鎌倉時代を代表する歴史的な戦いといえば、1つは「承久の乱」(1221年)、そしてもう1つは、元軍(モンゴル軍)が九州に侵攻してきた「元寇」(1274年、1281年)で間違いないでしょう。
特に後者の元寇は、中世日本における唯一の国際戦争であり、規模も近現代以前では最大級と言っていいほど大規模なものでした。なんといっても、中国大陸を支配するまでになった強大な軍隊が日本を攻めてきたのです。日本社会に与えた影響はきわめて大きく、後の鎌倉幕府崩壊の遠因にもなったと指摘されています。
そんな日本人ならだれもが知る元寇ですが、近年に入り新しい発見や新説の発表が相次いでいます。それらの研究の進展に伴い、これまで半ば常識と見られていた定説が大きく覆される事例も出てきました。
そこで今回から3回にわたり、歴史学者である服部英雄氏(九州大学比較社会文化研究院名誉教授)の著書『蒙古襲来』(山川出版社)を参考資料として、鎌倉時代の日本を揺るがした元寇について取り上げたいと思います。
初回の今回は、1274年に起きた「文永の役」こと第一次元寇に関して、日本の武士の一騎打ち、そして元軍の残虐行為の有無を検証します。
…続きはソースで。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65695
2021年6月21日
ニュース
当時強かった中華勢でも手に負えなかったのにどうやったんだろうね
日本の海岸には大軍を上陸させるのに適した砂浜がほとんどないから
効果的に撃退できるんだよ
分進合撃…なんて無理だしなあ
地理は日本側が断然知り尽くしていたから敵の上陸した場所の情報を得てから即座に両軍がぶつかる場所を把握して拠点確保に動いたのも大きいしな
普通に考えて陸戦を得意としていたモンゴル軍が船に乗って海を越えて見知らぬ土地でまともに戦えるとは思えない
上陸戦は難しいし、大鎧来た騎馬武士が沢山いるし勝って当たり前なぐらい
陸戦を得意としていたモンゴル軍が船に乗ってやってきたんじゃなくて
宋、高麗軍がやって来たんじゃないの
今のトレンドは
・蒙古が得意とした集団戦が上陸戦で全く出来なかった
・鎌倉武士は実は集団戦もどきしてた
・鎌倉武士って実は対弓特化集団で相性が良かった
そもそも蒙古人なんて
大してきてなかったんでは
殆ど朝鮮人だろ
>>2
だから普通に戦争してたって話でしょ
↓この説明の仕方聞いたことない? 真っ赤な嘘だったって事
>当時の日本の戦は、武士団の大将同士が戦闘前に名乗りをあげて一騎打ちで戦うスタイルだったのに対し、元軍は複数人がまとまって戦う集団戦法を採っていたという説明です。
>>33
まるっきり嘘ってわけでもない
ヒャッハーじゃないんだから、武力行使の正当性を担保するため名乗り口上は必要
ってか
現代でも接近してきた外国軍に対して
「やぁやぁ、我こそは日本国航空自衛隊なり云々」って名乗り口上やってるだろ
昔の教科書
小学校では教師がいかにも日本人が間抜けと言わんばかりの自虐史観を教えていた
名乗り一騎討ちスタイルが通じる/通じないで対応が変わるとかってのも聞いたことがある
通じない相手だと鎌倉武士(蛮族)の本領が発揮されるのだとか
正確には味方に証人になってもらう為名乗ってた
手柄もらう為にね
なおモデルの宗助国は討たれてしまったんだよな
宗助国も八幡愚童訓のオリキャラやで
強かったのはもちろんあるが防衛戦なので地の利がある
モンゴルのような平原で戦ってたら普通にボロ負けしてただろう
日本の武士は重装弓騎兵だから平原だったらモンゴル軍ボロ負けだよ
武士が大人だとしたらモンゴル軍は子供
そもそも戦にすらなってない一方的な殺戮になっただけだよ
>>596
日本で本格的な騎兵が生まれたの明治じゃないの
というか、あのモンゴルが騎馬で来れる立地に日本がいたら
やべーよ、一度日本なくなってるよ
中国も国土と文化を一度リセットさせられたし、
かの150万都市バグダードも廃墟にされられたし、
昔の先進的地域がモンゴルのせいでいくつか消えただぞ
まじ海があってよかったわ
鎌倉武士は騎兵だよ、戦国時代にしても武田の騎馬隊は
織田方に警戒されてるし普通にいただろ
武士は騎乗してなかったのか?
