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古代ローマ人や、シベリア先住民は小便で洗濯したり、顔を洗っていました。
それで顔洗ったり、飲んだり、煮炊きに利用したりと。
逆で悪名高いのが中世~近世のヨーロッパ人だな
フランス以外の国も、似たようなものだったの?
26 :世界@名無史さん:2007/10/08(月) 23:41:50 0
パリなんてナポレオン3世のパリ大改造まで、道は汚物だらけセーヌ川はものすごい悪臭と死体がぷかぷか、
と言うのが日常だったそうね。
当時は虫歯なんて相当な脅威だったんじゃないの?
今のような歯ブラシが使われるようになったのは中国の宋代以降。
禅宗の寺院から骨の柄にブタの毛を植えた歯ブラシが見つかっている。
歯磨き自体の歴史はもっと古く古代エジプトでも木の枝を噛んで先を房状に
したもので歯の手入れをしている。
へえ・・・中国人は葉を磨かないっていう印象があったんですが・・そうでしたか。
西洋人は肉食なので食べかすが残らず古代から虫歯は珍しかった。
逆に米食の日本人は弥生時代から虫歯が目立った。
(奥歯は約1本が治療が必要な穴あきC3、他は全部C1~C2という状態の人が多かった)
肉食だから虫歯になりにくいなんて医学論文を見た事はないですね。
動物園のライオンでさえ虫歯になるのにねぇ。
中世ヨーロッパ人が一日当りに摂取した肉の量は、
干し肉一切れで約15g程度です。
日本人に比較してヨーロッパ人の虫歯リスクを軽減する要素は、
唾液が多いことぐらいのものです。
もさもさしたパンを食べる文化圏の人間は唾液が多い事で知られてます。
とはいえ、決定的なほどの違いがあるわけではありませんが。
>>234
たいへんな遅レスだが
肉は歯垢がつきにくい。
炭水化物は糖だから歯垢がつきやすい。
動物園のライオンは何をたべてるのでしょうか?
参考文献は手元にないが歯医者関連の歴史本。
で、ヨーロッパ人は風土のせいもあって肉食(乳製品ふくむ)が普通。
中性の貴族は、野菜はたまねぎだけ、あとは肉という食事。
じゅうぶん肉食です。
江戸時代、花魁が髪を洗うのは月に一回。
饂飩粉をフノリで練ったものをシャンプーとして使った。
ふのりの使用は、『吾輩は猫である』にも登場します。
大正時代までは、シャボンも貴重品で、風呂屋に預けてあったのを、知人と
偽って暫時拝借する者までいました。
『石鹸は国民の反映と文化を測るものさしとなった。どのような点から見ても石鹸を多く使う国民ほど豊かで文化の程度も高いといえよう...』とドイツの有名な化学者ユストス・フォン・リービッヒはこう書いています。
今から約4000年前、小アジアのヒッタイト人がシャボンソウの灰を混ぜた水で手を洗ったこと、
シュメール人が手や足、身体を洗うためにアルカリ液を作ったこと、これが石鹸の始まりです。
しかしどちらも今でいう石鹸といえるものではありませんでした...
本物が作り出されたのは紀元前600年、航海民族フェニキア人によるものでした。
1世紀の学者プリニウスは名著『博物誌』に“山羊の脂肪とブナの木灰からsoapをつくる....”
