戦争を伝える朗読会:沖縄の戦争、語り継ぐ 対馬丸事件は児童が朗読役??新宿で14日 /東京
戦争体験を語り継ぐ朗読会を行う「戦争を伝える朗読会」=杉並区、小泉靖子代表(76)=は14日、新宿区で「語りつごう あの日 あの頃 ?太平洋戦争末期、沖縄で何が起こったか? 沖縄の戦後は終わらない」を開催する。
朗読会は01年から毎年実施し、今年で12回目。今回は太平洋戦争中に国内で唯一、地上戦が行われた沖縄での戦争体験を題材に朗読する。【遠山和彦】
1944年8月、戦争を避けて沖縄から九州に疎開する小学生らを乗せて出航した輸送船「対馬丸」が鹿児島県・悪石島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。小学生775人を含む1418人が犠牲になる事件が起きた。
朗読会ではこの対馬丸事件を取り上げる。沈没した対馬丸に乗り、漂流して助けられた経験を持つ名城妙子さんの体験をまとめた「泣きべそと夜光虫」の一節は府中市立小柳小学校6年、西田彩乃さん(11)が朗読する。
戦争を知らない世代に戦争の悲惨さを伝えていきたいという思いと、対馬丸事件は小学生がたくさん犠牲になったこともあり、小学生が朗読役を務める。
それでもマラリアは容赦してくれなかったけど
ニューギニアとインパールが悲惨さでは双璧かなあ。
日本全国空襲にあってるけど
データでみると市街地100%焼失の富山市が凄いと思う
100%だぜ
旧軍って敵と戦う前に死んじゃう兵士が多すぎる気がする。
大岡昇平のレイテ戦記に詳しい。最後はレイテ島西部のカンギポット山周辺に逃げ込んだが、誰も生きて出てきた兵がいなかったことから、全員餓死したとされている。
うちの死んだ爺さんもバシー海峡で海の藻屑になるところだったらしい
乗ったのが木造の小さい船だったので魚雷が下を潜っていったってw
タイ国境付近からジョホールバルまで炎天下をチャリで進軍だぞ
10万人が焼け死ぬくらいの絨毯爆撃食らった後も何度も大爆撃されてる
生き残れてもPTSDどころの騒ぎじゃないよな
ビルマの地獄
死んでも帰れぬニューギニア
生きた仲間の兵士にウジが湧いたらしい
南方では芋畑とか自給自足で終戦まで食料は有った
輸送中に攻撃されて配れなかった地域は有った
最初から食料の計画が無かったわけではない
花谷なんちゃらって将軍も確かビルマ戦線かな?
花谷「よし!物資は送る。
食料無くとも戦えるが弾薬無くば戦えんよね?
全部弾薬にするわww」
お前ら「ぐぬぬ・・・・」
腹が減ったら牛を食えばいい
↓
物資を抱えた牛が川に流されたり山道で滑落したり逃亡したり
おかげで食料も弾も無くなりましたとさ
ニューギニアのラバウルみたいだね(´・ω・`)
「ねぼけ人生」ね
遺族はこれ読んだら腹立ったろうな
占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)とは、太平洋戦争末期の1945年8月18日~21日に、
千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。
ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に上陸、日本軍守備隊と戦闘となった。
21日に日本軍の降伏により停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致されシベリアへ抑留された。
年月日:1945年8月17日-8月21日
場所:占守島(千島列島東端)
結果:日本軍の戦術的勝利、日本軍の降伏による終戦
交戦勢力
大日本帝国 ソビエト連邦
指揮官
堤不夾貴中将 アレクセイ・グネチコ少将
戦力
23,000名 8,363名
損害
日本側死傷者1,018名 ソ連側死傷者1,567名(ソ連発表による数値)
>>35
この占守島の戦いによりソ連軍の千島列島の占領は遅滞され、その間に米軍の北海道進駐が完了したので、
ドイツや朝鮮半島に見るような北海道の米国・ソ連による分割統治は避けられたのであり、日本としては大きな意義のある戦いでした。
しかしながら、この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、ソ連軍に対していかなる戦闘をもしていない、
中千島や南千島に駐留していた兵士たちまでもすべて、シベリアを主体とするソ連領内に連行され、
数年にわたり給養の悪い状態で強制労働に従事させられたのでした。
あそこはほとんど丸見えで寒い。バナナもない。死んだ振りして逃げられない
援軍が来なかったらほとんどアメリカです。ってじっさい放棄されたんだけど
考えただけで息苦しくなって、気が狂いそうだ(´・ω・`)
非戦闘員だけ狙って空爆しまくって焼き尽くされた
多くの国宝も焼けて無くなった
国連の定義するジェノサイドにそのまま当てはまるからな
ルソン決戦を予定してたのに、参謀本部のせいでレイテ決戦になったから。
硫黄島は飲み水にも事欠く上に総員で突貫作業で岩場で穴掘り、
最初から生還の見込み無しの時間稼ぎのための人身御供だし。
インパールはええかっこしいのオッサンの自己満足のために
思い付き行き当たりばったりの作戦に将兵が振り回された。
司令官が夕方になると頻繁にそそくさと前線に連れてきた芸者のもとへ
通っていたと飢えに苦しむ兵士が知ったら発狂したことだろう。
拠点で粘ったり、囲まれて攻撃されるというのはあらゆる戦場であったこと。
なんせ、マッカーサーが生きて帰るなと命令をし、大本営が玉砕するなと命令した戦地
WWⅡで1平方メートルあたりもっとも多くの血が流れた戦場だってさ
硫黄島は1パーセント以下
死亡率は関係ないのでは?タラワとかアッツとか色々あるし。
死ぬに死ねない戦場が一番恐ろしい
>>80
ウイキペディアの数字を参考にすると
レイテ島:94パーセント
硫黄島:81パーセント
になるな。
1パーセントってどこの数字?
