また伊達軍は大量の死傷者を出し、重臣を失うなど大被害を被っている。
伊達が勝利したというのは間違い。
ニュース
つうか普通に敗けだと認識していたが
あれが勝ちだという見方もあるのか…
>>2
江戸・大掾の軍勢が攻めてきたからだとか
ちなみに近衛の小説では正室の謀略になってた
要するに疑問の余地があるってことだろうな
佐竹家譜などでは、義重の代わりに佐竹の大将を務めていた小野崎義政が、
下僕に刺されて死んでしまった為に兵を退いたとなっているけどな。
義重室が伊達を潰さないように懇願してた事は、人取橋の後の郡山合戦なんかでは記述があったはず。
佐竹が攻めあぐねたのは、観音堂で伊達成実の特攻攻撃を受けて怯んだためだな。
当時の政宗、成実、景綱らの行動は、1/3以下の兵力にかかわらず狂気じみた凄みがあった。
佐竹が人取り橋で兵を退いたため、連合軍は瓦解してしまった。その後、二本松、葦名、二階堂
と、ドミノ倒しのように伊達に併呑されていった。
南奥州を見殺しにしたのは、優柔不断な佐竹の責任と言うことになる。
というか伊達勢はどこも押されっぱなしで
死にもの狂いでなんとか日暮れまでしのいだが死傷者も多くボロボロで
翌日攻められたら全滅か潰走しかなかったよ
会津勢も確実に仕留めようと慎重に準備してたが
逆にそれが仇となった
まさかあんな事態になるとは誰も分からないから仕方ないが
勝負は時の運といったところか
英雄はみんな運がいいんだよw
伊達の外交力がいかにショボイかわかる
激戦の翌朝、連合軍は遁走していた。敵陣はもぬけの空状態。
政宗としては笑いがとまらなかった戦いである。
徳川家康も、この戦いにいち早く注目し、以後伊達家との同盟
を深めていった。
その後の伊達家躍進に繋がったことは確かである。
やはり伊達の奮戦は評価されるべきだな
⊃関ヶ原
真相は黒巾木組(漢字が分からん)が暗躍して佐竹の叔父が殺され、岩城・石川
辺りが引き返すとか、いろんな情報かく乱を伊達忍群が行ったのではあるまいか。
江戸や里見が攻めてくるとかも、情報を錯乱させて疑心暗鬼に陥らしたのでは。
で、あまりに恥ずかしい撤退しちゃったんで、叔父の死は突発事故とかにしたんで
なかろうか。 でなきゃ理由がつかぬと、いろんな本で言ってはる。
黒巾木組暗躍のことについては、伊達秘鑑とか言うので軽く触れられてる。
ああ後小大納言がかなり手助けしたかもね。政宗なら女・子供なんでも使ったと思う
特に滅亡寸前だったし。
理由もなにも総大将が死んだら戦できるわけないじゃん…
大将なしで戦やってるほうが異常事態だよ
まず江戸らが出陣した記録が一つもない
そもそも義重が出陣した記録すらない
前年は沼尻で100日に渡って北条と対峙して
講和したものの人取橋の数カ月前まで下野に滞陣し
北条も上野や下野南部に兵を進めていた
それで義重は国を空けられず義昌を総大将として出兵したものと思われる
で、馬丁に刺される事故で横死
義重が出陣していれば義昌一人が死んだぐらいで撤退するわけがないから
信憑性は高いと思う
江戸らが出兵する動きを見せたと言う事は永慶奥州軍記に見られるが
これは佐竹藩士が記した物で当然のようにかなり佐竹贔屓に書かれていて
義昌の不名誉な死を隠蔽しようとする意図があるように見える
実際義昌の死に関する事柄は後の佐竹のどの資料見ても不自然なほどに伏せられている
本宮城には中嶋伊勢守・浜田伊豆守・瀬上中務少輔・桜田右兵衛尉を配置し
玉井には白石若狹守を守将とした
伊達成実は渋川から小浜城へ四本松経由で入場したが
小浜には小数の兵を残し岩津野の政宗本陣に合流する様に指示された為