初耳だからソースお願い
馬(というかポニー)はあくまでも戦場までの移動手段で、騎馬武者はみんな馬から降りて戦ってた
もちろん武田の騎馬軍団も だから騎馬軍団による集団突撃なんて勝手な妄想に過ぎない
蒙古襲来絵巻では竹崎季長は騎馬のままで先駆けに突撃して騎乗のまま戦おうとしてる
後から追いついて竹崎を助けた白石という武士も騎馬のまま弓を射てる
平安後期から鎌倉時代に活躍した武士の装備は大鎧から和弓、太刀にいたるまで馬上で騎射して撃ち合う為の装備であって歩行用に出来てない
日本の騎馬武者は下馬して徒歩で戦うっていう説は
長篠の合戦を観戦していた戦には素人の宣教師が書いた資料がもとになっているだけなんだよな
長篠の合戦そのものが織田軍は騎馬のままでは責めづらい野戦築城していたので
武田軍も下馬して徒歩で攻めただけ
平原での野戦だったら、わざわざ下馬して戦うようなバカな戦術はとっていない
もしも平原での野戦でも下馬して、徒歩でしか戦っていなかったら
流鏑馬という武術があるわけがない
似たような物は当時のイスラム教国にもあったで
平家物語でも
まあ創作には変わりないが
史実の三国志にも普通にある。小説やゲームで武力高い馬超の一騎討ちは壮絶。
槍で戦ってたら槍が折れてしまい、折れた槍を腹に突き刺し馬超ごとぶん回す相手武将。それでも生き残る生命力の塊な馬超。
圧勝した閻行は小説に出れてない。
俺が推測するに、日本の勝因は漁師船による、夜間のゲリラ戦だろう
一部の漁師は異常に夜目が効くし、水上戦は源平合戦みても分かる通り日本のお家芸
レーダーが実用化されるまでの緒戦
日本の駆逐艦夜襲はやたら強くてアメリカは震え上がった
こういう民族の伝統芸は意外と変わらないもの
ただ、当時の政治的には鎌倉武士が強かったことにしないと困るから
政治的には鎌倉武士でも九州武士でもなく、祈祷した寺社を最大功労者としてるぞ
昔の水上戦闘は風や波の運の要素が強かったから祈祷の寺社だったんだろうな
そこを考えても、水上ゲリラ戦での勝利だろう
なぜか北条時宗の手柄になっているのはなぜだ?
>>82
同意
小二氏は歴史でもっと評価されるべき
>>82
少弐に丸投げじゃなくて指令、統帥を重ねてたからね
時宗・安達泰盛の大本営でプラン立ててる
よく寺社の祈祷に恩賞出したって揶揄されるけど
それだって、全国の武士の半数は寺社系の武士だったから、
その兵力を鎌倉の指揮下に入れるって意義があったし、
いろいろ仕事している
けど負傷したけど生還したから討ち取られてはいない
絵にしっかり残ってるのに脳味噌足りてない馬鹿だらけ
集団で戦ってるんだよな蒙古襲来絵巻
あの切り取りの絵だって何人もで戦ってる所だし
>>101
何が問題って蒙古襲来絵巻自体帝室の「国宝」でわざわざそれを見せてくれてるのに教師含めて極一部をトリミングしたものしか見せてないという
どう考えても船に乗り込んだ上で首掻っ切ってるのし鹵獲品も多いのに台風だけってのがもうね
この記事書いた馬鹿は皇国史観でかき消されただの言ってるが明治の舊幕憎しも相まってろくに研究もされてない、戦後でさえ各種の「合戦図」をどこぞのトン大の有識者が資料の価値なしとしたから軽視され続けてきたのがここ20年でようやく「気付き」だしたところという
まぁ戦後の白痴教育の賜物よこの錯誤は
civ6してる外人のほうがよほど鎌倉の武士評価してるわ
CIVといえばヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった名だたる音楽家の中で八橋検校がいるのは
さすがに場違い感あって恐れ多いけど
東郷平八郎や井深大が評価されているのはうれしいな
最近は丹下健三も追加されたし
若狭湾に攻め込んで来てたら
目と鼻の先にある京都陥落して
日本終わってたんだよな
そう考えると怖い怖い
そもそも京都がどこにあってどこの海からどういけば行けるのかとか知ってたのかどうか
そんなの上陸して民間人を捕まえて
脅して道案内させるだけです。
どこが御所かも分かる。
しかも京都には堀も城壁が無いので簡単に侵入可能
奥州合戦だけで、47万人もの兵力が動員された訳で、
モンゴル軍など屁でしかない。
急襲されたら手も足も出ない
琵琶湖に艦隊浮かべて大津まで来られたら
京都はもうすぐそこだし
朝廷と六波羅を人質に問われて
幕府はあっけなく降伏ですよ
京都周辺には大兵力があったので、
急峻されても余裕。
琵琶湖まで船運ぶのか
湖畔で建造
>>125
若狭湾に上陸したら、東北・北陸・東海・近畿・中国・西国の鎌倉武士に包囲されて、
博多さえ取れなかった元軍なんて、ますますぼろ負けですよw
