[ユン・ミョンチョルの韓国、韓国人再発見]
麗蒙連合軍の日本列島攻撃(上)
モンゴル帝国に敵対的に対応した日本
クビライカン、日本征伐決定…高麗と麗蒙連合軍結成
戦力上は麗蒙連合軍が優れていたが日本が勝利
▲1次連合軍が最初に占領した対馬の小茂田浜海岸。写真=ユン・ミョンチョル東国(トングク)大名誉教授・ウズベキスタン国立サマルカンド大教授
歴史は事実を正確に知り、客観化することが必要だ。私たちが麗蒙(元蒙)連合軍の「日本征伐」と呼ぶ戦争を中国は「元日戦争」と言い、日本は「文永の役」「弘安の役」と呼ぶ。天皇の年号で表現する日本的な自意識と勝者の余裕が感じられる。
1274年陰暦10月5日から10月20日まで、高麗軍1万4700人、モンゴル・漢軍2万5000人、900余隻の戦力が動員されて日本軍と戦争を行った。引き続き1281年陰暦5月21日から7月7日までモンゴル軍3万人、高麗軍2万7000人、江南軍10万人など4000余隻の多国籍軍が日本を攻撃したが失敗した。
私たちは麗蒙連合軍が日本を占領しようとしたが、海岸で神風にまきこまれてほとんどの船が沈没し、軍人は全滅したが、高麗の船は丈夫で被害は少しだったと知っている。奇形的な国際戦の実状はどのようで、主体はどの国だったのだろうか?また、高麗の役割は何で、兵士と国民の被害はどれほどだっただろうか?
4世皇帝に上がったクビライにモンゴル帝国が課した最大の課題は南宋の滅亡と東方の完全征服だった。日本列島は地政学的、経済的、文化的に価値はあまりなかった。ただし、一部の見解のとおり南宋を攻撃する時、外交的背後の役割程度であった。
クビライカンは1226年、高麗に日本征伐の意図を宣言して協力を要求した。これに対し高麗は1268年6月、クビライと高麗の国書を日本に伝達した。しかし、予想とは異なり日本は敵対的態度を見せ、使節を抑留までした。3番目に派遣した使節もまた無視した。
いよいよ遠征が決定し、高麗は正月16日に工事を始めて5月大晦日まで大船と小船合わせて900隻を作り物品も全て整えた。辺山半島地域と羅州の天冠山地域の木材を活用し、戦船300隻、高速攻撃船300隻、給水船300隻など900隻をわずか4ヶ月半に完成したのだ。高麗の造船能力がどれほど優れており、続く戦争でも国力、労働力などが残っていたことが分かる。
(中略:元寇の詳細な状況を高麗軍の立場から説明。長文につき割愛。「驚くべきことに日本人は「神風」と「奇跡」と名付けたが、自然は二回とも日本を助けたのだ」)
この戦争は軍隊数、戦力、戦争経験や技術、武器などだけ見れば麗蒙連合軍が勝利するはずだった。ところが日本が大勝利をおさめた。麗蒙連合軍の戦闘開始日の選定と艦隊運営方式、指揮権の葛藤など内部事情や国際秩序などの要因は正確には分からない。そのため、生半可な結論を下すことは難しいが、日本は明らかに地形と海洋環境、気候を有効適切に活用して勝利した。そして運があまりにも良かった。個人に運と運命があるように国と民族にも明らかに運というものがあり、歴史は必然だけでなく偶然にも予想外に多く作用される例を示した。
(後略)
オ・ジョンミン記者
ソース:韓国経済(韓国語)麗蒙連合軍の日本征伐、失敗した理由は[ユン・ミョンチョルの韓国、韓国人再発見]
https://www.hankyung.com/life/article/202008097328g
ニュース
パシリではない
国内の権力闘争もあり、高麗王は積極的に元に
日本侵攻を進言した元寇の張本人だよ
しかも唆した教唆犯
そして二度も大枚はたいて行った侵攻作戦の
敗戦の責任者でもあるわな
>>865
アホな事して大損害出すの好き過ぎよな、チョウセンジンって
宋の奴隷兵は即解放されてたけどチョウセンジンと蒙古兵は残らず処刑にもなりますわ