という記述を残しています。このときの石鹸は鹸化と呼ばれるプロセスで作られていました。
しかし質は肌を乾燥させたり、湿疹の元になったりする粗悪なものだったようです。
その後<清潔>ということに価値を見いだしていなかったヨーロッパの社会、また肌をさらすことを
罪悪としていたキリスト教の影響などから、石鹸は人気を失いました。
その後8世紀になり石鹸を再起させたのはやはり医学の力でした。病気の一つの原因は、
細菌であることがわかり、入浴に対する意識が、特に裕福な人々の間で高まりました。またこの頃、
地中海沿岸の都市を中心に石鹸作りを職業とする人々が現れ、地名や都市名が石鹸名になり石鹸の
本格的復活となりました。イタリアの都市サボナは日本の「シャボン」の語源です。またこのころから
石鹸にふんだんに色や香りが付けられたるようになりました。 9世紀頃から12世紀にかけて、マルセイユは
イタリア・エスパニアの石鹸集散市場として栄えました。 16世紀初頭にはインドより移入したリンネ工業の
興隆の影響で石鹸の需要が大きく拡大、その結果ヨーロッパ石鹸業界に君臨、その後マルセイユ石鹸という
名を残しました。ちょうどこの頃日本に石鹸が渡来しました。
その後18世紀までは石鹸製造技術には重要な進歩はありませんでした。 1790年フランスのN・ルブランに
よって食塩からソーダの製造法が発明され、また油脂化学の進歩によって今日の石鹸製造の基礎が築かれました。
>>15
[その後8世紀になり石鹸を再起させたのはやはり医学の力でした。病気の一つの原因は、
細菌であることがわかり]
病気の原因が細菌であることがわかったのは19世紀のドイツのコッホの研究
8世紀頃は土地などから発生するミアスマを吸って発病すると考えられていた。
このミアスマは小さな生き物(毒気説もあり)とも考えられてもいたからニュアンスとして
細菌に近い気もするが実験的に証明されたわけではなく、あくまでも仮説だった。
手の脂っけや体はなにで洗浄してたんだろ。
平安時代の洗髪剤は小豆粉だそう。
あと、うどんの汁や米のとぎ汁も
石鹸には及ばないが脱脂力があるので使われたかも。
というか今でもこだわりでつかう人はいる。
草の茎みたいなもので、衰弱して噛む力がなくなっていたから
妻のアーイシャがかわりに噛んでほぐしたんだそうな。
手を洗い、口を漱いでから礼拝を行ったと記されていますね。
『梵網経』にも楊枝が登場しており、中国にも仏教伝来と共に伝わったものの様
で、9世紀末に敦煌の壁画に描かれた仏を礼拝する前に楊枝を使用しているも
のが、現存する中国最古の楊枝の絵です。
>9の『日本霊異記』には、玄奘の弟子の道照が登場していますが、これもまた
仏教の影響で「歯磨き」の習慣が伝来したものでした。
『華厳経』でも、楊枝の使用による10種の功徳が語られています。
もっとも、『正法眼蔵』によれば、道元が入宋した時には既に宋では楊枝は使用
されておらず、>8にある通りの歯ブラシがあったという事です。
こちらでは、馬の毛を牛の骨に植えつけたものという事になっていますが、い
ずれも仏典で定められた楊枝を使用しなくなったせいで口臭が甚だしく、仏法
滅亡も間近に感じられた、という事でした(象牙製も出土しています)。
裏を返せば、日本ではまだ楊枝を使用していたという事。
鉄漿のルーツは南方起源とする説が有力な様ですが、はっきりしません。
『魏志』にも、倭人の風俗が南方系だと書かれてはいますが。
古墳時代には、既に原形があったともいいますが、未詳。
また、百済にも「黒歯」の習慣があったという事です。
岡山県の一部で生産されていた香登鉄漿は虫歯予防にも効果があった様ですが、
残念ながら、どの鉄漿でも有効という訳では、ありませんでした。
鉄漿は20世紀初頭にはほとんど廃れ、完全に廃絶したのは、1970年代。
16世紀以降、レザノフやベルツや朝鮮通信使といった、諸々の外国人たちに
は不評でした。日本でも、今では時代劇にもまず出て来ませんね。
男性貴族が鉄漿を付け出したのは、衣装に大変化のあった鳥羽院の時代とも。
武士にも付けた例があります。これを貴族化と呼ぶのは、武士と貴族・上方の
文化が水と油という固定観念があるからでしょう。
どちらかと言えば、文化の中心であった上方の上流階級の習慣と考えた方がよ
さそうなもので、小田原北条氏の祖早雲も、鉄漿を家臣団に広めていますね。
ってかおはぐろって食事の味を変えそうでいやだな。すぐ溶け出しそう。