馬場日向守・青木備前守ら300騎を残して岩津野へ向かった
政宗本陣に合流すると
前田沢兵部少輔と言う者が会津側に寝返り
その者を案内として高倉・本宮に攻めて来ると思われるので高倉付近に進出して応戦するよう伊達成実に命じた
伊達成実は出陣し糠塚で夜営した
残りは本宮の政宗本陣へ当たる事を決した
11月16日、蘆名・岩城らの兵が前田沢の南に布陣すると
政宗は岩津野から本宮へ陣を移した
翌17日早朝、会津勢が高倉方面へ移動を開始
政宗も兵を二手に分け、一方は伊達成実を将とし高倉城まで進出させ
もう一方は片倉小十郎・伊達上野介らに大勢を与え大田原へ配置し連携をとらせた
高倉城の守備隊は打って出るか見過ごすかで揉めたが
伊藤肥前守・富塚近江守が
追い込まれようとも眼前の敵を見過ごすわけにはいけないと主張したので総勢で打って出た
会津勢は横合いから攻め掛かる高倉城兵を煩わしく思ったが
そこに後続の岩城勢がやってきた
高倉城兵は岩城勢に対し足軽を前進させ弓鉄砲を撃たせ
その後から武者が続き岩城勢に攻め掛かった
岩城勢からは竹貫三河守の隊が進み出て
雑兵に構わず後方の武者に矢を射よと命じ
手練の弓兵600名が揃って矢を放ち伊達勢の武者に降り注いだ
これには伊達勢も怖じけづき早くも後ろを向いて逃げ始まった為
竹貫三河守は一斉に攻め掛かった
その中で窪田十郎と言うものは茂庭左月を追い掛け易々と首を獲り、竹貫三河守も良き首を獲た
これを始めとして蘆名・岩城勢は勝ちに乗って伊達勢を突き伏せ首を多数獲り高倉山上まで追い詰めた
その部隊は白川・須賀川勢に遭遇したが会津勢は相手にせず大田原の伊達勢に攻撃を開始した
その為、浜田伊豆守らは背後を会津勢に遮断されてしまい
高倉付近の伊達成実ね陣へ合流しようて急いで駈けていった
やがて浜田伊豆守らは伊達成実の陣と合流し、大田原と高倉の二カ所で合戦が行われた
大田原を一掃し本宮の政宗を討ち取るべく攻撃を開始した
伊達勢も一応の防戦をしたものの耐え切れず観音堂を下り本陣へ逃げ始めた
敗走中に伊達勢は100騎あまりも討ち取られたが
原田左馬助・片倉小十郎・伊達元安・同上野介・同美濃守・同彦九郎らが踏み止まった為
本陣まで崩れる事はまぬがれた
腹背に敵を受けて進退窮まりここで討ち死にと覚悟を決めていた
会津勢は高倉城兵を山上まで追い上げ本宮へ向かおうとしたが伊達成実隊を見つけたので一旦兵馬を休ませた
伊達成実の陣中に伊達遠江と言う70を越えた老武者がおり
今日の戦が最後と言い会津勢に一騎駈けし、会津方2人と戦い一人を討ち取った
これに始まり伊達成実隊が会津勢に攻め掛かると会津勢も浮足立ち5町ばかりも後退した
しかし会津勢も橋爪で態勢を立て直して攻撃に転ずると今度は伊達勢が追われて元の陣まで押し返された
牛坂左近・萱場源兵衛などが会津勢に入り込み戦ったが勝敗は着かず引き分けた
伊場遠江は会津勢の中で傷も受けずに戦ったが退却中に会津兵一人が追い2太刀斬りつけ深手を負わせた為その夜死んでしまった
戦いが続くうちに兵馬も疲れ更に冬のため日も短く
会津勢はあと一歩のところで残念に思いながらも陣に引き上げていった
政宗本陣を目指した石川・白河・須賀川勢は観音堂を守る兵を蹴散らし進めば政宗本陣の5、6町の近さまで迫っていた
会津勢は一旦動きを止め兵馬を休ませてから本宮の政宗を討ち取ろうと観音堂から川端に移動し
弓を張り替え鉄砲の火繩に点火して準備をしたが
日暮れとなってしまったのでやむなく陣へと退いていった
それを見て政宗も岩津野へと退いていった
明日の夜明け前に本宮を攻める事を決した
会津勢の中に100人ばかりの逃げ遅れた伊達勢が紛れていた
