大友家

【西国無双】立花宗茂を語るスレ【父・戸次鑑連、主君・大友義統】

350: 名無し 2006/12/02(土) 10:40:47
ノブヤボの天下創世スレで立花道雪がえらく話題になっている。
なんせ10倍位の敵を瞬殺したりする事もある、化け物的な強さに設定されてるらしい。
コーエーには道雪ファンがいるようだな。

 

351: 名無し 2006/12/03(日) 04:23:36
シリーズ通して道雪公は軍神様に次ぐ化け物
革新では島津の鉄砲隊が凶悪過ぎるが

 

356: 名無し 2006/12/09(土) 20:22:37
宗茂の妹って
大友能乗の室
立花成家の室
小田部統房の室
立花織部助の室、(後に細川興元の室)
の4人いるみたいだけど、名前とか全然ワカランね。

 

357: 名無し 2006/12/09(土) 22:17:38

小田部統房の室の名前は

於千代です

 

361: 台灣立花FANS 2006/12/19(火) 00:06:58

今日は立花宗茂公のお誕生日です~

宗茂公第439年のお生誕~おめでと~!!!

 

362: 名無し 2006/12/19(火) 00:09:06
台湾からのお友達ですか。

 

363: 名無し 2006/12/19(火) 00:20:46

台湾の人は詳しくて凄いな。

とりあえず宗茂の生誕日ということで、めでたいね。

 

364: 名無し 2006/12/19(火) 21:21:58
ムネリン誕生日おめでとう

 

365: 名無し 2006/12/20(水) 14:38:42
そうか、今日が誕生日なのか。
いま生きていたらいくつなんだろう宗茂・・・

 

366: 名無し 2006/12/20(水) 22:17:23
四百歳は越えてるね

 

367: 名無し 2006/12/20(水) 22:23:29
>>365-366
何故、少し上のレスを読まんのだ?

 

370: 名無し 2006/12/24(日) 11:57:38
>>367
確かにw

 

384: 名無し 2007/01/10(水) 13:39:43
立花宗茂は真田信繁、伊達政宗と同い年なんだな
あと武田信勝も一緒
1567年だったかな

 

385: 名無し 2007/01/10(水) 19:33:25

他の67年生まれ
小早川秀包、塙団右衛門、有馬晴信、山崎家盛
秋月種長、伊東義賢、大友親盛、香川親和、森長氏

あと淀君も67年か69年(こっちだとギン千代と同い年)
の生まれらしい。

 

386: 名無し 2007/01/10(水) 23:51:24
60年代生まれ一覧
生           没
舞兵庫     1560年     1600年10月21日
後藤又兵衛  1560年5月5日  1615年6月2日
直江兼続   1560年     1620年1月23日
石田三成   1560年     1600年11月6日
井伊直政   1561年3月4日  1602年3月24日
鈴木重朝   1561年     1623年
福島正則   1561年     1624年8月26日
東郷重位   1561年     1643年8月11日
加藤清正   1562年7月25日  1611年8月2日
前田利長   1562年2月15日  1614年6月27日
ガラシャ    1563年     1600年8月25日
細川忠興   1563年11月28日 1646年1月18日
水野勝成   1564年9月30日  1651年5月4日
池田輝政   1565年1月31日  1613年3月16日
森蘭丸     1565年     1582年6月21日
真田信行   1566年     1658年11月12日
明石全登   1566年     1618年
秋月種長   1567年3月17日     1614年7月19日
伊達政宗   1567年9月5日  1636年6月27日
立花宗茂   1567年12月18日 1643年1月15日
真田信繁   1567年     1615年
毛利秀包   1567年     1601年4月24日
有馬晴信   1567年     1612年6月5日
豊臣秀次   1568年     1595年8月20日
愛姫      1568年     1653年2月21日
黒田長政   1568年12月21日 1623年8月29日
立花誾千代  1569年9月23日  1602年11月30日
茶々      1569年     1615年6月4日
大野治長   1569年     1615年6月4日

 

391: 名無し 2007/01/20(土) 20:11:40
黒田長政との賭けで弓で鉄砲に勝ったらしいが、
どういう勝負をしたんだろうね?

 

392: 名無し 2007/01/20(土) 22:28:29
普通に考えたら的当てじゃねーの?

 

393: 名無し 2007/01/21(日) 21:19:01
弓か鉄砲で的当てなら弓の方が有利じゃね?
あの時代の鉄砲の命中精度なんてかなりアレだろうし

 

395: 名無し 2007/01/22(月) 23:48:05
>>393
長政の自慢の銃は「墨縄」といって、名の元になった大工道具のように
真っ直ぐに飛んだらしい。
で、賭けに負けてその墨縄を宗茂に持って行かれたんだとさ。

 

407: 名無し 2007/02/14(水) 13:23:19
革新:政治60 武勇94 知略68 統率97
足B 騎S 弓C 鉄B 計略C 兵器S 水軍B 築城B 内政C

 

411: 名無し 2007/02/15(木) 03:35:34
戦闘面で幸村に勝る数字がないのが悲しい

 

412: 名無し 2007/02/15(木) 09:50:18
そんなこと言ったら島津や各軍の猛将クラスでさえ勝ってないぜ

 

413: 名無し 2007/02/15(木) 13:59:15

幸村が高いのは、まあ仕方ない
あきらめろ

まあ、エディタで名前を信繁にして、
全体的にパラメータを下げているけどな。
特に知謀。

 

414: 名無し 2007/02/15(木) 18:09:13
幸村に将としての才能が有るのは認めるが、ゲームや語られる能力値は明らかに
過大評価だと思う。

 

416: 名無し 2007/02/23(金) 13:36:47

いいね宗茂。

ジジイになってもバリバリ現役で合戦(島原の乱)に参加するたぁ~

大した者だな。

まさに(生きてた当時)生ける伝説だったのだろう。

 

418: 名無し 2007/03/03(土) 09:31:37
立花宗茂に呼ばれて正室の誾千代の菩提寺の良清寺を開いたのは
瀬高の来迎寺の応誉という浄土宗の僧侶だが、この応誉は、戦国時代の
柳川領主だった蒲池鑑盛の孫で、そういう経緯から宗茂から呼ばれたらしい。
応誉の子孫は代々の良清寺の住職を出すと共に、柳川落城の時に討ち死にした
応誉の兄の蒲池家を再興し、立花家の家老格となった。
上に小野ヨーコのことが出ていたが、立花家の家老格だった良清寺の蒲池家の
子孫が松田聖子で、良清寺は彼女の家の菩提寺でもある。

 

437: 名無し 2007/03/20(火) 14:05:08
立花誾千代の菩提寺の柳川・良清寺の住職は、立花宗茂の頃から柳川藩家老格の蒲池家で、
現在の住職は、松田聖子(蒲池法子)の伯父さん。
聖子の父親は次男で、厚生事務官という公務員になり久留米に新居を構えた。
良清寺の立花誾千代と松田聖子という歴史を越えた関係も面白い。

 

