「無類の上」だそうな。
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Q 「籤」はなんと読むでしょう
1 いかだ
2 ぜいちく
3 しなちく
4 かご
5の「さじき」に決まってんだろ!馬鹿!!
現代の義教の評価は確かに不当過ぎるほど低いな。
南朝完全に滅ぼしたってだけでどの足利将軍より功績あると思うけど。
義教とはどんな人物なのか。
「比叡山攻め」「南朝殲滅」「関東平定」「宗教界制覇」「九州平定」を成し遂げ、わずか13年で奥州から琉球まで制圧した。
これが彼の業績である。
どれをとっても偉大なことだがこれをひとりの人間が成し遂げたのである。
業績だけを聞いただけでも彼が日本史史上屈指の英雄であったことが分かる。
だが義教が偉大なのは結果を残しただけだからなのか。
では、義教のもっと深いところを見てみることにする。天魔王と呼ばれた義教である。
http://okasemi07.fc2web.com/hyou11.htm
「足利義教による琉球制圧」なんて事実はないんですが。
ドラマティック。
へ~。
キン肉マンの人がねえ・・・。
それは神谷明。・・・て言ってもらえれば満足か、おい?
本の名前は忘れたが…
政敵(義教に反逆行為)の弟・大覚寺義昭が逃亡の末に日向に落ち延びた。
最初は匿っていたものの、当時これも義教の政敵で永享の乱で滅ぼされた鎌倉公方・持氏の遺子を擁立して
反旗を翻した結城氏朝をようやく鎮圧(結城合戦)でき、義教の権力が絶対的な状況下では、匿う余地が
なくなってしまい、ついに島津が義昭を討った。
そして義昭の首を義教に送ったのを義教が大いに喜んだ。その喜び様は半端ではなかったと
公家などの日記にも書かれていたそうです。
そこに後の島津氏の琉球併合の正当性を持たせる為に、義教が恩賞として琉球支配権のお墨付きを
得たと改竄した。
だそうです…
家光=才気あふれる弟・忠長
義教=運で選ばれた将軍
後世の信長は高く評価されているが義教は芳しくない。
「オリジナルを考え付いた人間とそれを模倣した人間どちらが偉いか」と聞かれれば「オリジナルを考え付いた人間」と答えるであろう。
有る物を真似て改良する事はやろうと思えば誰でもできる。
しかしオリジナルを考え付くことは常人にはできない。それは天才のみが行える行為である。
されば何故信長は天才と称され義教は評価されない?余りに不当な事ではないか!!
信長は義教の「真似」をしたに過ぎない。かの「比叡山焼き討ち」でさえ義教の行為を踏襲したまで。
しかも義教は断固として処置したにも関わらず信長は祟りを恐れて躊躇している。
どちらが上かは言わずもがなであろう。
今回はその辺りの誤解を解く一石になればと思う。
足利義教「比叡山焼き討ち」って言っても幕府軍に包囲された比叡山の坊主どもが、
あてつけに根本中堂に火を放って「火定(焼身自殺)」をやらかしたしたのが真相なんですが。
よく知ってるね。
そんな事。
その前に金輪院らをだまし討ちにしたのが原因でしたね。それだけで
も大したものでしたが。
義教の周囲の側近達が比叡山への軍事的圧力にかかわるのを敬遠した為に、
義教の思うが侭に動かせる軍隊を持っていない以上、攻撃が出来ず。
義教の腸は煮え繰り返り、何とかして懲らしめる機会をうかがってたんでしょうね。
そして、自陣に引っ張り出して討ち取った…
しかし、坊主達の自殺が世評に響く事を恐れて、緘口令をしいたのが…
今日街角で「抽籤箱」を見た。
旅行会社のキャンペーンなんだけど 今時使うもんだねぇ
後鳥羽か?
北条泰時は籤で後嵯峨天皇を皇位につけたといわれているが?
一応、かたちだけ籖は引いたようだけど、後嵯峨を帝位につけることは
最初から決めてたんじゃない? 倒幕派だった順徳院の皇子(忠成王)を
天皇にするわけにはいかないし。
あと、後鳥羽も実質的には後白河院の意志で帝位についたけど、義仲が
以仁王の遺児・北陸宮を帝にしろと口出ししたりいろいろあったもんで、
ご託宣やら籖やら、いろいろややこしい手続きを何度もふんだ上で即位
させられてる。
43。幕府は京都の望んだ天皇を断固拒否して、皇位継承権をし遂げた。
ってのは、後嵯峨だっけ?後鳥羽の孫なんだが。順徳系を否定できれば
良かったのかな?