スマンスマン
最後は敗残兵が1万餓死したんだっけ。戦闘終結後捕虜になった人が降伏呼び掛けたけど誰も生きてなかったとか
ロシアも非人道的な作戦が多いが、日本ほど無謀じゃない気がする。
負けたからな。牟田口もブキテマ抜きまでは名将だった。
ノモンハンで日本軍と戦ったソ連軍のジューコフいわく
「兵下士官は勇猛果敢だが将校参謀は無能揃い」
勝ったから言えるんだよ。全て結果論。
マッカーサーはフィリピン奪還するまでボロクソに叩かれてた
兵士にとっては一番辛かったろうなとは思う
悲惨さならフィリピンのレイテ島決戦。
アメリカ軍の猛攻で戦艦武蔵を含む多数の艦船が撃沈、轟沈。
俺のオヤジのにーちゃんも武蔵と共に眠ってるお…………
そこら中になっているのでサバイバルはし易い。疫病さえ気をつければね。
シベリアとか満州は寒いわ食べ物ないわで地獄だろ。
当時の参謀本部もお前みたいな考えで南方のジャングルに数十万の将兵を送りました
しかしジャングルで食用に向いた植物は少なく、そもそも数十万の軍隊をインフラ未整備で養える自然環境など
地球上にはありませんでしたとさ
しかも小隊規模でジャングルを彷徨いだすと、統制が取れなくなり
実力勝負で強い奴が親分になって隊を支配するってケースが頻発した
>>124
うちのじいちゃん南方軍で東南アジアに行ったけど、
バナナなんかの果実が腐るほどあって、将棋盤作って将棋してすごしてたそうだ
キャラメルなんかの嗜好品も結構簡単に手に入ったとか
同じ南方軍でも、
南洋(たぶんテニアン)に派遣された母方のじいちゃんは死ぬような思いしたらしいけど
叔父さんがフィリピン戦線に配属されてた、階級は海軍中尉で偵察機乗りだった
当時は貴重品だった干しバナナやコーヒー、それに官給品の缶詰なんかは比較的
容易に入手出来て本土の実家に度々郵送してくれたそうだ、士官は潰しが利いたらしい
コーヒーは現在みたいに一般的ではなくて、家人の誰も煎れ方が分からず困ったそうだw
>>173
フィリピンのコーヒーは1889年に病虫害で壊滅した
戦後アメリカの違う種類のコーヒーの木が植えられたそうで
これはインスタントコーヒーに使われるらしい
君のおじさんはいつフィリピンにいたのかな?w
71期の海兵卒だから昭和18年以降の話だろうね、ちなみに所属部隊は
偵察と船団護衛と対潜哨戒任務を専門としてた901空という航空部隊だった
パイロットではあったが操縦が下手でもっぱら偵察員に徹してたそうだよ
それでコーヒーの話は君のおじさんの出鱈目か?
どっかから運んでたんだろ
あの物資・輸送がままならない時代によその国からコーヒー豆を送ってきたのか?
日本人がほとんど知らないものを?