442: 名無し 2007/04/14(土) 02:43:17
慶長の役・般丹の戦い
慶長3年(1598)1月2日、釜山から40里離れた般丹とういう所に、明の副総兵「高策」を大将に明兵2万2千、朝鮮兵3万の合わせて五万余の大軍が進出し、間もなく釜山へ押し寄せて来るとの報があった。その時、日本軍の諸勢は蔚山の救援に出向いていた後であったので、釜山守備の兵は少なく日本軍は大騒ぎをした。
大将宇喜多秀家は宗茂を招き、「敵が五万の大軍でこの釜山に押し寄せると聞いたので心配でである。
貴殿はこれから陣所陣所を駆け回って、防戦の用意を色々と見計らって貰いたい」と下知をした。

 

443: 名無し 2007/04/14(土) 02:47:23
そこで、宗茂は承知をして自ら各陣所を回り、色々と防戦の用意を指示したあと、自分の手勢の中から精兵8百余人を引き連れ、その夜のうちに釜山を出発して般丹へ向かった。
その夜は厳寒でるうえに風が烈しく吹き、雨まで降って前後の見境が付かなかった。家来達が「これでは敵いません。夜明けになってから進みましょう」と言ったが、宗茂は「いやいや、合戦は夜中にするものである。もし、敵に無勢である事が知られたら勝ち目はない。進め進め」と下知したので、家来達も仕方なく兜の錣を傾け、伏し目になって進んだ。その夜、立花勢は牛寅の刻(午前3時)に般丹に着き、敵の様子を覗うと、釜山には日本軍が少数しか残留して居ず、風雨が烈しいのでまさか寄手が攻めて来るとは思わず、安心して陣の構えを浅くし、弓の弦を弛め、剣を捨てて前後不覚に眠っていた。

 

444: 名無し 2007/04/14(土) 02:58:57
そこを宗茂が「風上に火を放ち、その光の中を切って入れ」と命じたので、兵士達は所々に火を放った。風は強く猛火は瞬く間に燃え広がり、辺りは白昼の様に明るくなった。敵がこれに目を覚まし、慌て騒ぐところを3百余人がどっと喚いて切って入り、続いて2方からも攻め入って切り廻ったので、さしもの敵も蜘蛛の子を散らすように八方へ逃げ去り、自分達が築いた堀や柵に引っ掛かって死傷者が続出した。部将の「祖承訓」・「李寧」・「呉惟忠」等はやっとの事で逃れ、ほうほうの態で落ち延びた。
明軍2万2千は僅か8百余人の立花勢に打ち破られて、四方八方へ逃げ散り、立花勢は7百余の首を討ち取り、千6百余の兵を捕虜とした。

 

453: 名無し 2007/04/28(土) 14:04:25

09年は直江兼続か

九州新幹線全線開通前年の10年に立花宗茂を持ってくるつもりだな、NHKは。
もしくは11年か。

 

454: 名無し 2007/04/28(土) 15:03:07
>>453
朝鮮の役がついて回る限り無理だよ。

 

457: 名無し 2007/05/13(日) 00:26:31
立花山に行ってみようと思うが何か残ってるのか?
3時間あれば大丈夫だよな?

 

458: 名無し 2007/05/13(日) 07:16:19

>>457
石垣や井戸が少し残ってる程度
廃城でも楽しめる人ならって感じ~♪

登るときは水持ってきなよ♪

 

466: 名無し 2007/05/19(土) 15:02:53
吉弘、高橋、戸次、立花
の4姓を名乗ったのかな?
結構な名家だよね

 

467: 名無し 2007/05/21(月) 00:11:00
戸次時代はあったっけ?

 

469: 名無し 2007/05/22(火) 19:23:56
>>467
あるよ。
天正九年の感状で父麟白軒との連名で「戸次弥七郎」の署名がある。
翌年の天正十年に立花を名乗ってるから一年ほどしか名乗らなかったみたいだけど。
知っての通り、父親は生前立花を名乗らなかったから
道雪が死ぬまでの三年は親子で別々の苗字を名乗ってたんだね。

 

470: 名無し 2007/05/22(火) 21:35:13
道雪って、ずっと戸次姓を名乗ってたの?

 

471: 名無し 2007/05/22(火) 23:14:10
永禄十一年に謀反を起こした立花鑑載を討ち、
元亀元年に立花城を攻略、
元亀二年に道雪が「立花城家督」となっているから
この時点で実質的には立花家を継いでいるんだけど、
宗麟は道雪が謀反を起こした鑑載と同じ姓を名乗る事を渋った為、
道雪一代の間は立花姓の使用を遠慮したらしい。

 

473: 名無し 2007/05/24(木) 14:33:24
>>471
ホントに!?
てことは戸次道雪が正式か。
しかし立花道雪として世に広く知られているのはなぜ?やはり宗茂からの江戸期の書物か。

 

474: 名無し 2007/05/25(金) 01:08:11

>>473
宗茂が「立花左近」を名乗ってからも
道雪は署名に「戸丹入」(戸次丹後入道)と書いていて、
立花と書いた物は無い。
だから正確には「戸次鑑連」か「戸次道雪」になる筈。

ただ、立花姓を使用しなかったというだけで、、立花家の家督を継承したのは道雪。
だから、後世の人間が呼ぶ分には「立花道雪」でも問題無いと思う。

 

478: 名無し 2007/05/27(日) 23:30:14
立花さんのホームページでも戸次道雪としてるんだね。
子孫の方には敬意を込めて「立花道雪」と呼んで欲しい気もするけど・・・。

 

481: 名無し 2007/05/28(月) 15:14:13
戦績見ると日本版ダヴーって気がしてきた。
柳川開城とパリ開城も類似するところが結構あるし。

 

489: 名無し 2007/06/02(土) 22:19:23

>>481
自分のイメージとしては、旧軍の宮崎繁三郎中将。
共通項は、“どちらも悲惨な負け戦のイメージのある戦いで孤軍奮闘している”こと。
(文禄・慶長の役、関ヶ原とノモンハン・インパール作戦)

詳細はこちらhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E7%B9%81%E4%B8%89%E9%83%8E

 

492: 名無し 2007/06/05(火) 07:48:46
宗茂って戦国後期を彩った武将なのに
朝鮮での活躍とか、(微妙に大きな声で言えない)
高橋紹運が戦後GHQに嫌われたりで、(総玉砕のプロパガンダ排除)
知名度的に割喰ってるよな。
紹運なんかは、戦前、戦時中までは知名度あったと思われ。

 

493: 名無し 2007/06/05(火) 23:17:26

>>492
紹運の名声、ぜひ復活してほしいとおもうなー。
GHQがいた頃ならともかく、今ならなんのしがらみも無いしね。(朝鮮も関係ないし)
彼の著名な戦いは岩屋城の時だけだと思うけど、中身はすんごい濃いしね。
個人的には、
「大友&豊臣への忠義、紹運自身の武士道的な名誉、筑前死守、息子の壁」
というなかなか両立しがたい4つ目標を完遂したところがなんとも。
試合に負けて勝負に勝ったといおうか、戦略的な勝利といおうか・・・
まぁ実際はそこまでキレイな話ではないのかもしれないけど、
もっと讃えられてしかるべき名将だと思う。

道雪・紹運・宗茂の3代のドラマができて、
紹運の結婚エピソードが出たら、
結構女性にも人気が出そうな気がするんだけどね。

 