本丸から攻め上がって勝った侵略軍はない
必ず手ごろな拠点をとってから本丸を攻める
あと、京都は天然の要塞。侵入路が限られて、そこを守れば防衛側は楽
京都も鎌倉も、防御は固い
鎌倉って街の侵入のしにくさは車乗るとよく分かるよな。
道路が限られる。
>>234
いやいや京が固いは無いよ
楠木正成は「京なんか守りに適してない」と帝に比叡山に逃れるように進言したけど却下され
仕方なく湊川で戦ったけど敗戦
明智光秀も京を明け渡せばもう少し粘る目が合ったけど
その前に決戦を仕掛けて1日で憤死
秀吉が占領して以降は御土居を作ったけど、その前は防壁も何もない原っぱだもの
>>267
京都とそのものではなくて、京都の周りの山が難所なんだよ
ルートは決められている
国内勢の内乱はともかく外国軍が若狭方面から上陸侵攻したら、守りやすいと思う
そもそも若狭湾で苦労するだろ。峠越えの戦いになったら攻めるほうは圧倒的不利
10キロも進めずに弓が尽きて撤退だよ
若狭湾に来たら大兵力で迎え撃てるので、
日本が大勝したのは間違いないだろう。
>>96
若狭から京都はどうやっても山越えしなきゃならない、
琵琶湖から南下したとしても比叡山は超えなきゃならない
土地勘の無い山岳部で囲まれたら終わりだろ
さらに対馬海流に逆らって戻る航海術が無い
当時の船は風上に向かって帆走できない
対馬海流が弱まる夏頃に仕掛けるとしても冬場にしけるまでには勝負をつけなきゃならない。
釜山から片道10日はかかるだろから兵站供給もコストがかかる
戻りだと2週間はかかるんじゃねぇかな
それよりもまず九州を支配下に置いて数年がかりで支配地を広げながら本土を
北上したほうが確実じゃねぇかな。
俺がチンギスハーンならそうする
目と鼻の先?
間にある山々が凄いから今でもJRの路線も直線では通ってないのに
グルーンと山を迂回して石川方面に進むか兵庫方面に進まないといけないから若狭湾から京都に行くのに電車で4時間くらいかかるよ
六波羅に幕府の主力がいるのに無茶言うなや
元軍の上陸が九州近辺のみと分かるまでこの部隊は
動けなかったから弘安の役でも間に合わなかったのに
ハンデありありとはいえそれを打ち破ったんだから日本人としては嬉しいんだな
>>204
モンゴル軍は騎兵集団があったから
近代の機械化兵団が出るまではかなり強力。
でもそれを活かせないジャングルの東南アジアでも撃退されたし
南宋の城攻めも苦戦であまり強くない。山岳地帯の日本でも無理。
中東の大平原とか騎兵の利を活かせる場所じゃ無双。
>>219
マケドニア軍対モンゴル軍とか夢想するな
どっちも平原戦最強だし
マケドニア軍は攻城戦も強かったけど
騎兵同士の会戦やって勝ったバイバルスが如何に強かったかって事だね
東欧の騎士団とかの連合軍なんかはやられてる
呆気なく蹂躙されたシルクロードの都市国家みたいのは普通に弱かったんだろうけど
途中で補給が切れて帰る途中に台風喰らって勝手に壊滅と
>>349
準備不足なんて文献は全く存在しないからな
「官軍整ず、亦矢が尽きる」
古今東西、軍事文書では戦闘の密度を弾薬消費量で表す。
「激戦でした」では主観すぎてどの程度か分からん、だから矢の消費量で示す。
「矢が尽きる」とは戦闘継続が困難なほどの激戦だったという意でしか見られない。
だいたい矢が尽きるまで射たら体力が尽きる。腕力使うからな。準備の話とかないw
そして矢の消費量と必ずセットになっているのが死傷者数。これは必ず。古典軍事文書の必須。
それが「官軍整ず」
「軍が整わない」とは漢文では死傷者が出て編成が崩れた意しか見られない。
軍備が整わないって解釈とか、漢文の素養が無くて恥ずかしすぎる。
ちな、「軍備」と言った教授は高麗史金方慶伝の孫子の引用部分を誤読している程度。
南宋滅ぼしてないのに辺鄙な島国攻める理由ってなによ
戦略的におかしいだろ
その南宋と日本に繋がりがあると考えてたからだぞ
そもそも当時の日本は東方見聞録で語られるように
資源輸出国だしおかしな話ではない
でもその両方と同時に戦うつもりはなかったって話でしょ。日本は小手調って目的だと言ってんだよ
だから高麗方面軍だけで一回目の侵攻したわけだろ
日本が人口が多くて武士が強いなんてのは後世の人間だから
分かることであって当時のフビライが島国一つ降伏させるくらい
四万の大軍なら十分と考えてもおかしい話じゃない
なるほどね。まあ、確かに舐めすぎてたのかもしれんね
だから二万位上送ったんだろ
あっさり降伏すると思って
そいじゃないとわかったんだよ
対馬では全滅するまで戦うし
まあ侮ってはいたんだろなw