wikiから引っ張ってくるから誰の記事なのか当ててくれ、人物名の部分は伏せる
○○ 永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家としても業績を残した。字は孟徳[1](もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。
簡単過ぎか?
次から伏せるわ
簡単すぎたな!
正解は曹操
次いくぞ
○○(? - 184年)は、道教の一派である太平道の創始者。冀州鉅鹿郡の人。黄老を奉じて、太平道という宗教組織を率い黄巾の乱を引き起した。
>>8
正解!
次!
○○(? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。涼州隴西郡臨洮県の人。
辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。
霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにした。
誰もいなくなった
>>12
正解!
簡単過ぎたか
ちょっとだけ難しくしてみる
○○(漢安元年(142年) - 建安13年8月(208年10月))は、中国後漢末期の政治家・儒学者。兗州山陽郡高平県[1]の人。前漢の景帝の第4子の魯恭王劉余の第6子の郁桹侯劉驕の子孫[2]。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠した。
>>16
正解!
おまえら詳しいな!
次!
○○(189年 - 217? 237?)は、中国後漢末期の武将、政治家。長子は凌烈。次子は凌封。揚州呉郡余杭県(現在の浙江省杭州市余杭区)の出身。
>>19
正解!
子供の名前入れちゃうと特定出来ちゃうな
次!
○○(151? - 210? )は、中国後漢末期の武将。幽州北平郡の人。 呉の基礎を築いた武将の一人である。『三国志』呉志に伝がある。
州郡の役人を務めた。風貌が優れ、先を見通す力もあり、人との応対も巧みにこなした。
違う
わりかし有名
ヒント2
孫堅配下となり、黄巾党と宛や鄧の地で戦った。また、孫堅が董卓討伐のために出陣すると、孫堅に従い陽人の戦いに参加し、胡軫・呂布・華雄が指揮を執る董卓軍を破った。
この間、城攻めや野戦に多く参加したため、体のあちこちに傷を負った。
.
>>31
正解!!
やるな
次
○○(? - 200年)は、中国後漢時代末期の武将。
建安4年(199年)頃には、文醜と共に袁紹軍の将帥として知られるようになり、曹操配下であった孔融にも袁紹軍の勇将の筆頭として名前を挙げられている[1]。
顔醜
>>41-44
正解!
これは簡単だったなwww
次
○○(建安7年(202年) - 景元5年1月18日(264年3月3日))は、中国三国時代の人物。魏・蜀漢に仕えた。涼州天水郡冀県の出身。妻は柳氏[1]。
きょうい
>>49
正解!
次!
○○(? - 218年)は、中国後漢末期の武将。兗州陽平郡衛国県(現在の河南省濮陽市清豊県)の人。『三国志』魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。
小柄な体格だが激しい胆気を持ち、曹操が董卓に反抗して挙兵すると、その下へ馳せ参じた。
これかと思った
楽進
>>53-55
正解!
次!
○○(? - 213年)は、中国後漢末期の武将。益州蜀郡の人。
元々は貧しい家の出だったが、文武に優れた能力を発揮して州の従事となった。
当時、隣の荊州を支配していた劉備が益州に攻め込んで来ると、冷苞や鄧賢たちと共に劉備軍を迎え撃ったが、涪城で打ち破られたため雒(らく)城に退去した。
雒城で劉循と共に籠城したが、金雁橋に出撃した際に再び劉備軍に敗れ、捕虜となってしまった。
>>63
正解!
やるな
次!
○○(? - 建安2年(197年)[1])は、中国後漢末期の武将。曹操に仕えた。字は伝わっていない。兗州陳留郡己吾県(現在の河南省商丘市寧陵県)の人。
三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。
堂々とした体格で怪力、さらに固い節義と男気を有していた。
それはニックネーム
悪来は異名みたいなやつだったような
>>70
正解!
次!
○○(156? - 建安3年12月24日癸酉〔199年2月7日〕[1])は、中国後漢末期の武将・群雄。并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)の人。
勇猛さと武芸の腕前を買われ、并州刺史の丁原に仕えた。丁原は、○○を主簿(会計係)に任じて非常に寵愛した。
呂布
>>77
正解!
次
○○(190年 - 228年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。荊州襄陽郡宜城県の出身。襄陽の名家であった「馬氏の五常」の五男(末子)。登山家。
すまんしれっと追加しちゃった☺?
>>86
正解!
次!
○○(永寿元年(155年)- 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将・政治家。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。
当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。
>>93
正解!
おまえこれで分かるってマジかよ?
次
○○(? - 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将。幽州遼西郡令支県(現在の河北省遷安市)の出身。
後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し、後に群雄として割拠した。
河北の支配権をめぐって袁紹と争うが、劉虞を殺害するなどしたため人心を失い、最後は袁紹に敗れて自害した。
>>100
正解!
次
○○(? - 248年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての軍人。一時期、母方の姓を用いて何平と名乗ったこともある。益州巴西郡宕渠県(現在の四川省達州市)の人。異民族の板循蛮の出身といわれる[要出典]。
主君
張魯→曹操→劉備→劉禅
>>106
正解!
次!
○○は、中国の通俗歴史小説『三国志演義』に登場する架空の人物。
身の丈十二尺(後漢の尺で276cm、魏・晋の尺で288.2cm)の大男で、体が鱗で覆われている(皮膚が鱗状になる「魚鱗癬」という疾病は実際にある)。また穀物の類は一切食べず、生きた獣や蛇を食べている。
油を藤の蔓に染み込ませて鎧状に編んで乾かした藤甲を着た、刀や矢も通用せず川などでは浮いて移動する最強の兵、藤甲軍を率い、自らは象に乗っていた。
π凸骨
>>110
正解!
すまん次ラストで!
○○(? - 建安3年12月癸酉(199年2月7日[1]))は、中国後漢時代末期の武将。
建安元年(196年)6月、呂布が下邳を劉備から奪って間もなく、呂布軍の郝萌が反乱を起した(袁術と呂布軍の陳宮とが背後で画策したとされる)。
この時、都督[2]の○○は自らの兵営に呂布を匿うと、素早く郝萌の部隊に弓矢で一斉射撃を浴びせ、反乱を鎮圧した。
正解!!
おまえら詳しすぎ!
楽しかったよ、乙
三国志の夢見て寝るわ