496: 名無し 2007/06/11(月) 15:25:23
宗茂と闇千代って仲悪かったんかな?
闇千代って病気になったから離れに引っ込んだだけなんちゃうん?
あの二人はぎゃーぎゃーやりあいながらも、
大事なところは黙っていても理解し合ってる、
究極の大人カップルだと思うのだが。

 

497: 名無し 2007/06/12(火) 18:50:45
彼女はツンデレだと思う。
宗茂にはその素晴らしさが理解できなかっただけ。
まぁ、俺にも何がいいのかわからんが

 

499: 名無し 2007/06/14(木) 02:15:35
ツンデレ解釈が物語としてはおもしろいんで
大抵の小説その他だと実は心は繋がってるみたいな描かれかたをしてるが
実際はギスギスした仲の悪い夫婦だろ。幻想を見るな
大体、リアルツンデレなんて良いもんじゃない
ありゃ第三者(神)視点で見るから可愛く見えるだけで

 

501: 名無し 2007/06/14(木) 16:19:18

>>499
性格の不一致というだけじゃなくて
立花家をどうするかという政治的なスタンスも違ったようだしね
戦国大名に婿養子のケースはいろいろあるが
この夫婦の場合は当主(誾千代)に宗茂が婿入り、という前代未聞の話だし。

秀吉が九州征伐してから後
大名にとりたてられたはいいが、柳川に転封させられるというのに誾千代は憤慨していたしね。
(柳川は道雪が死んだ曰く付きの土地)

 

500: 名無し 2007/06/14(木) 11:51:18
500なら宗茂がツンデレ

 

501: 名無し 2007/06/14(木) 16:19:18
>>500
宗茂ツンデレ説の誕生の瞬間かw

 

518: 名無し 2007/07/21(土) 02:28:20
みんな立花宗茂のこと どうやってそこまで詳しく知ったの?
おれはこのスレで初めて知ってwikiよんで驚いた。
もっと知りたいんだけど、スレにあるような詳しい話はどうして知ってる?

 

519: 名無し 2007/07/21(土) 05:42:11
とっつきやすい小説あたりでいいんじゃない?
志木沢版、八尋版あたり
(童門は、あいかわらずわかっとらんから読む価値は個人的にはナシ)

 

523: 名無し 2007/07/24(火) 19:08:40
俺は好きだったから宗茂の本いろいろ読んだが、逆に嫌いになったな。過大評価されすぎ。多いとは言えない戦歴で活躍しただけ。

 

524: 名無し 2007/07/25(水) 14:18:07
少ないチャンスで名を残せるのは凄い事なんだけどw

 

525: 名無し 2007/07/25(水) 14:54:15

15歳での初陣から秀吉が島津を降す1586年までの5年ほどを北九州で戦う
翌年には肥後国人一揆の討伐に参加
文禄・慶長の役は両方とも参戦
関ヶ原では大津城を攻め落とす
大坂では秀忠の警護として参加
晩年には島原の乱に参陣

ざっと並べるとこんな感じか。

 

526: 名無し 2007/07/25(水) 15:09:17

ちなみに同年齢のビッグネームである伊達政宗は……

15歳の初陣から奥州仕置までの9年ほど奥州で戦う
1591年に葛西大崎一揆平定に参加
唐入りで朝鮮に渡る(ただし戦闘には参加せず)
関ヶ原においては、長谷堂城に伊達軍参加(自身が出陣したかは知らん)
大坂にも参戦

ってな感じかな。

 

539: 名無し 2007/07/29(日) 10:19:54
>>526
じゃ、圧倒的に宗茂の方が上じゃん。

 

528: 名無し 2007/07/26(木) 10:17:41
かなりの石高からスタートの伊達と瀕死大名の家臣からスタートの宗茂を比べて何がしたいわけ?
宗茂なんかより伊達のほうが比較にならんくらい過大だわな

 

529: 名無し 2007/07/26(木) 16:35:52

籠城戦、攻城戦、野戦(会戦、遭遇戦、運動戦、追撃戦、夜戦)、海戦をこなし、大部分の戦闘は兵力で勝る相手を破ったもので、中には戦略的に影響を与えた勝利もある。

ちなみに相手は
・幼少時に家を滅ぼされた後、秀吉に潰されるまでに36万石を領するほど拡大した秋月+α
・島津
・腐りきってはいない明(明滅亡まであと半世紀)
と、雑魚とは言えない。

要するに、質量ともに問題ない

 

530: 名無し 2007/07/26(木) 23:31:27

欲望の赴くままどこまでも強かに生き抜く政宗
父と義父の知勇と実直さを受け継ぎ、貫いた宗茂

性格的にこの二人は対極のイメージだな
おれはどっちも好きだけど

 

531: 名無し 2007/07/27(金) 02:01:08
息子の代だと結構関係あるな
伊達騒動に忠茂出てくるし

 

532: 名無し 2007/07/27(金) 13:43:19

忠茂の妻って、老中の永井尚政の娘(正室)→徳川秀忠の養女で伊達忠宗の娘(継室)

これって外様にしては相手方の家格が結構凄いと思うけど、実際はどうなんだろ?
普通にあったのかな?

 

533: 名無し 2007/07/27(金) 15:45:59
外様で大藩と思われていたら、そのレベルはありなんじゃないかな
更に伊達忠宗の妻は秀忠の養女だし 立花忠茂の継室となった姫は、その秀忠養女が産んだ娘。
ましてこの時の立花家は実質的には秀忠の取り立て大名だからね。

 

534: 名無し 2007/07/27(金) 19:20:06
関ヶ原で権現様に刃向かった大名だし
秀忠家光としての好意と気遣いじゃないかな?

 

535: 名無し 2007/07/27(金) 20:59:53
>>534
政治はどんな時代も利害抜きには成り立たない。
秀忠、家光の代にはそれまでの大阪陣、加藤家等外様雄藩の改易に伴って
大量の浪人が発生していて潜在的反体制勢力となる危険があった。
徳川幕藩体制を安定化するうえで、立花宗茂のような反体制の旗頭となり
得る危険人物(軍人として名実共に最優秀クラス)は、抹殺するか、
味方に取り込むしかない。幸い宗茂は政治的野心とはあまり縁のない性格
でもあり、秀忠は後者を選択した。ここらあたり、彼の政治的判断は評価
されて然るべきだ。律儀な歴戦の勇士に恩を売って忠節を得ることは、
それだけ心強いことだったろう。

 

536: 名無し 2007/07/28(土) 17:12:50
>>535
まあでも、政治的な事を抜きにしても、秀忠は宗茂の事を物凄く気に入っていたようだけどね。
秀忠自身は冷徹な政治家タイプだけど、それだけに宗茂のようなまっすぐな武将に魅かれる所があったんだろうね。

 

537: 名無し 2007/07/28(土) 18:09:22
そういえば某小説に宗茂と秀忠が「天下分け目に参加し損ねた同士」で共感したとあって、
妙に納得した覚えが。

 

541: 名無し 2007/07/29(日) 12:39:20

>>537
志木沢の小説だと思われる
秀忠と家光がシガラミなしで宗茂を取り立てたところに微笑ましい終盤

宗茂はサムライの見本のような人だな

 