その者達は会津勢の動きを聞き夜半に紛れて岩津野へと帰り政宗へと報告した
政宗は今夜の内に対策するべく山路浜路なる者を高倉の伊達成実へ遣わし
会津勢の朝駈けを伝え、本日無事であった功を労い
死傷者が多数出てるだろうから今夜の内に本宮へ合流するように指示した
だが既に深夜だった為、夜明けを待って本宮城に入り会津勢を待ち受けた
ところが世が明けても会津勢は攻めて来ることはなく、その姿すらなかった
今回の合戦で佐竹からは佐竹義昌なる者が大将として来ていた
義昌は馬を大事にする者であったので明日の合戦に備えて下郎達に馬の手入れをさせていたが
その中の一人の手入れが気に入らず、その者を蹴り倒した
その者は短気であったらしく咄嗟に刀を引き抜き
義昌の胸を突き通してしまった為に義昌は即死してしまった
大騒ぎになり事件は各陣にも伝わると会津四天らが集まり相談をした
頼りの佐竹が引き上げてしまっては士気に関わるし、明日の合戦で確実に勝てるか分からない
一旦黒川に帰り後日の為に鋭気を養う方が良いだろうと決し
その夜の内に全軍国元へと帰っていった
伊達の陣ではそのような事が起きていようなどとは夢にも知らず
なぜ攻めて来ないか不審に思い物見を出すと会津勢は引き上げ前田沢も共に付いていったと言う報告であった
それでも信じられず更に物見を出すとやはり会津は完全に引き上げたと言う事だった
用心して政宗は本宮へ行き再度岩津野に帰り様子を探ってみたが
何事もないので小浜へと引き上げていった
佐竹、葦名、畠山等の連合軍3万に対して伊達軍はわずか8千人。
死者は連合軍960、伊達420人で、連合軍は散々痛めつけられている。
連合軍は、伊達の粘りに屈し、恐怖にかられ、戦場を放棄してしまったのが
真相だ。
大将が死んだから撤退というのは、ありえない。佐竹の苦しい言い訳にしか
聞こえない。
その数字は俺も見たことあるけど、ソースがわからんな。
調べても両軍の戦死者数までは載ってないことが多い。
人取橋における連合勢の目的はなにか、伊達勢の目的はなにか、それが問題だ。
畠山攻略→失敗
連合軍の目的
畠山の救出→成功
旧領の回復→失敗
やはり引き分けだな…
伊達はかなり死傷者が出て1年ほど動きがとれなかったが
連合軍も盟主の芦名が跡目争いで崩壊
佐竹は対北条戦で忙しく奥州に構っていられなくなった
人為的でないにしても結果的に見れば損害は多くても伊達の方が有利になったな
1年じゃないよ。正確には8ヶ月後に畠山を滅ぼしてる。
それに冬場は動けないことを計算に入れると、実質的には半年も経ってない。
つまり損害もそれ程大きなものではなかったのだろう。
真冬でも合戦してるだろ
状況が許さなければ真冬でも真夏でも戦するに決まってるじゃん
お前出身どこだ?
俺は君達の大好きな上杉家臣だよw
まあ、俺は福島育ちだけど
君の方こそ
雪の為に行動できません
てゲームの内容で想像してるんじゃないか?
東北だから何処でもいつでも大雪じゃないんだぞ
あまり馬鹿にしないでくれw
アホか。
俺も山陰地方の雪国育ちだ。
福島育ちは徐行されたアスファルトの道ばっかり想像してんのか。
>>44
例外なんて探せばいくらでもあるよ。
それに常に積雪があるってわけでもないから、その間は行動出来る。
だが降雪の時期になれば交戦中でも陣を退くのがデフォ。
攻め手が優位なら和議、そうでもなければ追撃戦が展開されるわけだ。
郡山で雪国って
>>45
何それ。雪国の定義について議論でもしたいわけ?
そもそも何故郡山限定で話をしてるのかが解らんわけだが。
政宗は郡山で挙兵して郡山で戦うのか?