あと運が良かったとか言ってるけど普通に鎌倉武士がクソ殺意高いガチガチ戦闘集団だから勝ったんだけどねえ
鎮西八郎みたいな弓で船沈める決戦兵器みたいなん居る時代なのに
神風無くてもモンゴル軍に勝ち目はなかったよ
まあ、それは日本に問題があると思うわ
何せ日本自身が暴風のおかげで勝ったと強調し、実際の戦闘でどう押し込まれどう対処しどう苦しめたのかを全く評価してないに等しかった
日本の歴史家がそういうのであれば、外国人だってそのまま受け取る
最近ようやく実際の武士たちの戦いぶりを評価し始められてるが、それが日本の常識となってさらに数年経たないと海外には伝わらない
そして受け入れないところは受け入れないだろうが、それはまあいい
日本の鎧ってすきまだらけだし、
戦う前に「やあやあ我こそは」と無駄な自己紹介するし、
馬の脚切るのは卑怯とかわけのわからないルールあるし。
対外戦にはかなり不利だとおもうよ。
いつの知識よ、それ
モンゴルも部族の名乗りあげるし弓矢撃ち合って武勇競う儀式的なものありますが。
そもそも当時は武士しか戦闘に参加しないから兵力が無茶苦茶少ない
日本の鎧って具足の下に厚手の服を着るんやで。
これ、下手な具足より切れないんやで。
この時代の海外の剣って軟鉄を流して作って油で焼き入れしたもんでしょ
数打ちであろうと木炭で精錬した鋼鉄の刀だと武器の性能その物が違うんじゃね
切れ味重視の曲刀は材質に関わらず曲がるし簡単に切れ味が落ちるという弱点があり鉄の鋳造だから劣るとも限らない。
まあこれからそれを世界に示していくのは大変な困難が伴うであろうねw
少なくとも世界から植民地は消えて白人主義は終わったよ。
今も白人主義は残っているといえど結構衰えたよね
今の白人主義って過去の栄光の残り火というか最早世界を動かす程の力は無いんだよね。
朝鮮人はもう漢字が読めないから、そうぞうで物語を作るしかないんだろうね
>>12
昔見た NHK高校講座
「高麗は日本を責めるのに積極的では無かった!」
とほざいてましたw
生意気な日本を征伐しろとモンゴルを焚きつけたのは高麗だが、
「ならお前が言い出しっぺの高麗が相応の戦備を負担しろよな」って言われて
その負担のデカさにたまりかねて泣きごと言いまくったのも事実。
それほど間違ってはいない・
日本国最初で最大の国難によく立ち向かえたものだ
30歳ほどで早死にしたらしいが
>900隻をわずか4ヶ月半に完成したのだ
韓国って木材乾燥させずに使うのか?
そりゃ沈むわ
なお、高麗が作った船は河川、沿岸用で
外洋に耐える船ではなかった
しかも忠烈王がみずからフビライに「軍船および糧食を用意します」と阿ったんだもんな
そりゃ捕虜の高麗兵がモンゴル兵共々すべて斬首で当然
>軍隊数、戦力、戦争経験や技術、武器などだけ見れば麗蒙連合軍が勝利するはずだった
いや
鎌倉時代の日本の武士団の人数や戦力をどんだけと思ってんのよw
元寇に対応した武士団なんざ一部にすぎのだぜ
ほんとそれ
九州だけで終わらせてるのに
「矢が尽きたから戦えない」だぞ
戦力的に優位な連中の発言じゃねえわな
お馬さんで蹴散らしながら敵の武具も借りパクするのができないからなぁ
上陸してしっかりそこを固められるほどやんないと、そりゃ海洋遠征側は不利
基本的に
元も高麗も弓矢の間接攻撃主体で
白兵戦弱いから
>>194
蒙古兵は白兵戦強いよ
軽装騎馬兵、歩兵で欧州の重装騎士団を
完膚なきまでにやっつけるんだから
その蒙古兵が、日本の武士は10倍強いと
いわしめた
だから、その後の王朝も日本征服を
計画したことあるけど(朱元璋とか)
蒙古兵より強い化け物って、どんだけ強いねん!
と思われて日本討伐計画は頓挫してる
これがいわゆる日本脅威論
モンゴルの戦術は、
コンポジット短弓の貫通力に依存した
騎乗射撃によるヒットアンドアウェイ。
だと理解してる。
弓も強いけど、一番は偽装撤退じゃね?