かなーりの独裁ぶり。足利最大か?
勘合貿易の復活。
籤は恐ろしきものかな。
亡くなるけど)、忠成王が即位すると順徳院を都に戻さなければなら
なくなる場合もある。
2.順徳院は倒幕に積極的だったが、土御門院は消極的だったため、
土御門院の血筋の方が幕府にとっては好ましい。
3.朝廷における忠成王支持派の九条道家は将軍頼経の実父だが、
後鳥羽院を都に戻そうと言い出してから北条氏との関係が悪化して
いたのに対し、後嵯峨支持派の土御門定通は北条泰時の妹の夫で、
北条との関係は良好。
といった理由が重なったものと思われ。
サンクス。よく理解できた。鎌倉幕府は、だんだんと朝廷に対し強くなっていったようだね。
>>51
後嵯峨以後の皇統分裂については
鎌倉幕府が皇位継承について及び腰だった
(反幕府的な人以外についてはあまり干渉しなかった)点が大きい
積極的に介入してどちらか一本に決めていれば
後醍醐の即位もなかったし、鎌倉幕府の滅亡もずっと遅れていたか、
全く別の形で行われていただろう
確かに順当な継承位置だし。
専制を目指すという心理構造が不可解というか、籤のせいなんだろうか?
後の戦国期でわかることだしね。
専制の方が統制が堅くなったのは確かだと思う。
天台開闢以来の逸材とか言われて・・・。
くじで選ばれて、天魔の所業で・・・。
結局、部下に首をはねられて死ぬ・・・。
そのエクスタシーを赤松貞村にぶつけたら、蜜助が妬いた、とこういうワケで。
のりりんにしようぜ。
「悟り」に達していたのかどうかがちょっと気になるわけだが
禅修業なんかしたの?
元坊さんなのは知ってるけど。
もし悟りを開いて、その結果が比叡山焼き討ちだったら……ちょっと面白いかもな。
まあ常識的に考えて、
元僧侶であり、あれだけ禅に熱心な父や兄を持ちながら
一度も坐禅をしたことがない、という方がおかしいと思うが。
本人もかなり禅寺に寄進しているようだし。
悟っていたかどうかは誰にもわからん。
みたいなもの誰か持ってる?
当時の公卿・中山定親の記録によると、処罰されたのは公卿59(近衛忠嗣・
九条満輔の両関白歴任者を含む)、神官3、僧侶11(永助・弘助の両法親王
を含む)、女房7(称光天皇の生母光範門院を含む)。
ただし、これは永享6年(1434)までの記録で、嘉吉元年(1441)
までの処罰者はたぶん倍以上。また、武家・庶民の処罰者はもっと多い。
サンクス!