それから俺は郡山でも十分雪国だと思いますが。
人取橋の翌年元旦にも芦品と伊達の間で渋川合戦があったしね
なんかの本に、伊達軍戦死者400人弱、連合軍戦死者900以上って載ってた
ような…うそクセぇけど、事実なら芦名佐竹主力の連合軍ってかなりの
ヘタレ?
はっきりした数が書いてある資料があるなら見てみたい
そもそも兵数からして謎だからね
名のある武将が討ち死にした話しもほとんどないし
数に勝る連合軍がひしひしと押して行って
伊達が高倉と観音堂を防衛線に抗戦した所で日が落ちたってだけの話しかと
合戦の詳細が少な過ぎるし、獲った首級についての話しが殆どない
要するに特筆する事があまりなかったと言う事だろう
あったとの記録在り。場所は高速の本宮で降り左を直進。左の田園地帯に看板ある。
東北地方も、日本海側以外はたいして雪降らない。
むしろ、山陰地方の方が雪は降る。
北だから雪が降るんじゃなくて、
日本海側は寒いのに湿度が高いから雪が降るのだ。
当時の東北人も雪にはなれてたと思うしもちろん雪のための撤退はあり得るが
雪深い越後でどうやって行軍してたのだろうか…
水上に抜けるあたりで凍死しそうだけどw
山越えするんじゃないなら、雪が大きな障害になることはないでしょ
冬場に雪がずっと残るとは限らないし。
そもそも「連合軍」が成立している、ということは、
少なくとも人取橋の戦場に軍勢が集結する妨げになるほどの積雪量ではなかったと言える。
連合軍総司令官が横死したのが事実だとしたら、そこに謀略があった可能性も想像されるだろう。
そういえば、芦名盛隆も不自然な死に方だね。
いや、飛躍した想像に過ぎないのだけど、そのほうが話としてはおもろい
連合軍の総大将てのは存在しないよ
蘆名盛隆死後嫡子亀王は僅か2歳で盛隆の正室と会津四天が補佐する形になっていた
元々各大名は蘆名や佐竹の従属国じゃないから
あくまで立場的に協力者に過ぎない
だから誰かの命令で動いていたわけじゃない
会津四天が合議して各大名に相談すると言う形だったようだ
ぐだぐだになったのはこの辺りが要因だろう
ちなみに盛隆は寵童だった大庭三左衛門に殺された
盛隆は男色家で初め大庭を見て気に入り小姓奥番にしたのだが
次第に大庭に興味を失って相手にしなくなったのを根に持たれ刺し殺された
と言う無惨な顛末…
逆に少ない時こそ攻めるってのもあるんじゃない?
敵地で稲穂狩りしたり略奪すればいいわけだから。
収穫期に攻め込まれるのが一番嫌だろうね。
自分とこの稲刈りの作業ができない。
あまり好ましい手ではないな
冬だろうと夏だろうと合戦はあるんだから、できないという話がどこから出てくるのかわからない。
もちろん季節によるメリットデメリットはあるが、やろうとしてできないわけじゃない。
青田がりや麦薙といった敵地の田畑を荒らす戦術は普通に記録にあるし、農繁期だから出兵できないということもない。
もちろん自領の収穫も損なわれるのだが、実際にやっているし。
それより問題は
連合軍が後世の目で見ていかにも中途半端なタイミングで撤収した理由では?