物資が死ぬほどあるアメリカ軍だって懐中汁粉を貰ってもわからないだろうにw
>>186
コーヒーの話には後日談があるんだよ、家人が扱いに困った件のコーヒーは
相談の上、折角なんでと言う事で、旧制中学の恩師である校長に送り届けたってさ
これは兵学校入学時にお世話になったお礼と、旧制中学の校長ならインテリだから
日本人には馴染みが薄いコーヒーの飲み方くらい知ってるだろうという判断かららしい
校長は大変喜んで受け取ってくれたそうだ、これを嘘と言われても事実だから仕方ないw
小さい頃にオカンがコーヒー豆を貰って家族全員で悩んでいたのを思い出した。
豆ごとヤカンに入れて煮出したけど失敗。
ひく必要があると聞いてきて、納屋から石臼を出してゴリゴリとコーヒー豆を引いて
急須に入れて飲んだが粉っぽくて飲めたもんじゃない、
日本手ぬぐいに包んで縛って鍋で煮込んだ汁をお玉ですくって飲んだら
確かにネスカフェみたいな味がした。
本当すごいと思う
地図も無い場所に行って来いで部隊送ってたぞ
逆にアメリカ側にとって悲惨だったのは、マキン・タラワや硫黄島、沖縄か
日本が誇るべきはバカげた特攻隊や玉砕じゃなく、徹底的な持久戦で圧倒的優勢のアメリカ軍に地獄を見せてやった戦術と忍耐力だと思うがな
太陽熱と同等レベルの4000~6000度の熱線に、爆風で
都市が一瞬で木っ端微塵になり、その後も放射能汚染による白血病死者が続出。
普通の戦争時なら民間人には逃げる隙が十分あるが広島長崎はまったくない状態だからね。
映画みたいにむちゃくちゃ言ってたりやってたりした上官はよく名誉の戦死したらしいよ
恨みを買うと味方に後ろからズドンされたとか。
なんかのコミックで読んだ。
よく夜中うなされてたって、ばあちゃんが言ってた。よほど酷いことあったんだろうな
俺のじいちゃんは、ガダルカナル島に行ったようだとばぁちゃんから子供の時に聞いたよ。
やっぱり一切戦争の事は話してくれず、ばぁちゃんに聞いたら、話さないし、聞こうとしないとの事だった。
いつもニコニコして優しかったじいちゃんの心の奥にはどんな恐ろしい体験があったのかと思うと、今生きてる俺らは平和だなぁって思うよ。
戦争に行った人間は誰もその話をしないみたいだな
実は僕の父もかなり年をとってから徴兵されて南方(マレーシアとスマトラ)へ行ったが
ひとことも戦争の話を聴いたことがない
母が若いころ父が少し話してくれたことを覚えていて話してくれたくらい
スマトラで喰い物がないから徴発に行って来いと言われて
徴発というのは銃剣を突き付けて食うや食わずの現地の農民から喰いものを分捕る強盗だから
そんなことはしたくないしどうしようと兵隊仲間でうろうろしていたら
英国軍に捕まって捕虜にり、戦争が終わってもしばらく捕虜収容所に入っていた
捕虜生活の話ももちろん聞いたことがない
でもマラリアになって、熱が下がらず、肺病を疑われて病院船で帰国したと母に聞いた
うちの叔父も中国からビルマへ転戦して命からがら帰って来たけど、あんまり話はせんかったな
戦線が崩れて退却するとき死体で一杯の河を泳いで来たって話くらい
上陸後には洞窟や横穴を見つけると英語で「誰かいないか~?」と言うと同時にガソリンを流し込んで火を着けたり手榴弾を投げ込んだりしてるから現地の人もかなり殺されてる。
アメリカ兵は下手な日本語で、デテコーイと言いながら洞穴へ銃を撃ってた。
怖い話はフィクション含め世の中に沢山あるけど、悲惨な戦争体験の話がダントツで一番怖い。
>>145
食料も医薬品も補給がないから餓死(と病死)が半分近く
残りの半分がめちゃくちゃな作戦で撃沈された戦艦と、
徴用された船に乗ってて撃沈されおぼれ死んだ陸兵
ぜんぶ司令(参謀)本部のせいだよ
鳥取とか?
>>151
中国じゃないかな。
池辺良の本で比島で命辛々山の友軍基地にたどり着いたら、銃は内地の時みたいに油で磨かれピカピカ、将校は朱塗り箸で飯を食っていて
「ここは激戦地のフィリピンか」
と思った場所があったそうだ。
>>153
亡くなったじいちゃんが中国戦線だった。写真からすると少年兵。
中国軍と相対して、突撃ラッパで突撃と決まり、総員突撃でラッパが
なったら、それを合図に中国軍が一斉射撃。(そりゃそうだ)
その瞬間に主だった指揮官が戦死したんで、撤退して事なきを得た。
ってな話が酒飲み話の定番。
それ以外はのほほんとしていたみたいだ。
>>156
中国はむしろ、敗戦後の方が悲惨
しかし、上海では内地から消えたコーヒーやフルーツパフェなども食べれたそうだ。
あ、日本軍は突撃時に射撃は禁止だったそうだ。
突撃する兵隊が発砲したら突撃がバラバラになるからな
撃つのは後方で援護射撃する連中
海軍 → 潜水艦
陸軍 → 戦車
ここらに行けって命令された時点で人生終了
>>161
潜水艦は勤務が過酷だったから飯を優遇し(当時は貴重だった白米が毎食支給)、艦長クラスはなり手が無くて指名したが、そんな艦長等がヨークタウンなどを撃沈。
内地に帰ると温泉地にしばらく保養休暇。
こんな甘いものがあるのかと感動したって言ってたな。
俺の世代みたく食のありがたみが皆無ってのもまた
つまんねぇな・・・
俺が子供の時にキウイが出回り始めて確か1個500円位だった
お袋が奮発して買ってきた1個を家族5人で分けて食ったわ
これからもそういう物が出て来るんじゃない
そういやインドでマンゴー食べたとき
あまりの美味しさにたまげたわ
日本じゃまだ出会えてない。銀座でもダメだったw