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細川とか
相馬
血は佐竹と混じってるけど
南部とか言ってみる
伊達
大名ではなくなったが、神主になって生き延びた阿蘇氏もおるぞ。
それなら大名家として復活した諏訪は?
でも、鎌倉時代から幕末まで同じ土地で領主をしていたと言う事で言うと、島津家が断然由緒有る
それが凄い事とは誰も思ってないけどな・・・
約700年その土地を治めた家は無いから、凄いと思う
徳川よりも前から戦ってる
アンゴルモア博多編見ると
昔の今川義元のイメージを細くしたような麻呂だぞ
結局島津義弘の隠居だけで済んで領地没収なんてされてないんだけど
>>9
てーか、幕末の主役はは薩摩であっても島津じゃないし長州であっても毛利じゃないよな
関ケ原の因縁を幕末に結びつける人はよくいるが、その中で当時の毛利の当主が誰だったか挙げられる人がどれだけいるか
武田家・今川家・佐竹家・細川家・六角家・京極家・北畠家・大内家・大友家・島津家
藤孝の細川って傍流も傍流で信長に近付いたころは長岡名乗ってたくらいだからそこらからは外れるな
それまでは細川家といえば京兆家だからな
上杉と伊達
>>41
上杉氏
■上杉氏
太田亮
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏が生まれただろう上杉氏の屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
伊達は東北じゃ成り上がり
東北はほとんど鎌倉幕府が置いた御家人がそのまま戦国時代まで残ってる
伊達も頼朝麾下の御家人出身だろ
もともとはそんな家格高い方じゃない
奥州探題は乗っ取ったものだし
秀忠と江(ごう)の娘の和姫だね
浅井と織田血筋でもあるんだな
摂関家で近衛家に次ぐ家柄の戦国大名だからな
相馬氏もそうやぞ
一国大名では無いし関ヶ原直後に一瞬改易されたけど
たしか人吉もそうだったはず
別にそんなん無かった
調所の財政改革(借金踏み倒し)が成功するまでは、日々のやりくりに精一杯で幕政参加とか夢のまた夢だった
ただ、関ヶ原の恨みだけは絶対に忘れなかった
西軍主格の毛利はともかく島津が関ケ原で徳川恨む理由なぞどこにもないやろ
与した陣営が負けたいうだけのことやし
よそはバカ殿が出たり短命が続いて養子で血縁が途切れてるなんてざらなのに