ティムールが右足に生涯の傷を負ったのは
モーグリスターンのトゥグルク・ティムール・ハーンが
チャガタイ・ウルスの統一を成し遂げた直後の1365年頃
彼に対してティムールとアミール・フサインが共闘し、
シースターン攻撃したその帰途であったと思う。
間違ってたらスマン。
ニュース
>>188
ティムールは自身の後継者に次子ジャハンギールの息子ピール・ムハンマドを指名していたが
ティムールの死後その約束は果たされず当時タシュケントにいた三男ミーラーン・シャーの
息子のハリール・スルターンがいち早くサマルカンドに入城し君主位を継承する。
しかしハリール・スルターンの軍隊の中心は忠誠心の低い外国人部隊だったので彼は彼らの
懐柔の為にサマルカンドの財貨を使い果たしてしまう。
その頃ピール・ムハンマドは本拠地カンダハルからサマルカンドへ向かう途中バルフでティムールの
四男シャー・ルフと合流、彼の支援を受けてクルシュでハリール・スルターンと戦うが敗れ逃走。
再起を期すも配下のアミールの反乱に遭い殺害される。
同じ頃ハリール・スルターンの陣営でも有力アミールの反乱が相次ぎ、中でもフダーイダードは
シャイフ・ヌールッデイーンと結んで反乱を起こし帝国北辺を占領、南部ホラーサーンのシャー・
ルフに使者を送り南北からのサマルカンド挟撃を画策。その後フダーイダードはハリール・スルターン
軍を破って彼を捕らえるが、部下の反乱に遭い殺害され、ハリール・スルターンはシャー・ルフの
下に送られた。
1409年シャー・ルフはサマルカンドに入城し君主となる。
簡単にまとめたけどこんな感じでいい?
ハリール・スルターンのその後はどうなったの?
シャー・ルフに処刑されたの?
他のティムール朝の君主の最期も知りたいな。
シャー・ルフに助命され、レイで余生を過ごした。
ティムールの時代の統治はどのようになされていたんだ?
ティムールは一族や有力家臣を各地に分封したが
誰がどの地方を統治していたんだ?
シャー・ルフがホラーサーンを統治していたのは有名な話だが。
>>251
帝国北西部:ミーラーン・シャーとその息子達が支配
ハリール・スルターン(アルメニアやグルジアなど)
アブー・バクル(イラクやクルディスタンディヤルバクルなど)
ウマル(アゼルバイジャンなど)
帝国南西部:ウマルシャイフの息子達が支配
ピール・ムハンマド(ファールスなど)
ルスタム(イスファハーンなど)
イスカンダル(ハマダーン、ニハーヴァンドなど)
帝国南東部:ジャハーンギールの息子ピール・ムハンマドが支配
ピール・ムハンマド(カンダハール、カーブルなど)
帝国北東部:シャー・ルフとその息子達が支配
シャー・ルフ(ホラーサーン、シースターン、マザーンダラーンなど)
ウルグ・ベグ(タシュケントなど)
イブラーヒーム・スルターン(アンディージャーン、カーシュガルなど)
この帝国分割は1403年にティムールの後継者ムハンマド・スルターンが死去した
後になされたものだが、その直後のティムールの死後は各皇子達による内訌が起
こることとなった。
それとジャハーンギール家はピール・ムハンマドの死後どうなったの?
アブー・サイードやサマルカンド政権はミーラーン・シャー系
ヘラート政権はウマル・シャイフ系だったよね。
>>255
シャー・ルフ家はヤードガール・ムハンマドが白羊朝のウズン・ハサンの
支援によりアブー・サイードを殺害。ホラーサーンに侵攻し、一時はヘラートを
占領するが、ヘラート政権のスルタン・フサインに敗れ死亡。以後この家系は
歴史の表舞台に現れず。
ジャハーンギール家はピール・ムハンマドの死後は急速に弱体化。その後は
まったくと言っていいほど政局にかかわらず。
たしかこれが一般的な見解だと思うが・・・
ティムール軍とバヤジッド1世軍がまともに戦ったらどっちが
勝っていたと思う?