色んな意味で恐るべし葦名四天
天正十三年夏の頃葦名亀王殿四歳にて逝去し給ひけるに依りて
四天の宿老葦名十六人の御一家執権金上遠江守を始めとして
小田山城に集まり御名跡の儀評定あり
四天の宿老申されけるは政宗の御弟政道を御養子に被成候はば
伊達と葦名といよいよ和睦し国の便りともなり日々葦名の御家繁盛せん
其上越後の上杉景勝公は御一家といひ関東の北条氏政は同じ平家の流れたり
然ば是と心を合わせ武田信玄を責亡し都へ討て登りなば
終いには葦名の天下とならんこと何の子細か候はん
つまりあれだ
連合軍は大きな戦果をあげながら、寄せ集めゆえに長期間指揮系統の統一を維持できずに瓦解した。
政宗の立場では、連合軍が結成された段階で既に政略・戦略面で負けているといえる。
いわば、避けなければいけない道だった。
だが、その死地から、大きな損害をだしながらも巻き返しができる範囲に損害を抑えてたうえで、生還したことは、ある意味、勝ちといえる。
そしてこれは怪我の功名だが
連合軍をもってしても打倒しきれなかったということが、以後の反伊達の勢力が足並みを揃えられなくなった要因の一つではないか。
いわば、合戦に負けても、事後処理で勝敗がひっくり返されたケース。
どんどん伊達好きの肩身が狭くなる
大崎攻めも失敗してるし、あんまり戦に強いイメージないな。
佐竹が兵を引いても芦名中心の連合軍の総数は伊達を凌駕していたはず。
まして、戦死者の数で下回っていたとはいえ、鬼庭左月など幹部に戦死者を
出し、満身創痍の伊達軍が相手なら普通に力攻めで撃破出来たはず。
それに総大将留守政景の岳父、黒川晴氏が寝返るという誤算もあったしな
そのあとの展開考えると
たいした戦してないし
優秀な政治家だろ
優秀な政治家とか
それは感じない
人取橋は敗北じゃないよと言ってるだけ
馬打ち領とすること」。大崎家はこの条件を丸呑みにするしか
存続の道はなかった。
稙宗みたいな支配の仕方だがw
野戦上手の佐竹義重相手に、人取橋・窪田の戦いで劣勢で引き分けに持ち込み
佐竹が消えた途端、スリアゲハラの決戦では、あっさり葦名を壊滅させちゃうん
だから鬼の部類だろ。だいたい独眼竜なんて命名されるのは戦に強いからだと思うけど。
義重しかり、謙信しかり、信玄しかりでね。
実家に逃げ帰るような当主で内部崩壊してた葦名に
勝った事なんて全国見渡したらたいしたこと無い。
奥羽六十四群中三十余群が伊達家の傘下に入った摺上原の戦い。
秀吉には恐ろしく衝撃的な事態だった。
政宗の謀略工作に翻弄された佐竹義重は、有効な葦名支援すらできずに、
なすすべもなく、すごすごと逃げ帰っている。
勝ちと引き分けしかないんだったら、強くないという結論にはならんと思うが
相手が弱いからとか言うのは理由にならん気がする
強い相手と戦って負けているという事実が必要だと思うわけだが
周りに雑魚ばかりだと評価むずかしいね
50万石の伊達と4万石の畠山が戦ったらどっちが勝つか
50万石の伊達と30万石前後で内乱と分裂が進む葦名が戦ったらどっちが勝つか
常識的に考えれば簡単に結果の予想がつく
>>104
相馬家はわずか6万石に過ぎなかったが、伊達家とは三十回以上戦っても、
最後まで領土を死守しぬいているが?
また政宗と隣り合わせになった大名は、心理的、軍事的に、逆に政宗から
圧力を受け翻弄されまくって衰退する。
90万石の蒲生は、氏郷が死ぬと息子秀行は12万石に左遷。
120万石の上杉は、会津から一歩も動けず、30万石へ転落する。
政宗は、たかだか58万石に過ぎなかったが、上杉などは終始伊達を警戒し、白石城すら
奪還できなかった。
葦名も佐竹、相馬、岩城等の共闘者がいたのに滅ぼされてる。
個々の石高だけで計算するのはどうかな。
いかに味方を増やして敵の力を削ぐかと言う事だ
優勢だからって正面から当たる馬鹿もおるまい
ちなみに南奥州全部合わせて伊達と同じぐらいの国力だからw
伊達は最上にも大崎にも気を配ってなきゃならないよ。
でも彼らに手出しさせなかったのは政宗の政治力だよね。
背後から襲われてたら相当危うかった。
寝返らせたと言うより寝返って来たと言うべきだ
葦名家との確執で立場が悪くなったから近隣で力がある伊達に取り入った
別に政宗だからどうと言う事じゃない
>>114
しかしそれ以前に政宗が力を示していたから伊達家に寝返ってきたわけだ
そう考えると寝返らせたという表現は間違っていない
政宗に寝返ったんだよ
それに猪苗代盛国は既に隠居した身で、蘆名家中での立場を気にする必要はなかった
息子盛胤は蘆名に忠誠を尽くしてたわけだし
政宗が、て言うより伊達は昔から奥州一の大国だろ
別に晴宗でも輝宗でも構いやしない
ちなみ盛国は隠居したのが原因になってる
隠居後家中では相手に去れなくなり更に黒川に行った時義広にも軽ろんぜられたのに腹を立てて
盛胤が黒川へ出仕してる間に猪苗代城を襲って乗取った
そこに盛胤が帰って来て合戦になった
激戦になったが地元の僧侶達の仲裁により休戦
更に義広の命令で盛国は謹慎を受けた
当然盛国は面白くなく、この際は伊達に組して恨みを晴らしてやろうと
同僚の長沼氏と語らって伊達に内通した
>>118
だから、それには結局蘆名と事を構えるっていう政宗の方針が必要だったわけだろ
大内、畠山と食いつぶして猪苗代領付近まで影響力を持ったからこそ政宗を頼れる
それから伊達家が周辺で一番の大国だったことは俺も認めるが、
伊達家内部にだって混乱はあったんだぞ?