向う途中に立ち寄ったスペインの港町では彼らが洟をかんだ懐紙がお宝になったそうだ。
>>39
咸臨丸の使節だったか、江戸末期・明治初期の日本人がアメリカ人が布のハンカチで鼻をかむのをみて
「さすがアメリカ人は裕福だ」と感心した、という話があったと思う。
その後、そのハンカチは使い捨てではなく洗って再利用すると聞くと
「アメリカ人は鼻紙を再利用するのか」とあきれた、という後日談がついている。
支倉常長が遣欧使節としてスペイン国王とローマ教皇に謁見したときも
貴族が争って鼻紙を拾っていたようだけど。
日本から持ってきた鼻紙とするならたどり着くまでの期間や
供給不可の点を考えるとかなり疑わしい。
言われてみれば確かにそうだ、と思い再度調べてみると天正少年使節ではなく
同じ年にヨーロッパへ向かった支倉常長一行の話だった。
ちり紙の記述はスペインからイタリアへ行く途中に悪天候のため立ち寄った
フランスのSaint tropezの年代記にある。
他にも「食べ物を手で食べず、2本の棒を使って食べる。」と言う記述もあり
当時のフランスの田舎では手づかみで食べていたことが分かる。
ヨーロッパ人に驚かれたという話もありますが、典拠不詳。
かなり後の話になりますが、『常山紀談』には、17世紀に甲斐のちり紙に税
をかけようとしたところ、どんな貧乏人でも買える生活必需品を押えるべき
ではないという意見が出て、立ち消えになったと記されています。
日本恐るべし!
しかし大便のあと、紙で尻を拭うようになったのはかなりあと。
奈良、平安時代頃は尻を木の箆で拭っていた。このような箆を「チュウギ」という。
山村では、このチュウギを戦前まで使用していた例もある。
なお、平安時代頃には平安京には「便所」というものがなく、貴族は木の箱に大便をし、
川に捨てさせていた。庶民は、「餓鬼草紙」にもあるように路上に垂れ流していた。
なお、この場面を良く見ると、裸の少女の履いている足駄が明らかに大人用のものだが、
これは明らかに着物に跳ね返りがつかないように用心のための専用足駄であり、
路上の垂れ流しでもその場所には専用の足駄が備え付けられ、貸し出されていたことがわかる。
さきの「チュウギ」も、この場面に描かれている。
河本家本のアレですか。足元に、紙が散らばっているのも見る事が出来ますね。
京都に限って言えば、『餓鬼草紙』の時代には、既に紙の使用もありました。
尿筥(便器)の中身であれば、手近な溝や芥川に捨てる方が多かったかと。
かなりありましたから。
河原は葬送の地であり、また七夕には女房達が髪を洗うところでもあり、陰
陽師が祓いをするところでもあり、斎王が禊をするところでもあり、勿論魚
などをとるところでもあり・・・。
あまり綺麗だったとは言えませんが、今の様な「ただの排水路」と違います。
もっとも、川といっても当時の京都には、今では埋められてしまった多数の
小川が点在しており、古記録と現状とはずいぶんズレが見られますが。
外国の店で紙のナプキンだけで済まされるのは結構フラストレー
ション感じるのよ。
飛行機の話だけど、JALのおしぼりを真似て、最近は海外の機内でもおしぼり出すよ。
糞尿を窓から投げなくなったのっていつからだっけ?
ナポレオン三世が下水道を作らせるまで。
マントを着るのは、窓からの汚物から服を守るため、なんていう話もありましたな。
日本で大小便を肥やしに使うようになったのは、鎌倉以降。
便所が作られるようになったのもこれ以降でしょう。
少なくとも、馬糞の利用は確認出来ます。人糞の利用もおそらくこれ以降だ
と思われますが、考古学の成果で確認出来るのは、16世紀から。
全国的な広がりが確認出来るのも、この頃になってからでしょう。
野外便所は、南北朝時代に成立した『慕歸絵』に登場しています。
もっとも、一寸した手洗いの為に庭先で用を足す事は、山荘を中心に後々ま
で行われており、鎌倉時代から江戸時代まで、ほぼ同じ構造の手水鉢が縁側
に備え付けられているのが見られます(木製・柄杓付き)。
江戸時代、江戸の街から出る下肥は、出した人間によって等級があった。
最上品は、上級武家屋敷や豪商の便所から出たもの。やはり食べ物がいいと便にも栄養がある。
次に街の共同便所のもの。盛り場の共同便所は尿が多くて質が悪く、最下層品は牢屋の便所のものだった。
蛭を使って血を吸わせる話はよく聞くが。
多分あれは蛆虫治療の画像だと思うな。
労せずして腐った部分を除去できるってやつ?