実際の戦いでは無駄な行軍による兵の疲労やトルコマン諸侯の反乱など
いろいろとオスマン軍に不利な条件が重なっていたみたいだけど。
ティムール軍の騎兵隊や象兵、オスマン軍のイェニチェリ部隊やセルビア騎兵部隊など
両者の兵力は当時の世界ではまさに世界最強だったと思います。(明もあるけど)
それでもやっぱりティムール朝。
キュレゲン?アミール?スルタン?
>>267
ちなみにティムールの称号は
アミール・ティムール・キュレゲン、或いはアミール・サーヒブ・キラーン
でしたね。
キュレゲンは『チンギス家の婿』の意味ですが必ずしも資格のある君主全員
が自称したわけではないようです。(例:シャー・ルフ)
アミールについては、この王朝では特に遊牧貴族を指すようです。
よってティムール朝君主と他のアミール達とを区別するために『大アミール』
といった称号が使われたりする事もあったみたいですが、ティムール朝の
中央宮廷及び各皇子達の小宮廷で一番の権力を有していたアミール達の事を
『アミール・アル・ウマラー(=アミールの中のアミール=大アミール)』
と言う事もあり、必ずしも絶対とは言えません。
スルタンはこの王朝では単なる一君主の意味でしか用いられず、中央の統一君主
を指す言葉ではありません。
またティムール家の君主は絶対に『ハーン』を自称する事はありませんでした。
何だかんだと言いましたが結局のところ私にもよくわかりません。
お力になれなくて申し訳ないです。
いやいや、十分参考になりました。
うーむ、やはり他と隔絶した君号は持たなかったのかなあ。
不思議な王朝だ。
>>272
NHKスペシャルの「大モンゴル」。当時小学生か中学生だった。
たぶん、ふつうは高校の世界史では?
その番組っていつ頃放送されていたの?
ソ連が崩壊したかしないかのころだから、10年くらい前だね。
それじゃあ僕が小学校にあがるぐらいの頃かな。
それってどんな内容なの?
ビデオとか出ていますか?
普通に高校の世界史で学んだよ。
でも高校進学以前からモンゴル史には興味があったから
どこかで無意識のうちに読んでいたかも。
あわせて読んだな。今考えると、基礎知識が付いてよかった。
興味ありますね。
ティムールが死亡したのは1405年で、その時は明は永楽帝の時代でした。
二人とも戦上手と思われますが、ティムールが遠征の準備を万全に整えていたこと、また、永楽帝は1402年に靖難の変で皇帝になったばかりであったことを考えると、ティムールが勝ったのではないかと思われますが、いかがでしょうか?
でも、内乱直後とはいえ、非漢族に対してなら力を結集できる状態だよ。
>302
勢いだけで攻めても駄目だったんじゃない?
20万の軍隊の2年分の兵糧と、傀儡にするためのハーン(元の末裔)
は用意してました。
そんなことをしようとせずに、
オスマン王朝を根絶やしにすべきだった。
根絶やしにしてどうすんだ?
アナトリアを支配する気なんか明らかになかったぞ。
オスマン王朝が半ば崩壊していた時に、
ビザンツは一体なにをしていたんだ?