538: 名無し 2007/07/29(日) 09:52:26

宗茂、大河ドラマになってほしいよなー。

一般人にはマイナー武将だから、最初の視聴率が心配
かといって、過度の演出・着色はやめてほしい
そこで直江兼継のドラマの途中から、魅力的な武将でチラ出ししておく。
朝鮮の役は割愛するしかないな、むこうに配慮して。

 

540: 名無し 2007/07/29(日) 12:39:18

>>538
朝鮮出兵を割愛したら、宗茂の魅力半減するってw

清正を助けたりしたから、関ヶ原後のエピとか書けないじゃない

 

544: 名無し 2007/07/31(火) 18:25:21

>>540
清正「大陸での恩義は決して忘れませぬ…云々」とか
「この虎退治の清正よりも武勇あり…」ぐらいで勘弁してもらうしかない。

宗茂の場合、関が原も舞台が大津だから最近の大河とかぶらないんだよな。

さらに言うと、島津義弘ぐらいで出演したいんだが…

 

545: 名無し 2007/08/03(金) 14:52:48
ドラマ化するなら、黒門の戦いは絶対外せないな。
秀吉から肥後一揆首謀者処刑命令出たが、普通なら打ち首でおしまいだが、
名誉ある武士の最後を飾らせるために「放し討ち」をする。
こんな武将は全国探してもいない。

 

548: 名無し 2007/08/03(金) 22:08:45
>>545
隈部善良と新田掃部介が兄弟で敵味方に分かれて戦ったり、
善良を生け捕りにしようとした宗茂に「主人の最後を見届けた
ので、悔いはない。この筑後入道の最後を見よ!」と言って、
善良が自害するところとか、やけにドラマチックなんだよな。

 

542: 名無し 2007/07/30(月) 00:22:00
柳川の三柱神社行った人います?お守りとか売ってますか?

 

543: 名無し 2007/07/30(月) 02:34:01

>>542
本殿以外の建物が焼けてるけど、社務所は普通に開いてるから売ってるよ。

つか、お守りだけじゃなくてカンパしてあげてよ。

俺も普段神社仏閣に行ってもお賽銭すらほとんどしないけど、さすがに1000円を
賽銭箱に入れてきた。

 

549: 名無し 2007/08/04(土) 00:20:28

宗茂は戦の質、量ともに文句はないし
人柄もいいと思うんだけど
知名度が足りない理由としてはやっぱ
中央政権にほとんど絡まなかったことだろうなーと思う

残念

 

550: 名無し 2007/08/04(土) 00:34:40
戦前は説明の要らないくらい凄いメジャーな武将だったようだが>宗茂
戦後講談の衰退と、朝鮮征伐を肯定的に表現しにくくなった事が宗茂のマイナー化を
促したらしい。

 

551: 名無し 2007/08/14(火) 14:29:35

関ヶ原20年後

宗茂に勝てる武将求む

 

552: 名無し 2007/08/14(火) 20:06:15
>>551
最有力候補は、伊達成実。

 

555: 名無し 2007/08/28(火) 14:08:21
>>551
案外、真田信之
妻談義では同じ勝気妻だが自分を立ててくれる妻と自分を立ててくれない妻だからこのあたりは話が合わない

 

556: 名無し 2007/08/28(火) 18:02:05
義弘子息家久は如何?
理由:なんとなく

 

557: 名無し 2007/08/28(火) 18:54:07
>>556
たぶん
・婿養子
・嫁最強
と言う所からの連想かな

 

558: 名無し 2007/08/29(水) 01:37:16
ぎん千代って宗茂立てないタイプだったのか?

 

559: 名無し 2007/08/29(水) 10:43:44
本来なら自分が城主という意識がよかったらしいからな
講談・巷談の類でなくガチで女武者として育てられてた人だから

 

561: 名無し 2007/09/02(日) 01:34:06
でも、死んだぎん千代のために寺建ててあげたり
後世で言われるほど不仲だったとは思えないんだよなぁ

 

562: 名無し 2007/09/02(日) 01:36:13

>>561
残されてるエピソードを見るかぎりだと、単純に不仲とも
言いがたいようなものが多いんだよな。

親友にはなれても恋仲にはなれない間柄と言おうか、
男同士だったら気が合ったのかもしれないな。

 

563: 名無し 2007/09/02(日) 11:50:54

ぎん千代も秀でた人物っぽいけど宗茂はさらに大器だったもんだから対抗しちゃったのかもね

つうか6歳の女の子を城主にする道雪がいかん気がする

 

564: 名無し 2007/09/02(日) 12:05:43
跡継ぎがいないからやむ無しだったんだろう。

 

565: 名無し 2007/09/02(日) 12:47:47
寺建てたのは武士道としてではないのか?
立花家に敬うという姿勢や、不仲と言えども妻には変わりないわけだし。

 

566: 名無し 2007/09/03(月) 12:45:10
ぎん千代以外にも妻いたけど子供は出来なかったよね

 

569: 名無し 2007/09/04(火) 09:05:42
あまりにも強烈な遺伝子だから
女の方も尻込みしたんだよ

 

570: 名無し 2007/09/04(火) 12:55:34
>>569
でも宗茂の弟は子孫残してるんだよな
現在の当主もこの系統(但し昭和になってから一度婿養子が入ったようだが)

 

576: 名無し 2007/09/14(金) 16:50:18
この人はなかなか、小説や映像作品に恵まれないのが痛いな。
あんな波乱万丈の人生なのに。

 

577: 名無し 2007/09/14(金) 16:51:32
お隣さんの事があるから、
映像作品としては難しいな。

 

581: 名無し 2007/09/15(土) 23:04:16
花の慶次なんかは、琉球編から急激に人気が無くなり、ジャンプの後ろの方へ移動。
それから間も無く終わってしまった。
これが唐入り編だったら、人気が無くなる事は無かっただろうに。
花の慶次に出てくる「いくさ人」立花宗茂を見てみたかった。

 

582: 名無し 2007/09/16(日) 19:43:51
>>581
花慶に関しては原作の唐入り編に出てくる金悟洞のエピソードを骨や岩兵衛に割り振ってたから
かなり早い段階から唐入り編をやるつもりはなかったと思う

 

595: 名無し 2007/09/26(水) 13:35:18

「立花の三千は、他の一万に匹敵する」と言った小早川隆景と、
「立花は小勢故、全滅しても痛くない」と言った小早川秀秋。

宗茂本人の話じゃないけど、この対照的な評価がなんか好き。
何より両方のセリフに対して、実績できっちり返答する宗茂が何とも。

 

597: 名無し 2007/09/28(金) 04:23:58
歴戦の勇士の評価と微妙な人の評価。
並べられてどちらを選ぶ?とか言われたら・・・。

 

598: 名無し 2007/09/28(金) 05:13:27
>>597
どっちも真なり、だろ。状況が違うだけで。
両方つなげて
「立花の三千は、他の一万に匹敵する、だが立花は小勢故、全滅しても痛くない」
としても通じる。

 

605: 名無し 2007/10/03(水) 21:53:25
「立花は小勢故、全滅しても痛くない」と言ったのは史料によっては
宇喜多秀家という説がある。正直、この二人の接し方を見るとあまり面識の無い
小早川秀秋より発言の根拠がうかがえておもろい。
秀家が小者過ぎるw