斯波義淳・畠山満家・三宝院満済といった
当時の実力者が亡くなった後、義教の暴走が始まった
みたいですな。この辺りは堀田正俊が亡くなった後
の徳川綱吉に似てる気がする。
いっしょにしないように、義教に失礼でつ。
最大の敗因は、子供が小さかったことじゃないか。
義永って子供もいたんだよな。
ちょっと不憫。
でもすごいね。足利家の将軍って、義満以外、ぱっとしないなぁと思ってた。
このスレ読んで、すごいと思ったYO
足利義教は典型的な専制君主だな。初代尊氏と3代義満も有力だったが
それでも数ある有力者の一人でしかなかったし、その他は飾り物に等
しい存在だった。混迷の時代、人々は一時的に専制君主を歓迎したが、
その恐怖政治は次第に嫌われるようになる。
赤松光祐の反乱だが、彼個人の私怨に周りの支持が加わったものだろう。
もしそうなら、信長とはやっぱえらい違いだと思うんだけど。
室町幕府は一貫して政権基盤が非常に脆弱で、これは事実上の戦国時代。
朝廷にしても南北朝で分裂しており、大変な混迷と戦乱の時代だった。
「日本」という国自体がまだ出来上がってなかったのかもしれない。
それと比べると江戸時代はなんと安定した長期政権だったのだろう。
百姓一揆や打ちこわしも頻発したが、専ら地方代官と大商人が標的。
義詮は南朝との争乱期。
やっと足利政権が確立したのは義満期。
しかしその後は、義持~義量は三管領に圧迫され、傀儡化。
義教が独裁体制を奪回するも、赤松光則に討たれ、
その後義勝~義晴は完全に細川の傀儡。
義輝によって、将軍権力向上が図られるものの、
義輝が松永久秀に討たれ、その後の義栄は三好三人衆の傀儡。
そして義昭は信長の傀儡で、倒幕。
要するに、室幕ってのは、守護大名や戦国大名に、
中央権力を認めずに、地方分権の統一の神輿として、
担がれてただけなのね。
つまりは将軍らしい将軍など、義満と義教しかいなかったと
いうわけ。
将軍らしい将軍って言うけど、実際のところは、鎌倉以来、徳川将軍家も含めて、将軍とはほとんどの場合「神輿」的存在であるケースの方が圧倒的に多い。
神輿である分を超えた「独裁者」は、よっぽどカリスマ性とか指導力が無いと好まれない傾向にある、というのも同様。
天皇もそうだけど、将軍も大名統合の象徴的存在として機能していた、ということではないか。
いうなれば「将軍機関説」?
まぁ日本という国は、よかれあしかれ、そういうものが必要な国なのかもしれないが。
君の言うとおり。
漏れの言った「将軍らしい将軍」とは、
最低限のリーダーシップを保持していた。
少なくとも、誰かの傀儡じゃないという程度の意味。
むしろ、義満&義教が例外。
鎌倉の頼朝も政子の傀儡。
それ以下は将軍らしい香具師は不在。
室町は義満と義教くらい。
江戸も家康と家光と吉宗くらいだろう。
(秀忠は正室お江の方には頭が上がらなかったとか)
頼朝や秀忠を傀儡というなら家光だって同じようなもん。
幼少の頃は春日局や土井利勝、成人後は松平信綱とか阿部忠秋といったブレーンたちの傀儡。
まぁ、側近たちの意見をよく聞いたからって傀儡とは言わんと思うがね。
もしかして君のいう将軍らしい将軍って、我が儘で迷惑な独裁者のこと?
それならあの「偉大なる将軍様」こそ最強のry
秀忠は別にいいんじゃね?
義持って、もっと評価されてもいいと思うがな。
彼がいなければ、ひょっとしたら、我々、「中華民族」にされてたかもしれないんだから。
義満のせいで、天皇の承諾抜きとは言えども、半分くらいは中華の冊封国であったわけだから。
「我が国は、古来から外に向かって臣と称せし事なし。向かい来るなら、刀を持ってお迎えする」
みたいなことを義持が大明に向かって、言ってくれたおかげで、今の日本があるのかもしれないし。
日本国の恩人と言っても良いくらいなのだが・・・。
日本国の恩人?なんで?
義満の中国への朝貢を辞めたから。
というか「我が国は古来より外に向かって臣と称せし事なし。向かい来るなら武力をもって迎え撃つ」みたいなことも言ってる。
義満の政策を踏襲してたら「一時的な半冊封」では済まなかったかもしれない。
>>123
結果的に攻め込まれずに済んだからねw。
義持の断交に永楽帝は激怒して、遠征軍の準備まで指示してるんだよね。
「元寇の二の舞はイヤ」って周囲に諫止されて思いとどまったけど。
思いっきり結果論のにおいがするんですが…。
まあ、確かに義持はもっと高く評価されてもよいかと。
特に政治的なセンスと言うかバランス感覚のようなものは、正直、義満や義教以上。
だいたい義持は、やろうと思えば義満や義教のようなことができるくらいの権力は持ってた。
それにもかかわらず、敢えてそれをしなかった点が義持の政治の特徴。
義持の造りあげた三管四職の合議制が潰れて始まった。
義持が将軍としてぱっとしないのは、義教や義満ほどには独裁的な将軍ではなかったからだが、
……なんというか、いい意味でも悪い意味でも、非常に日本人らしい将軍だと思う。
明にとっては一大事なんだろうね。
冊封体制は東アジアの安全保障に関わる
重要事項だし。やっと冊封してくれた日本が
為政者が代替わりしただけで拒否してくるなんて…。
結果的に後世、日本は朝鮮に攻め入って東アジアの安定を
崩してるし。しかも倭寇の取締りを正式なルートで依頼できなくなっちゃうし。
明が、もしこの冊封体制からの独立が他にも飛び火してしまったら
マズイって考えたとしても不思議ではないよね。
漢人の考え方は昔も今もおんなじ。
よその国(ただしアジア)はみんな自分たちに頭を下げ、貢ぎ物を捧げてくるのが当然。
そうしない国は武力で制圧されるのも仕方がないって考え。
実に度し難い連中だよ。秀吉でなくたってこんな奴らは征伐したくなるね。
>>144
まあ、元以降の支那の歴代は皆日本と直接武力衝突して
酷い目にあっているわけだが。偉そうにしていても日本
には勝てないw
元 元冦
明 秀吉の唐入り
清 日清戦争
中華民国 日中戦争
中華人民共和国 ?