せっかくのチャンスじゃないか。
せっかくのチャンスではあるが、その分裂状態のオスマン諸勢力を
攻撃する兵隊が・・・
兵隊は金が掛かるし。
ティムールが勝ったと思われる理由
?ティムールと永楽帝の個人の資質
ティムール≧永楽帝 であろう。
?兵(および将兵)の資質と兵器
ティムール軍>>明(永楽帝)軍
朱元璋の時代に胡惟庸の獄 、第二次胡惟庸の獄、藍玉の獄 などを行い、建国以来の功臣を多数粛正した。ちょうどソビエトでスターリンが大粛正を行い、トハチェフスキー将軍をはじめとした優秀な将校が多数いなくなったことにより、
ソビエト軍が弱体化したのと同じと考えられる。
朱元璋の後を継いだ建文帝が強大な藩王らの勢力削減策を強行したことも軍が弱体化した一因であろう。燕王(後の永楽帝)が建文帝の軍を撃破し、靖難の変が成功できたのも建文帝の軍の弱体化によるものが大きいと考えられる。
ティムール軍は弓術を持つ遊牧民の騎兵隊を中心に、定住民を歩兵や火器の使用兵として編成、各隊に先兵隊を配置し、本営の前に左軍・中軍・右軍の3隊、そして戦いに応じて前衛や後衛隊を置いたといわれている。
ティムールがこの軍を率いた遠征では成功をおさめた事実は特記すべきものである。
これらの点からティムール軍有利と推測される。
明軍が籠城した場合には明軍の火器は発達していたので、有利であったかもしれないが、ティムール軍は投射兵、橋を懸け、城を囲みこれを落とすための工兵、山岳戦用の兵もそろえてあったので、
この点を考慮にいれると明軍の優位性はわずかなものとなるであろう。
平地戦では前述のように圧倒的にティムール軍が有利であろう。
?周囲の状況
明に追われた元が北元を建国しましたが、モンゴルあたりではまだ勢力があったようです。ですから、ティムールが明に侵攻した場合にはこれに呼応して侵攻したかもしれません。明は腹背に敵をかかえています。
ティムール帝国の周囲は安定していると思われますので、ティムールは明との戦いには全力を投入できます。
ティムール帝国<明(永楽帝)
?戦場
明国内なのは明らか。ティムールが遠征して来るのを永楽帝が迎え撃つわけですから、永楽帝がやや有利?
?戦争の準備、兵站
ティムールは準備万端で20万の軍勢と2年間分の食料が用意出来ていた。永楽帝はティムールが遠征して来るのを前もって分かっていたと思うので、
迎撃する準備をしたとしても、即位後間もないことからティムールよりも準備不足になると思われる。
兵站は距離の部分でティムールが不利であるから
ティムール帝国≧明(永楽帝)か?
?ティムールの弱点
寿命ですね。
?永楽帝の弱点
靖難の変で建文帝から帝位を奪ったことでしょう。
建文帝は自殺したといわれているが、僧の姿に変装して宮殿を脱出し南方へ逃げのびたという説もあり、雲南方面に逃れた建文帝を捜すため鄭和が大艦隊での遠征を命じられたという説もある。
建文帝が生きているという情報を流したかもしれませんね。
あと、靖難の変から3年しか経っていないことも不利な点でしょう。
以上、総合すると両者が激突すればティムールが勝つでしょう。
しかし、ティムールが明を支配することは寿命(遠征時にはすでに69歳)や、長期間ティムール帝国本土を留守することは不可能であることから無理でしょうね。
当時のティムール朝の周囲の状況はそれ程楽観視できるものではないかもしれませんね。
確かにそれ以前の遠征によってジョチウルスやオスマン朝、マムルーク朝など
周囲の大勢力を弱体化させることに成功はしましたが
多くの場合は自らの宗主権を認めさせるだけにとどまり、
被支配民族の自治を認めた間接統治領も数多く存在しました。
(まあティムール朝と対等に争えるほどではなかったでしょうが)
彼等の忠誠心は低く、隙あらば独立、反撃する可能性も大いにあったことでしょう。
更にティムール朝内部では彼の子孫達の間で熾烈な後継者争いがありました。
この遠征の前にはティムールが自らの後継者に選定し、また血統や能力においても
最大の後継者候補であったムハンマド・スルターンが死んでいます。
(彼の後継者選定の際にはそれを不服としてティムールの3男でペルシア総督であった
アミーラーン・シャーが反乱を起こし、それが七年戦役の契機となりました。)
この後、ティムールはムハンマド・スルターンの弟であるピール・ムハンマドを
後継者に定めましたが、他のアミール・ザーデ達の反発は兄の時以上に大きかったようです。
遠征に従軍したハリール・スルターンやアミール・フサインの他、帝国内にとどまった
ホラーサーン総督のシャー・ルフ、西イランのアミーラーン・シャーとその息子のウマルとアブー・バクル、
中央イランのピール・ムハンマド、ルスタム、イスカンダルのウマル・シャイフの3人の息子達は
いずれもピール・ムハンマド b.ジャハーンギールに匹敵するだけの有力後継候補であり、
遠征が長引いたならばティムールに対して反乱し、独立する可能性は高かったと思います。
私は明遠征が実現し、ある程度の成功を収めたとしても必ずや帝国内の反乱のために
途中で引き上げざるを得なくなったと思いますよ。