 

606: 名無し 2007/10/04(木) 03:07:02

>>605
秀家とは不仲だったらしいしね。

まぁ、秀家と秀秋のどっちでも、戦国時代を代表するバカボンが相手だな。
バカボンとは相性が悪かったのかねぇ。

 

607: 名無し 2007/10/04(木) 06:45:46
大友家の家臣だぜ?
義統だったんだぜ、大友家の当主は
まぁ、相性良い訳じゃ無いだろうが、なれてるはず

 

614: 名無し 2007/10/16(火) 02:29:39
ぎん千代の寺の前に瑞松院の寺建てたのって宗茂?
だとしたらかなりデリカシーのない男だったんだなw

 

615: 名無し 2007/10/16(火) 04:09:30
>>614
夫婦仲は冷え切っていたから、致し方ないような・・・。

 

616: 名無し 2007/10/16(火) 12:13:51

瑞松院って、元々は鍋島直茂の娘の寺だったのを改名したものだぞ。
時系列を調べたんで、ついでに書いておく。

1584年 鍋島直茂の娘の寺として、光台山本覚寺を本小路に建立
1587年 宗茂の命で現在の位置へ移動
1620年 宗茂柳川に復帰
1621年 良清寺建立
1624年 光台山本覚寺から光台山瑞松院に改名

 

617: 名無し 2007/10/16(火) 13:29:54
関ヶ原後の鍋島の仕打ちにゃ腹立ったが、こういう背景あったんならしょうがないか。
領内の寺とはいえ、愛娘の寺を勝手に移されて直茂は相当鬱憤たまってたのかねぇ。

 

618: 名無し 2007/10/16(火) 15:53:47
そうなのか
人の娘の寺を使いまわすなんて、瑞松院に対しても義務的な愛しか感じられないなぁ
男勝りなぎん千代より、教養のある八千子に惹かれていったと言う人がいたが
実際は、ぎんに出て行かれ先立たれたので
側室だった八千子を継室とした程度だったのかな。

 

635: 名無し 2007/10/25(木) 14:16:29

立花双璧、日本七柱槍の小野鎮幸

知勇兼備を謳われた和泉は、大戦二十二、小戦は数知れず、戦場にて疵を受ける事六十七ヵ所、
その内、腰より上が四十四ヶ所・鉄砲傷五ヶ所・槍傷七ヶ所・その他は刀傷で、
大友・立花両家から受けた感状は六十八通にのぼり、家中でも指折りの傑物である。
(なかなか戦国時代、傷疵一番多いの勇将な...)

清正の厚遇をよそに旧来の加藤家の家臣と立花家の家臣との間に軋轢があった様である。

ある酒宴の席で、加藤家家中で武名の高い飯田覚兵衛、庄林隼人、森本義太夫、加藤清兵衛等と一緒になった。
その時彼らが、「我らは立花家の戦功をよく聞きますが、宗茂公自身が奮戦して最も戦功があったのはどこの戦場ですか。」
と聞いてきた。和泉は黙して答えずにいると「では、貴公の武功を語って下さい。」
としつこく聞いてきた。
結局和泉は黙して答えず、酒宴が終わって和泉が退出すると彼らは
「人は皆、和泉の事を英雄豪傑というけれど、柳河ではそうかもしれないが、肥後に来ればその辺にいるただの人と同じだ。」
と冷笑した。
以後、旧来の加藤家の者達が立花家の者達を馬鹿にする風潮が広まった。
家臣団の不和を憂慮する和泉は一計を案じた。
後日、同じような酒宴が催された際、同じように和泉は武勇伝をせがまれた。
当初は断っていた和泉だが遂に承諾、皆の前でいきなり衣服を脱いで傷だらけの上半身をさらけ出したのである。
上半身に刻まれた四十四の傷を見て一同が唖然とする中、和泉は淡々と「私が参加した合戦は数え切れません。そこで、今日は感状を持参しました。」
と言って、感状と傷を照らし合わせながら説明し始めた。一同は、和泉の壮絶な傷痕を見て毒気をぬかれ「恐れ入りました。もう結構です。全部説明されたら夜が明けてしまう。」

http://ww2.tiki.ne.jp/~shirabe01/bu/retsuden/tachibana/ono001.htm

まさに戦国の周泰な...

 

636: 名無し 2007/10/25(木) 14:23:33

立花四天王筆頭の由布惟信も、戦場に赴く事六十五回、傷を蒙ける事六十五ヶ所、受けた感状は七十通、
一番乗り、一番槍、一番首は数知れずという強者であり、
戦場では小野和泉と共に立花軍の両翼を成し、合戦する度に立花家を勝利に導いた。
また、博多の統括を任され辣腕を振るうなど軍事・行政に重きを成している。

http://ww2.tiki.ne.jp/~shirabe01/bu/retsuden/tachibana/yufu001.htm

軍政兼備の良将、武田四名臣の資質にある...

 

637: 名無し 2007/10/25(木) 14:49:38
>>635-636
この様な優秀な家臣がいる武将ってのはその本人も負けじと強いもんですな。
小野ヨーコはこの小野鎮幸の子孫だそうですね。男勝りの顔つきしてますね。。

 

638: 名無し 2007/10/25(木) 15:24:06
自ら武功を語らないのは主君似だね
武功をひけらかさない宗茂を尊敬してたから
己もそういう態度を取ったんだろうなぁ

 

639: 名無し 2007/10/26(金) 12:54:03
*『名将言行録』では、幼い頃から体格が大きく4歳の時にはすでに8歳位の体格があったと言う。
6歳の初めから武芸を学び、成長するにつれて武勇だけでなく聡明な一面を見せるようになる。
特に弁舌に優れていたという。
『人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。
流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。
故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり』
と高く評価されているように、宗茂はその才能を豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。
また、宗茂の関ケ原後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な例である。

 

640: 名無し 2007/10/26(金) 12:55:03

立花殿下は本当に豪気万千な人物である。たとえ開城し城地を譲るとも、
正々堂々と恥じることなく、大名の気概を表された。(加藤清正家臣‧加藤美作守正次)

その性、豪膽勇猛、器量雄才抜群そして温純寛厚。知略、武略を兼備し、
主家に対して誠実至忠、なぞらえることができる人はいない好漢。(作家・工藤章興)

立花宗茂は武勇だけでなく、兵を統率し、戦うことにもかなり巧みであった。
そして心術高明、人となりはさわやかである。(作家‧[[海音寺潮五郎]])

 

641: 名無し 2007/10/26(金) 13:01:02

内政
宗茂は柳川13万2千石を受けた後、柳川城の周囲を守るために支城を建築し、
[[小野鎮幸]]を蒲池城、[[薦野増時]]を城島城、以下[[由布惟信]]を酒見城、
[[米多比鎮久]]を鷹尾城、[[立花鑑貞]]を安武城(後に松延城へ改領)へと配置した。
また城島城の支城に海津城を造り[[立花成家]]を入れ、
同じように松延城の支城の今古賀城へ鑑貞の兄[[立花鎮実]]を置き、
堅固な領土防衛網を築いた。[[1587年]]~[[1600年]]間に基本的検地を行うして外から、
すでにと仕えるのが館に位置して取り除いて田畑に変わる戦略の用途のとりでがなくて、
荒野を開拓して、柳川の都市計画にも従事し、水堀河道の大体においてを建造しておよび計画を改築して、
そして橋梁を建造し、柳川の領土内の有名な欄桿橋「疑宝珠」は完成した。