再生したとか。
悪くなった部分のみ食べ、健康な肉は食べないから、傷がきれいに治る、と。
食器は米の研ぎ汁や、サイカチの木の実を溶かした水を使って洗った。
衣類は灰汁やフノリを使って洗った。
石鹸を作るには、まず脂肪分と灰汁を大釜で煮込み、それに塩を加えてから
型に流し固める。
西洋では相当古くから石鹸が作られていたようだ。
アメリカの開拓時代も、石鹸はとにかく重要だった。
奥地に入植した開拓民にとっては、家畜の豚は食料以外にも石鹸用の脂肪を取るために
重要だった。
まあ、身体は米ぬかで洗っていたけど。
水道やガスが普及する前は、風呂を沸かすことそのものが大変だった。
昔の風呂は「鉄砲風呂」とか「ヘソ風呂」といって、大きな風呂桶の隅に鉄の管を取り付け、
その中で火を焚いて湯を沸かせた。
しかしこれは熱効率が悪いので、いい湯加減になるには数時間もかかった。
その点、五右衛門風呂はすぐに湯が沸くので、時間からも燃料の節約からいっても都合が良かった。
入るのにコツがいる、という欠点はあったが。
当時の製鉄にも木炭がいります
だから手入れしてない場所はハゲ山だらけになったんじゃなかったか
江戸の町は関東ロームの赤土でほこりっぽく、舗装道が無い時代はとにかく体が汚れた。
当然風呂の需要は多かろうが、江戸の町は火事が華、とにかく火の元は少なくしなければいけない。
そこでお上は内風呂の建造を禁止し、かくして銭湯が、湯屋が大流行となる。
しかし当時は水道もガスも重油もないので、水はいちいち井戸からくみ上げねばならず、
燃料は江戸中を歩き回って建築現場などの木っ端を集めなければならない。
しかもタイルなど無く、木の浴槽の時代。常に砂で浴槽や床を磨かねばならず、
とにかく銭湯の下働きは重労働だった。
なお、江戸の湯屋にはよく衣類を盗む不届き者が出没したが、湯屋のほうではこれを捕らえても、
番屋や奉行所に突き出すことはしなかった。お礼参りに付け火されるのを恐れたからである。
さて、銭湯と言えば寺社建築に似せた大屋根の破風造りを思い浮かべる御仁も多かろうが、
これは案外新しく、しかも関東近隣に限ったものである。関東大震災で丸焼けになった下町の銭湯を再建する際、
宮大工がかかわったため、寺社建築に似た銭湯が建てられ、それが評判となってあちこちに真似された。
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あと石鹸で髪洗ったらリンスがいるだろうけど、米酢で
代用したら臭いだろうかな。やっぱり。
洗面器一杯のお湯に米酢を大匙二杯くらい入れて
洗面器に頭を突っ込んで洗えば臭くない
石鹸の成分を中和するならこれで充分
一日に何度も下着を取り替えることで清潔さを保とうとしていたと
大学の講義で聴いたのですが本当でしょうか?
