昌幸は興がり、機嫌良く兵四郎に会うと
「後の合戦のために城内をよく見ておくが良い。また戦場ではわしの顔を忘れるなよ。」
と、自らの顔をよく見せたあと、城内を案内して廻った。
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