日本でいうと島津の釣り野伏せ
ワールシュタットの戦いもこれだったし
>>250
ヒットアンドアウェイの機動戦では
待ち伏せはつきもの
というか、追い込みも戦術の一つ
名前忘れたがとある民俗学者が日中朝の文化比較してる本で
朝鮮人は民族レベルで海への興味がまったく無い
と首をかしげてたわ
攻撃側兵力は3倍が最低ライン
海の向こうじゃ補給もできんから
短期決戦で決めないと撤退するしかない
そうだよな、海を渡ってどれだけの広さかすら定かではない場所に上陸して進軍てだけでもリスクだもんな
補給もままならない上に昼夜敵襲に警戒しながらで相手は武士だろ?元軍のストレス半端無かったろうな
あの頃にPTSDて言葉は無かったにしろ患っちまったのは相当数居るはずだわな、銃とかじゃなく刀や弓で殺り合うわけだから生々しい
弘安の役は蒙古側が戦略レベルで大負けしてるのは確実なわけで
橋頭堡も築けずに船団が何ヶ月も波間に置かれている間に暴風雨で壊滅だからな
元寇ネタが急に増えたのはどう考えてもゴーストオブツシマ
ハイティーンで執権の座について、30歳ぐらいで早逝したんだよな
本当に元、高麗と戦うため生を受けたような人生だったり、
そもそも、2度の元寇で元軍はそれほど兵力を出していない。
第1次元寇では、高麗軍2,6万人が動員され元の指揮官と高麗の副将が指揮した。
第2次元寇では、高麗軍4万。降伏した南宋兵と元の混成軍「江南軍」10万の14万が
押し寄せる。結果は大敗北で14万の軍勢の殆どが壊滅する。
しかし、その後、第3次元寇を計画されるが、ベトナム侵攻で元軍は大敗北。
白藤江の戦いで5万の元軍が壊滅して、結果、第3次元寇は中止になる。
元寇。使い捨ての高麗軍と南宋軍を元人は蛮子軍と呼称した。
高麗は服属したものの戦意は低く突貫普請の船など欠陥品紛いのものであり荒天で簡単に自壊したとされる。
神風と呼ばれる自然現象は文永の役の際は史料に見られない。弘安の役の際も台風シーズンにありながら台風はなかったとする学説もある。
元連合軍の敗因は主に騎馬戦の運用ができなかったことと鎌倉時代の武士が基本現役兵士で構成されていたということ。
やはり自然の防波堤である日本海の存在により泳ぎを知らない元人と参加意識の低いその他では数の暴力だけでは攻めきれなかったということ。
ちなみに文永の役では高麗軍の参加意識は限りなく低かったが弘安の役の際にはそれなりに戦意も高かったようである。
後世に言う『朝鮮人が参加した側の負け』。
この元寇は完全な防衛戦争であり得宗専制体制下における臨戦であったため、恩賞という名の損失補填を与える原資がない鎌倉幕府は御家人以下の求心力を失い滅亡の一因となった。
モンゴルの傘の下でだけど、金方慶が採用されてたら日本は朝鮮(高麗)
に支配されてたかもしれなかった
大宰府の守備隊(実戦兵5000)に撃退されてるんですよw
当時のモンゴル軍の行軍方法って言うのが
「ご飯から兵器・兵隊まで現地調達」っってのが有ったらしいが
(対馬や隠岐の島で村人から散々略奪行為を働いたのがコレ
朝鮮から海を渡って>対馬>隠岐の島>と島を二つ跨いだ事で
兵士への補給ライン(兵站)が伸びに伸びてしまって、それで負けたってのが事実なんじゃねーかなぁ、と
台風による被害が起きたのは、撤退しようか南宋軍と合流しようか迷ってる時に起きたのであって
実際は博多で上陸した殆どの将軍が打ち取られてしまって、鎌倉まで一気に進軍できなくなってた
現地で畑耕す軍なんて多分日本人くらいやで。
蜀の屯田兵みたいなのは違うの?
中国もやるにはやるんだけど基本略奪だよね。
毎回厳しく禁止されるんだけど無視する。
あの時代の屯田兵ってのは
普段は農民やってましたってだけで
日本の戦国時代と変わらん
攻め込んだ土地の住民さらって農奴にしてるから日本とは違うね
ん?戦国時代の武士も半農だぞ?
大陸と日本じゃ根本的に仕組みが違うんだよ
仕組みとか関係無くね?
現地調達なら補給線いらなくね?
いるとしても陸路輸送よりはるかに船なら楽でしょう
内陸深く入ってから補給が大変になると思うんだけど
>>428
そう、多分モンゴル軍も
「一旦上陸さえしちまえば、俺ら補給なんていらねーから」と甘く見てたんだろな
実際は九州に上陸してから>船に押し返され
また港を変えて上陸してから>また船に押し返され
最後に南宋軍と合流しようか?どうしようか?って悩んでる時に、台風(神風)で全滅しちまった
実際九州の内陸の方にまで入り込まれてたら、結構ヤバかったのかもね
征服されてるんだから 多国籍軍じゃないから
完全に上陸阻止されてるじゃん
士気十分、技術に大差なし、人口等国力十分
こんな国に、味方勢力なし状態で渡航上陸で異民族征服なんかできるかよ
歴史的にみても精々がローマのカルタゴ征服くらいだぞ
あれだって地中海・非常に交易盛ん・言語的にも十分な疎通がとれる
って陸上攻撃に近い形だっての
大航海時代見ると、ポルトガルとかオランダとか
すげー少数で征服してるよね
なんでスリランカとか東南アジアってあんな弱いの
>>519
一つは技術的な差
もう一つは部族同士の争い等で地元勢力と手を結ぶ形がほとんど
文禄の役で朝鮮が惨敗してる方が謎(幾つか理由は考えられるが)
それでも慶長の役では反省踏まえて橋頭堡の確保に重点を置く作戦に変えてる
>>519
そもそも戦おうとしてなかった
容姿が違う人が神話にある神が来る場所に降り立ったから神と思ったり。
あと、東南アジアでも新興勢力は強くって、例えばタイなんかは大砲導入したり日本人や植民地生まれの白人等を雇い入れて戦術レベルの底上げをしてる
世界的にそうなるかもなw
>>540
んだね
俺も教科書通りの「二度の侵略」>「神風で壊滅」くらいしか知らんかった
実際は「九州のお侍さん達は強かったんだな」と