ひょっとしたら服も洗ってたかも。
かなり怪しい話だと思います。
下着を毎日取り替えるのは(取り替えない人もおられるでしょうが)日本でも、昭和40年代からです。
洗濯機が普及するまでは、3日くらい着ているのが普通でした。
親日家のフランス人外交官が「日本では筋肉労働者でさえ清潔な下着を着ている」と感心しています。
クセジュ文庫の『ニッポン人の生活』にある話です。
>>126
多分、服を洗うのは洗濯石鹸だったと思います。ほとんど資○堂製品で商標の形でした。
モンモリロナイトは油を乳化させる効力があり、鬢付け油でも溶かしたそうです。
扱いが面倒なので、昭和初期に固形シャンプーが発売されてからは見かけなくなりましたが、
力士は使っていたとのことです。
何しろ、江戸時代の「髪洗い粉」の原料には火山灰も入っていたというからねぇ。
キューティクルはがれまくり!
服をあまり着替えないとしている。これは何もデンマークに限ったこと
ではなく、着替えの回数は、ヨーロッパ人>日本人ということが念頭
にあるのだろう。入浴の回数が多いということはそれだけの服を持って
いないと同じ服を着ることになるからね。
服の代えも少なく風呂も入ってなかったら
清潔度では日本人>ヨーロッパ人だと思うけど
現代日本人は人類史上最高の清潔文化、清潔主義者だろうな。
しかし、それが本当によい事なのか、そして幸せなことなのかは
賛否あるだろうなあ。
こういうのサニタリズムとか外国の人がいってったっけ。
否定する人たちって中世の不潔な生活に耐えられるんだろうか。
病原菌で病気になってあっさり死んでも清潔なら幸せとか言ってられるわけもない。
最近の研究では清潔すぎるのは逆に不自然、不健康とか言ってるし、
過ぎたるはおよばざるがごとし、という事ぐらい分かりそうなもんだが、
どう考えてもっつうのはさすがに何も考えてないのかな、とも思わんでもない。
アゲときます。スンマソ。
それを沐浴といふ。
古代ギリシャ、インダス文明でもやってた。
そうしたら、風呂釜が燃えちゃって大変なのになあ。なんでそんなシーンを覚えてるんだろ。あれ?時代劇だったかなあ・・
とにかく、そんな場面があってさ。今更ながら不思議に感じているのよ。
>415
それは別におかしいことではない。
昔は鉄が貴重、すべて鉄の大釜は大変高価なものだった。
そのため五右衛門風呂といっても大釜を使うのではなく、底だけが鉄製で、
周囲を桶の枠で囲い、つなぎ目を防水した仕掛けのものがかなりあった。
「東海道中膝栗毛」の小田原宿の場面、野次喜多が下駄を履いて入り、底を踏み抜いて
大騒ぎになった風呂は、まさにこのような風呂である。
そのアニメだか時代劇では、ただ底の部分が映っていなかっただけだろう。
北海道の開拓時代、開拓村では、内部が空洞になった大木を輪切りにして鉄板のうえに載せ、
すき間を粘土でふさいで作った「ガッパ風呂」が愛用されていた。
なお、五右衛門風呂のように火の上に直にしかけて沸かすものではなく、桶の脇をえぐって焚き口を
しかけた「ヘソ風呂」や、風呂桶内部に鉄の管を通し、この中で火を焚いて沸かす「鉄砲風呂」もあったが、
これらは五右衛門風呂に比べれば時間と薪のロスが大きい。
現在のガス風呂は、鉄砲風呂と同じ仕掛けである。
木は極端に熱伝導が悪い。煮えたぎる味噌汁を盛り付けた木の椀を平気でつかめるのはこのため。
燃える薪の端を平気でつかめる。
金属器や陶器で同じことやったら、火傷するよ。
水を満たした木製の器を火にかけたりしたら、沸く前に燃えてしまう。
>>424
ヒント:フーリエの法則、ニュートンの冷却法則、紙鍋。
どうしても単なる木の桶で湯を沸かしたいならば、水を満たした桶を火にかけるのではなく、
焚き火で真っ赤になるまで焼いた石を桶の水の中に入れればいい。
考古学や人類学の世界で言う「ストーンボイリング」だ。
これは土器や金属器など、耐火性の容器を持たない民族が物を煮るのに使った方法。
木桶や皮袋、目の詰まった籠、または地面に掘った穴に材料と水を入れ、
焼け石をいくつも入れて湯を沸かす。