柳川統治期間中、度々氾濫し流域の領民を困らせていた[[矢部川]]及びその支流の改修・整備事業を開始する。
そして互いに関連して農業と漁業に広く開拓して開墾しておよび発展して、
宗茂は更に朝鮮が帰国する時朝鮮の松を20本を持ち帰って矢部川沿岸に植え、
「朝鮮松原」が河道のを強化して使うことを達成することと称されて、
そして稲わらの害虫のの「朝鮮カラス」を食べて領土を持ち帰って野生で放すことができて、
すでに保育類動物することになりました。
その他にまた朝鮮の舞踊「獅子舞」に伝えておよび朝鮮の陶工を持ち帰って、
柳川の現地で「男の子燒」を発展するのはこのごろすべて現地の重要な文化の資産です。

しかし、宗茂の初期統治時代には朝鮮出兵のため、整備の完成は見られなかった。
立花家改易後は[[田中吉政]]が引き続き矢部川の整備を引き継ぐこととなる。
また、宗茂の河川整備事業の功績を称え、田中家時代に整備された矢部川の支流の1つを「花宗川」と名付けた。

宗茂も領内で寺院を建設、愛宕社、梅岳寺、真教寺、紹運寺、良清寺、光照寺、
西琳寺、光国寺と祇園社、典型的な宗教の支配の手法を実施します。

1600年の関原末期、宗茂は友人の[[加藤清正]]の忠告を受け入れ開城を決めると、
領内の民は「わたくし供ご領内の百姓は忠義一途に凝り固まっております。
それはお侍方に少しもおとらぬものであります。兵数に不足はございません。
兵糧米も差し上げます。ご開城は切に思いとどまりくださいませ」と開城降伏に対して反対した。
しかし、宗茂は「各位の気持ちはうれしく思う。だが、今回の開城はすべて領民の財産と生命のためである。
新しい領主が来ても、今までと同じく各位は産業の振興に努力してもらいたい」と答えた。
その後、宗茂が柳川を去る際に領民達はその姿を泣きながら見送ったとされる。
また、宗茂が江戸に向かうことを決定した時、全ての家臣を連れて向かうことができなかったので、
残される家臣はすべて涙がほろほろと流れて、宗茂が離れた後に更に領土の人民にしのばれて、
[[田中吉政]]の柳川統治時代、かつて人民を極端に宗茂を尊重するのため吉政に遭って死刑に処します。
-
-1596年かつて日源上人で筑後溝口の1か所の製造と紙はそして現地の栄えているで、
宗茂1620年に柳川回封の時、90戸の居家をする製紙は移して領地の内の山中、
唐尾へ生産を集中することにつきあって、全国の有名なのと紙になったのは造って更に盛んで、
同時に修繕し筑後と肥後の国境に位置して、瀬高町の広瀬堰、以北東は南西が「広瀬水路」
を建築しましたに向ってまで、そして分けて瀬高水田へその重要な灌漑水脈になる。

江戸初期宗茂も大阪城、江戸城の大規模なことに参与して普請を直します頼んで、「惣奉行」、「下奉行」
で家臣の職務を割り当てて、期間建築材料、石材、食糧、金銭の調達して処理することについても優れている手腕が現れました。

その他に柳川藩は武を尊ぶ藩風があり、幕末時期に「東有会津、西有柳川」槍術の最も栄えている両の大きい藩のうわさながあって、
全て初めて藩の主な性格に代わって致すところなためです。

 

642: 名無し 2007/10/26(金) 13:04:54

外交
文禄四年(1595年)は朝鮮停戦して帰国する期間、柳川が極度に食糧不足するため、
その時筑前、筑後に責任を負いましたについて後で検地そして徴収して軍用米の[[小早川秀秋]]の家臣山口玄蕃助([[山口正弘]]、宗永)
超えます受領して軍用食糧そして意図間接的に拡大します領土の行為大いに憤慨します、軍から朝鮮の刻苦奮闘にになると思って、
帰国した後に家臣にご飯を食べてたらふく食べます不満なことと感じることができなくて、10月16日と弟統増、妻誾千代は伏見城に向かって
五奉行1つの[[長束正家]]を意見を出すことに代わって、正家の同情を得てそして山口正弘が米に食糧を返すことを知らせます、
期間の誤解する説明はおよび[[小早川隆景]]のを影響を及ぼして隠居してと秀秋の領土爵位を受け継いで、
しかも朝鮮の戦う功績に応じて褒賞を与えることがまだあって、領土は加增して、衝突を免れるため、宗茂は小早川隆景と間接的に安国寺恵瓊で調停をして、
事件を解決、事後に間接的に北九州の政治の地位をも昇格させました。

慶長四年(1599年)5月11日、豊臣の五大老が公家の禁止事項を定めた「新公家衆御法度御頼請之連判」の「御禁止条例」の中にも「柳川侍従」と連署してある。

同年期間3月8日に、宗茂が[[島津義弘]]、忠恒父子と[[寺沢正成]]と一緒に連署起請文、原因は秀吉が死んた後の現況で、
九州の諸藩のためにお互いに戦乱のした保証を誘発しません。しかしあさって3月9日、島津家は「庄内の乱」が爆発して、
事件の原因は島津の家臣[[伊集院忠棟]]のその権力に集まって島津本家まで脅しますためで、伏見城で主な[[島津忠恒]]を殺害、
その後4月にその一族の[[伊集院忠真]]に集まって武装反乱を始めることを誘発します。
宗茂が消息を知った後に急速に島津家に対して軍隊を派遣して島津の領土に向かって協力を伝達して、そして7月24日と島津忠恒で書狀を互通して関心の態度を表明しています。
[[徳川家康]]は7月、10月の時にかつて家臣の[[山口直友]](山口勘兵衛)と寺沢正成をまっすぐにして居中調停するようにしかし失敗して、
9月末、宗茂上洛は徳川家康弁明に対して事の状況と出兵の意図、そしてもし事を乱して最後まで武力で消えるて必ず出兵して反乱平定。翌年正月家康は再度山口直友の調停を派遣して、
ついに2月に島津と伊集院主従関係を回復して、事を乱すことを終えます。このこともいっそう島津と立花兩家の朝鮮が共に奮戦してからと和陸関係を尽くしたことを促します。

寛永九年(1632年)筑前福岡の黒田藩主[[黒田忠之]]と家老[[栗山大膳]]の藩政に対する意見の衝突から黒田騒動が勃発すると、宗茂は細川家を通して黒田家と幕府両方の情報を分析し、
幕府に黒田藩の反乱の意図はないと伝え、改易危機に陥る黒田の家を救い出した。

 

