日本の中世における唯一の国際戦争であり、その後の神風(神国)思想の源流にもなった元寇(1274年、1281年)は、近年新たな研究が進み、新事実が続々と判明してきています。それらの新事実には従来定説とされた内容を覆すものも少なくなく、筆者を含む一部歴史マニアの間で元寇への注目が俄然高まっています。
前回(「元寇『幕府軍が一騎打ちでボコボコにされた』は本当か」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65695)は、「文永の役」(1274年)こと第1次元寇における一騎打ち文化、元軍の残虐行為に関する従来説に対して疑義が持たれている状況を取り上げました。
今回は、「弘安の役」(1281年)こと第2次元寇について、前回同様に服部英雄氏(九州大学比較社会文化研究院名誉教授)の著書『蒙古襲来』を参考資料に、最新の分析を紹介します。取り上げるトピックスは、後の神国思想の源流にもなった「神風」の実態、そして取り残された元軍捕虜の扱いについてです。
なお中国王朝としての「元」朝の成立年は1271年ですが、本稿では混同を避けるため、その前身となったフビライ・ハーン率いるモンゴル帝国も含めて「元」と総称しますのでご了承ください。
…続きはソースで。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65791
2021年6月28日
ニュース
違うの?
男は皆殺しで女は奴隷だっけ
>>2
対馬大虐殺と呼べばいいのにな
完全に大虐殺だし
手も足も出ないくらいぼろ負けだったからな
実際の経緯を見れば日本圧勝だよ
>>3
1回目(文永)は日本のボロ負け。ただ、元軍は威力偵察のつもりだったので物資を大して持ってきてなかった
筑紫の大部分を制圧してたのに放棄せざるを得なかった。ちなみに1回目は台風など来てない(11月だし)
2回目(弘安)は日本の勝ち。なので弘安ではそういう記録や地名が多く残ってる
威力偵察で9年間を開けるバカはいない
想定外に武士団が強力だっただけ
あと文永の役は普通に勝ってるだろ
日本だけに威力偵察送ってた訳じゃないので
威力偵察ってのは本攻勢の前に行うもので7年も開けたら
前回の偵察なんて意味をなさないから偵察にならない
そもそも元軍は赤坂より先に進出できてないのに
筑紫を占領とか意味不明すぎる
???
元側記録で物資不足での撤退。日本側も各神社の記録では日本軍の敗北
大勝利とか言ってるの鎌倉幕府だけ。そもそも元側は指揮官級の戦死がほとんどない
え?副将が負傷してるが?後日本側でにも文永の役で死んだ
高位武士なんていないが
それと寺社の記録とか噴飯ものなんだが
撤退なんてできてないわ
上陸したモンゴル人は皆殺し
出典示してみろよ
>>29
物資不足なんて文献はない
「官軍不整」は漢文では死傷者がでて編成が崩れた意の文書しかない。
軍備が整わないという漢文は存在しない。
「矢が尽きる」、軍事文書では戦闘の密度を矢の消費量で表現する。
人力で射るのだから体力の範囲を前提にしているのだよ。
「戦闘の継続が不可能な激戦だった」という意になる。
これは知ってるだろう。
「矢が尽き刀折れて」、これは文学的表現ではなく
純粋な軍事表現で「激戦により戦闘の継続が不可能」の意だと。
寺社の記録は、まず箱崎宮が本陣で最終防衛拠点だと思っていた。
武士が箱崎宮を守るために布陣していると考えていた。
百道に急行する武士を箱崎宮は太宰府に逃げたと誤解している。
というのは、攻め込まれた地点が住吉と平尾とあるが、
当時、冷泉江といって住吉平尾まで入り江になってたので
百道に行くにはこの入り江を迂回し一旦平尾まで南下しなければならない。
これが前進する武士を箱崎宮が敗北と誤解した理由。
威力偵察説も根拠にとぼしいし、上でも言われてるように
直ぐに攻め込んでない、そもそも南宋との戦争中なので
(大軍で日本に攻めこむには南宋沿岸部の水軍掌握が必要)
直ぐに大軍で攻められる状態にないのに威力偵察?って疑問もあるし
結果からいえば威力偵察の結果、日本はさらに防衛に力入れて7年もあるからしっかり準備して
さらに元は日本攻めるのが困難になりました、ってオチになって
威力偵察した元が無能って解釈にまでつながってしまう
どんな文献か知らんが近年ドンドン捏造、陰謀論的な扱い併記する自称専門家が沸いて来てるわ
本当にウザい
とりあえず文永の役の台風、一騎打ち、やあやあわれこそは名乗り、
このあたりの否定は近年じゃなくずっと昔からでやっと取り上げられてきた
武士の努力と健闘を蔑ろにし、寺社が祈ったおかげで神風が吹き日本は勝てた、
日本は神国だなんて妄想が今までまかり通ってた事自体が間違ってたんだよ
南宋は元敵国で反乱因子だったし、朝鮮軍は属領だったので全滅してくれれば御の字、
うまく行けばラッキー、どっちに転んでも元には損はなかったんだよね。
被征服民を用いることなど、どこを攻めるときも大して変わらんぞ
むしろ純粋な元軍だけ来てれば、日本にとってより脅威だったって方も根拠無いわ
それ思いつきの説だから文献とは真逆だよ
南宋軍は元水軍の中核精鋭だから弘安の全滅は痛恨だった。
ベトナムで負けた原因だし
防壁を築いて上陸させず、船に夜襲を仕掛けて十分に休ませなかったのも大きい
結果、船内で疫病が蔓延した
弘安の役なら防塁の無い地点に上陸してるぞ、前進できなかったが
昔はみんな知ってたけど、戦争前の軍部が太平洋戦争のときに神風を利用したから嘘が浸透してしまった。
最近になってその嘘がバレてきてる。
撃退したのは鎌倉武士ではなく九州の鎮西武者だから
九州にも御家人はいるが幕府の直接統制下にない武士が主体
ちなみに執権体制がこれで崩壊したも大間違いで
実は博多決戦に反対する一部有力武士勢力を時宗がブチ殺して領地を召し上げ執権財政は逆に豊かになってる
更にはこれにビビった公家どもを更に威圧するために西国に警護武士を派遣し徴税権まで公家から奪ってる
執権政治にとって元寇とは外患征伐と国内勢力拡大の一石二鳥の吉事になった
時宗が過労で早死にしたから後世にアホが早とちりして変な幕府弱体化の巷説が生まれたに過ぎない
この鎌倉圧勝体制が悔しくて公家が必死に神風説を捏造したのが真相だね
この後得宗専制体制になるからな
貨幣経済浸透によるインフレや分割相続と武士の不満が
高まっていったのが影響として大きい
なんか新しい資料でも発掘されたん?
今はどっちかというと信用性の低い、バイアスがかかった史料や
物語からきたものを排除して一次史料や信憑性が高い史料を重視する
ってことからの再発見も多い
みんな知ってるようなものでも後世のものや物語がソースだったりするし