政宗派と竺丸派が対立してたのは言うに及ばず、輝宗の代では中野氏が裏切ったり、
最上家の策謀で鮎貝宗信が裏切ったり、伊達家も政宗の家督相続時代には結構衰退してた
その上周囲をほぼ完全に敵対者に囲まれて相馬家に侵入を許したりしてたんだよ
だからこそ一族の石川氏なんかすら、まぁ位置的な関係もあるが反伊達となったんだ
こんな中で誰が伊達家を頼るよ?
この状況を打破して勢力を広げたから政宗を頼ったんだろ
盛国の選択肢の中には矛を収めて大人しく隠居するってのもあるわけ
政宗がいたからこそ内通したんだよ
大人しく隠居するぐらいなら始めから反旗翻さないだろw
まして葦名家中の混乱でろくに援軍もだせずに
大内や畠山が落とされて孤軍と化した阿子島・高玉も呑み込まれた状態じゃ伊達に付こうと考えるのは普通の事
別に政宗の謀略能力云々は関係ない
それに地理的にも伊達以外に頼れる所なんてないしw
>>121
自己矛盾孕んできてるぞ
>大内や畠山が落とされて孤軍と化した阿子島・高玉も呑み込まれた状態じゃ伊達に付こうと考えるのは普通の事
>別に政宗の謀略能力云々は関係ない
>それに地理的にも伊達以外に頼れる所なんてないしw
政宗が勢力拡大したからそれに従おうとしたって、君自分で認めちゃってるわけだが
それはつまり猪苗代盛国を政宗が寝返らせたということだ
だから何度も言ってるだろ
葦名の支援があってこそ大内や畠山なんて小勢力が対立できたんだよ
それが葦名の衰退で会津領内維持で手一杯になってしまっては
伊達の10分の1にも満たない大内や畠山が守り切れるわけないだろ
余程無能でもなければ簡単に踏み潰せる
それとも伊達にとってはそんな事でも異例の大勝利なのか?