643: 名無し 2007/10/26(金) 13:08:23

武術、文芸教養
剣術に関しては文禄五年(1596年)10月にタイ捨流宗家の[[丸目長恵]]から免許を受ける。
弓術も巧みで、(1590年)5月吉日付で尾村甚左衛門尉連続から免許をうけます。
そして、さらに慶長六年10月24日には家臣[[中江新八]]から、
同七年の3月26日と7月朔日に吉田茂武から日置流弓術について免許を受けています。

宗茂は文芸にも秀でており、その書道は浪人の時に一つの重要な収入源となった。
連歌にも精通し、1620年柳川移封の際の「柳川再城之御連歌」がそして「賦山河」を題と家臣にして共に楽しむことを行って、
寛永四年(1627年)11月25日にも上杉定勝の「万句興行連歌」と秀忠、家光、稲葉正勝、脇坂安元、蒔田広定
らの文人大名を並座。
しかも茶道、香道、狂言も精通して、豊臣秀吉、伊達政宗、徳川秀忠、徳川家光などの人の目の前は狂言に出演した、秀忠や家光の「御咄衆」に任せ。
茶道方面は常に秀忠と家光の茶會に出席する以外、利休七哲の細川忠興にも互いに称賛て、忠興と宗茂は茶道具を借りたことがあって、
宗茂も忠興は金を借りて買って高値の茶道具を取ることに。
香道は後陽成天皇の弟曼珠院公良恕法親王をお許し願って宗茂に表現するように招待したことがあって、そして薰香物を贈ります。

更に意外なことに、天正十八年(1590年)には公家蹴鞠の名手飛鳥井雅春から「鞠道」の門徒として「紫組之冠懸」を免許されています。

 

644: 名無し 2007/10/26(金) 17:19:55
どれだけ多才なんだ宗茂
本当にこんな男がいたんだな

 

647: 名無し 2007/10/26(金) 22:14:39
宗茂の惜しいところは大河ドラマ向けではないこと
あまりに完璧清潔人間すぎるから、ドラマ化するとデレーって一年終えそう
1年間爽やかな加山雄三見てたら飽きるだろ、そういう感覚

 

649: 名無し 2007/10/27(土) 22:37:01
>>647
それでも前半の目玉の岩屋城の戦いは見てみたいな。

 

650: 名無し 2007/10/28(日) 15:53:15
>>647
人品的には高潔だけど人生は山あり谷ありのドラマ向けとは思うが
しかも、最後は島原の乱で盛り上がるんじゃね?

 

652: 名無し 2007/10/31(水) 18:14:29
少し質問なんだが、島原の乱関係の本を読んでいたから、
12月20日の「二番攻め」のとき、立花勢や鍋島勢の抜け駆けで作戦が狂う、ってあった
マジか?
本当だとしたら、宗茂は晩節を汚したね

 

653: 名無し 2007/10/31(水) 18:53:05
>>652
立花家のサイトの年表に
・1月12日、宗茂らに原城討伐命令
・2月6日、宗茂着陣
とあるので、これを信じるなら答えは否かと。
戦を知らない世代の失敗のフォローに宗茂出陣といったところか?

 

654: 名無し 2007/10/31(水) 18:58:21
>>653
ありがとう
宗茂のイメージを大幅に変更しないで済んだ

 

655: 名無し 2007/10/31(水) 19:08:39

検索したら

■乱後処理

幕府の乱後の処分も厳しいものでした。

乱の原因を作った島原藩主・松倉重治は美作国に配流された上、大名として
は異例中の異例の斬罪に処されました。天草藩主(唐津藩主)の寺沢堅高も
天草領は没収されました。堅高は責任を取って切腹しました。

また攻防戦の時に軍紀に従わなかった佐賀藩主・鍋島勝茂(本来は総攻撃は
28日の予定であったのが佐賀藩が抜け駆けした為、やむを得ず27日に全軍が
動くことになった)も処分を受けました。

ていうのがあったよ

 

656: 名無し 2007/10/31(水) 19:16:08
>>655
立花の抜け駆けって記述は、二番攻めのときにしか見られないけど、
鍋島はさまざまな作戦の抜け駆けし、すげぇ迷惑だったらしい
だから、まぁ、仕方ないか、という気もする

 

657: 名無し 2007/10/31(水) 19:24:05

>>656
なんか日付おかしいなー、とはおもってけど、
そういうことか

親父とはエライ違いだな
関ヶ原の時も親父に迷惑かけてたな、行きがかり上とはいえ、西軍について

 

658: 名無し 2007/10/31(水) 20:16:13
12月20日の状況
三河深溝藩藩主・板倉重昌を正使とする討伐軍は、鍋島勝茂軍15000人がまず突撃、
原城は狭隘で大軍展開不向きな地形のため苦戦して退却。
鍋島軍の歓声合図に柳川・立花忠茂軍5500人も侵攻、しかし苦戦。
ここで島原の松倉軍が後方支援する段取りだったが、臆してしまって動こうとしなかった。
板倉は松倉軍に再三出動命じても動かなかったから、立花軍の退却命じた。
忠茂はブチ切れて命令無視、前線で奮闘するが、重昌三度目の使者でやっと退却。
忠茂は粗略な作戦で前線に孤立させられ多大な犠牲を出したのに大いに怒り、
松倉軍を恨み、板倉重昌への指揮能力不信感も増大した。
1月1日の再度総攻撃は立花軍は後詰めだったが、前線で苦戦する板倉、松鞍、
石谷軍への支援要請に対して拒否を明確に示し動こうとしなかった。
忠茂は相当12月20の件で頭にきてたんだろう。

 

659: 名無し 2007/10/31(水) 20:20:10
鍋島も立花も少しは戦国を囓ってる人間だから、机上の徳川指揮官にはイラついてたんじゃねーの?

 

660: 名無し 2007/10/31(水) 20:25:43

>>659
このころの当主は、みな2世、3世
初代(というか、関ヶ原現役世代)で当主は残っていないんじゃ?

島原参戦組だと、水野勝成、立花宗茂
不参加組で、細川忠興
くらいか?
(水野は当主だった?)

 

661: 名無し 2007/10/31(水) 20:26:39

島原の乱時の生存者の中でのはなしね

 

662: 名無し 2007/10/31(水) 21:30:17
立花宗茂、水野勝成、有馬豊氏、山田有栄(島津家家臣)これくらいじゃないかな?
老将の身で参陣した武将ってのは。

 

663: 名無し 2007/10/31(水) 22:06:38
勝茂も一応、関ヶ原で現役だったぞな

 

664: 名無し 2007/11/01(木) 00:06:31

十時摂津も参加してたか

勝茂が一番わかいんだ、この中で

それもあって、張り切っていたのか?

それにしても、久々にいい感じで伸びてる

 

665: 名無し 2007/11/01(木) 01:15:29
十時摂津、生年月日不詳ながら島原の乱の時は齢81との事
忠茂を補佐した息子の立花惟興に任せたらいいのに
摂津じいゃんは結局宗茂の逝去2年後、88歳くらいまで生きた

 

683: 名無し 2007/11/27(火) 11:30:24
宇喜多とぎん千代以外に宗茂と仲悪かった人っている?