このスレ消さないで下さい。
学会での評価は芳しくない義教ですが、司法権の徹底的な独立を図った最初の為政者である点を評価をする人は結構います。
袖の下もしくは有力者とのコネが全てであったこの時代に、公正さの概念を持ち込み、最後の調整のための規準を自らの絶対的権力に求めた彼は、ある意味では天才的な政治家と言えると思います。
そして「神から選ばれた」と考える人間が将軍である以上、誰も彼の暴走を止められなかったのではないのか?
(多分彼に反抗すれば即刻命がなくなるというテロ政治でしたから。)
彼の人気の前半は、有力守護大名にブレーキかけられてたんだが。
守護大名の世代交代でブレーキかけるやつが軒並みいなくなったんだが。
古代や中世の支配者連中は自分の権威を神聖視していただろ。
他の誰かの傀儡じゃない香具師の方が珍しいんだが。
テロ政治やりたい放題の絶対権力を手にするまでこぎつけるなんて
すげえ政治能力がないとムリ。
その権力を維持し続けることが出来たんならともかく、結局アボンヌされちゃったじゃん。
すげえ政治能力なんてねぇよ。
暗殺されたといっても
なかなか付け入る隙がなくて排除の順番が最後になった赤松が
ヤケクソなってテロ敢行したようなものだし。
義輝や信長のケースよりは
江戸時代の堀田暗殺や井伊暗殺に近いんじゃないか。
築いた権力が死後に崩壊したのは
個人のカリスマに頼りすぎたからだろうな。
確かに室町幕府は長続きしなかったかもしれないが
戦乱も長続きしなかった気がしないでもない。
政敵になりそうなのを次々粛清したから
信長死亡時の秀吉
秀吉死亡時の家康のような
ちゃんと天下を治められる実力者が残ってなかった。
>>168
何か矛盾しているような・・・・
室町幕府という、血統からも覆ることなく、政治システムとしても
完成された組織がある以上は、
政敵は殲滅した方が、政治は安定する。
彼の不慮の死後も、暗殺者の満佑は、天下を取ることなど
微塵も考えられず、播磨に逃げ帰った。
その後の戦乱というのは、義政・富子夫妻の私欲政治が原因で、
実力者云々という話ではない。
もし、この時期に、後南朝や強い関東公方が存在していたら、
もっと戦乱は収拾がつかない状況になっていたのでは。
信長死後、秀吉死後は、組織も確立しておらず、まだ混沌した状況。
実力者が天下を狙うように動くということは、
まだ戦乱が続いていると言うこと。
実力者を残しておいてよかった、と言う話にはならないのでは?