盛氏から当主何回交代してんだよ
内乱も多かったしあれじゃまとまってるわけない
そこを上手く突いて猪苗代を寝返らせたり、富田美作を寝返らせたりしてるから、
盛氏は嫡男盛興に家督を譲ったが28歳で急死
やむなく盛氏が黒川に戻り二階堂氏から盛隆を養子に入れて家督を継がせた
だが盛氏死後、会津四天松本氏などをはじめとする反盛隆勢力の反乱が相次ぐ
黒川城を占拠される騒ぎになったが次々反乱を鎮圧し一応の安定を取り戻しつつあった
そして金上遠江守を上方に遣わし織田との親交をはかり三浦介を任官される事となる
蘆名は三浦一族で三浦介を得る事は三浦宗家を名乗る事を許されたわけで
三浦復興と言う事で家中は大いに盛り上がりを見せたが
盛隆が小姓の大庭とのいざこざから殺害されてしまう
享年24歳、嫡子亀王丸がいたが1歳に過ぎず家中はまた混乱する
その混乱に拍車をかけるように亀王丸は3歳で病死
主を失い慌てて次期当主をどこからか迎える事となった
蘆名一族の金上派は佐竹、会津四天王は伊達を推して合戦に及びそうになるほど揉めたが
結局佐竹から義広を養子を迎える事に決まる
しかし義広もまだ11歳、初陣も済ませていない状態で
更に金上・大縄派と会津四天王派での対立は深まる一方
猪苗代氏も伊達派と蘆名派で揉めて親子で合戦
領内外で混乱は広まる一方だった
稙宗がいなかったら、相馬氏は伊達氏から宇多、伊具、亘理郡とれなかったし
その後の奪い合いも、その延長上でやってたから特殊
>>112
「特殊」も何も、天正9年の伊達政宗の初陣が対相馬戦だからね。稙宗と
晴宗が遠因をつくったのは事実で、亘理へ相馬義胤が攻め込んできたため、
その防衛戦として出陣しなければならなかった。十五歳の武将が、戦に
手慣れた相馬の「矢形の備え」を崩すのは容易なことではなかったことは
簡単に推測がつくだろう。
伊達が奥州随一の勢力だったから政宗の勢力拡大がうまくいって当たり前、という論法の問題点は、
先代、先々代で伊達氏が対外的に劣勢だった件だろう。
もっとも、勢力拡大に消極的だったという理由付けは可能だ。むしろ権臣を排して内部体制をある程度まとめたからこそ、政宗は積極的に動けた(その点で一番のネックが実の母、というのは泣ける)ともいえるが、その条件を誰でもが生かせたのだろうか?
あと、ごくごく一部だとは思うが、
国力で上回っているから勝って当たり前、
というのを歪んだ論法で拡大解釈して、
ゆえに優れた武将だから勢力を拡大できたと証明できない→
すなわち優れた武将ではない→
すなわち無能あるいは愚将、
というヤツかいるようだ。
大内を降して、畠山、蘆名、二階堂を滅ぼし、
猪苗代、長沼、白河、石川、田村家中の相馬派、大崎と屈服させていった。
相馬、岩城も風前の灯火だし、北条とも敵対関係にある佐竹とて危うかった。
この辺りが降されると間違いなく、最上、葛西といった同盟関係にある連中も実質的には従属関係となる。
まあ…最上は当主がやり手だから、そうそう下手は打たないだろうが、
義光が政宗に対して弓引く等とは考えにくくなり、共闘の道を歩むだろう。
伊達、最上、葛西が連合すれば東北に敵はいなくなる。
秀吉の小田原征伐によって後半は妄想の中の出来事となったが、
やはり政宗が戦上手だったことは疑いもない
これを否定する論理が周囲が弱小揃いだった~などとは笑止千万
それでは>>129のいうとおり、政宗の戦上手を否定できてはいない
ただ、政宗を中心とした勢力が東北を制覇するくらいの力量はあったと思っている。
願望としては天下を治めるほどの器量であってほしいのだが。
大崎の旧勢力、葛西の旧勢力などの力を借りたし
小次郎一派には、重臣の国分盛重も一枚かんでいたといわれる。
かなりのくせ者だよ
あれだけ無茶やってちゃっかり生き延びてるし
大内の寝返りで起きた人取橋の戦い。
人取橋の後、大内が弟の片平と共に伊達に寝返りたいと申し込んで政宗も許可したがいつになっても現れず
それどころか突然伊達成実の苗代田城を急襲して攻め落とし城主の木内主水を殺害
当然政宗も成実も激怒したが
「伊達に逆らう気なんてありません。これは蘆名を油断させる演技ですよ」
とか言って軽く済ませてしまった上に寝返るから領地くれくれ要求
政宗も渋々承知したけど結局この時は大内一人がのこのこ米沢に来ただけで寝返りに至らず
大内はかなり神経図太い…と言うか鬼だな
殺された苗代田の守備兵や木内の立場は一体…
親父死亡の遠因になった割にはあっさり許してる。
朝鮮出兵の渡海武将に挙げられた時に
ヤダと言って反旗翻せば面白かった。