 

684: 名無し 2007/11/27(火) 14:24:46
仲悪いというか激しく意見が対立したのは
毛利輝元 薦野増時とか

 

686: 名無し 2007/12/06(木) 18:24:42
黒田や加藤と違って空気読まずに本気攻めしてきたナベだけは許せないはず

 

687: 名無し 2007/12/06(木) 19:04:37
>>686
空気読むとか読まないとか鍋島はそれどころじゃないぜ?
愚息が「東軍に付け」という親父の指示を無視して
なんとなく成り行きで西軍についてしまって
その尻拭いを親父がするかたちで柳川を攻めたから
家康から東軍への忠誠の証として西軍の柳川立花を攻めさせられたわけだから
そりゃ本気にもなるさ

 

688: 名無し 2007/12/06(木) 20:26:17

鍋島「心ならずも西軍につきましたが、決して本心から戦ったわけではなく…」
徳川「言い訳すな!とりあえず立花を攻めて態度でしめせ。話はそれからだ」
鍋島「はぁいいいー(大汗)。しょうちすますたー!」

鍋島、領内に総動員令を発して兵をかき集め、柳川へ進撃…

黒田「あちゃー、鍋島必死杉w ま、俺らは最初から東軍だからあわてる
こたぁないが、ガハハ…」
加藤「やれやれ、この場は俺がおさめるか」

 

689: 名無し 2007/12/06(木) 22:51:51

直茂は秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評されたという。

これってもう二人言われ無かったっけか?直江兼続と小早川隆景だったけかな?

詳しい人、他の二人の秀吉の評価知ってる人いたら教えて<(_ _)>

 

690: 名無し 2007/12/07(金) 01:43:10
勇気が無いのが小早川隆景で、智慧が無いのが直江兼続。
・・・まあ、どれも後の世に取って付けた感はあるがw

 

692: 名無し 2007/12/07(金) 10:43:14

>>690
とりあえず、Wikiの小早川隆景では
>豊臣秀吉は「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、黒田如水か 小早川の
隆景よ」と評した。
ということにはなってるけど、どこまで真実かよう解らんね。

ま、それはとも角、鍋島は肝が小さかったってことだな。
如水なら無駄に兵を損なうことはせず、攻める振りだけして終わりにしたろうけど…

 

696: 名無し 2007/12/07(金) 23:16:00

>>692
肝はあったと思う
今山合戦や竜造寺隆信死去後の対応は肝が太くないと出来ない
ただ、天下を狙えるほどの器でもないし、そこまでの野望(大気)もなかったかと

当時、リストラの危機にあった鍋島とベースアップを狙う如水を比べるのはちょっと酷かと

 

693: 名無し 2007/12/07(金) 11:09:43
西軍から東軍に寝返っても改易された奴が居る以上、嫡子が
西軍に参加した事実はやっぱ重いだろう。鍋島も必死になるさね。

 

695: 名無し 2007/12/07(金) 22:30:24
柳川城開城に際して、加藤清正には本当に世話になった。
宗茂と清正は出会い初期の頃は官位が上の宗茂に対し、清正が強烈なライバル心抱いてたが、
慶長の役で清正を救ってからは固い絆で結ばれた。
開城に際して誓紙を用意するなど、家康側との調停を全面的に仕切ったのが清正。
島津討伐中止後、清正は玉名郡一帯十万石を宗茂に与え召抱えようともした。
宗茂は丁寧に断わった。 立花家は柳川城を明け渡したが、
清正は宗茂の家来百人を預かり、筆頭・小野和泉に4千石の高禄支給、
他の者達には従前どうりの禄高与え、宗茂実弟の高橋直次、母宋雲院には
肥後八代に寓居を与えた。
京都に登るまでの2年間、宗茂は玉名郡高瀬で過ごし、清正から千人扶持も与えられる。
1621年に宗茂柳川復帰した時は預かり百人を速やかに返還して立花再興に協力した。
鍋島・黒田・加藤連合 vs 立花って表記が歴史書に見受けられるが、
加藤家には感謝の言葉がつきない。

 

697: 名無し 2007/12/07(金) 23:34:17
まっ如水の行動が光りすぎて鍋島がものすごい矮小だよな。
所詮はその程度のレベルかって。あれでは九州の一部だけの力量だよな。

 

700: 名無し 2007/12/08(土) 00:00:12
>>697
ずいぶんとまた極端だな
鍋島は関ヶ原当時、まだ竜造寺の配下じゃなかったか(実体はともかく)?
鍋島が西軍=竜造寺が西軍=改易
なんてことになりかねない状況だったと思うが

 

698: 名無し 2007/12/07(金) 23:38:41
という事は、黒田如水は九州では頭一個出てたって事でFAかな。島津義久と黒田如水どっちが凄い
んだろ。太閤秀吉は如水を警戒しまくってたけど評価は凄い高い。一方、島津義久は神君家康に絶賛
されている。辺境の地に追い込まれた天才軍師と辺境に生まれた天才大名。九州は、名将の巣窟だね。

 

701: 名無し 2007/12/08(土) 00:12:24
確か鍋島と宗茂って関ヶ原以前になんか因縁無かったっけ?

 

703: 名無し 2007/12/08(土) 00:42:54
直茂と道雪の激闘もあるし、鍋島立花は戦いやすかったんだろ

 

704: 名無し 2007/12/08(土) 03:16:35

少弐配下→独立→大友配下→独立→島津配下

独立勢力と思わせてその実長いものに巻かれてる竜造寺

 

705: 名無し 2007/12/12(水) 02:58:56

遅レスですが・・・

鍋島直茂は大気も十分あったと思う
ただ、主家を重んじる気持ちがそれ以上にあったんだろうなぁと

その気になれば、沖田畷の後の島津に伏した時や
その後の九州征伐時に主家は潰せてたと思う
それをしなかったから秀吉に大気なき者といわれたのかと思う

 

716: 名無し 2007/12/14(金) 18:36:33

あまり知らないせいもあるけど
でかい戦で大手柄という経歴を知らない
特に相手がよく分からない朝鮮を除くと島津戦ぐらいしか
地道に1つ1つ勝っていった人なのかな、それで負け知らず
比較された本多忠勝も同様だなと

でも戦国武将って意外とそんなもんだよね
大勝ばっかりしてる人ってほぼいない
大局での大勝に貢献よりも、局地での積み重ねって感じ

 

718: 名無し 2007/12/14(金) 19:00:33
>>716
そもそも戦国時代のでかい戦となると
応仁、九州、小田原、関ヶ原、大坂
くらい?
あと、教興寺もいれていいのかな

 

732: 名無し 2007/12/24(月) 18:51:20
>>718
つ小牧

 

719: 名無し 2007/12/14(金) 19:17:38

>>718
地方ごとの有名な戦いも入れてもいくつも活躍してる武将はいないと思う
四面楚歌だった織田家にしても名前の知れてる戦は他より多いけど
それぞれの戦い全部に活躍した武将がいたわけでも無し

まあでもだからって立花宗茂の評価が過大だというわけじゃないのは
歴史が証拠にあるからいいんだけど

 

717: 名無し 2007/12/14(金) 18:47:39
徳川に二度勝ったことばかり言われる真田昌幸も神流川の戦いでは敗れたわけだし、意外とそんなもの。

 

719: 名無し 2007/12/14(金) 19:17:38
>>717
だよね

 

 

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