義教の政治能力は、やはり天才的だと思います。
守護大名の力が増大したこの時期、その力を削ぎ、幕府の統制を著しく高め、
その機能を非常に堅強なものにした。
守護の国替え、相続への干渉及び強制で、守護大名は幕府の一機関と成り下がった。
その一方で守護に対する、下位の者の下克上はほとんど許さずに、秩序を維持。
裁判などの調整機関の独立と、透明性の向上で、コネと賄賂で動く政治を徹底的に排除した。
この仮定での強権政治が恐怖政治と呼ばれてしまうのは、時代に先行しすぎたため。
徳川家康が江戸幕府において、その体制と組織を作る際にコピーしたのは、
鎌倉幕府でもなく、織田信長・豊臣秀吉の組織でもなく、
紛れもなく、義教が作り上げた室町幕府後期のシステムである。
明石散人説で既に出ているが、
そもそもの将軍選びの籤引きは、三宝院と義教の陰謀ではなかろうか。
20代の若さで天台座主に登りつめたのは、将軍家の力によるものではない。
義教の弟は、義教の強引な押しで天台座主を継いだが、
義教については、将軍家はそのような横槍を延暦寺に入れていない。
つまり、義教の人物としての傑出度は当代随一であり、
長幼の順からしても、次期将軍は義教が順当であったので、
籤引きなどをせずとも、管領をはじめ有力守護に擁立されることは、
まず間違いなかった。
しかし、義教は守護たちのロボット将軍になることを絶対に避けたかった。
そのため、わざわざ源氏の氏神の八幡宮(石清水)で、
神意を問う籤引きを行い、神の意志で選ばれた将軍として立った。
八幡と言っても、関東公方下の鶴ヶ岡で籤引きを行わなかった点や、
籤引きの実行者の三宝院が、その後勢力を増強させた点を見ても、
この籤引きは、やはり出来レース。
というか、日本の歴史上での籤引きというのは、神意を問う行為であって、
祭事の根幹である。マツリゴト=政であって、ある意味では、
籤引きは、為政者の統治行為正当化のための政治的パフォーマンスである。
卑弥呼に遡るまでもなく、和気清麻呂の宇佐八幡託宣による道鏡排斥、
後鳥羽・後嵯峨天皇即位への神意確認の籤引きなど、全て当てはまる。
義教が籤引きで有名になったのは、その籤引きによる神意を強力に演出し、
絶対権力を得ることに成功したためである。
去年行った同所の観光用パンフにも「青蓮院門跡・義円」とか「足利義教」といった名前は全くなかった・・・
>>173
まあ、延暦寺を追いつめて、それまで誰も手を出せなかった根本中堂を、
結果的に燃やしてしまったわけだから、義教は天台宗の最大の敵。
おまけに直前まで天台座主の地位にいたのだから、
延暦寺側から見れば、史上最大の裏切り者ととなるのでしょう。
(実は、そこが義教の一番偉いところだと思いますが・・・)
天台五箇所門跡の青蓮院からしたら、
憎き義教がここに居たと言う事実も含めて、
わざわざ紹介はしたくないっつうことですな。
>>174
つまり、宗教界の頂点と武家の頂点を極めた男か・・・。
しかも、その宗教界を容赦なく焼き討ち・・・。
これ、ヨーロッパに例えると、ローマ法皇だった男が、ローマ皇帝になって、バチカンを焼き討ちしたってことだろ・・・。
凄いな本当に。
>>177
追加。
史上最年少でローマ法皇になった男が・・・。
って事だな。さらに凄い。
雷帝自ら殺めた息子がイワン5世になってたら動乱もなかった。
日本人には合わないんだろうな。
面白い漫画か、小説が出れば注目されるだろう
それがでるまでは、この状態が続くかと
織田信長の評価は高いのに…
似た者同士だからな。
殺されたとこまで一緒。
ただ、決定的に違うのは、
義教には信長にとっての秀吉的存在がいなかった事。
義教は、自分の跡を受け継ぐべき人材を育てる事が出来なかった。
島津氏の琉球侵攻の口実作った足利将軍って義教でしたっけ?
厨な質問でスマソ。
義教の弟・義昭を討つよう命ぜられこれを果たす。
義教はこれを賞して忠国に琉球を加俸する。(名目だけ)
あがとう。
義昭って名前の奴の末路は悲惨だな。
まあこっちは「ぎしょう」だけど。
僕らよしりんファミリー
足利義教
山名義範
赤松義則
畠山義慶
大友義乗
>>219
佐竹義憲
義教に同音ヤメレって言われて義人に改名したのはいいが
人って天皇家の通字と同音やんけという
こいつがさっさと持氏ぶっ殺しとけば、佐竹与義・大掾満幹・宇都宮持綱が殺されずにすんだ
こいつが赤松なんかにぶっ殺されたせいで、佐竹が上杉に乗っ取られた
織田信長評は真反対だな。