で、チンギスの嫁はんが略奪されたあとに生まれた子なんで、血筋が疑われたって言う説があるよね。
でも、資料によっては,「実の子だったからこそチンギス自身が名づけた」とも言ってる。
実際のところは、どうなんでしょ。日本語とモンゴル語の「お客さん」という言葉のニュアンスも違うだろうし。
ジュチ=チンギスの息子ではない、という説、真相はどうなんだろ。
1.「客人」というニュアンスから、小説家がでっちあげた。
2.ジュチの出生に対する、チンギスの見解(疑ってる)。
3.反ジュチ勢力の当てこすり。
この辺が私の想像力の限界。
詳しい方、ぜひ教えてください。
けっこう、本気で知りたいです。
ニュース
間違いなくイェスゲイ・バァトルの息子である
チンギス・ハンの次弟もジョチ・ハサル(ジュチ・カサル)という名前だから
名前が客人の意である云々は理由にならないでしょうね。
ボルテ略奪の話は実際に史料に出てくるそうだけど、
このころのチンギス・ハンの活動については
モンゴル帝国の時代にすでに伝説化されていたところもあるので
本当のところはどうやら…。
歴史資料の中には、ジュチの血統についてはさほど気にされた部分は無いのかもしれませんね。
考えてみると、ジュチがことさら冷遇されてたわけでもないか。切り取り放題の西方ウルスを任されたんだしね。
少し調べてみると、チンギスの次世代も末子相続は濃厚に残されてて、支配民の大部分は末子のトウルイが継承してますしね。
でもそうすると、なぜ可汗の位を、ジュチでもなく、トウルイでもなく三男エゲディが継いだんでしょうかね。
一番目立たない人だと思うんだけど。
若い人間が一番先まで生き残るって考えで
チンギスハンがホラズム遠征に出発する直前、
後継者の話が出た。
チンギスがまず長男のジュチに発言させようとしたら
次男のチャガタイがブチ切れて、
「父上はこの穢らわしく嫌らしいメルキトの種に、御位を譲られるとでも仰しゃるのですか!!」と暴言を吐いた。
それを聞いたジュチも黙っていられるはずがない。
二人はお互いに胸倉をつかみあい、一触即発の雰囲気となった。
しかし危ういところでボオルチュがジュチを、ムカリがチャガタイの体を押さえ、二人を分けた。
暫くしてやや落ち着いた雰囲気になると、チンギスハンは
「今後二度とジュチをそのように言うでない」と静かに言った。
そして、後継者の問題については、ジュチ・チャガタイの二人がオゴタイを推薦し、それにトゥルイも同意した。
・・・だってさ。
>>3
結局チンギス家の中で一番のちのちまで繁栄したのはジョチ(ジュチ)の末裔だったりします。
>>4,>>5
末子相続っていうのは、
遊牧民は長男から順に財産(帳幕や家畜)を分与していって、
最後に親の手元に余った分を親元で過ごしていた末子が相続するっていう制度。
だからチンギスのように一代で財産である家畜や隷属民を増やした人物の末子は
結果的に大部分の財産の相続にありつくことができる。
でも、ハン位はあくまでクリルタイで遊牧国家の族長層の総意を受けて決まるものだから、
財産を持っている末子が継ぐとは限らないわけです。
>>6
有名な話ですよね。
出典はなんなんでしょうか。
歴史学者は無視してることが多いので、
あるいはアテにならない伝説の類のかもと思っていますが。
>7さん
確か出典は元朝秘史だったと思います。
確か、エゲディの即位はチンギス没後しばらく経ってから(3年後とか。それはグユクだったか?)だったと記憶してます。
絶対権力者のチンギスがいないとき、他の皇子を推戴させると、国が割れるってことだったんでしょうか。
モンゴル帝国2代~5代あたりまでの王位継承経路って、なんか陰謀臭くていいですよねえ。
>>9
チンギスの死後2年間は末子トゥルイが
「監国」として国政を取った、というのは元史の話だったかな。
オゴデイ(ウゲデイ)死後は5年間、第6夫人ドレゲネが国事を代行。
遊牧民は嫡長子に相続させるという決まりがなかったから、
ハン位を巡る争いがおこりやすいみたいですね。
>>10
西チャガタイ・ハン国はすぐティムール朝に飲み込まれたし、
東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)は地味…。
その末裔のカシュガル・ハン国は17世紀まで辛うじて続いたけど。
カシュガル・ハンの子孫は清の爵位を貰ったけど
18世紀に断絶した、となにかで読んだ覚えがあります。
その史実が伝説化された形で『元朝秘史』に現れているので小説ではチンギス父子の葛藤という脚色で表現された、と。
結局ジョチは他の息子と同様に4個の千人隊を与えられているし、遊牧民は長子相続でもないのだから、冷遇されていたというわけでもないのでチンギス・ハン自身がジョチの出生を疑っていたとは言えないのでは。
あと、ジュチ・ウルスに関する資料なんかを教えてもらえたら、なお感謝。
ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)については日本語じゃ全然概説書がないです…。
そもそも日本のモンゴル帝国史研究の中にはここをメインに扱っている人がほとんどいないのかな?
けっきょく杉山氏のようなモンゴル帝国研究者の概説書が頼り。
中公の世界歴史の『大モンゴルの時代』の7章がイスラム化までの時代について、岩波の『講座世界の歴史』(新しいシリーズ)のモンゴルについての巻にあるキプチャク草原史についての論文がバトゥ家断絶以降について、それぞれ比較的詳しいので私は主にそれを参考にしています。
系図は山川の世界各国史『中央ユーラシア史』が詳細で良いです。
光栄のチンギスハーン4の武将列伝にのってた
そうすると、>>2さんの仰っていた、「ジュチ・カサル」 のことも、「種違いのカサル」ってことになるんですかね?
カサルって、晩年はどうだったんだろ?粛正されかかった(チンギスお気に入りの側室、クランにふざけかかったのが理由でしたっけ?)こともあったし、チンギスの兄弟で、チンギスの死後勢力を持ったのは、テムゲ・オッチギンだったし。
あまりパッとしなかったんでしょうか?
>>27
現代モンゴル語の辞書で調べたら
ジョチ(jochin)という単語は「来客」という意味しかなかったです。
>>21さんの見た列伝は(そのゲーム持ってるんで)確認したら
「種違いであるとの疑いを受け、ジュチ(=客人)と名づけられる」
としかありませんし。
カサルは(杉山正明さんの本によると)
諸弟に分与された左翼12個千人隊のうち1個隊しかもらえなかったはずですね。
(早世のカチウンの遺児が3個、テムゲが5個、母ホエルンが3個)
こちらはジョチと違って明らかに冷遇されているような…。
テムゲ・オッチギンがチンギスの死後も力を持ったのは当然です。
彼は末子なので母ホエルンの所領3個千人隊を貰っているし、
兄のカサルもカチウンもチンギスの生前に亡くなっていますからね。
のそれぞれ千人隊を与えられた。諸弟のなかではカサルは冷遇されたようだ。
ちなみにジュチ、チャガタイ、オゴタイの諸子はそれぞれ4。
後世、力が均衡している西方の諸子ウルスはそれぞれ独立した行動をとるが、
東方の諸弟ウルスは圧倒的なオッチギン家を盟主にまとまった動きをとるようになる。
蒙古人てさ、子供が成長したら家畜をや財産を分け与えて自立させるでしょ。
王様なら、領土を分けたり、当然のようにするんではないかな。
支配地や占領地の遠いほうから順に兄ちゃんが貰っていって、最後に末っ子
が本国をもらう。
最初から占領地を分けてそこの領主に納まらせるつもりで、「客」なる
名前つけたんではないかな?
面白い考え方だと思うけど、ジョチが生まれたのは
チンギス・ハンがモンゴル部族のハンになる(1185年)よりも
さらに前だったはずだから、
生まれてすぐつけた名前だとするとおかしいんじゃないかな。
ただその時期には同時代史料なんてないだろうから実際はわからないし、
後付けの名前だとしたら可能性はあるかもしれませんね。
・滝川一益とかいうマイナーなのに信長の野望でいつも良い能力もらってる謎の男
・三国志が歴史の教科書で一瞬で終わってしまうの怖すぎだろ・・・
・昔の人「俳句は5・7・5、決まりです。すこし余る位ならOKです」種田山頭火「…」
・歴女「えまって。武将の家系図に母親の名前ないのって女性蔑視じゃない?呆れる」
・島津家ってよく考えたら、とんでもない畜生じゃね?
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